似て非なるもの

 2017-09-24
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成長なくして、子どもの命は輝かない。

子どもには、内発的な学びの欲求があって、その内なる願いを叶えてやりたい。

系統化した目標を先に置いたり、その子の学びを何か標準化されたものとの比較するのでなくて、今のその子の息遣いやのどの渇き、体温にあった教材と目標をオーダーメイドで提供したい。

そのことがずっと、マンツーマンレッスンに託し続けた自分の思いでした。


当初マンツーマンレッスンで飯を食おうなんて、かけらも思っていませんでした。

それを事業化しようなんて、みじんも思っていませんでした。

ただ目の前の子の、その日その時を、生涯一つずつ積み上げて
自分に残された時間のすべては、そこを基本として構成していこうと決めていました。


白ゆり教室は半年間、生徒5名にも満たない小さな個人の教室でした。

最初は月謝無料の教室にするつもりでしたが、それでは逆にただでしてやってるというようなゆるんだ気持ちになってしまうことに気がつきました。

ならばあえて相応のお金をいただき、いただいたお金はすべて、子どもたちのために使っていこうと考えるようになりました。


いつの間にか、子どもたちは階段を駆け上がってレッスンに来てくれるようになりました。

当初は、週に10にも満たないレッスンが、年間で3,000ものレッスンをさせいただいた年もありました。

京都、大阪、三重からも、毎週のように通ってくださる子どもが増え、それではということで週末だけの教室を新大阪に作らせていただきました。


先日のある女の子のレッスンの時のことです。

その子にいつものような弾むようなリズムが感じられません。


何をごまかせても、子どもの感性ごまかせませんね。

岡山でのレッスンでは、最近、指導記録を別の先生にとってもらう機会が増えました。

こうすると、子どもの動きから目を切らずにレッスンをすることができます。

この意識が記録優先となったとたんに、子どもの動きから弾むような感じが消え失せてしまうのです。


子どもの育ちを最優先とするのと、研究や発表のためにその子のレッスンを使おうとするのでは、そりゃ子どもには簡単に見抜かれてしまいます。

似て非なるものとは、まさにこのことです。


教育に記録は重要です。

ですが私のレッスンの場合は、子どもの体温を感じ取ったライブ感がなくては、何もないのと同じです。

それができなくなるくらいなら、もはやそれは力不足、

何かをそぎ落としていかなければなりません。


子どもの目の輝かないレッスンなら、いくつ積み上げたって、たかが知れています。

何があっての自分であるかを、子どもはいつもダイレクトに、私に伝え続けてくれるのです。








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