子どもを知ってもらうという 大切な営み
2009-09-14
知らないということは、おそろしいことです。何も知らないがために、ずっとずっと誤解され続けること・・
こういうことが、一番困ることです。
差別や偏見の多くは、知らないがために起こる不条理な出来事です。
いじめも、相手の心と自分の良心を見失ってしまう大変不幸な現象です。
知らないでは、すまされないことも多くあります。
時として、知らないことは罪であり、許されないことであり、とても残念な結果を引き起こすことにつながります。
ありのままの子どもの姿を見つめてもらえず、「何々症だから、云々・・」 というのは、時として大きな偏見につながることがあります。
これまで紙切れだけで決めつけられてきたことに、何度強い憤りを感じてきたことでしょう。
数値をある視点から精査することと、子どもの可能性を否定することを、混同しているような場面にも多く出会ってきました。
可能性を信じなくて、どこに教育の営みが成立するでしょう。
困難ばかり目の前につきつけるのと、わずかであっても希望をもって進むのと、どちらが子どもの利益につながるのでしょう。
数値の枠から、あるいは過去の事例からはみ出したものを奇跡と呼ぶならば、私は毎日奇跡を目指して指導をしているわけです。
ならば、奇跡は奇跡でも何でもなく、それは日常的な出来事なわけです。
毎日、たくさんの子どもと接していますから、子どもの意外な一面を発見することは多いです。
感情の理解が苦手?と称されるタイプの子どもが、ふとした事でダジャレを言って、顔を見合わせて大爆笑したことがあります。
私に対するいたずらが、最大限の信頼の表現だったりします。
急性の花粉症?で、くしゃみばかりしている私を、何度も何度も気遣ってくれるやさしい女の子がいます。 いつもやる気もりもりで、負けず嫌いなくせに、こんなにやさしいんだと心がとてもあたたかくなりました。
「どれだけ我が子が先生のことを信頼しているか・・」
ご家族の方からいろいろなエピソードをお聞きする度に、子どもの心の底に流れるあたたかい気持ちを感じ取ることができます。
もしも、どんなにわずかであっても決めつけや偏見があったなら、その子に開く心などありえないわけです。
接触体験が理解につながるというのは、各種論文できちんと証明されています。
特に、幼少期の体験が大切なようです。
例えば、幼少期に外国の方と接したり、ご高齢の方とせっしたりする体験が、差別や偏見のない豊かな心を育てるために、とても貴重なものになっていくのです。
何々症の人は、何をするか分からない、とかいうような、言われなき差別や偏見は、こうした接触体験の欠如も大きな一因であると考えられます。
地域社会ではなおさらです。
だからこそ、我が子と多くの方がふれあう場を大切にしていただきたい、そう願っています。
一言でも、言葉を交わしたり、一緒に何かをしたりすれば、その子はぐっと身近な存在になります。
我が子にとって、生涯心を寄せ合う大切な人との出会いになることだってあります。
そういう観点からも、私は集団の中にきちんとポジションがあり、それでいてその子の特性にあった、内容の豊かな教育の場を設定してやることが大切なことなのだと考えています。
美しい心をもった多くの子どもたちとの出会いが、私の人生を動かしたのは確かです。
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