師を師として仰ぐ
2017-07-31



今日は、今年から広島文化学園大学に異動された眞田先生のもとに、広島市まで伺いました。
大学は、岡山から高速で約2時間、広島市の高台にありました。
来年2月に発表を予定している研究会での演題について、ご指導をいただくことが第1の目的でした。
内容については、相変わらずも妥協のない厳しいご意見をビシバシといただきました。
同じ大学の先生方にも、私のことを紹介してくださいました。
いつもながら、この先生の研究に対するほとばしるような情熱は、一体どこから湧いてくるのでしょうか、
当然そうだと覚悟していましたが、大学を変わられても、その姿勢には微塵のぶれもありませんでした。
夕方前まで研究室でご指導をいただいた後に、大学から15分ほど離れた、さらなる高台にある 「天空の喫茶店」 にお連れいただきました。
初老のご婦人がお一人で切り盛りをされているお店でしたが、まさにこの世の別天地、
まるで時が止まったかのごとく、豊かで潤いのある時間を共有させていただくことが出来ました。
きっと来年もまた、ここを訪れることになるのでしょう、
私は、心から師と仰ぐ先生が、ずっと自分の心の中にいることを、何よりも幸せに感じているのです。
相変わらずSHINOBUちゃんは、奥さんの手のひらの中で踊らされているね、
先生は、私の顔を見るたび、いつもそう言います。
そこそこの実践を積み重ねいないでいて、どうして笑顔で先生にお会いすることが出来るでしょう、
来年2月の研究会もさることながら、次の学会発表に向けたまた新たな課題もご提案いただきました。
エビデンスのない、いい加減なものを積み重ねていると、きっと大切なものを見失っていく、
だからいつも、科学的に実証できる何かにチャレンジしていきなさい、
この先生なくして、今の私など到底どこにもありはしません、
どこにいても、何年経っても何も変わらぬ師弟の絆
教育の神髄は、きっとこんなことにあるのです。


夢をもって学ぶ
2017-07-30

私が就学前からサポートさせていただいている女の子が5年生になりました。
低体重での出生ということで、小さい頃はご家族がとても心配をされていました。
通常学級での学習なんて、とんでもないと、療育の先生に指摘されたこともありました。
小学校に入学してからは、その子は元気いっぱい、
お友達と一緒に、生き生きとした学校での学習を積み重ねて行きました。
特に漢字学習には熱心に取り組み、50問テストで何度も100点を取ったり、漢検も級を上げて合格するほどになりました。
都道府県名も、その形を見ただけで百発百中、
絶対音感も完璧で、私にはできないパフォーマンスも次々に見せてくれるようになりました。
先日この女の子が、近くの私立の中学校に見学に行ったそうです。
その子は一発で、その中学校が気に入ったようで、しっかりと勉強して、絶対この中学に入学したいという気持ちをもつまでになりました。
まだ5年生ですし、この中学校とご縁がつながるかどうかは、全くの未知数です。
私は、お母さんのご相談を伺いながら、もしも本当にそうなったら、どんなにすばらしいことだろうかと、期待に胸がいっぱいにふくらみました。
数年前に、この子がアンパンマンのパズルがうまく出来ずに、泣き出した日のことを忘れることはできません。
あの日、この子が数年後、私立の中学校を受験を検討しようかというほどに、成長する日が来ることを、一体誰が予想すること出来たでしょうか?
希望をもって学ぶこと、
夢をもって学ぶこと、
その美しさや喜びを、教えてくれたのは一体誰でしょう。
価値ある何かに向かって歩み続けること、
子どもにとっての学びは、生きることそのものであると、私は信じているのです。


つながるということ
2017-07-29

新大阪教室に通ってくれている2年生の男の子が、お父さんのお仕事の都合で、この夏に仙台に引っ越すことになりました。
新大阪の教室が出来るまでは、ずっと大阪から岡山まで通ってきてくれていました。
あの頃は、50㎡にも満たない小さな2階建ての建物で、文字通り手探りでの実践を始めたのですが、関西方面からたくさんの方が次から次へと訪れてくださいました。
これでは申し訳ないと、新たに作った新大阪の教室も、今年でもう4年目になりました。
冬休みには、また仙台から来ます。
この日お母さんは、そう言って教室を後にされました。
そう言えば、これまでにも、お父さんのお仕事の関係で、ここを卒業していった子もたくさんいます。
入会当初は様々な課題に向き合っておられた子が、3年5年と過ごすうちに、見違えるように成長して、晴れやかな顔でここを巣立っていった子もたくさんいますし、その頃は夢のまた夢で会った一般高校への入学を成し遂げここを卒業した子も、一人や二人ではありません。
そんな子が、時々忘れたように、私を訪ねてきてくれることがあります。
この仕事をしていて、何よりもうれしい瞬間がそこにあります。
「何年経っても、先生は全然変わらない」
ほとんどの子が、口をそろえてそう言います。
立場がどんなに変わっても、私のいる建物がどんなに変わっても、私自身は本当に何も変わっていないのだと思います。
私のこの軸は、変えたくても、もはや変えようがないのです。
2学期になったら仙台に行くこの子に、いったいどうような出来事が起こるのか、予想することは出来ません。
でも、この子と私とが、学びを通して積み上げてきた大切なことは、何年経っても何十年経っても、きっと何も変わりはしないのだと、私は確信しています。
あなたたちが帰ってくる場所の扉を、私は決して簡単に閉ざしたりはしません。
先生は、まだたくさんの子どもたちに勉強を教えているの?
そのことが本物であることを示すためにも、君たちとずっとつながっていくためにも、私は生涯この道を歩み続けていくのです。


私が伝えたかったこと
2017-07-27

今週の月曜日に、就実大学での 「障がい児保育Ⅱ」 の演習・講義が終了しました。
すべての子どもの豊かな育ちや学びに寄与できる実践力の育成
論理だけでなく、実践に根ざした保育技術や理念の習得
保育実践者としての誇りや使命感の昂揚
将来直接子どもの育てにかかわる実践者であることを前提にし、こうしたことを私自身の目標に据え、大学教育での学びの形を模索する毎日でした。
私はこれまで、多くの子どもたちやそのご家族の願いや期待を背負いながら その歩みを積み重ねていきました。
その願いの代弁者として、将来子どもの育てに直接かかわる若者へ、その大切なことをしっかりと伝えていく責務があるのです。
大学教育という枠にあっては、その経験不足、力量不足は否めません。
ならば自分らしく、実践現場のライブみたいなスタンスで、その若者たちと一緒に、豊かな子どもの育てを見つけていきたいと考えました。
この日行った最終試験、
彼らにとって私と過ごした1コマ1コマの学習は、彼らの目には、いったいどのように映っていたのでしょうか?
願わくはそのことが、何らかの形で、これから現場で活躍していくためのエネルギーになればと願わずにはいられません。
日々の業務の間にあっては、多少の負担感がなかったかと言えばうそになります。
日曜日の大阪でのレッスン合間には、必死でその準備を準備に追われる毎日でした。
でも、やってよかった。
学生さんたちに力がついていることが、何よりの目標ではありますが、自分自身の力量を増していくためには、またとないよい機会になったことは、間違いないことだと感じています。
また秋からは、1年生の学生さんと一緒に 「障がい児保育Ⅰ」 の学習を進めていくことになります。
私のあとを継いでくれるような、若者と出会うことができるのでしょうか?
目標は一つ、その道は百万
これからも自分自身のライフワークに向かって、様々なことにチャレンジしていきたいと、こころからそう願っているのです。


子どもの感性
2017-07-26


今日、白ゆり小規模保育園に来てくれている子のお母さんが、お友達のお母さんとご一緒に、保育園でバイオリンとピアノのミニコンサートを開いてくださいました。
10分にも満たない時間でしたが、情熱大陸などの2曲を、子どもたちの前で演奏してくださいました。
右端の女の子は、7月入園の0歳児クラスの子どもです。
どうですか、この真剣な表情、
もちろんこの子だけでなく、ホールにいた全員が引き込まれるようにして、その演奏に聴き入っていました。
その子どもたちの真剣なまなざしに、一番驚いておられたのが、当の演奏をしてくださったお二人でした。
先日の祇園祭りでも、音楽は人々の感性にダイレクトに響いていくのを感じていました。
「楽器は人の言葉を話すことができません。だからこそ、言葉ではない大切な何かを、みなさんの心にプレゼントしてくれるのです」
私が子どもたちにそのようなことを話した時も、まだその感動の余韻に、ホールが包まれたままでした。
非言語だからこそ通じる子どもの感性、
長年の園長を卒業され、ここの保育を手伝ってくださっている先生が、いつも子どもたちが引き込まれるように私の表情を見つめていると、とても驚かれていました。
言語は最も大切なツールの一つではありますが、大切なのはその手段ではなく、通じ合う中身そのものなわけです。
言葉に置き換えられないからこそ大切なこと、
バイオリンとピアノを通して子どもの心に響く大切な何か、
子どもと演奏者と、教育を通して結び合う保護者との信頼の絆、
今日のコンサートからも、私たちは人として大切なことの何かを、しっかりと受け止めることが出来ているのです。


桑名の子ども
2017-07-18


7月17日、午前中京都で祇園祭を心ゆくまで堪能させていただいた後、その足で三重県桑名市へ訪問させていただきました。
今から数年以上も前に、名古屋市で講演会をさせていただいたことがご縁で、それ以来何人かの子どもが岡山・京都・新大阪のそれぞれの教室にずっと通い続けてくれているのです。
名古屋市からは、南西へ快速ならば1駅、30分足らずで伺うことが出来ますが、ここから毎月毎月京都や新大阪の教室に通ってくださっているのですから、道中特別な思いが何度もこみ上げてきました。
桑名駅に着くと、改札口に4人の子どもたちと2人のお母さんが出迎えてくださいました。
駅の階段を降りる私を、下からのぞき込むようにして迎えてくれた、くりくりとしたその目に、思わず吹き出してしまいそうでした。
最初にご案内していただいたのが、 桑名駅に近い 「照源寺」 という松平家の菩提寺でした。
普段はお父さんとして接しているご住職に、桑名の歴史や文化について、たくさんのことをご説明いただきました。
まさに圧倒的な文化財、そしてその存在感
桑名の地で、これほどまで格式の高いお寺にご縁がつながっていることに、私自身が何だかとても誇らしくもなり、ありがたい気持ちでいっぱいになりました。
ご住職と一緒にお茶をごちそうになっている間も、子どもたちはずっとハイテンション、
何がそんなにうれしいのか不思議に思いましたが、ずうとずっとしゃべりまくりで、私と過ごす時間が楽しくてたまらないといった風でした。
お茶をいただいたあと、その子たちが学ぶ2つの小学校にご案内いただきました。
それぞれの子が、自分が学ぶ小学校について誇らしげに説明をしてくれ、やはり学校は子どもにとっては他で代えることのできないスペシャルな存在であることをかみしめました。
夕食時にはご覧の通り、全く期待を裏切らないぷりぷりのハマグリの登場です。
桑名のハマグリは、他地域のものとは異なり、大きな3つの河川の恵みを受けたこの地域でしか食せない特別なものです。
シーズンとしては、ギリギリ最後の時期ということでしたが、まるでビー玉のようにこんなに盛り上がったハマグリは、60年近く生きてきて一度もお目にかかったことはありません。
焼きハマにしても、酒蒸しにしても、素材そのもののおいしさが引き立つ絶妙の料理を堪能させていただきました。
ご住職のご夫婦と、これまた格別の冷酒を何杯も何杯も重ねました。
そして、残念なことにお仕事の都合でご主人にはこの日にお目にかかることが出来ませんでしたが、あの名古屋での講演会に足を運んでくださり、こうしてたくさんの子どもたちのご縁を結んでくださいましたお母様に、これでもかという位あたたかくも身に余るおもてなしをしていただきました。
私たちは今、どんなご縁でここにいるのか、
おそらくは、人生の中で、本当はそう何度もないかも知れない至福の時間の共有、
その夕食時も、子どもたちは弾むような時間を、共に過ごすことが出来たのでした。
桑名駅まで全員で見送っていただきました。
私の姿が見えなくなるまで、子どもたちは千切れんばかりにその小さな手を振り続けてくれました。
いただいたお土産の紙袋の中には、子どもたちが一画一画心をこめて書いたであろう、お手紙が添えてありました。
桑名に足を運んで本当に良かった。
6年生の男の子は、「先生、桑名に教室を作ってください」 と何度も何度も言ってくれました。
この子たちが、私に託す思いとは一体何だったのか?
その答えを私は、子どもたちの豊かな学びという形で、これからもしっかり返していきたい、
その為すべきことがあるということが、私の何よりの幸せ、
きっと私には、それしか出来ない、
何があっても、そのことにチャレンジし続ける自分でありたい、
最終の新幹線の窓に反射した私の横顔は、この日ばかりは、いつになく紅潮しているふうに見えたのでありました。


祇園祭
2017-07-17

土日の新大阪でのレッスンを終え、この日は京都の祇園祭へと向かいました。
普段は並ぶのが大嫌いな私ですが、この日は早起きして、7時半には四条にある御旅所に着きました。
そこからご案内までの1時間半ずっと列に並んで、そのときを待ちましたが、いただいた席は最高のロケーションで、1番の長刀鉾から始まり、23番の船鉾まで一度も席を立つことなく、すべての山鉾巡行を堪能させていただきました。
十年近くレッスンに伺って、こうした機会は初めてのこと、
まさに私にとっては生涯目に焼き付いて離れない、一生分の京都の伝統にふれた思いになりました。
亡くなった母の書斎には、こうした日本の伝統文化にかかわる書籍が山積みになっていました。
理屈や言葉では表すことのできない何かの魂が、ダイレクトに私の心を揺さぶっていくように感じていました。
私には、子どもたちとのレッスンがあればこそ、こうした機会をいただくことが出来たわけです。
何百年経とうが変わらない大切な営み、
どんな時代にあっても、ずっと受け継がれていくもの、
私は教育者として、この日この場所にいることに、何か特別な思いがこみ上げてきたのです。


もっこす
2017-07-14

昨日、教え子が板前をやっている居酒屋に行きました。
どうやらちょうど30年ぶりの再開だったらしく、私の年齢も58歳とぴったり覚えてくれていたのには驚きましたが、それより何より6年生ならいざ知らず、3年生の担任だった私にこんなに特別な思いを寄せてくれていたことを、本当にうれしく感じました。
「先生は、破天荒」
その子は、私のことをそんなふうに表現してくれました。
「先生に会ったら、泣くかもしれません」
どちらかと言えばおとないいタイプの子であった彼が、そんな言葉で私にその気持ちを伝えてくれました。
破天荒でなければ、大学院に行って教員をやめる、みたいなことは決して出来なかったに違いありません、
当時から、学級づくりはダイナミックなことばかりして、学年団の調和がとれないと、ベテランの先生を困らせてばかりでした。
しかしこの子たちが6年生になって、校長先生に6年間の一番楽しい思い出を尋ねられた時に、修学旅行でも運動会でもなく、3年生の私のクラスでの学級活動のことを話した子が何人もいたということを聞きました。
先生は若い、肌がきれい、
30年ぶりに会った教え子の男の子に肌がきれいと言われても、笑うしかありませんが、きっとそれはあの頃と子どもに対する姿勢が全くぶれていないからに違いありません。
30年ぶりに会うということですから、この子の年齢も40歳になるのです。
結婚して2人子どもがいますというこの子の話の中から、今の私が、この子のお子様のことで何か役に立てることがあればと願っているのです。
居酒屋は、熊本料理の専門店で、とてつもなくうまい馬刺しをご馳走になりました。
58歳になって、馬刺しというものがこんなにうまいということを初めて知りました。
もっこすというのは、熊本弁で筋を曲げない男の信念を示す言葉であることを知りました。
この先、何年経とうが、何十年経とうが、私が子どもに向き会う姿勢に変化があろうはずはありません。
30年経って、心の芯について何も変わっていない自分だからこそ、この子は私に連絡をしてくれたのだと思っています。
また早い時期に、この子と一度飲みも行きたいし、次回は早めにぼたん鍋をいただきたいと思っています。
以前勤めた小学校と同じ地に居を構えたことにより、こうした幸せな出会いも広がっていく、
教育界における岡山のもっこす、
何があっても、私は目指す道を曲げたりはしない、
私はそれで充分です。


母の執念
2017-07-13

実践者の仕事を続けたいなら、管理者の仕事が一人前に出来てから…
それが職業人として、今の自分に課せられたテーマであると考えています。
保育園の園長の仕事も、いまだに不慣れなことが多く、書類1枚書くのにも悪戦苦闘の毎日です。
ようやく毎月のルーティンがつかめ、ほんの少しだけ見通しがもてるようになってきました。
それでもまだ、保育内容そのものについては様子見の段階で、これから自分らしさをどう保育内容に役立てていくかを模索しているといったところです。
こうした状況で、私の個別レッスンをご希望くださる方がいます。
実践の仕事は楽しいですが、管理者としての仕事に得心のいっていない状況では、以前のように安易にお引き受けすることが出来にくくなってしまいました。
そんな中、私のスケジュールにねじ込むようにレッスンをご希望くださった方がいます。
安請け合いをするわけにもいかず、回数やら時間やら、かなり制限させていただきましたが、それでもということでしたので、お引き受けすることにしました。
それまでは、新しい環境が苦手で、行動のコントロールがとりにくいタイプのお子さんだと思っていました。
しかし、何回かレッスンをさせていただいているうちに、書字などのアウトプットの部分はやや雑な傾向がみられるものの、読字や判断の部分は、結構イケていることがわかってきました。
行動面についても、手立てや環境を整えさえすれば、集中して学習に取り組むことができるようになってきました。
また、学習内容がかみあっていくうちに、私とその子の間に、次第に信頼やらコミュニケートやら、大切な関係が培われていることを感じ始めました。
いつの間にか、離席もなくなり、時間いっぱい学習に集中できるようになってきました。
ここに来てやっと、このお母さんが、なぜそうまでして私とのレッスンをご希望されたのかが、わかってきました。
この状況は、すべてこの母の熱い気持ちなくしてあり得たことではないはずです。
まさに母の執念、
私のレッスンは、こうした気持ちの上に成り立っていることを、ずっしりと受け止めなければならないのです。


ここから向かう先
2017-07-04

今日は、赤ちゃん体操の日で、たくさんの子どもたちが、発達支援センターで来てくれています。
この4月から、私の仕事にかかわる環境は大きく変わりました。
予想以上に大変だったことや、思った以上に順調に進んだこともありますが、それから3ヶ月が過ぎ、ここに来てやっとそれぞれのことが落ち着き始めました。
仕事の拠点は、郊外から市内中心部へ移りました。
ご縁のある3つの大学まで、車で行けばすべて10分以内で行くことが出来ます。
駅に近いので、大阪へ行く利便性も高く、こども園や発達支援センターへも15分で行くことができます。
今から30年前、私は、小学校の教員になって初めて受け持った3年1組の子どもたちのことを、今でも忘れることが出来ません。
それと同じように、園長となり、今私の保育園に通ってくれている子どもたちのことが、かわいくて仕方がありません。
園長さんにも、きっと色々なタイプがあることでしょう、
それぞれの事業所で、直接子どもたちのレッスンを担当させていただくことだけは、これからもずっと変わりません。
きっと他の園長さんが、当たり前にしているようなことは、私にはできません。
この環境で、今の私がすべきことが何なのか?
ならば、それに応えていくことが、私の役割、
私に与えられた役割と使命、
たとえそれが、どんなに小さな1歩であろうとも、これからも真心を込めて、自分の道を進んでいきたいと願っているのです。

