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バラバラに細分化しない教育

 2010-05-07
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私は今、ご家族のご相談の時には、なるべく専門用語を使わないようにと気をつけています。

まだ指導に自信がもてなかった頃は、勉強したての専門用語を並べて、「私、こんなに勉強しています、専門家なんだから~」 と、目一杯背伸びをしていました。

いつの相談だたっか、あるお母さんがお子さんに向かって 「この先生は有名な先生なの、すごい先生なのよ」 と、言っておられるのを聞いて、これはイカンな、と思いました。

こんなふうになってしまったのは、私の場合、自分の指導が貧弱だった証拠です。


人は、内容が充実してくると、虚栄をはらなくなるものです。

自信があればあるほど、ごく普通のニコニコした顔で指導ができます。


大学院の課程を修了したての頃は、それぞれの先生から教えていただいたことを試してみたくて、なるべく早く子どもをそのステージに押し上げるような感じで指導に取り組んでいました。

先に手順があって、そこへ子どもをはめ込んでいました。


それで、一定の成果は見られました。

目に見えやすい部分だけを切り取って、一般化された手順を施しますから、一定の成果が見えるのです。

その頃の私にとっては、意味のあることではありました。

でも、それはそれだけでのことです。

しかし私は、次第に子どもの生きたステージそのものに入り込んで行きたいと思うようになってきました。


大人が子どもを叱るとき、理屈で言いくるめようとします。

「そんなことで、将来どうなると思っているの? どうして、お母さんが怒っているか、わかる?」

子どもを怒りながら、いつの間にか親としての自分の稚拙さを、論理で正当化しようとしている。

私なんか、いつもそうです。


でも、論理で動かない子どもは、「あと30分聞いていれば、きっといつものお母さんに戻る」 ことを体験的に感じ取っていて、ただじっと背中をまるめ、その時を待っている・・

その間のお母さんの言葉は、右の耳から入り、左の耳に抜けているのです。

言語の少ない子ほど、そういう感覚は鋭いですから、こういう場面になると、子どもの方が1枚も2枚も上手なのです。


論理にも、光と影があり、決して万能ではないのです。

ましてや、日常生活は、何かの論理で動くのではなく、起こった出来事そのものが現実であるわけです。

その子どもの現実そのものをしっかり見つめ、日常生活の文脈の中で、論理で培った力量を生かしていこうというのが、今の私の指導スタイルなのです。


「あー楽しかった」

そんな子どもの横顔が、すべての価値を物語っているのです。

綿密な計画性と、深い論理的ベースを併せ持ちながら、子どもに向き合う時には、いつまでも 「大好きな先生」 として、ありのままの子どもの今を受け止めてやりたい。

子どもだって、時にはつらいことを引きずりながら、前に進んでいかなくてはならないときがあります。

つらいことがあるから、甘えさせるということではありません。

まず、そのことを感じ取れる指導者でありたいと願っているのです。


そうした子どもの今を感じ取って、その日狙っている価値との接点を見つけていくのが、指導者としての力量であると思っています。


この日、かれんちゃんは、アンパンマンの紙芝居に食いついてきました。

私は、このアンパンマンの紙芝居を、私の教室の子ども向けに、セリフをアレンジしているのです。

そのまま読んでしまったら、多くの子どもは、わけわかならくなって途中で表情が変わってしまいます。


私は、紙芝居を読みながら、常に子どもの表情を伺っています。

イメージが湧いている子どもには、内容をふくらませて、ゆっくりと時間をかけて読んでやります。

そうでない子には、テンポアップして、映像的な変化を楽しませながら、言語としての補助刺激を添えます。


何のために紙芝居をしているのか?

この紙芝居を通して、子どもに何を培おうとするのか?

そのためには、先行刺激として、何をどう工夫して子どもに提示すればよいのか?

そこが見えてくると、紙芝居も立派な教材となります。


この日、私は絵カードを使って、理解言語を増やすためのポイティングをしたいと考えていました。

でも、予想以上に紙芝居への食い付きがよいので、この紙芝居を題材にポインティングをさせることにしました。

「つみきのしろは、どれ?」

「お手紙は、どこにあるかな?」

楽しい学習が、次々と展開されます。


就学前の小さい子どもでも、少しいい加減だけどストーリーをとらえるのが得意な文脈アバウト型の子と、そういうことは苦手だけど、細かい部分をちゃんとちゃんととらえる映像精緻型の子がいます。

そのバランスも子どもの中で刻々変化しますが、かれんちゃんの今は、言語面の急速な発達に伴い、紙芝居のようにストーリー性 (文脈) の中でとらえさせると効果的です。

紙芝居を使って、応答的な言葉のやりとりもたくさんできました。

「あんぱんまん  びっくりして ころんだ」

ちゃんと助詞も使えるようになってきました。


絵カードは便利で、使いやすいです。

語彙も系統的に配列されて、大学の先生が監修された1セット何万円もするカードを使えば、何だか専門的なことをやっているような気になります。

しかし、それは使う人の才覚によって、宝ものにもなれば、ゴミにもなります。

要は子どもの実態と、具体的な向かう先と、その教材とを結びつけることができるかどうか、ということにかかっているのです。


系統的なプログラムには、その良さと使命と役割があります。

学校の教育課程だってそうです。

それがきちんと機能されての話ですが、子どもの今を見つめる縦軸は、一体誰が担っていくのでしょう?

今多くの方が取り組んでおられる個別の教育計画には、ぜひその視点を盛り込んでほしいと願っています。


焦点化し、細分化して、特定された部分を伸ばしていくこと

特別支援教育の進展によって、この部分はかなり充実してきましたね。

と同時に私は、トータルでその子を丸ごと見ていく教育、バラバラに細分化しない教育の大切さを、しっかりと見据えていきたいと願っています。


指導がうまくいかなかったら、理屈で自分を正当化するのではなく、次のレッスンでその事を生かして内容を組み立て直したり、子ども理解の精度を見つめ直したりすることが大切です。

その拠り所となるのは何か?

それはきっと、子どもの笑顔と、学びに向かうモチベーションだと思っています。

自分にもできる、そんな学習が楽しくないわけはありませんから。


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