教育の可能性を否定する言葉  

 2011-02-03
「何々症の子どもは、いくら教えても数量の概念が入らないから、算数の勉強なんかやっても意味がありません」


世の中に、そんなことを言う人は、一人もいないと信じています。

もしも、似たような内容の発言があったとしたら、それはきっと、その子に優先的に身につけさせたい大切な教育的な願いがある、ということをお伝えになりたいのだと、思っています。

だとしたら、もう少し、慎重に言葉を選ぶべきではないでしょうか?


例えば、小学校の学習指導要領には、「数と計算」 「量と測定」 「図形」 「数量関係」 という4つの領域に、それぞれ系統化された到達目標が示されています。

これを大切な基準としながら、できれば示された内容がクリアできるよう精一杯取り組むことは、とても大切で意味のあることだと思っています。

ですが、これに到達出来ないからと言って、学習そのものに意味がないというのは、誤りです。

むしろ、私は、例えば算数が苦手な子だからこそ、初等教育果たす役割が極めて重要になると考えています。


なぜなら、算数が苦手ということは、その子の認知や発達の特性と深い関連があることは明らかであるわけです。

数の合成分解が苦手で、減加法による繰り下がりの計算が出来にくいのは、多くの場合、同時的処理が苦手な認知処理様式に起因しているわけです。

ならば、この算数の学習を通して、得意の継次処理の力を利用しながら、同時的に数をとらえる力を育てていくことが、教育としての最も大切なねらいの一つになるのではないでしょうか?


特に、脳の可塑性が高い学童期にあるのです。

苦手だからこそ、今そこを刺激しないでいて、いつ誰がそこを育ててくれるのでしょう?

誰が、そのことに真剣に向き合ってくれるのでしょう?


私は、それぞれの教科を通して、その子のもつ可能性を、最大限に高めていくことこそ、教育の目標だと考えています。

もちろん、目の前の具体的な到達目標に真剣に立ち向かわずして、子どもの育ちはありません。

ですが、それは具体的な到達目標であるけれども、教育目標実現のための、大切ではあるけれども一つのステップにしかすぎないのです。


決して、今出来ないから、やっても無駄ということではなく、どうすればそれが出来るようになるか?

どんな力が育っていないから、それができないのか?

では、どんな力を付けてやれば、それができるようになるのか?

そういう視点で、その子の学びに向き合うこと自体が、極めて大切だと思うのです。


繰り上がりの計算ができるようになった子どもは、計算ができるようになったこと自体が、とても価値のあることです。

そして、繰り上がりの計算ができるようになるほどの、様々な能力の育ちが、そこにあるわけです。

それが、教育の果たすべき役割であり、可能性だと思うのです。


青年期以降の教育の果たすべき役割と、初等教育の果たすべき役割は、全く同じではないはずです。

計算、いくら教えても出来ないから、やらせても無駄??

その子がなぜ出来ないのか、分析できてます?

そのために今、あなたがすべきことは何もありませんか?


今出来る力をベースにすることは必要です。

でも、今すでに出来ていることをなぞるだけでは、子どもの可能性を高めていくことにはなりません。


繰り下がりの計算は、そのための、一つの大切な切り口だと、私は考えているのです。



にほんブログ村 教育ブログ 特別支援教育へ

↑ 大切さを全国に伝えたい! 応援の1クリックを よろしくお願いします。 ↑

コメント












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://shinobu1.blog117.fc2.com/tb.php/943-071c35d6
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫
Author:SHINOBU
新大阪教室

bnr_personal-osaka.jpg

今までにご覧いただいた方
 

百万アクセスまでがんばりたい

カテゴリ
最近の記事
月別アーカイブ