家族を苦しめ続ける「障害児」という言葉の響き
2008-09-17
「障害児」という言葉には、どうも差別的・排他的なイメージがつきまとい、ただ苦手なところがあうだけで、普通ではない特別な存在として、どうしても集団から分けられるというニュアンスを感じてしまいます。こうした偏見があるから、わざわざインクルージョンという概念で、とりたててこのことを改善しなければならないわけです。
今年の保育学会で、「障害」ということばを改善できないかと、文科省の担当に質問された方があって、その答えは「国民的なコンセンサスが必要」ということでした。
やっぱりお役人ですね。
特殊学級・障害児学級を特別支援学級という名前に変えて、何か不都合なことが少しでもありましたか? 変えなきゃいけないことに、どうしてここまで慎重になるのか、そのことについては、相変わらず体質がなっていないと思いました。
「障害」を「障碍」という言葉に置き換えて使われている方も多いようです。せめて「害」という文字は、何とかしたいですよね。 本人にとっての課題であるだけなのに、すごいマイナスイメージですよね。
先日、そうたママからメールをいただいて、「例えばアスペルガーの方がいて、育った家庭が社長の家だったりすると、それは障害としてとらえられないままに一生を終えてしまうのでは」と書いておられました。
AD/HDだって、環境さえ整えば、理解と支援で個性にかわっちゃいますよ。
私は、なるべく障害という言葉を使わずに、 「発達面に課題のある子ども」というようにしています。
そもそも私は、太郎君も花子ちゃんも友里ちゃんも、障害児だなんて、かけらも思っていませんから。療育手帳があろうがなかろうが、それは別の次元の話であって、だから障害児、と思うことの方が変ではありませんか?
認知特性などは誰よりも理解しているという自負はあります。でも、まったく普通の子だと思っています。
AD/HDだのLDだのPDDだの勝手なものさしを持ち出して、スクリーニングをかけて、鬼の首とったみたいに「障害児」というラベルを貼り付けて、排除するだけ排除して、何も特性に応じた指導をしていない現実は、どこかにありませんか?
「障害児」という言葉の重みによって、苦しめられている家族の話、たくさん聞きました。 離婚した、口論が絶えない、家族が遠のいた、親子の縁を切った、秘密にしている・・・云々
うちの子育て支援センターの自慢の一つに、芝生広場や遊具や砂場がありますが、そこで遊んでいる子どもを見ていると、心が和みます。 時々、そんな様子を見て、LDとかADHDとかアスペルガーとか、そんな言葉がなかっ方がよかったかも、って考えることがあります。
「障害」という言葉には、排他的な響きがあります。でも「特性」となると、適切な支援で乗り越えてける課題というイメージになります。
だから私にとっての、太郎君・花子ちゃん・友里ちゃんは「特性を理解すべき子」ではあっても、「障害児」では決してないのです。
そもそも「発達障害」っているのは、特性を理解して指導すれば伸びる子って意味じゃなかったですか? ちゃんと理解べきという意味の障害なら、まだ私は受け入れることができます
個別にしたから、特性に応じた教育ができるなんて、大間違いです。そんなに簡単なら、私には研究も工夫も教材開発も、何も必要ではなくなってしまいます。 第一、学校では集団が小さくなるだけで、個別指導にはなっていないでしょ。
今の教育現場に必要なのは、障害児として分けることではなくて、その子の特性を理解して、指導を工夫することです。 それが出来ないのなら、分けても無意味だと思います。
私の考え、どこか変でしょうか?

↑どうかランキングも見てやってください。はげみになりますので,ご協力よろしくお願いします。