子どもが通常級で学ぶ意味

 2013-12-24
もしも、「学校は、何をするところ?」 と尋ねられたら、多くの人は 「それは勉強をするところよ」 と答えることでしょう。

そうです、まさにその通り、

学校は勉強をするところに決まっているのです。


その直接の担当となる担任の先生は、持ち上がるかどうかは別として、1年を単位として、社会の代表として、大切なお子様をおあずかりさせていただくわけです。

ただ漫然として1年を過ごせばいいというのではなく、「教育者として、私は1年で、この子にこれだけのことを育てた」という結果を示す必要があります。

この1年で、これだけの漢字が書けるようになったとか、二重跳びができるようになったとか、明確に結果を残すのがプロとしての責務です。


例えば、せめて九九はちゃんとできるようにさせたいと思うのは、2年生の担任なら当然のことです。

35人のこのクラスで、Aちゃんにも九九をちゃんと定着させることができるだろうか?と考えたら、支援が必要なお子様を、安易にお引き受けすべきではないと考えておられる先生方も多くいらっしゃいます。


そういう先生は、決して、障がいのある子を受け入れたくないと思っているのではありません、

2年担任として、責任のある仕事をさせていただきたいと思うのは、あるべき姿の一つではないでしょうか?


学校は、勉強するところです、

そこをおろそかにしては、人間形成も何も生まれてはきません、


野球チームは野球をするチームですから、野球をする姿勢がいい加減でいては、チームワークもへったくれもありません、

ならば、甲子園に出場できなかった高校野球のチームは、野球をやったことの意味が全くないのかと言えば、それも違います。

本当は、野球は題材であって、野球を通して培った精神力やチームワーク、向上心、連帯感、目標遂行能力、克己心、向上心、闘志、多くの人に対する感謝の気持ち、それらが育つことが目標なのです、


2年生ですから、九九をはじめ、様々な学習内容が定着するよう願わずにはいられません、

しかし、努力の結果、うちの子の九九の定着が、たとえほんのわずかであったとしても、私はそのことを何と尊いことと感じ、きっとこの子を抱きしめてやるに違いありません、

この子が、多くのお友達の輪の中で、一緒に九九を唱え、懸命に努力する過程の中で、社会性、協調性、自己肯定の気持ちなど、様々なかけがえのない宝ものをつかむことができます、


単に九九だけのことなら、それは公文でも、家庭でも、取り組むことはできます、

しかし学校は、子どもにとって、唯一無二のオフィシャルな集団、

所属感があり、社会から受け入れられていることの証である学校という集団の中で、社会からその大切な役割を公式に付託されている担任の先生と取り組むこととは、全く意味が違います、

たとえ外部の方がどんなに高名で、どんなに優秀な方であっても、ここの部分は、決して他の機関で替えることのできないものです、

それが、学校でしかできないことでり、私はその大切な役割を、学校の先生に託したいのです、


もしも、通常級にしっかりとした居場所があって、それでいて、その子の特性に応じた豊かな支援が、当たり前のようにプラスアルファで実行されるのであれば、何も迷うことはありません、

だから、私は通常級での学びを、とても大切にしているのです。



こうした内容が、もしも担任の先生に届いたならば、果たしてそれでも、その先生はもう一度、支援級を勧められるでしょうか?

「そういうことなら、微力ですが精一杯取り組ませていただきます」

多くの先生が、きっとそうお答えになるのではないかと考えているのは、本当に私だけなのでしょうか?



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