子どもの 人としての尊厳 (子どもの自立を支える親と指導者の哲学)
2008-07-28
私は、「「立って半畳、寝て一畳、天下とっても二合半 」という言葉が大好きです。豊臣秀吉が言ったとか、言わないとか、諸説明らかでありません。
きっと貧乏人のひがみと思われるでしょうが、私はこの言葉を、次のように解釈しています。
「いくら表面的な欲望を満たしたところで、そんなものはたかがしれている。豪邸に住んでも、掃除は大変だし、物取りに行くのも大変だし。クルーザーに乗っても燃費は気になるし、金持ちなら強盗に命を狙われるし、高級クラブで何十万使っても、心が通わない酒は、本当はそれほど、うまくも何ともないんだよ。高い金使わなければ、誰も相手してくれないんだから・・それより、心を許す語らいと、共に交わす杯の、何とも愉快で、美味なることか・・・」
もしも、金持ちになることだけに価値を置くのであれば、もしも、大学に行くことだけに価値を置くのであれば、もしも、誰かと比べるところに価値をおくのであれば、たとえそれが実現されても、またさらなる欲望の芽が頭を持ち上げてくる・・
高級車が欲しい・ヘリコプターが欲しい・自家用ジェットがほしい・・・
それか今度は反対に、おれはクラウンに乗ってるぞ、隣の奴は軽四だ、みたいな何とも薄っぺらい優越感(まるっきり劣等感の裏返しではありませぬか)で、自分をなぐさめる・・
それよりは、その日一日精一杯働いて、自宅の小さなベランダで、炭火をおこして焼き鳥と発泡酒、そこへ近所の友達が、畑の野菜をもってやってくる、なんてのが最高じゃありませんか?
人の幸せとは、ある状態を指す言葉ではなく、人の心のあり方を指す言葉、ですよね。
だとしたら、例えどんな障害や困難があろうとも、その子が、自分自身の人としての貴さを受け入れ、セルフエスティームをもって生きること、これが何よりも大切なポイントとなってくるのではないでしょうか?
子どもは、言葉ではなく、肌で感じる独特の感覚をもっています。傷ついた体験があればあるほど、その感覚は研ぎ澄まされていきます。
いくら言葉で説明しても、心にストンと落ちない限り、子どもの心に響きません。日常の行為の隅々まで、行き渡っていない限り、決してそれを、信じるようにはなりません。
理屈じゃないけど、あの先生好き、何か知らんけど、お母さん好き、こうした感覚こそが本物です。
こうした日常の隅々まで行き渡る小さな行動一つ一つにまで「あなたはすてきな存在よ、あなたらしく生きることが何よりも尊いこと、決して誰かと比べることじゃない、だからこそ、あきらめないで自分の可能性にもっともっと挑戦してほしい、そして、自己実現をしてほしい、人との関わりの中に、喜びを見いだせる人に育って欲しい」 こうした思いや願いが、まるで金太郎飴のごとく、変わらず子どもに示せるようになったとき、初めて子どもは、幸せに向かって力強い歩みを始めるのではないでしょうか?
そんなことは、わかってますよ。 理論は、簡単です。
しかし、現実世界・日常場面の隅々までに滲み渡らせるのは、容易なことではありません。
そこに、私たちの努力と感性が必要なわけです。 結局は、哲学がものをいうことになるのです。
今、問題行動改善のためのSSTの取り組みをしていますが、実際にやってみると、これ、日本の小学校の学級活動でやってるものと、エキスは何も変わりません。
それを理論だけでいうか、現実の子どもの世界で活用できるか、臨床の力量とはそういうものです。
理論知ってなくても、クラスまとめてる先生は、子どもから好かれます。案外、まわりを唸らせる理論を展開する先生のクラスは、ぐちゃぐちゃってこと、よくあることです。
親にとって大切なことは、我が子に、日常場面で、自分の特性をきちんと受け入れた上で、その尊さを感じ、その可能性に挑戦しながら、人との関わりの中で育てていくことです。
子どもの自己肯定感を育むことは、生活の質(QOL)を高めるということと同じではないかと、私は思います。
だからこそ、そこで問われるのが、親(指導者)の価値観であり、哲学であると、私は考えているのです。
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