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母の命 ②

 2016-12-31
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12月28日に仕事を納め、29日と30日は母の眠る広島県三次市東川内町、そして母が晩年過ごした広島県府中市上下町に伺いました。


母が生まれた家庭は、代々続く上級武士の家庭であったそうです。

先祖代々の大きな墓と共に、歴史を刻む幾多の武家の墓がありました。


母の生まれた時の写真を一枚見せていただきました。

真ん中の祖父に抱かれた母の姿がそこにありました。

祖父も祖母も母も、美しい姿で写真に映し出されていました


裕福な旧家に生まれ、秀才であった反面、祖母が祖父と離婚したことをとても恨んでいたと聞きました。

今回案内をしてくれた叔父は、その母の再婚後の弟で、母が老後を迎え、ケアマネさんから連絡があるまで母との付き合いは一切なかったのだそうです。


その後、府中市上下町にある母の終の棲家を訪ねました。

部屋の中のほとんどは、書籍や絵画などで埋め尽くされていました。


パソコンが数台ありましたので、そのすべてを開いてみました。

データのほとんどがエクセルで、仕事以外にパソコンを使っていた形成はありませんでした。

内容のほとんどは経理や総務が中心でしたが、それはすべて幼児教育やその研究・イベントにかかわるものでした。


私が自分の車に荷物を取りにいくと、ちょうどお隣に住むご家族が出かける途中でした。

ずいぶん母と仲良くしてくださっていたと聞いていたので、ご挨拶をさせていただきました。

息子夫婦とそのおばあちゃんだと思われましたが、そのおばあちゃんは、「君子さんに、こんなりっぱな息子さんがいらっしゃとは思いもせなんだ」 と、目に涙を一杯うかべておられました。


母の家には半日以上滞在し、アルバムなどないかと探しましたが、それとおぼしきものは見つかりませんでした。

初めは何か遺品になるようなものをと探していましたが、途中からもうそういうことはやめようという気持ちになりました。

それよりも、50年にも長きにわたり、東京で一緒に仕事をさせていただいていた研究所の方にできるだけ早くご挨拶をして、もうこのことには早めに終止符を打つことにしました。


叔父さんは、現職の町議会議長ですから、この時期に丸一日私のためにお時間を作るのも、至難であったに違いいありません。

叔母様もずっと一緒にいてくださり、母が恵まれた最期であったことに安堵し、感謝の気持ちで一杯になりました。


一日の予定を終え、叔父が私が車を置いていた世羅町の道の駅送ってくださるその途中に、曇り空の向こうから天空の半分もあろうかという大きな虹が、私の視界の真ん前に広がっていました。

私はもう何も迷わない、

私のこの手も、この足も、この口も、すべてはこうしたつながりの中から生まれたもの、

母が母であったからこそ、私は私でいられる、

だからこそ私は、この目で前を向いて、これからもしっかりと自分の道を歩んでいくことができるのです。





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「僕は生まれてから 母が泣いたところを見た事がない」

 2016-12-26
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「SHINOBU先生がそばにいるから、私は鬼になれる」

今からもう7~8年前のことになるでしょうか、私はあるお母さんから車の中でそんな言葉を聞きました。


当時小学生の、ダウン症の女の子をおもちのお母さんでした。

神奈川県にお住いの方でしたが、当時私はその思いに導かれるようにして神奈川まで出張レッスンに伺っていました。


初めてお会いしたのは、私が研修で出かけ千葉県舞浜のホテルのロビーでした。

ダウン症の女の子、お父さん、お母さん、そしてまだ小学校に上がる前の弟さんが、わざわざ私の研修先のホテルまで訪ねてくださいました。


その日のことを、私はまるで昨日の事のように思い出すことができます。

(当時のブログです → http://shinobu1.blog117.fc2.com/blog-entry-398.html )

今では秦野にレッスンに伺うことはできなくなってしまましたが、それでも私が東京へ出張などで伺った際には、会ってその子の成長ぶりにふれることができました。


当時まだ小学校に上がる前だった弟さんは、今中学2年生になっていました、。

その弟さんが、ダウン症のお姉さんのことを書いた作文が、第40回神奈川県福祉作文コンクールで県知事賞を受賞されました。

そこには、「僕は生まれてから母が泣いたところを見た事がない。今までたくさん泣いたから、どんなことがあってももう泣かなと決めたらしい」 という一文が書かれていました。


今では高等部に通うその女の子は、光輝くステキな娘さんに成長していました。

そして、その弟さんも、空手の全国チャンピオンでありながら、こんなにも豊かな心をもった立派な青年へと成長されていました。


その作文を以下に掲載させていただきます。

今でも年末には、いつもカレンダーのプレゼントを私に送ってくれます。

今日もお礼の電話を差し上げながら、この母の何がこの子たちの心に宿っていったか、私は自分の胸が熱くなるのを、どうしても抑えることが出来ませんでした。





僕の姉
秦野市立南中学校2年  伊藤 大地

 皆さんはダウン症という障害を知っていますか。
 僕が小学校に入学する少し前に、初めてお母さんと二人だけで遊びに出かけた。どこに出かけたのかは覚えていないが、最後にファミレスでご飯を食べた。その時、僕の姉がダウン症という障害があると聞かされた。当時の僕には難しい話だったが、僕が小学校に入学したら姉の事で嫌な思いをするかもしれない、でも誰も悪くないから堂々としなさいと言われた事は良く覚えている。
 小学校に入学して、姉の学年の男の子から「こいつの姉ちゃん、ちゃんとしゃべれないんだぜ」とからかわれた。その時何も言い返せなかった。僕が二年生になった時姉はクラスでいじめられて学校に行けなくなった。二週間も女の子に蹴られていたり、ひどい事を言われ続けて、身体がおかしくなってしまった。学校が怖いと言っていた。やっと姉が学校に行けるようになっても僕は気になって、学校に着くと姉の教室をのぞきに行った。そこにはいつもお母さんがいた。僕が幼い頃からお母さんが「心の強い人になりなさい」と言っていた意味が少し分かった。学校だけじゃない。家族で出掛けた時には、姉をジロジロ見られたり振り返られたり、指を指されたりする。姉は何も悪くない。僕達の様に障害が無く生まれてきた人でも苦手な事だってあるし、皆んなと同じに出来ない事だってあるのにひどい人が沢山いるのが悲しかった。
 小さい頃の姉は具合が悪くなると入院する事が多かった。全身の筋肉が弱くて僕達が簡単に出来ることでも、姉にとっては大変な時が沢山ある。そんな大変なことが僕にもわからなくて、行動が遅くてイライラする時もあるし、根性のある頑固になる時は頭にくる。障害が無く生まれてきた兄弟でも、そんな風に思う事はあると思うし、兄弟げんかだってする。姉は、やると決めた事は必ず頑ばり張り続けるし、我慢強い。人の悪口も言わないし、人の良い所を見つける。いじめられてもすぐ許す事が出来る。何でも前向きに考えるし、挑戦する勇気もある。毎年僕の誕生日に、頑張って作った手作りのプレゼントをくれる。こんな良い所がある姉なのに、なぜ皆んな冷たくするのか悔しくてたまらなかった。
 ダウン症は姉が病気になったのでもお母さんが病気になったのでも無く、千人の赤ちゃんに一人の確率で生まれてくる障害だと聞いた。もしかしたら、僕がダウン症で生まれる可能性だってあったはずだ。姉が千人の代表になって生まれただけなのに、それが分からない人が大勢いる。
僕のお父さんは姉を障害児として特別扱いはしない。悪いことをすればすごく怒るし、良いことをすればすごくほめる。
 母は姉の障害を知った時に、ショックが大きく毎日泣いて一年以上家からほとんど出られなかったそうだ。それでも父はどこにでも姉を連れて行ったと聞いた。すごいと思った。僕は生まれてから母が泣いたのを見た事がない。今までたくさん泣いたから、どんな事があってももう泣かないと決めたらしい。
 そんな両親で良かった。そんな両親だからか、姉を障害児学級で過ごす事を選ばなかった。小学校も中学校も通常のクラスで姉は過ごした。姉は友達と楽しく過ごす事が嬉しくて、自分の出来ることを頑張り、僕より勉強をしていた。でも、毎晩遅くまで姉のためになる事や法律を調べたりしていた母が、姉にひどい事を言う人にも、頭をペコペコ下げていたのが嫌だった。障害者として生まれただけで、皆んなと同じクラスで過ごすことがこんなに大変なんておかしいと思った。僕も悔しかった。皆んな同じに過ごさなければ解ってもらえるはずがないと思う。車椅子の障害のある人などは、どんな事に手を貸してあげられるか解りやすいと思う。でも、ダウン症の人はそれぞれ僕達と同じに違っていて、手を貸してほしい所も違っている。だからこそ、もっと皆んなが障害を理解してその人自身を知る事が大切なんだと思う。障害のある人ない人を分けないでほしい。僕達皆んな、命の重さは同じなんだから。













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母の命 ①

 2016-12-21
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先月末、広島家庭裁判所福山支部から1通の封書が届きました。

何だろうと思いながら封を切ると、そこには50年前に生き別れとなった母の 「遺言書検認期日通知書」 が入っていました。


昨日、福山市にある家庭裁判所に伺いました。

時間通りに会場に案内されると、そこには裁判官、書記官、遺言にかかわる申立人の方がいらっしゃいました。


申立人は広島県内のとある自治体の現職の議長をされている方でした。

裁判官が、また開封されていない遺言状を前に、この遺言が書かれた経緯について申立人に質問をされました。


私は、今回の遺言は、てっきり母が地域で信頼のおける方に生前に託したものであると考えていましたが、申立人様が質問に答えていく中で、その方が母の弟であることを知り、大変驚きました。

わが娘は別として、私にはこれまで血のつながった親類縁者はいないものと思っていただけに、叔父様にあたる人物が目の前にいることに感激し、ましてやそのおじさんが議会の要人として活躍していることを誇らしく思いました。


限られた時間ではありますが、母の晩年最期のようすを、お伺いすることができました。

事実を直接確認したわけではありませんが、母は私を岡山に残したあと、東京の出版社で働き、以後齢80になるまで現役として働いていたと聞きました。

しかも、それが保育関係の書籍であったと知り、万感の思いがこみあげてきました。


自宅の部屋の中にはパソコンが3台あり、まるで図書館のような仕事部屋であると聞きました。

とても頭の良い人で、仕事の鬼だったようにも伺いました。

叔父様の口から出る幾つかの生前のエピソードを知る度に、今の私の仕事ぶりや価値観・物の考え方とそのことのほとんどが見事なまでに重なり、まぎれもなく私のDNAがここにあるのだと思いました。


私の家内も,叔父様の奥様も一緒に家庭裁判所に来ていましたが、会場への同席は許されませんでした。

私の家内が保育園の園長をしていると伝えると、目を丸くしてとても驚いておられました。


出来れば年内に墓参りをして、母の仕事場を見せていただいたいとお願いをしました。

こんなに近くに住んでいたのなら、ただの1年であってもよいから連絡してもらって、親孝行をしたかったという気持ちがないわけではありません。

わが子を捨てた母の思いが、一体何であったのかをもう直接知ることは出来ませんが、今の私には母を恨む気持ちなどかけらもなく、80歳まで現役でったという母に、少しでも近づいていけるように実践者としての道を突き進んでいきたいという思いが、あふれる水のごとく心の中に湧き上がっていくのでした。


きっとこれから、母のゆかりの場所を訪ねていく機会が続くことでしょう、

そしてそのことが、私の中で、とてつもなく大きなモチベーションとなっていくのは間違いのないことでしょう、


神様は、私の人生に何をお与えになったのか、

私は一人ではなかった、

この日をもってして、母の命が私の心にしっかりと宿ったのです。


これまであったやりきれない私の迷いはもはや霧散し、その行く先に、母の背中がはっきりと見えるように感じています。







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経験をつなぐ

 2016-12-19
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私が、初めて直接就学前のお子様の個別レッスンをさせていただくようになってから、まだ10年くらいしか経っていません。

それまで、特別支援学級も含め教職経験は20年以上ありましたが、小学生以下の子のレッスンについては、当時の私にはほとんど経験がなかったわけです。


今から考えると、技術的にはお恥ずかしい限りの内容であったはずですが、それ以上にご家族の皆様の期待感が強く、全国各地へ出張レッスンに出かけた時期もありました。

それからは、年間2,000とか3,000とかという、おそらくは普通では考えられないようなマンツーマンレッスンとしての臨床経験を、10年近くにわたって積み上げることができました。

自分自身は、まだまだ道半ばの未熟者だと思っているのですが、それでも私と同じような経験を誰かに積ませるなんてことは、二度とできないことだと考えています。


昨日も一昨日も、私は大阪でいくつかのレッスンを行いました。

毎週毎週新幹線で大阪にいくことも、土日だけのために家賃や備品などの経費をかけることも、平日フルタイムで働きながら土日にも働いていることも、所長でありながら一向にレッスンから身を引こうとしないことも、私にとっては日常ですが、一般的にはきっと非常識であるに違いありません。

だとすると、その非常識な実践の中から培った経験は、たとえそれが自分にとっては道半ばのものであっても、これから育つ先生方には、大切なことは伝えていかなければならないと思うようになりました。


今岡山で、私と一緒にマンツーマンレッスンを担当してくれている先生は、以前私が教えていた子どものお母さんです。

本館が出来、定員が増えることを知り、「便所掃除でも何でもいいから、ここで働かせてください」 と、職員募集に応募してくれました。


教育現場での経験が豊富というわけではありませんでしたが、自身の子どもの学習について、小学校1年生の時から心を砕いて取り組んでいたことは、誰よりも知っているつもりでした。

今ではその子は、当時の課題を見事に乗り越え、一般の高校に入学し、成績も学年でトップクラスだと聞いています。


「その経験を、これからは1人でも多くの子どもたちの成長と幸せのために生かしてください」

私はそう言って、このお母さんを職員として採用させていただきました。


経験不足もあって当初は何かと苦労も多かったように思いましたが、控えめでありながらその信念に揺るぎはなく、その技術や態度は、いつの間にか見違えるようになってきました。

あの先生に教えてもらうことを、うちの子はすごく楽しみにしています、

そんな声を、たくさんの利用者のお母さんからお聞きするようになりました。


その先生が、金曜日にお子様の懇談で年休をとりました。

その先生が前回担当した子は、この日は私が担当することになっていました。


さて、今日はどんな教材を作ろうかなとボックスを開けてびっくり、

当日の教材が、画像のようにきちんと整理して用意されていました。


この先生は、子どものレッスンを担当するだけでなく、請求や契約など事務のほとんどを直接担当してくれています。

うちの事業所は、一般の事業所の4倍の利用量がありますから、その事務量は膨大です。

一体どこにそんな時間があったのだと、驚かずにはいられませんでした。


よく考えれば、私が表舞台でたくさんのレッスンをこなすことができるようになったのも、この先生の存在あればこそです。

以前は、大阪に行く前日は、教材作成に夜中までかかっていましたが、今では岡山のレッスンが終われば、すぐさま新幹線に乗り大阪にいくことができるようになりました。


私が何千、何万という臨床実践から得た経験は、こういう先生の成長のために生かしていかなければならない、

それが私の次の仕事。


芸の奥義は、弟子入りしなければ身につくものではありません。

4月からは、また新しい教室も開設されます。

その志のある先生との出会いを、これからもずっと楽しみにしているのです。






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子どもの心の根元にあるもの

 2016-12-17
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私は、学級担任として小学校の現場に20年以上、その後個別指導の実践者として10年の臨床経験があります。

またその間、当時の国立特殊教育総合研究所に内地留学に行かせていただいたり、大学院の修士課程で特別支援教育を学ばせていただきました。


重い課題を背負いながらも、懸命に命を輝かせている子ども、

人から見れば、ほんの小さな出来事に、途方に暮れて身動き出来ない子ども、


こうしたたくさんの子どもたちとの出会いを繰り返す中で、いつの間にか私の教育観の根底に、「すべての子どもの行動の源泉は、生存・成長の欲求にある」という考えが広がっていきました。

まだ、アイデンティティの確立していない子どもにとっては、成長の方向性を見失うことは、自分の生存そのものを見失うに等しいことです

突発的な子どものマイナス行動は、裏を返せばほぼ100%、自分の生存にかかわる不安と無関係ではありませんでした。


学んでいるということは、自分の成長の手応えに触れること、

自分の成長の手応えを感じることができれば、生存にかかわる不安を感じることもなければ、マイナス行動を起こす意味もないわけです。


準備のための1分1秒が待ちきれず、知育いすに飛び込んで来る子がたくさんいます

もうおしまい、といっても、学習席にしがみついて、帰ろうとしない子も、毎日のようにいます

障がいのある子どもが、勉強が嫌いとうのは、大間違いです。


もしもその子にあった学習の内容と方法が提示出来ないでいたら、勉強そのものが嫌いになるのも当たり前です

適切な愛情も技術も信念もない指導者が、子どもにこんなこともわからないのかとやったら、不適応にならないことの方が不思議です。


この子たちは、誰よりも生きることにピュアで、良質の学びを誰よりも求めているものです。

だとしたら、今すべきことが何であるのかが、私にはハッキリと見えます。


もはや私の進むべき道は、これしかないのです。






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プロの仕事

 2016-12-14
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新規の事業所を立ち上げるということもあり、今回パソコンを2台注文しました。

以前は、量販店などに行って格安パソコンを買っていましたが、今ではそういうことをしなくなりました。


量販店のパソコンは、消費者の目を引くような甘い宣伝が満載です。

一方、業務用のパソコンは、余計なソフトは一切入っておらず、同じスペックならメモリーの余裕が違います。

若干価格は高めに感じますが、プロの道具と考えると、とシンプルで基本性能の良いものでなければ、結局使い物にはなりません。


私は22歳の時から教育の仕事に就き、実践現場で35年の指導経験があります。

それでも、日々新しい発見があり、もっともっと力をつけ、改善を積み重ねていかなくてはならないことが、山ほどあります。


髪の毛をカットしても、ブロックを積んでも、大体のことは素人でもできますが、プロと同じレベルのものはなかなかできるものではありません。

ましてや特別支援の分野では、そうであって当たり前なはずです。


華やかで過度な宣伝をしているうちは、本物ではありません。

素人では出来にくい内容を、当たり前のように毎回積み上げることが出来てこそ、本物のプロの仕事、


どんな仕事でもそうですが、価格を越える満足感がなければ、次に足を運んではいただけないものです。

1人の実践者としても、チームのリーダーとしても、しっかりと研鑽をして、白ゆりを選んで良かった思っていただける方をもっともっと増やしていきたい。


それが、職業人としての意地、

私は教育の仕事に大きな夢と誇りをもっているのです。









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言語と感覚

 2016-12-13
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以前英会話のスクールに通っていた頃、英語を聴いた時に、その言葉を日本語に訳して、その訳した言葉を日本語で判断し、その日本語を再び英語に訳すようにしていました。

初級の頃はそれで何とか対応できていましたが、だんだんとクラスが上がっていくうちに、ついにはそのやり方ではどうにもならなくなってきました。

先生に、「これからは聴いた言葉は、英語で判断して、ダイレクトに英語で返すようにしなさい」 と教えられました。


それまでの入力は日本語オンリーでしたので、なかなか別の言語のルートだけ使うというのは、慣れませんでしたし苦痛でした。

しかし、前納した多額のレッスン料が惜しくて、ぼろぼろになりながらもレッスンに通い続けていると、いつだったか何となくその感覚がつかみ始め、英語の音もだんだんとしっかり聞き取れるようになってきました。


先日、幼稚園の男の子と数の勉強をしていたときのことです。

9匹の動物を数える問題が、ありました。


継次処理の子なら、1・2・3・4・・・・ と数え始めるところですが、この子はちょっと違いました。

手で動物を4と5に分けて認知し、それを映像として合成し9と答えたのです。


これぞまさしく数感覚、

これまで小さい時から何でも言語で置き換えて物事を判断してきた私としては、もっと小さい時にこうした数感覚を意図的に育ててくれる先生がいたら、どれだけ自分の可能性が広がったことかと悔しくてなりません。

逆に、私の唯一のとりえである言語感覚は、こうした同時処理系の感覚を補うための代償性の機能として、今の私の財産となっているに違いありません。


言語優位なならそれはそれでよいし、視覚優位ならそれはそれで素晴らしいことです。

きっと一方が伸びれば、片方は退化するのです。

私の場合は、言語屋さんですからそれはそれで良いのですが、その言語屋さんの営業の中に、うまく視覚屋さんの良い所を生かす、そんなアプローチが学習の中身だと考えています。


数も、順序数で処理する良さもあれば、集合数でみる素晴らしさもあるのです。

その素晴らしさを、算数の教材を通して、実感させる営み。

それが学習のダイナミズムであり、それはそっくり言葉の学習でも同じことが言えるのです。


その両方が豊かに使えるすてきな子、

いつも楽しみながら子どもと共に学び行く方向感、


数を4と5に分解して認知したあの男の子は、勉強時間が終わってもなかなか帰ろうとはしませんでした。

そりゃそうだね、先生も楽しかったし、また一緒に勉強するのが楽しみです。

きっと私は一生、臨床から抜け出せそうにもありません。






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クリスマス発表会の奇跡

 2016-12-12
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白ゆりはこの春、保育園から認定こども園へと移行しました。

そのことに伴い、これまで保育園では受けいれることの出来なかった、幼稚園が対象のお子様を受け入れることができるようになりました。


その1号認定の子の多くが、発達支援センターに通所で来てくれていた子どもたちでした。

それまでのそれぞれのクラスに、発達支援センターの子が何人も入ってくるという状況になったのです。


行政の担当者は、1号認定の中に、支援の必要な子が入ることは想定外だと言って、人的な加配も、予算的な加配もありませんでした。

それでも、発達支援センターの子は、最優先で入れるという園長の信念は変わりませんでした。


土曜日に、クリスマス発表会がありました。

秋にあった運動会も感動の嵐でしたが、室内での発表となると、正直それとはまた別の不安もありました。


あるクラスのオペレッタを見ていたときのことです。

ダウン症の子が舞台のセンターに、下手には肢体不自由の子、上手には発達障害の子が演技をしていました。


発達障害の子は、聴覚過敏の傾向があって、大太鼓の音にはマイナスの反応を見せていましたが、自分の大好きな曲になると、とたんに笑顔になって上手に演技ができていました。

ダウン症の子は、内言語は豊かですが、言語表出をクリアにすることが苦手です。

でも、一生懸命口を動かして、オペレッタのストーリーにしっかり乗っているのが見て取れました。

肢体不自由の子は、つい先日まで独立歩行がままならなった子です。

もちろん補助付きですが、他の保育園などでは考えらえない運動量で、脳の運動野にかかわるネットワークが加速的に育ち、視線や表情も見違えるように生き生きしたものになってきました。


3人とも、私のマンツーマンレッスンを受けてくれている子です。

しかしながら、もしも今年、この子たちがこども園に入っていなかったとしたら、今日のこの成長は絶対にありえなかったと私は断言できます。


ただ集団に投げ入れているだけで、それでインクルージョンにはなりません、

集団から分離して、病院や療育に行って、難しい名前の検査をすれば、それで子どもが育つのでもありません。

その双方の大切さを、子どもの特性や育ちに合わせてプロデュースし、結果を出すことこそが育ての質であるのです。


研究用にと、0歳から5歳の子までの活動のようすを動画に記録しました。

と、このオペレッタを撮影している途中で、感動して胸を詰まらせながらも、「これは大変なことになった」「とんでもないの成長の記録を手にしてしまった」「この映像を手にした者の責任を、果たして私が果たしていくことが出来るでのであろうか」 と、そんな気持ちがこみ上げてきました。


障がいのある子を何人も1号認定で受け入れて、それを無謀だと思われたり、調子のいい対応だと批判的に横目で見ていた人がいるのかも知れません。

クラス運営がパンクしてにっちもさっちもいかなくなり、ホレ見たことかと言われるリスクが無かったわけでもありません。

ですが、結果はその真逆だったと、私は感じています。


発表会が終わったあと、初老のご婦人が私の所に歩み寄り、目に涙を浮かべて深々と頭を下げて帰られました。

名前も存じ上げない方でしたが、こども園になり、新しいお友達をたくさん受け入れて、本当に良かった、

私は、心の芯からそう感じました。


私にとっては、クリスマス会の奇跡、

今年は、本当に良い1年となりそうです。






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新教室の息吹

 2016-12-07
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来春4月に開設予定の新教室のリフォームも、日に日に形が整ってきました。

少人数の教室ながら、大きな規模では出来にくい、きめ細やかなニーズに対応できる内容の提供を目指しています。


この伊島学区は、かつて私が勤務した小学校区でもあり、つい最近まで私が住んでいた地域でもあります。

この日、真新しい真っ白い壁紙を見て、ここでどんな子どもたちの笑顔で出会えるだろうかと思うと、特別な思いが沸き上がっていくのを感じました。


学びから決して軸足を外さない、専門性の高い個別支援、個別指導

それでいて、送迎サービスなどでご家族の時間的負担を軽減し、少人数のグループの中で培うコミュニケートと自己肯定の気持ち

その双方を、1日のレッスンの中でうまくバランスをとってコディネートしていく、


新しい時代のニーズの中で、私たち白ゆりが踏み出す次の第一歩、

その春の息吹も、もう手の届く所まで来ているのです。






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子どもが学ぶ意味

 2016-12-05
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私は、大学院時代に脳の機能局在について学びました。

その学習を通して、人間の生存欲求の根幹に、成長の欲求があると確信しました。


成長なくして、子どもの生存はありえない、

成長を目指す方向感こそが、子どもの存在意義をより確かにしていく営みである、

つまり学ぶというプロセスが、子どもの生存の基本であり、学ばなくてもいいという考えは、子どもに生きる意味がないと言っているのと同じことである、

そう考えるようになりました。


私のマンツーマンレッスンを受けてくれている子どもたちは、自分の時間が来るの待ちきれずに、教室に走りこむように入ってくる子どもがとても多いのです。

今日の勉強はこれで終わりと伝えても、首を何回も横に振り、教室から帰ろうとしない子が、1日のうちに何人もいるのです。


学びの充実感、

指導者と心が心が通い合うこと、

そのことによって子どもは、自分の生きている証や、自分の生存にかかわる安心と心の安定感を培っているのです。


楽しい学びの中身、

それは人が生きる根幹に根差している、

だからこそ、子どもから学びを決して奪ってはいけない。


そのことを実証していくために、私は今日も、一つ一つの実践を、しっかりと積み上げていきたいのです。




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