生きた言葉と死んだ言葉

 2016-03-27
私はこれまで、講演会をさせていただいたり、色々な会で閉会などのご挨拶をさせていただいたりする機会が何度かありました。

何度やっても、それはプレッシャーで、いつも開き直って、やるしかないと思って取り組んでいます。


でも、もしもそんな時に、ふところから原稿用紙を取り出して読み始めたとしたら、たちまちそこにいた方々は下を向いてしまいます。

挨拶や、講演というのはそんなものです。


それとは逆に、事前に考えてもいなかったようなことを話し出すと、それまで下を向いていた人の顔はあがり、よそ見をしていた人の目は輝きはじめます。


いつだったか、ある大学での講演会に、学生さんを含めて体育館一杯の人がお越しくださいました。

その中に、演台からたくさんの方にお話をさせていただいていたのですが、私の話の一つ一つに食い入るように聞いてくださっている方の姿が印象に残りました。


その後、それぞれの分科会におじゃまをさせていただきましたが、その時にもそれがすぐその方であることに気が付きました。

何がその方とと私をつないでいたのかは、その後に知ることにはなるのですが、生きた言葉というのは、こんなふうに人のこころにがっちりと入っていくものです。


そのことは、個別のレッスンの時にも、ダイレクトにリフレクトしてきます。

読解文ひとつ扱ったとしても、死んだ言葉のやりとりでは、子どもの反応も死んだままです。


文字言語は、そもそもは死んだ言葉です。

それを生きた言葉に置きかえていくこと、つまり内言化させていくためには、文字言語を生きた言葉に変換していく支援がポイントとなっていきます。


紙芝居一つ読ましても、腕のいい保育士と、そうでない保育士との差は歴然です。

子どもの目を見ずに、マニュアル通りに、機械的に進めていく療育に、子どもの目が輝いていくはずがありません。

ビデオとライブでは、同じサッカーの試合を見ていても、燃え方は全然違うはずです。


このことは、物語の読解指導などでも当てはまることです。

子どもがもし文字だけを目で追ったとしても、たとえ文章を音声化できたとしても、それはまだ子どもの生きた言葉にはなっていないのです。


読んだ言葉が、子どものイメージの世界で踊り始めてこそ、それは初めて生きた言葉(=内言化された言葉)となるのです。

たとえどんな教材であったとしても、読解指導のダイナミズムは、必ずここに置くべきだと私は考えています。


教育は、一期一会、

その一瞬一瞬の出会いに感謝できない者に、どうして魂のこもった楽しいレッスンを展開していくことができるでしょうか?


計画や準備は、できるだけ周到に、

けれど、一たびレッスンが始まれば、すべての計画を捨てて、子どもの反応を見ながら、ライブに展開する、

レッスンは生き物であり、似たようなレッスンはあったとしても、全く同じ内容のレッスンなどどこにもないのです。

はじめから結末の分かった推理小説なんて、一体誰が読むというのでしょう。


魂を込めたレッスンの一つ一つの積み重ね、

子どもの輝く未来は、きっとその先にこそあるのです。





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