不登校からの脱出
2008-04-01
今日から4月、新年度のスタートです。保育園での今朝のようすを見ていると、今日から新しいクラスのお帳面に新しいシールをはってもらい、笑顔いっぱいのスタートになっていたようです。
これも小学校にいたころの思い出の一コマですが、当時私は、いわゆる生徒指導の先生をしており、子どもたちの欠席(怠学・不登校)を最優先の課題として取り組んでいました。
そのときの校長は、学校教育における家庭支援に情熱を注ぎ、当時のぼくは、教員でありながら、授業はほとんどもたず、ある意味お役ご免で学校を離れ、民生委員や主任児童委員の方にお世話になりながら、家庭支援に走り回る日々でした。
その間いろいろな子どもたちと出会いました。児童虐待寸前のケースもあれば、経済的に行き詰まったご家庭、発達に対する周囲の理解不足が原因になっているものや、その子自身の精神的な課題が原因になっているもの、生育歴に関係しているもの、本当に様々なケースと出会いました。
その中でもふと思い出す一コマがあります。
それは、1年生の途中から5年生の1学期まで、4年以上不登校が続いていた男の子のケースです。もう4年以上も学校に来ていないのですから、そう簡単にはいかないと、初めはそんな風に思っていました。宿題とか、連絡とか、細い線ではあるが学校との絆を絶やさぬようにいていこう、それぐらいの意識でいたように思います。
でも、この校長先生はちょっと違っていました。ある日、ぼくと担任は校長室に呼ばれて「○○ちゃんのところへ2人で行ってください。だめでもいいから、とにかく会って話をしてきなさい」と告げられました。
その5年生の担任も、いつも子どものことを大切にする当時は20代の若手男性教員でした。お宅におじゃますると、優しそうなおだやかな顔つきのお母さんとその5年生の子が待ってくれていました。
どんなことを話したらいいのか、迷いながらもぽつりぽつりと私たちの会話は続きました。とりとめのない話を30分ばかりして、「今度発表会があるから、ちょっとでいいから見学に来ませんか」と伝え、プログラムを置いて、その部屋を出ました。
この時点では、私も担任も、まさかその後大きな変化が起きようとは、夢にも思っていませんでした。
この学校では、本番の発表会の前に、予行も兼ねて、他学年の児童に見てもらうプレ発表会を行っています。私は体育館に入り、後ろの方でその発表を見ていましたが、しばらくするとなにやら後ろの方で、少しざわついてた様子がうかがえます。何だろうと思い、ふと後ろを振り返ってみると、何とその子とお母さんが、体育館の隅で、発表の様子を見ているではありませんか?
これには、本当に驚きました。
その後、やはり学校に適応するまでには、少しとまどいが見られました。制服を着ることに抵抗がある。ならば私服できたらいいじゃない。いきなり勉強についていけない。だったらやってみたいところからしてみよう。
この担任の対応も、すばらしかった。完全にこの子の気持ちに寄り添って行った。この子にとっての学びは、この先生とともに具体的に作り上げられていった。
その何ヶ月間は、ある程度の配慮はしていきましたが、いつの間にか制服を着るようになり、登校班でいっしょに来ることができるようになり、休む日もほとんどなくなり、6年生になるころにはまったくといっていい程、特別な配慮は必要ではなくなっていきました。
この子の成長にひきずられるように、あれだけ悲惨だった長期欠席者の数も、右肩下がりに減少し、いわゆる不登校に該当する児童の数は、結果として0になる日がやってました。
当時ぼくは、その学校1年目でしたから、その事実だけが先行して「あなたはいったいどんな魔法をかけてそんなことを実現したの?」みたいなことを言われたこともありますが、事実は見ての通り、この校長の家庭との見事なまでの連携にあったわけで、わたしは単にその小間使いをしたに過ぎません。
「これからの教育は(学び)・(育て)そして(支え)よ。」
そういったその校長(女性なのですよ)の眼力と先見性には、今でも深く感服しています。
こうした体験から(学び)(育て)(支え)の三つの感覚が、今の私の活動の源流となったのは言うまでもありません。
↑どうかランキングも見てやってください。はげみになりますので,ご協力よろしくお願いします。


![自閉症教育の実践研究 2008年 05月号 [雑誌]](http://images.amazon.com/images/P/B0017LIL8O.09.MZZZZZZZ.jpg)









