人生の主体者は子ども (それを支える親と教師)

 2008-06-19
何度も考え、結論を出したつもりでも、時々思い返したように揺れる「問い」が、私にはあります。

それは、「発達の課題がある子にとっては、集団での学習が苦痛であるのではないか」という問いと、「子どもの自己決定をもちだすことは、周りの者がそれを都合良く利用していることではないのか?」という問いです。

何度も何度も考えて、その都度自分なりの答えを出していますが、最終的には、個々のケース、それぞれのお子さんの状況から、判断をするように心がけています。

でも、「可能な限り、みんなといっしょの場で教育を」「可能な限り、主体者としての子どもの自己決定を」そういう基本スタンスを変えることは出来ません。

それは、何歳であろうが、どんな子どもであろうが、生きる主体者としての尊厳を持っており、そのためには自己決定は不可欠である。そして、その自己決定のプロセスそのものが、希望をもって生きること、そのものだと考えているからです。

忘れられない1シーンがあります。

以前、情緒障害児短期治療施設というところに勤務していたことがあります。

そこでは、年に1度、施設対抗ソフトボール大会というのがあって、毎年それを目指して、練習に取り組んでいました。

私のいた施設では、身体面での障害のある子はいませんでした。人数の少ないときは、初めてグローブをはめたような女の子も、選手として参加したこともありました。(今から10年以上も前の話ですが・・)

ある年、1回戦で、肢体不自由の施設のチームと対戦しました。結果だけ言うと、我がチームの大勝でした。でも、どうしても忘れることのできない1シーンがあるのです。

それは、上半身のみで、下半身が無いお子さんが、そのチームにレギュラーで参加していたということです。

守備では、1塁を守っていました。先生がノックされ、内野の子が、その子にとれるような低い球で送球をします。何度か、後ろにそらすことはありますが、見事にボールをキャッチすることができています。セカンドの子は、送球があれば、バックアップに回っています。それは見事な連係プレーです。

その子に打順が回ってきました。下半身はありませんが、右手一本でバットを構えています。我がチームの投手が投球すると、見事にそのバットでボールをはじき返しました。

走ることはできませんがから、代走の子が1塁に向かいます。

アウトにはなりました。しかし、私は感動して、しばらくその場を動けませんでした。

この子は、この試合に参加するために、チームのみんなと先生と、どれだけいっしょに練習に取り組んだ事でしょう。その過程で、どれだけ大切なことを学んできたことでしょう。

自分が同じ立場だったら、果たしてソフトボールのチームに加わることさえ出来なかったかも知れない。

普段、文句ばかり言っていた子どもも、甘ちゃんだった子どもも、みんな試合中、押し黙ってしまいました。

私も、子どもたちも、このチームの皆さんの、人としての尊厳に圧倒されてしまったのです。

我がチームのコールド勝ちで終わったこのゲームですが、負けた相手チームには、圧倒的な達成感がみなぎっていました。

私たちは、現実生活の細かい部分で、迷ったり、判断ミスをしたり、対立したり、トラブルになったり、絶望的な気分になったりすることもあるでしょう。

でも、基本はここにあるのではないでしょうか。

例え子どもであっても、尊厳ある一人の存在として尊重する。人生の主体者として、主人公がその子自身であるとすれば、そこは自己決定が不可欠であり、そのことは希望をもって生きることと深く関係していると、私は思うのです。

人生の主体者としての子どもを支えるのが、保護者であり、教師である。そして、その主体的な判断や決定に寄り添いながら、営みを共有し、何か希望や目標に向かって歩んでいくことこそが、私たちの目指す「学び」であり「育ち」なんだと、私は考えているのです。



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