発達課題のあるお子さんの 就労とQOL(生活の質)について考えること
2008-05-27
昨日、今17歳になっている教え子とつりに行きました。先月に続いて2回目のつりです。高校をやめて、しばらくは割烹で働いていましたが、現在は引っ越しのアルバイトをしているということです。
この子は、5年生から教室に入れなくなり、中学は特別支援の学級に行きましたが、結局学校ではあまり適応できたとは言いにくい状況でしょうか?
私は、この子が6年生の時、副担任という形でこの子とかかわりました。6年のときは、通常学級に籍がありましたが、ほとんどは副担任の私が、別室でもうひとりの子といっしょに個別指導のようなことをしていました。
高校をやめた後、割烹では2年くらいがんばりましたが、それも先月やめてしまいました。しかし、この2年間で社会性は大きく向上したのではないでしょうか?
今の彼は、当然といえば当然でしょうが、小学校の時とは比べものにならないくらい、いい男に成長しています。
このご家庭は、お母さんと息子さん2人ということもあって、割烹をやめる間際のときに、お母さんから「まともな男の人に、この子の話だけでも聞いて欲しい」という、お葉書をいただいて以来のかかわりです。
「つり」というのはお母さんのアイデアです。私も、それなら自然で、長続きしそうな気がして、その子にメールを送信すると、すぐに反応がありました。
(メールのやりとりは、それ以前からも時折していましたので・・)
昨日は、笠岡というところへキスつりに出かけました。車で約1〜2時間の距離のところです。朝7時の集合でしたが、車にのると30分もしないうちに、ぐーぐー居眠りを始めました。きっと、早起きする習慣はなくなってきているんでしょう。
この日は風がやや強かったのですが、快晴です。心地よい潮風と、瀬戸内海の美しい眺めは、私の心も彼の心も開放してくれます。
昼過ぎまでつりをして、帰るときには、いろいろなことを話してくれました。
特に、彼が生き生きとした口調で話してくれたのは、バイクのことです。原付バイクですが、きっと今の彼の宝物なのでしょう。塗装を塗り替えたり、ギヤを替えたり、いろいろやっているようです。どうやら整備士になりたい、というのは彼の人生の中では大切な営みになっているような気がしました。
私が、小学校の教師になりたいと思うようになったのも、ちょうど今の彼と同じような年齢の頃でした。
当時の私は、とても学校の先生を目指すような環境ではなく、その頃、私をとりまく人々の誰も、きっと私が本当に小学校の先生になるとは思っていなかったと思います。
(実際になったあと、何人かの人は本当に、驚いていました。ソフトバンクの犬のお父さんもびっくりですね)
私は、就学前に母と生き別れ、学童期に父と死に別れ、おまけに預けられた叔母は夜のお仕事をしていました。
特に父を亡くしてからの思春期は、きっと悲惨な中学生・高校生だったと思います。勉強も全然しませんでしたし(笑)
心の底では「なんで俺だけ・・」とか「自分は生きる値打ちがない」とか思っていました。ヤンキーにはなりませんでしたが、きわどいことは結構していたかも知れません。(秘密です。とても言えない・・)
精神面でボロボロになり、最後の最後まで行ったときに、何かの拍子に、突然、学校の先生になりたい、という気持ちがポツリと芽生えました。
雑誌か何かで、どうやったら先生になれるかということを調べたら、自分の学力でも、がんばったら何とか教員免許をとれる大学に入れることがわかりました。
金はなくても、新聞配達すれば、住むところと学費を出してくれるところがあることもわかりました。
「しかし、受験料や当面の金はどうするんだ・・」
だめでもともとだと思いながらも、私は、自分で調べたことと、自分の夢を、叔母に話しました。すると叔母は、今までに一度も見せたことのないような凛とした表情で
「この環境で、あなたはここまで勉強したんだから、大学には行かせる」
と、言い切りました。
その意外な言葉に、私は驚いたと同時に、その夜は、うれしくてうれしくて、流れる涙をとめることができませんでした。
結果、私は、教員免許のとれる東京の私立の大学に入学することができました。
生き別れになった母が、一時東京の品川に住んでいたことは知っていましたから、もしかしたら会えるかも、という気持ちも、心の中にはありました。(実際は、会えませんでしたが・・)
当然バイトもしました。額は平均より少なかったと思いますが、叔母は、自立できるまではと、仕送りも、学費も出してくれました。おかげで、何とか横道にそれることなく、初期の目的を遂げることができました。
この叔母は、本当にすばらしい人物でした。
入学して数ヶ月したときに、様子を見たいと言って、東京に来てくれました。
東京駅へ迎えに行くと、叔母は「銀座にお昼を食べに行こう」と言いました。
銀座なんて、行ったこともなかったし、安い店だってあるんだろうと思っていましたが、叔母は「ここがいいんじゃない」と言って、それまで行ったことの無いような高級店に平気で入り、たしか1万円くらいのものを平然と注文していました。
言っておきますが、普段は10円の物もけちる貧乏人ですよ。
しかし、叔母は普段は質素な暮らしをしていましたが、岡山の田舎から出てきたお上りさんであったかも知れませんが、銀座のど真ん中にいて、誰にも一歩も引かない美しい人物でした。
食事をしているときの物腰も態度も、学生の自分からみてもほれぼれするものでした。食事が済むと、叔母はたしか3万円くらいの小遣いくれて、私の部屋にも訪れることなく、すぐに岡山に帰っていきました。
私は、友達と麻雀したりはしましたが、教職の授業を一度たりとも欠席することはありませんでした。一般教養や語学はだめでしたが、教職に関連する授業はすべて一番前の真ん中の席で受けました。ここまでして東京に出してくれた叔母の思いを裏切ることなどできませんでしたし、先生になる勉強ができるなんてうれしくてたまりませんでした。
生い立ちや環境にかかわる偏見や差別に苦しんだ岡山に比べて、東京での生活は公平で、平等で、自由で、夢のように楽しい時間でした。
叔母は、そんな私の表情を即座に感じ取ったのでしょう。
1時間ほどの食事の間、叔母は、説教じみたことなど何も語らなかった。この日、どんな目的で東京まで来たのか、決して話さなかった。しかし、それから30年以上たった今でも。この日のことは、鮮烈に私の記憶の中に生きています。
この日を境に、私はこれまで抱いていた自分の生い立ちや環境のことについて、一切泣き言を言わないようになりました。
私が教員になり、岡山に帰ると、私がテストの採点をしているときに、何だかとてもうれしように横で眺めていてくれたことが、とても印象に残っています。
その叔母は、私が教員になって2年目にがんで他界しました。齢50にも満たず、美しいまま亡くなりました。
叔母と言っても、実は、彼女と私の間には、血縁はありません。
しかし、この叔母に教えてもらった「人としての真実」を、私は彼に伝えたい。自分もこのときの叔母と同じくらいの年齢になり、その恩返しをここで、こんな形でかなえたい。
これまでの彼の道のりも、決して平坦なものではなかったと思う。
しかし、私はいつの日か、彼が、自分の生きている意味を感じ、彼自身の尊さや個性、そしてお母さんの深い愛情に気づくように成長して欲しい。自分の好きなこと、得意なことで、自分らしい道を歩んでほしい。
QOLとは、そういうことだと考えているのです。
叔母ちゃんのように、かっこよくはできないけれど・・
あの日、叔母ちゃんが語らずもがな、ぼくに伝えたかったのは、きっとそういうことだったんだと、私は今、思っているわけであります。
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