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新しい学びの形

 2018-12-31
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今年の御用納めの日に、高校生の子がご両親と一緒に来てくれました。

今年は大きな手術を受け、体調がしっかりしないということで、ぎりぎりのこの日に日程を調整しました。

今は筆記用具を使うことが出来にくくなっているので、ご覧のようにパソコンを使って文学教材の学習を続けています。


私がこの教室に着いたのは、午後6時半過ぎでした。

そもそも保育園はこの日は、午前中閉園で、私の仕事は本来それで終了なのですが、この子とのレッスンは私の新規材開発のモニターみたいになっていて、ずっと楽しみにしていました。


この子も私も義務感0ですからね、そりゃやっててこんなに楽しい時間はありません。

真剣でいて、笑い声の絶えない活気のあるレッスン、


「私たち、この調子なら2時間でも3時間でもずっと勉強続けられるよな?」

冗談半分で私が言うと、その子は笑顔で、こっくりと大きくうなずきました。

「もうちょっとで高校卒業だけど、その後もずっと一緒に勉強できたらいいのに?」

私がそう言うと、その子は少し驚いた表情で、目を大きく開け、またしても 「うん」 と大きくうなずきました。


その日のレッスンが終わると、その足で私は岡山駅に向かいました。

明日には仙台から、東京から、帰省で大阪に帰る子どもが大阪の教室に来てくれるのです。


本当にやりたいことがそこにある、

誰かに必要とされている、

その子らしく人とつながって生きる、


私は自分の姿を通して、子どもたちをそんな人に育て上げたい

学びは、私と子どもをつなぐ架け橋

保育園の子もきっとそれは同じ


新しい学びの形は、きっとそこにあると信じているのです。





学習能力を育てる

 2018-12-27
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私はこれまで様々な子どもの学びに向き合ってきました。

10年前に個別学習指導教室を開いた頃は、認知処理に目を向けた指導に力を注いで取り組みました。


視覚的なとらえの得手な子ども、言語・聴覚的なとらえの得手な子ども、

特に小さい頃は情報のインプット得手不得手があり、その認知処理の特性に合わせた教材を提示し、段階的にその双方を使い分けることが出来るよう取り組んできました。

また、年齢や学習経験の積み重ねによって、劇的にその事が改善される時期があることが経験的わかってきました。

多い年は、1年に2000とか3000とかのレッスンを10年近く積み重ね、小1だった子を高3までサポートさせていただいたことにより、私自身がたくさんのことを学ぶことができました。


大学での授業を担当するようになってから、学習が進むとか、進まないとがは、どういうメカニズムであるのかを論知的に整理する機会を与えてもらいました。

論理的な思考は、図のようにワーキングメモリーの中で処理されるのですが、その容量や速度にもいくつかの発達段階があります。


例えば字を読む(読字)ということに集中している小さい子どもは、そのことを同時にイメージ化していない時期があります。

大人はすでに様々な学習を通して、自然に読みながら、その意味を考えたりイメージ化したりすることが当たり前になってきますが、実は生まれた時からずっとそうではなかったわけです。

「何回言ったらわかるの?」 みたいなことは、そもそもおかあさんとお子さんの器そのものが違っているから、かみ合わないわけです。


しかし読むなら読む学習を続けていると、小さい子ですから、その能力は一定時学習経験を積めば、その分だけ大きく育つ時期があります。

うちの保育園にも外国籍のお子さんが何人かいますが、第二言語であるはずの日本語の習得には、目を見張るものがあり。とても大人は太刀打ちできません。


読字でお腹いっぱいになった子は、やがてイメージの世界に突入する時期があります。

イメージ化ならイメージ化ばっかりの時期もありますが、やがて今度は読字とイメージが同時に出来るような力が育っていきます。


それぞれの個々の能力を、それぞれの題材で育てて行きながら、場や状況により、その学習経験を一般化することが出来ること、

これが学習が豊かになるということであり、学びの力が育つということなのです。


一つ一つの学習には意味があり、育つ内容があります。

そしてその日その時、その子が一番欲している学習にかかわる内容や題材を提示する能力、

いわゆる発達の最近接療育を構成出来る指導者の能力。

そのことが求められていくのです。


学習の充実ぶりは、子どもの態度をみればダイレクトに感じ取ることが出来ます。

学習が終わっても、席にしがみついて離れようとしない小さな子ども、

抱きかかえるように教室が出ると、私の足をからめて、離れようとしない子ども、

家でも学校でも書いたことのないようなていねいな文字を毎回書いて、ご家族をびっくりさせるl子ども、

モニター画面を見ながら、我が子が何十分も集中して生き生きと学習する姿を見て、涙を流しているお母さん、


どれだけ豊かな学習が子どもの自尊心を育み、計り知れないエネルギーを生み出していくことか?

この年末、転勤で東京や仙台に転校した小学生の子が、帰省を機に、1時間だけですが私のレッスンを受けに来てくれます。


学習は単なる内容の記憶ではなく、命を育む活動そのもの、

そう私は信じているのです。






知的能力を育むごっこ遊び

 2018-12-26
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私はほとんど毎日、子どもとお買い物や料理、トミカのおもちゃを使ったパノラマなどのごっこ遊びを楽しんでいます。

ごっこ遊びというのは、目の前のものだけでないイメージの世界を楽しむ活動です。

楽しく主体的なその活動を通して、みるみる子どもは表象的な思考力を培っていくのです。


頭の中で描かれたこうしたイメージは、さらに動作や言葉に発展して、コミュニケーションのツールとして活用され、言語性や社会性を含む知的発達の基幹となっていくのです。

また後々大切になってくる数や言語の感覚も、この時期に育っていきます。


2歳には2歳の、3歳には3歳の発達にとっては欠くことの出来ない課題があるのです。

プログラムに基づき、計画的・系統的に育てて行く教育の軸は不可欠です。

だからこそその一方で、内発性の高い子どもの遊びの中にこそ、もう一つの子どもの大切な育ての軸があると、私は思っているのです。



判断・記憶のメカニズム

 2018-12-25
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先日大学で、学生さんたちに判断や記憶のメカニズムについて伝えました。

私は現職の保育園園長であり、発達にかかわる実践者ですから、論理だけでなくて、出来るだけ実践現場での子どもの姿やエピソードを添えて話すように心がけています。


就学前の子どもの学習は、短期記憶(ワーキングメモリー)の範囲内で行われることがほとんどです。

そのワーキングメモリーで処理される内容も、言語化・符号化されたものと、感覚的なものとが混在されています。


直接目に見えたり、耳に聞こえたりする刺激が、活動が発展充実していくにつれてイメージや想像がふくらみ、だんだんとその内容に言語が添えられてくるようになります。

子どもの内発的な遊びを通して、知的発達がダイレクトに促進していくわけです。

小さい子どもの好奇心や向上心は、大人のそれとは比べものにならないくらい旺盛です。


小さい子どもは、当初泣いたり抵抗感を示すことも多いです。

ですが、そんな子ほどレッスンを重ねるにつれて、走り込むようにレッスンにやってきたり、レッスンが終わってもなかなか帰ろうとしなかったりするのです。

知的に遅れのみられる子は、学習そのものが嫌いなわけでなく、内容がかみ合わないそのもどかしさが嫌いなだけなのです。


その子の特性や脳のメカニズム、

発達段階や認知処理にあわせた内容を構成すること、

これから伸びようとする子どもの願いにそった学習、

その形はきっと、その子の心の根元でしっかりと息づいているのです。





育ての本質

 2018-12-06
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今週末にクリスマス発表会があります。

秋の運動会に続いて、このクリスマスの発表会では、歌やオペレッタなど、文化的なものが活動の中心となります。

0歳児クラス、1歳児クラス、2歳児クラスそれぞれに、こうした活動を通して随所に大きな成長が見られました。


言語・空間認知・コミュニケーション・協応運動・集団活動・社会性・協調性・・

発達にとっては、他では替えることのできない大切に感覚が、こうした活動を通して身についていくのです。


むずかしい言葉や数値を並べ立てただけでは、子どもは育ちません。

毎日暮らす生活の中の、日々のこうし保育活動の積み重ねがあってこそ、そうしたことが生かされていくわけです。


こうした基盤を、すべての子どもに、等しく豊かに育てていきたい。

それぞれの子らしさの光る、弾むような活動、

育ての本質は、きっとそんな所にあるものです。



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