生きた言語
2021-11-30

例えば漢字の学習をするときにも、私は漢字だけを切り取ったりして、反復練習をさせるようなことはあまりしません。
ほとんどの場合、学習させたい漢字を文脈の中でとらえさせるような教材を作ります。
文字を音声化させると、その子が文の意味をどれだけとらえているかがわかるのです。
それが逐次読みの場合は、文字を音声に変換するだけで、その時点で意味まではあまり把握できていないととらえ、次の支援を考えます。
写真の男の子は、このごろ文章がとても上手に読めるようになってきています。
文脈を意識しながら、すらすらと文字を読み進めるこちが出来るのです。
文章の意味を理解していない子は、このように決してすらすらと読むことは出来ません。
人によっては、伸びる内容も、時期も、タイミングもそれぞれです。
そのための学習レディネスを構成するために、本人の気持ちに添った意図的・計画的な学習の積み上げも必要です。
ここを信じて、日々の学習を積み上げていくことが出来るかどうか?
一つ一つの学習の意義をその子に感じ取らせながら、目的意識をもった楽しいレッスンを構成していけるかどうか?
可能性を信じて、ゆるぎなくそこに進んでいけるかどうか?
その子が伸びる時にこそ、その場に立って、最善の題材を提供してこそ、真の教育。
こうした自信はすべて、こうした子どもの成長こそが、私を支えてくれているのです。
子どもの力・家族の力
2021-11-30


私がこのブログを書き始めて1~2年の頃、
まだ個人でレッスンをしていた時ですが、当時は、京都・大阪・兵庫・三重・広島・高知など全国各地からレッスンやご相談に毎月お越しくださる方がたくさんおられました。
一番最初にお越しくださったのは、京都のお母さんでした。
最初にお問合せをいただいた時には、とてもとても自分では力不足でお断りをしたように記憶しておりますが、その情熱に押し切られた形で、県外の方のレッスンをお引き受けすることにしました。
その後、大阪にも京都にも教室を開き、休日を利用して定期的お伺いしているので、最近では県外の方が岡山にお越しくださるケースはめったになくなりました。
そのご家族の方は、口をそろえて 「岡山に通っていた頃が愛おしい」 とおっしゃいますし、私自身も、ご家族が私のレッスンを機会にそうした豊かな時間をつくっていかれることは、とても意義深いことだと思うようになりました。
学びの主体者は子どもであり、育ての主体者はご家族に他なりません。
だからこそ私は、そのことに恥じない、内容のあるレッスンとご相談をお受けする責任があるのだと考えるようになりました。
10年そんな関係が続き、それぞれのお子様は、目を見張るようにそれぞれたくましくも立派に育っていかれました。
この日サポートさせていただいたお子様もその一人です。
育ちの過程の中で、メモリーとなるような出来事もたくさんあり、お母様はその都度、お子様の成長の様子をラインでお知らせくださるようになりました。
レッスンは一期一会、ご家族とは同行二人、
私はいつも送ってくださるラインに目を通しながら、そんなふうに感じておりました。
この日は、6年生になる弟さんも、大きな成長をされたというビックニュースをお伺いしました。
「この子の大切な命は、ご家族の絆をさらに深め、この私を含めてかかわる人を次々に幸せにしていく」
この子がなすべき役割をもってこの世に生を受けたこと、
私の心にまた一つ、大切なことが刻まれた瞬間なのでありました。
こんな日が来る
2021-11-30

私がこの活動を始めてから、もう10年以上になります。
当時まだ就学前だったお子さんも、もう高校生になる年齢です。
学習指導要領などに基づき、標準化・系統化された教材があるのはとても大切なことだと思っています。
十分に検討吟味された教材が、国として体系づけていなければ、生きた教育を実践することは出来ません。
公教育の意義の一つが、そこにあると考えています。
これがあるからこそ、私は、個々の子どもの特性や育ちに合わせたオリジナルのカリキュラムを作成することが出来ます。
私がサポートさせていただいているお子様は、高校で急激に学力が伸びるケースが非常に目立ちます。
子どもにとって学習は、単なる知識の習得ではありません。
学習を通して培うのは、達成感であったり、自己コントロール力であったり、コミュニケーション能力であったり、社会性であったり、課題解決力であったり、自己肯定感であったり、様々な能力や資質の向上の基盤であるのです。
就学前や小学校低学年の頃、行動のコントロールに苦しんで来られたご家族を私はたくさん知っています。
そしてその子が、いつかは必ずすてきな子に成長していく姿を、生きた実践を通して、何度も何度もこの目で見つめてきました。
その苦しい時期を乗り越えたからこそ、他では代えることの出来ない美しい花が咲くことに、何度も何度も遭遇してきました。
だからこそ、信じることが出来る。
だからこそ、それを信じて、学習を積み重ねていくことが出来る。
子どもの可能性は、無限です。
どこかの時期で単純に切り取って、それを何かと比較して、それで出きる出来ないを語って、一体そのことにどれだけの意味があるというでしょう。
今私のところには、小さいときに出来にくかったことが次々に出来るようになり、何十人といるのです。
何とも幸せで、誇らしいことでしょう。
ふと見上げると、そこには笑顔いっぱいの母の姿がそこにあります。
私はただ、この母の傍に立ち、与えられた役割を少しづつ果たしてきただけのことです。
すべては子どもとそのご家族が作り上げてこられたこと、
私のもう一つの役割は、今その課題に直面されている子どもとそのご家族に、このことを伝承していくこと。
私はこれからもずっと、この道を歩み続けて行きたいと願っているのです。
私が私でいられる理由
2021-11-16


私は幼少期に父を亡くしています。
小学校5年生の遠足の前日、食事中に突然脳の血管が破裂して亡くなったと記憶しています。
私もいつかはそうなるのではという思いがいつも心の中にあります。
小学校の教員をしていた時、研究主任をしていた親友が、人間ドックに行ったまま、結局学校に帰れないままに亡くなってしまいました。
当時の校長先生は、背中が痛いので、ちょっと病院で検査をしてくるわ、と言ってその数か月後には帰らぬ人となりました。
駆け出しの教員時代、兄のように慕い尊敬していた先生は、2人とも若くしてこの世を去っていきました。
何で自分だけが、と思ったことは一度や二度ではありません。
先日、人間ドックを受診しました。
前回は、もう10年以上も前のことになりますが、がんの手術を経ての受診でしたので、
「あなたは普通ならもう亡くなっていて仕方のない状況でした。それがこのように命をつながれたのは、何か特別に為すべきことがあると神様が判断されたとした思えません」
そう先生から伝えられたことが強烈に心に残っています。
今回は、特別に脳ドックをお願いしました。
父が亡くなった年齢に近づいて来たため、ある意味覚悟を決めるためです。
ところが先生は、
62歳のあなたは、脳の萎縮がみられて当然の年齢ですが、その萎縮がほとんど見られない。
もしも評価をつけるなら上の中、
点数でいえば10点満点の9点ぐらいは付けれられる。
と、おっしゃってくださいました。
脳以外の部分は、生活習慣の改善などによって、かなりの程度回復することができる。
だからこそ、あなたの場合は、これまで以上に健康管理・自己管理をすべきです。
ここまで脳に萎縮がみられないのは、きっとこれまで、何かやりがい生きがいをもって取り組まれていることがあるに違いない、
そのことに感謝して、さらにそのことに精進してください。
そう続けてくださいました。
私の命をつないてくれたもの、
それはこれまで出会ってきた多くの子どもたちと、私を支えてくれた多くの人々の存在以外に考えることは出来ません。
ならば私はこれからも、それぞれの子どもの成長と幸せのために、自分が出来ることをこれからも精一杯取り組んでいきたい。
私が私でいられる理由、
それは、あなたがそこにいるからに違いないのです。
レッスンで落とす涙
2021-11-08

ある高校生の女の子とのレッスンがありました。
小学校入学前から、もう10年以上もサポートさせていただいている女の子です。
先日、その子と英語の学習をしました。
Mother's lullaby という原爆をモチーフとした教材です。
この子は、英文のスピーキング力に優れ、流ちょうにリンキングなどもちゃんと出来る女の子です。
他の教科と比べると、英語の力が突出しており、日本語を読ませた時より、英文を読ませた時の方が、ずっと目の色が輝いています。
“Mommy,” the boy was still crying.
“Be a good boy,” said the girl.
“You’ll be all right.”
She held the boy more tightly and began to sing again.
After a while the boy stopped crying and quietly died.
But the little mother did not stop singing.
It was a sad lullaby.
The girl’s voice became weaker and weaker.
Morning came and the sun rose, but the girl never moved again.
英文を、その子は日本語に訳して、用紙に書き留めていきました。
そういうスタイルの学習でしたが、彼女の口からあふれる透き通るような英語には、本当は日本語訳など全く必要のないものでした。
私はそのクオリティーの高さに、心を震わせ、感動であるれる涙をこらえるのに精いっぱいの状況でした。
英語の学習を通して、私と彼女は、ここまで深い絆で結ばれるようになったのです。
彼女も私も、月に1度のこの時間は、心と心がつながる大切な時間となっているのです。
支援者と子どもが心を通わすためには、成長を目指していくための題材や教材は重要です。
ですが、その題材や教材は、一律的なもでなくても、画一的なものでなくても、標準化されたものでなくても、それはそれで関係ないのです。
私は、毎回オリジナルの手作り教材にこだわるのは、そのためです。
標準化されたプログラムが充実してこそ、私の個別サポートは意味のあるものとなる。
その大切な花が、今日も一輪、しっかりと美しいその花弁が拓いたのです。