受容と要求の黄金バランス

 2012-11-05
ある中学生の女の子が、学校であまり望ましいとは言えない行動をしてしまいました。

担任の先生は、深い教育的な情熱をおもちの先生で、中学に入学して間もなく、わざわざ私のにまで足を運んでくださいました。

今回の対応にしても、教育者としてなすべきことをきちんとふまえた対応だったと思っています。


ところが、そのことがきっかけとなり、その子はずっと学校に行かなくなってしまいました。

行ってしまったことの反省より、そこに至るまでの背景を理解してもらえなかった、自分の気持ちを受け止めてもらえなかった、そういう思いだけが、爆発的に心の中で広がってしまったのです、

一度こうしたネガティブな思いが広がり始めると、そのことだけがぐるぐると広がり、収拾不能に陥ってしまいがちになる・・

実は、こうしたこと自体が、この子が背負っている重い課題そのものでもあったわけです。


そういう彼女ですが、私の教室には、かれこれもう数年通い続けています。

この子が休んだという記憶は、ほとんどありません、

今週の彼女は、さすがにいつもと比べると不安定な感じでしたが、事前にお母さんからの情報をいただいていますので、私の方はいつも以上に、事前にふところ深く構えているのです。

それが、支援者としての私の役割だと考えているからです。


要求度を上げると、どうしても一定の負荷が子どもにかかります、

かといって何も要求のない所に、教育の営みは成立しません。


私の所は、権威も強制力もない、まったく任意の事業所です、

もしも子どもが来なくなったなら、一番痛むのは、それはきっとその子自身であると思っています。


ならば、ここは胸元をえぐるようなストレートは温存して、とりあえずは緩いカーブを投げておきます。

大切な部分は、時間をかけ、気持ちが整理された段階で、別な方法でじんわりじんわり攻めていくのです。


先日、最近少し萎縮ぎみの小学生の男の子がいました。

どうやら、私のしごく国語がだんだん重荷になってきたようです。


その日、私はその子のために、マリオのラジコンをアマゾンで注文してやりました。

とたんにその子の表情は変わり、「がんばって先に勉強すませようね」と、すごい勢いで鉛筆を走らせました。


その過程で、たとえどんな手段を使おうが、プロとして結果を残さなければ、結局、選んでまでこの教室には来ていただけません。

けれども、遊んでばかりの教室に、高い費用を負担し、わざわざ送迎までして来ていただけるとも思っていません。

肯定的な自己理解力の育成を看板に掲げた教室を開設した以上、3年・5年と継続して来ていただかない限り、納得のいく結果が簡単に出るわけもありません。

ならば、私には、私なりのアプローチがあってもいいはずです。


受容と要求、

そして個と集団との関係は、教育における永遠のテーマであり課題であると思っています。

その1グラムのさじ加減で、その1秒のタイミングで、結果は大きく変わっていきます。


プロは結果がすべて、

いただいたレッスンの1コマ1コマに、これからも全力投球で立ち向かえる自分でありたいと、心から願っているのです。





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