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そのわずかな技術の向上のために

 2016-01-29
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世の中には、パズルの嫌いな子も結構いるものです。

これまで私は、何度も何度も、子どもにパズルを投げつけられてきました。


写真の型はめパズルは、くもんの乗り物パズルですが、私はどうやったら苦手な子でもできるようになるのか、その奥義を2つ会得しています。

写真の子のお母さんは、「他の療育ではやろうともしないパズルが、白ゆりに来ると、どうしてこんなに鮮やかにできるのか不思議で仕方がない」 とよく口にされていました。


種明かしをしてしまえばきっと、「な~んだそんなことか」 と思われるかも知れませんが、5年も6年も同じパズルをやってきて、ここまでの領域にたどりついたのは、つい最近のことです。

そのちょっとの技術の差が、パズルを投げられてしまうか、まるで魔法をみているかのようだ、の分岐点になっているわけです。


ラーメン屋にしても、美容師さんにしても、スポーツ選手にしても、同じプロであれば技術の差なんてほんのわずかであるはずです。

しかし、そのほんのちょっとした差があればこそのプロなのだし、もしもそうでなければ、わざわざプロに任せなくったって、家で髪を染めてもいいはずだし、インスタントラーメンを食べたりすればよいはずです。


出会った子どもに、自分のできる限りの、最高レベルの個別学習の時間を提供したい、

それが私のコンセプトであり、誇りであり、命の根源であるのです。


まだまだ道は三分三厘、

そのほんのわずかな技術の向上を目指して、私は今日も、大切な実践の一つ一つにしっかりと向き合っていこうと考えているのです。







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個別学習のプロデュース

 2016-01-27
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私が個別学習指導の取り組みを始めて、もう8年以上にもなりました。

あの日、小学校1年生だった花子ちゃんが、まもなく中学を卒業しようとしています。

義務教育の9年間を、ほとんど欠かさず毎週のレッスンを続けてきたことになります。


今、私が直接レッスンをさせていただく子どもは、多い日には1日15人、少ない日でも7~8人にはなります。

それを、土曜日も日曜日も祝日も、ほとんど休みなしで8年間続けてきたのです。


さすがにここまでやれば、経験だけは誰にも負けないものが身に付きました。

「この子のこれは、何年か前のあの子の課題と同じプロセスに違いない」

「だったら今は、きっとこんなことの積み上げが大切」

そんな見立ては、かなりの確率で外れることが少なくなってきました。


今、私はチームのリーダーとして、そのポンイントを何人かの職員に受け継いでいます、

もちろん、私が現役の最前線にいるのには違いないのですが、内容によっては、私でなくとも他の職員の方が指導効果が高い場合があることに気が付いてきました。


私にしか出来ないことがある、

チームがうまく機能すれば、私の経験や技能が、今よりも何倍も生かされていくことにつながっていく、

そこに集中したいがためにも、私はチームのリーダーとして、子どもの学びをプロデュースしてみたい、


それが今、私がなすべきことの新しいステージかも知れません。







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学びたがっている子ども

 2016-01-22
もしかしたら世の中には、「障がいのある子どもは勉強が嫌い」 というイメージをもっていらっしゃる方が少なくないのかも知れません。

ですが、それとは逆に私にあるのは 「だからこそ良質な学びを求めている子がほとんどである」 というイメージです。


私のレッスンを受けに来てくれる子のほとんどは、笑顔いっぱいで、廊下を駆け抜けるような勢いで指導訓練室に入ってきます。

前の子のレッスンが終わると、準備のためのただの2~3分が待ちきれず、ちゃっかりいすに座って、「早くお勉強しよう」 とアピールを始めます。


SHINOBU先生のレッスンのある日には、子どもが朝から、まだかまだかと矢のように催促をするという話は何度も聞きました。

車で白ゆりの近くに来て、目印のコンビニなどの看板を見ると、ガッツポーズをする子の話も、何度もききました。


子どもが嫌がるのは、こんなことも出来ないのかと他者と比較されたり、どうせできないだろうと初めからやらせてもらえなかったり、実態と乖離したねらいや教材を、何の工夫もなく丸かじりで提供したりするからであって、勉強そのものが嫌いなんてことは、そもそも初めからあり得ないことです。

むしろ、だからこそ、良質の学びには、誰よりもモチベーション高く取り組むことができるのです。


こんなに生き生きと勉強に取り組む子どもの姿を見て、涙が出そうになりました、

いやいや、こんな素敵なお子様を託していただいて、目を輝かして取り組む真摯な姿を目にして、感動で泣きたくなるのはこちらの方です、


子どもの内発的な学びの意欲を、心の底から信じること、

そうした子ども観の上に立って、最高の教材を、最高の形で提供していくプライドと使命感をもって取り組んでいくこと、

どんなに技術が未熟であっても、逆にどんなに自分の技術が向上しようとも、謙虚に、その追及心を片時も忘れず、自分の信じる道を生涯追い求めていきたい。


そんな気持ちに私を変えてくれたのは、間違いなくこの子たちとの出会いがあったからこそ、

あなたは、私たちにとっても社会にとっても、なくてはならない大切な存在なのです。







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Born This Way

 2016-01-19
I was born to survive
(私は生き抜くために生まれてきたのよ)

No matter black, white or beige
(ブラックだって、ホワイトだって、ベージュだって関係ない)

Chola or Orient made
(チョーラだって、オリエントだって、そんなの関係ない)

I’m on the right track baby
(私は自分なりの道を歩んでいるのよ)

I was born to be brave
(私は勇敢に生まれてきたのよ)

I was born this way
(私はこんな運命のもとに生まれてきたのよ)





これは、レディガガ 「ボーンディスウエイ」 の歌詞の一節です。

日本は島国で、単一民族の国です。

それだからどうかは別として、これからの日本にとって特に大切にしていかなくてはならないことの一つは、「多様性を受け入れる感覚」 ではないかと考えています。


今では、外国の人が電車の中にいても、特別な目で見る人はほとんどみかけなくなりましたが、何年か前は決してそうではありませんでした。

性的なマイノリティーの人も受け入れる文化もありませんでした。

しかしながら、自分とは違う人を排除しようとする感覚が、すべての人からなくなったということではありません。

よそ者を受け入れない文化が、全くなくなったわけでもありません。


私は、自分とは違う他者を受け入れることは、その人自身の存在が尊重されることと同じことだと思っています。

他者を排除するもということは、自身の存在そのものがおぼつかない証拠です。

多様性をを受け入れられるということは、その存在が自体がゆるぎない証だと思っています。


先週、ある京都のお母さんが1組の写真集とDVDをプレゼントしてくださいました。

昨年の秋に、ダウン症の子どもたちのためにファッションショーを開催されたときのメモリアルです。


これだけのパワーとエネルギーが一体どこから湧き出てくるのでしょうか?

中心となって会を運営されているお母さんを存じ上げているということだけでなく、その根元にあるあたたかくも美しい思いにふれ、子どもたちの輝く表情を目にしながら、自分の胸に熱いものがこみ上げてくるのを押さえることができませんでした。


だからこそ私は、自分の出来ることで、子どもたちのために力を尽くしていきたい、

それが私の生きる道であり、私の役割、

I was born this way.







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順序数と集合数の分岐点

 2016-01-18
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先週、5歳の女の子と数の勉強をしました。

それまで数を数えるときは、1・2・3・4・・・・ と、順序数の1対1対応で処理していたお子さんです。


ですがこの日、マス目に同じ数をかく勉強をしているときに、まず目全部いっぱいのときが 「10」 で、それより1個少ないときが 「9」であることに気が付きました。

このこの数感覚の中に、順序数だけでなく、集合数としてのとらえが芽生えた瞬間です。


順序数には順序数のよさがあり、集合数には集合数のよさがあります。

その数の2側面を感覚的に使いこなせるようになったとき、その子の数の世界が各段に立体的で豊かなものになっていきます。


では、どうやったらその数の扉が開いていくか、

それはその子の数に関して歩んできた道のりや年齢、認知処理特性や各種感覚の育ちなど、様々な要素によって微妙に変わっていきます。

だからこそ面白いし、実践者としての経験や力量が試される絶好の機会となります。


私は、題材そのものの系統性に大きなこだわりはもっていません。

むしろ、その数感覚の育てを目標に据え、その子の今に何が最もふさわしいかという観点から、題材を選んでいくことがほおんどです。


教材は手段であって、目的は数感覚の扉を思いっきり子どもの眼前に開いてやること、

私の汲めども尽きぬチャレンジは、これからもずっと続いていくのです。









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方向感のある生き方

 2016-01-16
私の知人が、勤めていた会社をやめ、税理事務所に再就職しました。

税理士になるために、勉強しながら税理事務所で実務を学びたい、

そう語る横顔に、潔さがにじみ出ているように感じました。


仕事の合間にスクールに通ったり、いくつかのテストにチャレンジしたり、寝る間を惜しんでそこに向かう姿がかっこいいと思っていました。

ところが、ラインのタイムラインを見ると、いつの間にかその雰囲気は薄れ、いったい何をやっていうのかと、その迷走ぶりが目に付くようになりました。

目標を失うことはこういうことなんだと、目を覆いたくなるような気持になりました。


毎年1回、うちの職場で働いてくれている職員と面接の機会をもちます。

「保育士の免許取得を目指したい」

何人かの職員が口をそろえてそう言いました。


ここでの子ども育ての姿に感動して、私も何としてもその輪の中で仕事をしたい、

子育てが一段落したお母さんの免許取得に向けてのチャレンジ、

そんなにたやすい気持ちでできることではありません、


が、その歩みには他のこととは違う力強さがうかがえます。

ここの子どもたちには、不思議なほど人を変えるパワーをもっています。

おそらくは、一番変わったのはこの私、

間違いなくこの先生たちも、そこに向かって進んでいかれることでしょう。


夢をもって前に進む子どもとそのご家族、

その夢が実現する場合もあれば、そうでないことだってあるでしょう。


勉強をおろそかにする子どもからは、何も生まれない、

真剣に立ち向かうその方向感こそが、何よりも尊い時間を生み出し、きっとそこから信じられないような大切な何かに出会っていくものです。


私はそんな子どもたちにたくさん出会ってきた、

一生懸命勉強する子どもの姿ほど、美しいものはありません。


勉強の成果そのものではなく、どれだけ真剣にそのことに立ち向かったか、

本当の物差しの置き方は、きっとそんなところにあるのだと思っているのです。










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応用行動分析で子どもは変わる

 2016-01-12
先日、ある5歳の男の子がレッスン中にふざけて、きちんとした姿勢で学習に取り組まなくなりました。

ちゃんといい姿勢で学習しなさい、と注意してもききません。

さて、あなたならどうしますか?


「あれー、残念。 今日お勉強がんばった人にはドラえもんのまんが、一緒に読みたかったのになあー」

私が、つぶやくようにそう言うと、あらあら不思議、

それまでぐでぐでだったその子の姿勢が、急ににょきにょきっと良い姿勢になりました。


「さすが健太君、おりこうやなあー、先生はお勉強がんばる健太君が大好きだよ。 じゃあこれから一緒にドラえもんのまんが読もうなー」


見事に決まった私の1本勝ちです。

それまでこの子の対応に四苦八苦していた指導員が、私の対応を見て目を丸くしていました。


子どもには必ず内発的な学びの意欲があり、より望ましい自分に成長したいと願っている、

それが私の子ども観です。


それをしてなおマイナス行動をとるには、必ずその行動を維持させている要因がいくつかあるはずです。

それを瞬時に読み取り、それに代わるバイパス行動を提示し、更なる強化子を提示して、本来の自己実現に向かわせる。

それが私が応用行動分析を学び、実践で生かす論理のベースとなっています。


小学校の教員時代、同じ先生でありながらA先生にかかると魔法のようにいい子でいる子どもたちが、B先生の前ではぐたぐたの烏合の衆と化してしまう、

日常的にそんな光景を目の当たりにしながら、いったい何が違うのか、どこをどうすればその極意を会得できるか、ずっと模索していました。


そんな中、大学院で応用行動分析を学び、この応用行動分析の枠組みで、これまで起こっていた子どもの良い行動もそうでない行動も、すべてそのメカニズムを説明できると感じました。

今私は、どんな子どもであっても、時間的物理的な環境さえ与えていただければ、基本的に必ずずコントロールできる自信があります。


子どもは誰しも必ず良い子になりたいと願っているのです。

それが信じられなくなったら、その日にも私は教育の仕事から身を引く覚悟です。


そのことを心の芯から信じ、それを具体化できる技術を愛情と有してこそ、教育者に値する人物たると、私は考えているのです。





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君たちが主役(白ゆりが提案するインクルージョンの形)

 2016-01-08
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利用実績表PDFはこちら




今、白ゆりの児童発達支援は、多い日は1日30名近くの子どもが来てくれます。

放課後等デイサービスと合わせると、1日50名近くの子どもが来てくれることもあります。


保護者との直接契約にもかかわらず、出色の存在感、

上のグラフは、岡山白ゆり発達支援センターの利用実績を示したものです。
(月別1か月間 のべ利用者実数)


中には、その日、保育園や幼稚園を休んでくる子もいます。

隣接の白ゆり保育園(4月から認定こども園)から、来てくれる子も次々に増えてきました。


その流れを目の当たりに見ていた保育園の園長さんが私に、「理念を同じくする同一法人の保育園に在籍する子どもが、どうしてそうまでして発達支援センターに足が向くのか、その本質的な違いは何か」 と私に尋ねてきました。

毎日毎日口コミで、次から次へと増えていく利用者の増加に直面しながら、私は一体白ゆりの何が保護者の圧倒的な支持を受けているのかを、自分なりに分析していた時期がありました。


ある時、生き生きと輝くような子どもの笑顔を眺めながら、「なるほどこれだ」 と心の中ににストンと落ちたものがあります。

それは、「ここはこの子たちが主役になれる場所であるからだ」 という言葉でした。


それぞれの保育園や幼稚園にしっかりといた居場所があればこそ、この子たちがど真ん中の主役として活躍できる発達支援センターの育てが生きて働く、

それはまさに、この数年間私が目指してきた白ゆりのインクルージョンの一つの形なのだと確信しました。


地域の幼稚園・保育園と、発達支援センターとの連携のバランス、

それはその子の育ちや、環境によって上手にバランスをとっていく必要があります。

支援目標の微細な調整こそが、実は育ての質を左右する最もプロフェッショナルな部分であるのです。


白ゆり保育園が、4月から認定こども園に移行するのを機会に、発達支援センターに来てくれている子の数名が、白ゆり保育園に入園することになりました。

「発達支援センターの子どもは、希望があれば全員、認定こども園に入園させる」

行政の担当が目を白黒させている中で、そうはっきりと言い切る園長さんの表情を見て、この人は発達の専門家でなくとも、保育者としてのインクルーシヴな感覚は、まさに本物中の本物だなと感じました。


白ゆりでは、あえて発達検査等のむずかしい数値を表に出さないようにしています。

何年か前に、巡回指導で2年間にわたり、毎週たくさんの学校・園におじゃました経験が、本当に貴重なものとなりました。


本当に大切なものは、決して検査の数値では表すことはできない、

小さな検査室で、子どもが育つものではない、

私は、職員にいつもそう伝えるようにしています。


弾むようなわが子の表情を見て、保護者は次々に白ゆりへと足を運んでくださるようになりました。

オフィシャルな集団の中にしっかりと居場所があって、そのぞれの子どもの特性に合った豊かな教育の場を、

このブログの記事も1000本以上にもなりましたが、私が伝えたいのは、いつもたった一つのそのこと、


その一つの形を、今ここに示すことが出来たのです。






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認知のチャンネルとアンテナ

 2016-01-06
語彙の豊富な健太くんは、言葉のチャンネルで多くのことを処理しようとしています。

身の回りで起こった彼にとっての不本意なことは、お母さんがそれを一つ一つ言葉に直して、本人の心にストンと落ちるまで説明を積み重ねてきました。


「これはこうで、あれはこうで、こういうことだから、つまりこうなった」

こんなふうに言葉で置き換えなければ、起こっている状況が整理できにくいのです。

そして心に落ちたそのことを、再び自分の言葉で 「これはこうだ」 と、短く心に留め置いて、次に生かしていこうとするのです。


言葉のチャンネルを使っている子どもは、非言語のアンテナがさびついていることが多いものです。

言語化しない感性の子は、言語化のプロセスがない分、物の分かりがダイレクトなのです。


自己肯定感が上がり、自分をメタ認知できるようになってくれば、普段使っている言語のチャンネルを切り替えて、感性のモードに切り替えることができるようになってきます。

もともとの処理速度は高くても、いつもは言語のモードで頭のメモリー満杯状態、

そういうこともあるから、非言語のアンテナが機能しない、

ならば、言語モードをオフにする感覚を身につけさせていけば、非言語のアンテナがピクピク動き始めます。


まるでハイブリッドカーのごとく、言語と非言語のアンテナを切り替えるようになれば、この子は今よりも数段高いステージで物事が処理できるようになってきます。

メタ認知を獲得するためには、アイデンティティーの確立と目的意識、自己と他者を受け入れるふところの深さは不可欠です。


私の子ども育ては、いつもここを目指して取り組んでいます。

自分の得意なことや良さがあればこそ、その逆のことが受け入れられるわけです。


その良さを生かしながらも、さらに高いステージへ、

君と歩むその旅路は、私自身が目指している領域そのものであるのです。









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言語性とイマジネーション

 2016-01-04
2×1=1 2×2=4 2×3=6 ・・・・・・・

子どもが九九の学習をしています。

この子は2の段を完璧に唱えることが出来るようになりました。


これまで数を量的にとらえることが出来にくかった子にとっては、九九を唱える学習は言語性ものですから、苦手な算数科の学習の中では、比較的生き生きと学習に取り組めることが多いものです。

しかしながら、「2×7=14」 と唱えることができても、その子の頭に 「14」 という数がイメージ化出来ているとは限りません。

「2×7=14」 と唱えることが出来るようになったのなら、それで九九の勉強は合格というのではなくて、そこから2のかたまりを7つ思い浮かべたり、14を10と4に分けてイメージ化できたり、数の量的なとらえに結びつけるための活動を豊かに構成していくための大チャンスと見ることが大切です。


このことは、国語の読み取りにも言えることです。

「お母ちゃん、お兄ちゃん。」

ちいちゃんはそのとき、体がすうっとすきとおって、空にすいこまれていくのが分かりました。


その時、ちいちゃんはどうなりましたか?

「空にすいこまれていきました」

健太くんは、解答欄にそう記入して丸をつけてもらいました。


多くの子は、それがちいちゃんの死を意味することを理解していますが、中にはただ挿絵のようにちいちゃんが空に吸い込まれたと思っている子もいるのです。

IQ値は高くても、日常生活の中でKYと呼ばれるタイプの子は、程度の差はあれ、こうしたことにたくさん遭遇しています。

それが、わかっているか、そうでないのかが見えにくということが、こうした課題をさらに複雑化しているのです。


私自身も、表出言語は豊富です。

語彙数も多いし、講演会をやらしても、次から次へと溢れるように、言葉が出てくるのです。


しかし逆に、溢れるような言葉の海にどっぷりと浸かっているがゆえに、そのことが事物のイメージ化を妨げていることが多いものです。

それは、読解問題や、似たタイプの子どもの指導場面ではすぐに気が付くことが出来ますが、自分生活場面でのこととなるとなかなかわかりにくものです。

だから私は、いつもそのことを心に留め置き、自分を振り返ったり、スタッフの指摘を求めるように心がけ、そのマイナス面を補強しているのです。


出来るがゆえに、出来にくい落とし穴、

出来ないからこそ、案外知らずに身についている大切な力、

こと子どもの指導場面においては、そのことをシャープにとらえられる自分でありたいと思っているのです。









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