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家族から託されたメッセージ

 2016-06-29
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人の心の根本にあるのは、不安や恐れなのではないかと、私は考えています。

その不安があるからこそ、自己防衛のメカニズムが機能するのです。


それが大きな恐れであった場合は、その子のエネルギーの大半はそのことに費やされてしまいます。

それはそれで、全く無意味な時間とは思いませんが、人が育つ過程が、いつもそんなふうであってはなりません。


では、その不安や恐れを軽くしていくために、支援者としては、何をすればよいのでしょう、

その答えは、子どもと心を通わせあうことだと、私は信じています。

人は人とつながることにより、不安は安らぎ、恐れは軽減されていくのです。


こんな自分でも、誰かの役に立てることがある、

そう心の底から感じたときにこそ、肯定的に自分のことを理解することが出来ます。

自己肯定の気持ちは、他者の評価によって、かもし出されていくものなのかも知れません。


家族、特に両親は、絶対無二の存在です。

他者では替えられない、特別な存在であることに間違いはありません。


だからこそ、子どもが自己肯定の気持ちを培って行くには、家族ではない他者からの評価が不可欠です。

自分は、このクラスになくてはならない存在として受け入れられている、

そう感じた時に、その一員と彼との間に、きっと学びと同じくらい大切なものが、芽生え育っていくことでしょう。


支援者には、クラスのお友達にはなれませんが、ご家族の願いを託された教育者として、その子に寄り添うことはできます。


君には、君にしか出来ない役割がきっとある、

あなたには、あなたにしか出来ない大切な役目をもって、この世に生を受けたということ、

そのために、私は子どもと心を通わし、思いを伝えあうのです。


私が学びを通して、子どもたちに育てたい大切なメッセージ、

ご家族から託された願いの代弁者として、私はずっと、子どもたちにそのことを伝え続けていきたいのです。







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支援除去を極める旅路

 2016-06-28
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大学で、応用行動分析を学んでいた時、支援除去(prompt fading)について学びました。

何かができない子どもには、その特性に応じた適切な支援を施して、その支援を段階的・意図的に除去していきながら、子どもの内発的な学びの欲求をを支えていく、


子どもを育てるという営みは、支援除去もしくはスモールステップ、あるいはその2つを組み合わせていくということ、

その提示の方法やとタイミング次第で、生きた教育にもなれば、死んだ教育にもなる、

その成果のあった実践を一つでも多く積み上げ、広くその有効性を世に示したい、


それがこのブログを始めたきったけでもあり、実践者としての私の旅路のスタートでした。

そのときの私は、まるで10年分のメシの種を手に入れたような、そんな気持ちでいっぱいになりました。


このブログを始めてから、8年以上になりますが、そのときの思いには微塵のブレもありません、

10年・15年・・

尽き果てるその日が来るまでは、生涯一実践者として、この道を歩み続けたい、


汲めども尽きぬ水、

その先にはいつも、子どもの笑顔が待っているのです。







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そこにあるもの

 2016-06-27
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週末の大阪のレッスンでの出来事です。

中2男の子が来てくれました。


今から数年前、大阪で講演会をさせていただいた時、ご両親で会場にお越しくださり、その場でレッスンのお約束をさせていただきました。

その子がまだ、小学校1年生か2年生の頃でした。


当時はまだ、新大阪に常設の教室を構えていませんでしたから、大阪でもなかなかレッスンのご予約をお受けできず、しばらくの間、岡山に毎月通ってきてくださった時期もあります。

わずか数十分のレッスンのために、毎月、大阪から高速を使って来てくださる、

私が、新大阪に教室を出すと決心した背景に、この子の存在も大きく影響したと考えています。


その子がこの日、いつもとは違う表情で教室に入ってきました。

「先日の宿泊学習で体調を崩して、もし何かあったらロビーで待機していますから、すぐに連絡してください」

お母さんは、そんなふうに私にお伝えくださいました。


なかなか言語で、こうしたことを伝えることが出来にくいタイプのお子さんです。

着席し、もう一度その子の顔を見ると、「さすがに今日は、最後までレッスンを続けることはむずかしいのでは」

そう思わせるくらい、いつもとは違う土気色の顔色でした。

お母さんの携帯番号を確認し、いつでもスクランブルで連絡できるよう準備して学習に取りかかりました。


レッスンを始めて10分くらい経った頃でしょうか?

その子の頬が、いつものようなピンクに変わっていくのが見て取れました。

と同時に、表情も生き生きとしたものに変化し、あの弾むような感じが戻ってきました。

誰が驚いたと言って、間近でその様子をダイレクトに見ていた私の驚きは、簡単に言葉で言い表せるものではありませんでした。



予定通り45分のレッスンを終え、時間ぴったりにお母さんが教室に戻って来られました。

私は、自分の心の中で高鳴る興奮を抑えながら、そのことをお母さんにお伝えしました。


「ほら、来る前と表情が全然違うでしょう?」

半分死にかけたような表情から、またいつもの笑顔いっぱいの彼の表情がそこにあるのでした。


もはや、この子にとってここで過ごす学びの時間がどんな意味をもつのか、

そのことについては、はるか私の予想を超越したものになっているのかも知れないと感じました。

私の話を聞いたお母さんは、目に涙をいっぱいにためておられました。


ここ何年か、岡山の発達支援センターの本館建設にかかわる様々な流れ中で、命を削るような毎日を送ってきました。

今は少しその内容も軌道にのり、時間的な余裕も、若干ですが生まれてきました。


大阪教室のホームページも、7月よりリニューアルさせていただくことになりました。

固定電話を開設したり、新しいタブレットやプリンターを購入したり、教材書庫の整理をさせていただいたりしました。


ご縁があってここの通ってくださる子どもとご家族の、さらにその真心にかなう質の高い学びの場を提供したい、

教室をあとに家路へと向かう母子のうしろ姿を眺めながら、そんな思いがこみ上げてくるのでした。










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夢に向かって学ぶ意味

 2016-06-22
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ある日、小学生の男の子と勉強していると、その子が何気なく私の足に自分の足をからめてきました、

別の5年生の男の子は、、勉強の合間に、私に甘えたくて甘えたくてたまらない素振りを随所に見せます、

ある女の子は、帰る間際に 「先生大好き」 と、ハグして帰りますし、中3の女の子は、毎回毎回帰るときに 「先生カッコいいよ」 と言って帰ります。

三重から来てくれた女の子は、家で書いた小さなラブレターに、私のことをイケメンと書いてくれました。

どの子も、3年5年とずっと私の所に通い続けてくれている子どもです。


見ての通り、私はイケメンでも何でもありませんが、こうまで子どもたちが心を寄せてくれる理由は、私が全面的にこの子たちの存在を肯定的にとらえていること、そして、私がしっかりと目標をもって前進しているエネルギーを、子どもたちが誰よりも敏感に感じ取っているからだと考えています。


心の中に夢をもっている先生と、そうでない先生とでは、子どもの食いつきはまるで違います、

子どもは、理屈や肩書では動きませんから、そういうことの感度に、ごまかしは通用しません、

人は、心の根元に、何か目標をもって生きるということに対するアンテナがあるのだと、私は思っているのです。


先日のレッスンで、ある2年生の女の子が、文字見て言語表出がスラスラできるように変わってきました、

前回の時には、そうではなかったので、私は感動して、涙が出そうになりました。

夢をもった学びを重ねていくことで、そこには他では替えがたい方向感が生まれてくるのです。


もちろんこのことは、私の手柄でも何でもなくて、私はただ寄り添ってきただけに過ぎませんが、それでもこれまで、ずっと種まきを続けてきて、本当によかったと思いました。

赤ちゃん体操卒業の時からずっと通ってくれている子ですから、その喜びもひとしおというものです。


土台作りから始まったこの子の言語の育ても、こうして目の見える成果が現れるとことまで来ました。

出来た作物を刈り取ることなど、誰にもできるし、それを教育とは呼ばない、

そうではなくて、目に見えない時にこそ、子どもの可能性を信じて、種をまき、肥料を与え続けること、

私の目指す教育の形がそこにあります。


今は出来ずとも、君なら絶対に出来る、

目に見えないときは苦しいけど、あきらめなければ、必ず夢は叶う、


夢を向かって学ぶ意味、

子どもたちが私に寄せる願いは、きっとそんなところにあるのです。







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自己否定の裏側にあること

 2016-06-20
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何年か前のことです。

私はある小学校で6年生の学年主任をさせていただいていました。


小学校の学級担任として、納得のいく学級経営ができたら、以後は特別支援教育の道に進む、

それが当時私の信念でした。


そのクラスは、本当にすばらしい子どもたちの集団で、学級活動の話し合いのようすを見学していた教育実習生が、「私は、人としてこんな豊かに心の通い合う場面を、生まれて見ました。20年も生きている人間の先輩として、自分が恥ずかしい。本当に心が洗われるように感じました」 と、大粒の涙をぽろぽろと落とした日もありました。


その年の学年末に、校長室に呼ばれた私は、「次年度は特別支援学級の担任をお願いする」 と告げられました。

「その年、教師として、最も力のある者に、特別支援学級の担任をさせる」

校長室でそうおっしゃったその一言が、私の運命に、決定的な影響を与えることになりました。


後にわかったことですが、この出来事の数年以上前、私が当時の特殊教育の内地留学に行かさせていただいた時、当時教育委員会の課長として、その道を切り開いてくださったのも、この校長先生でした。

後にこの校長先生は、県の校長会の会長になり、全国校長会の実行委員長として、大きな手腕を振るわれ、大学に入られてからは、教員養成の分野で出色の実績を残されることになります。


校長はかくあるべし、という姿が焼き付いた同時に、逆立ちしてもこんな校長にはなれないという思いが、当時から私の心の中に広がっていったのでした。


私の心の中にある、負のエネルギー、

教員として、あんなに目をかけてくださった先生のご期待に添えなかったというマイナスの思いを、私はどうしても振り払うことができません。

だからこそ、がむしゃらになって今の活動に打ち込んできた、

そんな側面が、ないわけではありません。


人間のパワーの源は恐怖である、と私は考えています。

そこに立ち向かうからこそ、生まれる何か、

苦難を振り払り払いながらも、踏み出すその小さな一歩こそが、未来につながる大切な道となるのです。


そう言えば、いつだったか、シアトルまで野球を見に行ったことがありました、

あれからもう10年?

先日のイチロー選手のインタビューにいたく心を打たれながら、私の胸には、そんな思いがこみ上げてくるのでありました。








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最強の裏方

 2016-06-16
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小学校でも、学級担任制だけでなく、教科担任制の良さを取り入れる学校も増えてきました。

私の教室では、小学校の学習指導の場合は、私も含めて3名のスタッフで、同じ時間に2名の子を教える体制をとっています。

もちろん私が直接教えることを基本としていますが、この頃はあえて私が2名のスタッフのバックアップ、つまり裏方に回る機会が増えてきました。


すべての教材は、その日の朝、私が用意しています。

これまでの学びの経過、その子の認知処理様式、学校での学習の進捗度などを考慮して、その子にとって最も旬の教材、つまり発達の最近接領域のものを選びたいと考えています。


その私が、少し離れた位置で、その子の学習の様子を見ていると、その子の中で今何が起こっているのかが手に取るようにわかります。

その部分につまずきが見られたなら、教科書のあのページを提示してやれば、子どもは自力解決できる、

そう判断したなら、すぐにその教科書を広げ、担当の先生のふところに渡します。

そしてその先生が、ジャストのタイミングで、子どもに提示することができるのです。

ケースによっては、すぐさま別のプリントをその場で印刷して差し替えることだってできる、

まさに最強の裏方。


私が直接教える意義と、私が裏方に回ることで得られるパフォーマンスの豊さ、

これからの私は、その二つを、さらにうまくバランスをとって構成していかなければならないと考えています。

単にこの子ならこの先生とプロデュースするだけなく、「この子の場合、この教材はA先生で、ここからの教材はB先生に」というところまで組んだフォーメーションの精度と内容を、もっともっと高めていかなければなりません。


私でなければ出来ないことがあるように、私には出来ないことがあります。

私が組織のリーダーとして子どものためにすべきこと、そして一人の実践者として立ち向かうべきこと、

その答えのすべては、きっと子どもの学びの中にあるのです。






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家族の横顔

 2016-06-14
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先週の大阪で、中学校の先生が、ある女の子のレッスンを見に来てくださいました。

休みの日にもかかわらず、一人の子どものために、わざわざ新大阪の教室まで進んで足を運んでくださる、

多くを語らずとも、その事実だけで、何か大切なことが伝わってきます。


これまでも、何人もの学校の先生が、この教室に見学に来てくださいました。

そうした時の子どもは、例外なく、弾むような笑顔を見せてくれます。

うれしくて仕方がないのです。

学校の先生が足を運んでくださるというのは、そういう意味をもつことなのです。


学校の先生に来ていただくというのは、簡単そうで、実際にはなかなか出来ることではありません。

このこと一つについても、そこに、子どもの教育にかける保護者の深くて強い気持ちを伺い知ることができます。


私はこれまで、子どものために、信じられないような困難をも打ち砕く、何人ものご家族と共に歩んできました。

子どもの成長と幸せを願う深くて強い気持ち、的確な状況の判断力、そして経済的なことも含め何があってもやり通すパワー、

不思議と、どのご家族にも共通している内容がありました。


物事を成し遂げるために大切なこと、

私は、自分が支えた内容より何倍も大切なことを、いつもそのご家族の横顔から、学ばせていただいているのです。









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母子の涙

 2016-06-12
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私が、初めて大阪のレッスンに行かせていいただくようになってから、もう7年以上にもなります。

以前は、堺市までお伺いする機会が多かったのですが、今では新大阪の教室までお越いただくことの方が増えてきました。


先日来てくれた4年生の女の子のエピソードです。


いつもカーナビを使って来てくださっていますが、機械のことですから、何かの拍子にそのカーナビがいつもと違うルートを案内し始めたそうです。

その子は、前日から、私の所に勉強しに来ることをとても楽しみにしていたらしく、いつも通りに新大阪の教室に来るつもりが、たまたまカーナビがいつもと違うルートを案内し始めたので、私の教室に行けなくなるのではないかと不安になり、車内で大騒ぎになったというのです。


このところ、漢字の書字が正確になり、文字を読み、それを内言化して判断し、再びそれを書字化してアウトプットしていくプロセスが、格段に向上してきています。

そうした学びの時間が、この子にとっては何にも代えがたい大切な時間となっていることに、改めて驚かされたのでした。


ここまでの関係になるまでには、最低でも3年はかかります。

当時3歳だったこの子も、もう10歳、

教員の経験はあっても、未就学児の療育については素人同然だった私を信じて、その私に命を吹き込んでくださったのは、こうしたご両親の熱い願い以外の何物でもありません。


そのお母さんが、先日の参観日道徳の時間に、お友達に一生懸命自分の思いを発表していたという出来事を私にお話しくださいました。

書字アウトプットの正確さは格段に向上してきましたが、依然として構音の不明瞭さが課題となっているお子さんです、


でも一生懸命クラスのお友達に自分の思いを伝えようとすることで、きっと何か新しい道が拓けていくに違いありませんよ、

そう私が、お母さんにお伝えしようとした瞬間、

突然その子が、目に涙をいっぱいにため、数分間次々と私に何かを懸命に伝え始めました。


やや構音が不明瞭なため、その語句の一つ一つを正確にキャッチできたわけではありません、

ですが私には、その子の心の根元にある思いがしっかりと伝わってきましたので、「そうか、うんうん」 と何度も頷きながらその言葉に耳を傾けました。


この子が、家族以外の人に、こんなふうに何かを伝えようとする姿を、これまで一度も見たことがありません、

その子の横でお母さんは、その子に負けないくらいの大粒の涙を、目に一杯浮かべておられました。


勉強したい、向上したい、

この7年の間、私がこの大阪の地で得たものは、この子たちの心の根元にあるこんなピュアの思い以外の何物でもありません。


岡山の教室でも、何人もの子が、レッスン中に私に体をすり寄せてきます、

子どもの心の中の向上心を信じ、それを具現化させるために必要な支援、

子どもたちが私に寄せる気持ちの源泉は、間違いなくそこから湧き上がっているのです。



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汲めども尽きぬ水

 2016-06-07
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ダウン症のお子様のために、赤ちゃん体操を取り入れてから、もう何年になるでしょうか?


以前は、狭い2階建ての建物の中で行っていましたから、赤ちゃん体操の日には、机やいすなどの備品をすべて屋外に片付けなければなりませんでした。

今では、次々と資格をもつ職員も増え、バリアフリーの広いプレイルームの中にあって、ゆったりと行き届いた環境で、子どもたちを迎えることが出来るようになりました。

当時を考えると、まるで夢のような出来事です。


こうした取り組みを通して、物事を為すためには、高い志とそれを支えるパワーの2つが必要であることを学びました。


「子どもの幸せと成長を支える」

そういう高い志なくては、決して人は集いません。


そしてそれには、それを支えるパワーが不可欠で、そのためには経済的な基盤がどうしても必要となってきます。

どんな高い理念があったとしても、お金がない、お金は出さないでは、物事は一歩も動いてくれないのです。

逆に言えば、身銭が切れるかどうかが、その志の強さを示すのです。


私たちの事業は、利用実績に応じて給付金がいただけるシステムです。

利用者のニーズに合った質の高い療育を行えば、利用者が増え、そのことでいただいた資金をもって、さらにその質を高めていくことができるのです。


利用実績のなき者に、療育の質の高さは語れない、

利用実績のある者に、多くを語る必要はない、


大切なお子様を託していただけるということを、当たり前と思ってはいけない、

二度と帰って来ないお子様の大切な瞬間に、真心を込めずして、そこからは何も生まれない、

数ある療育機関の中から、こうして大切なお子様の育てを託されたことを、教育者としての何よりの誇りと受け止よう、

私はいつも、職員にそんなことを伝えながら、ここまで来ました。


この日、赤ちゃん体操を卒業する子がいました、

記念写真を一緒に撮る時に、その子は何度も何度も、私の顔を見つめるのです。


もうこれでいいや、

そんな色をした者の目を、子どもは決して見ようとはしません。


建物も出来たし、職員も増え、ある意味私は、ハンコさえ押せば給料をもらえるような身分になりました。

だからと言って、臨床実践から軸足をはずそうなんてことは、考えたことさえありません。


私は、私の生活が安定することが目的なのではなく、一人でも多くの子どもたちが、社会の中で自己実現していくことが目的なのです。

そのために働きたいのです。

もっともっとお役に立ちたいのです。

だとすれば、ここがゴールであろうなんてはずがありません。


その志が本物である限り、子どもは私の目をしっかりと見てくれる、

私はそう信じて、一歩でも前に進んでいきたいのです。






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支援者だから見えること

 2016-06-02
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2歳くらい子から高校生まで、

年間10,000を越える個別レッスン、

私の幸せの根元は、すべてここにあります。


これだけのレッスンを何年も続けていると、「これは伸びる」 と確信する瞬間が時折あります。

この確信の実現率は、ほぼ100%、

これまでその期待が裏切られたことは、1度たりともありません。


そのことを感じるのは、決して順調に行っている時ではありません。

必死な思いで、ずぶずぶになりながら、母子で前に前に前にと進もうとしている足取り、

そのわき目も振らず、遠くを見つめる母子の目の色を見て、遠からずこの子は必ず化けると確信できるのです。


あの時、先生にそう言われましたが、その時はとても信じることは出来ませんでした、

先日、三重からお越しくださったお母さんが、しみじみ私にそう伝えてくださいました。


あの苦しい場面でも決して軸をぶらさず、何があっても前に進んで行こうとするその足並みの力強さ、

その足音が、本物であるかどうかが、私にはわかるのです。


逆に一時的に熱心な人であればあるほど、案外1年くらいで売り切れてしまうことが多いのも、まぎれもない事実です。

その途中の景色までは言い当てることはできませんが、やがてくるその日のことは、私には何となくわかります。


レールに乗っかって、オートマティックで、ただそれに乗っかっていればよいのであれば、どんなに楽なことでしょう、

一歩でも、半歩でも、前に進もうとしなければ、苦しみもなければ、困難もありません。


でも、それが子どものためになるのなら、あえて母は、いばらの道でも裸足で歩んでいこうとするのです。

それがもしも 深く、ゆるぎなく、本物であるのなら、どうして思いの叶わぬことなどあるでしょう。


歩むのは母であり、私ではありません。

そしてその歩みは、決して誰にも止めることは出来ません。


だからこそ私は支援者として、

遠くに見える希望の光を、笑顔でしっかりと、指差していかねばならないのです。






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