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母子のインクルージョンへの旅路

 2013-11-30
「集団の中に居場所があって、それでいて、その子の特性に応じた豊かな個別の学びの場の構成を」

私がこの活動を始めて以来、一貫して伝え続けてきた大切な内容です。


文字で表せば、たった1行で済むことですが、現実の学校生活の中での具体化となると、なかなかその理想の姿を示すことができない、

ならば、それを理論や概念だけでなく、子どもの姿が浮かぶ実践のエピソードで示していこう、

そう決めて書き始めた記事も、回を重ねて1000以上になってきました。



三蔵法師は、天竺を目指して、悟空たちと共に長い旅路を歩み続けました。

そして天竺についた時、それまで歩み続けた道そのものが天竺に続く道であったことに気づき、ここに至る、数々の苦難の戦いを通して、育ち培われた己の姿に改めて気がつくのでありました。


インクルージョンと一口で言ったとしても、その道のりは、決して一本道ではありません。

何も考えずに、ただオートマティックで、決められた道を歩んでいくだけなら、どんなに楽なことでしょう、

しかし、現実には、予期せぬ困難や、思いもかけぬ出来事が,次から次へと起こってくるのです。


時には、道に迷い、子どもを抱きしめて、じっと佇んでいたときもあったでしょう、

真っ暗闇で、言いようもない孤独感に苛まれて、どうしてよいかもわからずに、このまま死んでしまいたいと思った時もあるでしょう、


右へ進んでも、左に曲がったとしても、目指す頂はきっと同じ、

母が悩み、苦しんだその涙の数だけ、それが子どもの幸せにつながって来たことを、私は支援者としてじっと見つめて来ました。


子どもは、本当は、うまく行っているとき、順調な時に育つのではなく、もがき苦しんでいる時に育つものです。

真摯に子どもの幸せを願い、前に進もうとする営みに、誤りなどあろうはずがない、


スピードくじでもあるまいに、今日蒔いた種が、明日花を咲かすことなど、あろうはずがありません、

だからこそ、不安になる・・

一瞬たりともおろそかに出来ない、大切な子どもの成長のあゆみであるがゆえに、そこに迷いが生まれ、不安が生じる、


しかし、そのことを、決して恥じてはいけません、

自分のためなら決してできなかったことでも、子どものためだったら、鬼にでも何にでもなれたはずです、

自分の命を捨てたとき、そこにきっと、1本の光だけが差し込んで来たはずです、


子どもために心を砕いたそのことに、無意味な時間などあろうはずがありません、

信じるか信じないかは、すべてあなたの自由、

天竺への道は、いつだってあなたの心の中にあるのですから、







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特性理解は、個々の学習場面で生かしてこそ

 2013-11-29
先日、6年生の男の子のレッスンをしました。

今、円の面積の学習をしています。


「半径 × 半径 × 3.14」

円の面積を求める公式は、言語でしっかりと理解することができています。


ところが、実際の図形を示すと、直径と半径のイメージが実はしっくりとは理解できていない。

言葉では「直径」と繰り返すことはできていても、それが具体的な図形の中でイメージとして理解することができていない、いわゆる半わかりの状態です。

お母さんから、メールで円の面積の学習が始まったとお聞きしていたので、これはよいチャンスだとレッスンの時間を楽しみに待っていました。


「円の面積を求める公式は?」

「半径×半径×3.14です」

教科書の該当ページを調べながら、その子が確認していきます。


「この円の場合、直径は12㎝だよね、だったら、半径は?」

「???」


この子、図形を見て直径がどこか、明確にイメージ化できていないので、図を見せながらそう尋ねると、とっさに答えることができにくいのです。

「この部分が直径、この部分が半径になるんだよ」

そう言って、直径の部分に青線、半径の部分に青線を引いてやります。

色による認知の焦点化の有効性は、これまでの実践から、何度も確かめてきました。


少しずつ、直径と半径の視覚的な理解に迫ってきています。

「半径は直径の半分だよね、だったら、半径は何㎝になるかな?」


こう補助発問すると、イメージ化のスイッチがまた少し変化しました。

でも、12㎝半分ということが、まだ量的にしっかりとイメージできていないので、その部分で苦しんでいるようすが見て取れました。


なので、数秒ほど考えさせたうえで、12÷2はいくつかな? と問いかけます。

これまで、何度も等分の操作化はしてきましたので、この補助発問で、12㎝という長さを量的にイメージし、その半分が演算によって、1㎝が12個のものを、2つに分けていくと、2の段で計算できる等分除の操作とつながていたのです。


「あっ、そうか」

その言葉を聞いた瞬間、私が今日、この子に何としても育ててやろうとしていた内容がつながったがったことを感じることができました。

ここさえ、押さえておけば、後は水を得た魚のように、次々にイメージがつながっていきます。

正直私は、楽しくて、うれしくてたまらないレッスンになりました。


今、卒論に取り組んでいる子が、ずっと後ろで私のレッスンを見ていたはずですが、このレッスンの中で何が起こり、どんな支援が大切だったか、この子に説明するのはなかなかむずかしいことです。

採用試験に受かり、来年からは実際に小学校の教壇に立つ、とても優秀な子ですが、この子でも、このことがわかるまでには5年、実際に使えるようになるには、その上にさらに10年は必要だと思っています。


基本的な内容や手順についてはマニュアル化できますが、このレベルの仕事となると、なかなかマニュアル化は困難です。

美容師さんでも、マッサージのセラピストさんでも、予約の取れない人とそうでない人がいます、


大体ののことなら誰でもマニュアルを見て、半年でできます、

それは、ほんのちょっと差であるのですが、そのほんのちょっと差のために、プロは命を削って研鑽していくのです。


「たのむから、中学校に行っても、SHINOBU先生の勉強だけはなくさないでください」

その子は、お母さんにそう言ってくれたそうです。


小学校2年の時から、この子はずっと通ってくれています。

この5年間、年間に休んだ日など、平均10日もありません。

私をここまで押し上げてくれたのは、この子たちの実践があればこそ、


この宝ものを、もっともっと多くの子の成長に生かしていきたい、

未熟な技術を、もっともっと高いところまで磨きあげたい、

1時間1時間、日々のレッスンを積み上げていくことこそが、その道につながるたった一つの方法、


この時間を少しでも豊かなものにしていきたいと、ずっとずっと願っているのです。



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美しき 1% の可能性

 2013-11-25
先日、1年生の女の子のレッスンがありました。

「先生、繰り上がりのある計算ができるようになりました」

と当日の朝、お母さんがメールでお伝えくださいました。


私も、飛び上がらんほどに、うれしい気持ちになりました。

京都でのレッスンでしたので、早速その場で教材を作り替え、その女の子にトライさせてみました。

その子は、待ってましたとばかりに、自信満々の笑顔で、次々に計算問題をクリアしていきました。


就学前には、”通常学級なんて、絶対に無理” ”そんなことをしたら、その子が痛むだけです” と、療育の先生に何度も言われ続けた時期がありました。

もちろん、その先生は、客観的なデータをもとに、専門的立場から、特性理解に基づいたアプローチの重要性をお伝えくださったに違いありません。

今となっては、そのことも、ありがたいご助言と、大切に心に留め置いておこうと思っています。


しかし、この母子の強い気持ちと信念は、動かぬ山を動かし、当時からは想像もできないような大きな成長を勝ち取ることになったのです。

今、得意げな顔で、次々と問題に取り組むこの子は、2年前、3年前とは全く違う景色を、私たちの前に映しだしてくれているのです。


「就学前には、こんな日がくるなんて、思ってもいませんでした」

お母さんは、少し昂揚した表情で、私にそうお伝えくださいました。


しかし、私は、これまで何人となく、こうしたご家族の言葉に、直接ふれてきたわけです。

私の責任、私のなすべき役割が、とてつもなく大きく感じる瞬間です。


検査をして、リスクを精査して、最善の備えをしておくことは、とても重要なことです。

と、それと同じように、わずかな子どもの可能性を信じて、あきらめないで努力を重ねていくことも、それと同じくらい重要なことです。


90%だめということは、10%は可能性があるということです。

もしも、10%も可能性があるのでしたら、どんなに時間がかかっても、私なら必ず成し遂げてやろうとねらいを定めます。

1%でも十分です。

それが0でないのなら、十分にトライしてみる価値があると思っています。


そこに向けて歩む道のりを、あなたは無意味だと思いますか?

できなかったら、そこを目指して取り組んだ時間も、もったいないと考えますか?

だったら、もう何もしないで、じっとしていますか?


1%だからこそ、むしろやってみる価値があるのです。

さあ、あそこに行くよと遠い先を指さしたとき、ほとんどの子は笑顔になり、私たちには深い絆が生まれるのです。


あきらめなければ、夢は叶う

教育とは、可能性を信じて歩む営み、

「先生といっしょに、いっちょやってやろうぜ~」

そこを目指して歩むからこそ、私たちのレッスンには、笑顔と力強さが生まれるのです。





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中学校の選択 その後に続く道

 2013-11-24
先日、ある6年生の女の子が、岡山大学特別支援学校の中学部に進学することが決まりました。

小学校は、地域の小学校を選択され、中学から支援学校へ通うことを選択されました。


現在、高等部に通う男の子のご家族も、結果的には同じような形の選択をされたわけです。

入学が決まったその日、お母さんはこのことを大変喜ばれていました。


今、その中学部には、うちのあやか先生がアシスタントティーチャーとしてお手伝いに行っていますし、かつては私も、1年間お世話になりました。

そういえば、いつだったか、中学部の先生がわざわざうちにお越しくださったとき、担当が私であることを知り、とても驚いて、一緒に大笑いをしたときのことが、ずっと昔のように思い出されます。


小学校から踏み出す次の一歩は、その後の自立や社会参加への方向性を示す大切な一歩となります。

今回の選択に関しては、先輩にあたるこの男の子の歩みが、大切な道しるべの一つになりました。


地域の中学校には、地域の中学校よさがあり魅力があります、

支援学校には、支援学校にしかないよさと専門性があるのです、

どちらかを選択した後には、その子に合わせた学びや生活のカスタマイズが重要です。


支援学校を選択したこの子に、ぜひとも私がさせていただきたい内容がたくさんあります、

共に歩む道のりそのものが、かけがえのない大切な時間となります。


目の前に向かう先がはっきりと見え始めたことで、なすべきこともより具体的になるというものです、

その方向感が今、私たちには何とも心地よいものに感じるのです。



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教科学習の先にあるもの

 2013-11-22
皆さんは、因数分解が今でもできますか?

英語の、現在完了と過去完了とを正しく使い分けることができますか?

中学や高校で、何度も習ってきたはずです。

でも、残念ながら、私の答えはNoです。


甲子園を目指して、活動する高校野球チーム、

県下で、甲子園に行ける高校は、たったの1校、

だったら、毎年1回戦で敗退する高校は、甲子園を目指して練習しないのか?

その答えもNOです。


たとえ、1回戦で負けようが、優勝しようが、最初から負けるつもりでする練習なんか、意味がありません、

可能性は、決して0ではありません、

そこを目指して練習する日々の中から、生涯の宝となるようなチームワークや連帯感、そして自己肯定の気持ちが育ってくるのです。

野球というスポーツに、真剣に取り組む者だけが、そうした真実の価値にふれることができるのだと、私は考えています。


私が、子どもを育てる営みの、ど真ん中に学びを置くのも、同じ理由からです。

学びというものを真ん中に置かずして、自己肯定の気持ちも、社会に貢献していくための様々な力も育たないと思っています。


たとえ、1回戦で敗退する結果であろうとも、歯を食いしばって耐えた日々の練習、チームメートとの支え合いかなどら培われていくものこそが、人の真実に根ざす大切な内容であるわけです。

どんなチームであろうとも、最初から真剣に甲子園出場を目指さないでいて、どうしてそこに大切な何かが芽生えることがあるでしょう。


1回戦敗退を、笑わば笑え、

されど私たちが歩み続けた学びのあゆみには、生涯の宝となる魂が宿っているのです。


教育とは、学びを真ん中に置いた、人を育てる営み、

その尊さに、ランクなどは、本来あり得ないものであるはずです。




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私が子どもの可能性を信じる理由

 2013-11-15
先日、1年生の男の子のレッスンがありました。

ここに来て急速に、文字を単語レベル、文章レベルでとらえることができるようになり、学習の幅が格段に広がってきました。


3歳の頃は、ずいぶん行動面での配慮が必要な子でした。

これまで、ロールプレイや手遊びなどで、ずっとずっと言語に関するかかわりを続けてきました。

アンパンマンのひらがなパズルも、今となっては、愛おしいくらい大切な思い出となりました。


私は、同じ子どもを3年・5年と継続してサポートさせていただいているのです。

構音がクリアでなかった子どもが、小学校になって、見違えるように変身した日のことを、間近で見てきました。

就学前に、文字がまったく読めなかった子が、小学校になって音読が大好きになった事例を、何度となく見つめてきました。


子どもの発達は、正比例のような、右肩上がりには決してなりません。

土の中で、小さな芽を出し、根を張り、ある日ぴょっこり土の中から、顔を出すのです。

その見えない土の中の可能性をしっかりととらえ、土を耕し、水をやり、肥料を施すことが、教育者の仕事、

それを見通す力量こそが、支援者としての専門性であり、才覚であると考えているのです。


その才覚は、臨床現場の最前線におらずして、決して身につくことはありません。

ご家族と共に、見えない可能性をずっと信じて、何年も何年も歩んできたそのこと、

その時の流れが、私の体にはしみこんでいるのです、

だからこそ、私はあきらめないし、可能性を信じることができる、


蒔かぬ種は決して生えないし、打たぬ矢は決して当たることはありません、

百本だろうが、二百本だろうが、私はその矢をずっと放ち続ける営みを止めることはありません、


笑いたくば、笑ってくださって結構です、

しかし、可能性は決して0ではありません、


信じるか信じないかは、その人の自由、

されど、その可能性を信じる者にこそ、教育者の称号が与えられるべきだと、私は思っているのです。




この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2013-11-17)


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今、私の立っている場所

 2013-11-11
昨日、約1年ぶりに、友里ちゃんが私の教室に来てくれました。

次にいつ来てくれても大丈夫なようにと、準備はしていたのですが、勉強大好きな友里ちゃんはちっとも変わっておらず、以前と同じように、笑い声のあふれる、充実した時間を過ごすことができました。


照る日も、曇る日も、

体調の良い日も、悪い日も、

いつも笑顔で、子どもを迎える自分でありたい、

私が最も大切にしている美学の一つです。


そこに、万感の思いがあったのでしょう、

ものの5分も経たないうちに、お母さんの目からは、涙があふれて止まらなくなっていました。


糊の効いたYシャツを着て、いつも大きな懐で、そのご家族をお迎えできる才覚と力量、

支援者として、あるべき姿がそこにあります。


これまで出会ったたくさんの子どもと、そのご家族のために、

子どもの成長を支える者は、そうでなくてはならない、


今、発達支援センターの、新園舎を建設するプランがあります。

( → 白ゆり発達支援センター 新園舎図面 )


一人一人の子どもたちとの大切なつながりを、これからも、それにふさわしい形と内容につむいでいくのが私の役目、

いつもまでも、大好きなSHINOBU先生でいられるために、

この子たちの成長と幸せのために、

私のなすべき役割が、そこにあるのです。



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「特別」ではないことの価値

 2013-11-06
今日、うちの 「ますかっと組」 の子ともたちが、「さくらんぼ組」 の子どもたちと一緒にミニ遠足に行くことになりました。

昨年度までは 「さくらんぼ組」 さんと一緒にミニ遠足に行くことができませんでしたが、本年度は、いろいろな意味で環境が整ってきたので、ついにミニ遠足にもデビューすることができました。


それぞれの子どもの特性や課題に寄り添いながら、それぞれの子どもの特別な教育ニーズを満たしていくこと、

それは、発達支援を行う上で、最も大切なスタンスの一つであると言えます。


しかし、ただ単に分ければ、それが「特別」の名に値するかと言えば、それはまた別問題、

本来は、分離するのが目的ではなく、共に豊かに伸びることが目的であるはずです。

みんなと共に伸びるという所に軸足を置かずして、ただ小さな部屋に分離して、それで特別支援というのはもういい加減にもうやめてほしいと思うのです。


もちろん、単に大きな集団に投げ入れて、空間を同じにするけでは、インクルージョンでも何でもありません。

そこには、明確な目標と、周到な準備があって、豊かな教育が成立していくのです。


「今年は、さくらんぼ組さんと一緒にミニ遠足に行きました」

そんな当たり前のことに、ますかっと組のご家族の皆様は、きっと大切な値うちを感じ取っていただけるに違いありません、

それが、私たちの夢とするインクルージョンの一つの形、その第1歩なのです。


今日は抜けるような青空、

マンツーマンレッスンの私は、お留守番ですが、子どもたちと先生方の笑顔は、いったいどのような輝き見せてくれるのでしょうか?




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レッスンを通して 子どもたちに伝えたいこと

 2013-11-04
今では想像できないことですが、実は私は、SHINOBU という自分の名前が大嫌いでした。

小さい頃は、時々、誰かの女の子と勝手に間違えられて、「な~んだ」とか言われるのが、嫌でたまりませんでした。

「健一」とか、「拓哉」とか、どうして男らしい名前にしてくれなかったのかと、随分恨んだものでした。


でも、文句を言おうにも、母とは幼稚園の時に生き別れ、父とは小学校の時に死に別れていますから、どうしようもありませんでした。

「自分は、望まれて生まれた子どもではない」

そういった自己否定の気持ちが、少年期・青年期の私の心から離れることは、ありませんでした。

私の活動の源は、こんなネガティブなところからスタートしているのです。


両親は、私に何一つ残してはくれなかった、

そう思いながら、そのことがずっと心に張り付いたまま、私は、自分と同じような子どもの心の支えになりたくて、教師の道を志ました。


あれは、確か高校生の時、大学への進学が決まり、公園のベンチでぼんやりたたずんでいたときのことです。

何かが、ぽっくりと、私の心に浮かび上がってきました、


「 まてよ、私に何も残してくれなかったはずの両親だけど、たった一つだけ、私に残してくれたものがある、

それが、SHINOBU というこの名前・・

何はなくとも、それがあるから、自分の命がここにある、

それがあったからこそ、自分は教育の道を志すことができたのかも知れない 」


やっと、自分にも生きていく意味あったのだと、感じることができた瞬間です。

これが、私のアイデンティティ、

50を過ぎた今でも、その気持ちには、ほとんど大きな変化はありません。


欠点こそが、その人らしく生きていくことの裏返し、

この世に、意味なくして受けた生など、どこにもない、

あなたには、あなたにしかできない大切な使命や役割がある、


私が、これまで子どもたちに伝えてきたことのすべては、私自身が生きている意味を確かめること、そのものであるわけです。

人は、誰がために役にたつことでのみ、自分の存在を肯定的にとらえることができる、

それを捨てることは、私のすべてを捨てること、

だから、私は、絶対に折れない、


何をもってしても、不器用な私だけど、この決心だけは、ダイレクトに子どもの心に響きます。

君には、君にしか出来ない大切な役割がある、

私が、教科学習を通して、子どもったちに伝えたいのは、こんなこと、


そのためだけに、私は、どんなに苦しくとも、毎日のレッスンを積み重ねていくことが出来る、

力尽きるまで、生涯、私はこの歩みを止めない、


私の命が輝ける時間、

それは、あなたたちと共に過ごせる時間以外には、ありえないのです。



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子どもを変える深い決心

 2013-11-01
私のところには、高等部の子ども通ってくれています。

今年から高等部に通い始めた男の子は、小学校卒業してから、ずっと通い続けてくれています。

毎週火曜日、高等部から福祉タクシーに乗って来てくれていますが、いつも笑顔一杯、この子といるだけで、私の方が元気になってしまいます。


この子、大変達成動機の高い子ですが、それゆえに、細かい部分、例えば漢字の書字の時、止めのコントロールなどが、なかなかうまく行かないことがありました。

ところが、このところ、微細な手指の巧緻性が高まり、急にその部分に改善が見られ始めました。


これまでも、3年・5年と、多くの子どもの育ちに寄り添って来ましたが、子どもが化ける時は、いつもこんな感じで、ある日突然、急に改善されていくのです。

おそらくは、今回も、書字にかかわる脳内ネットワークが、何かのタイミングで、ぐるんと繋がっていったに違いありません。


ていねいに、ていねいに畑を耕し、水をやり、肥料をまいても、土の中は見えませんし、種の中がどんなに膨らんでいるのかも、見えません。

ですが、蒔かぬ種は生えませんし、打たぬ矢は当たりません。

そこに、子どもの成長を信じて、3年5年と積み上げていくことの大切さと、むずかしさがあるのです。


半年間位、死にものぐるいで頑張ることは、案外、誰にでもできることです。

ですが、むしろ、成果の見えない時をして、3年5年と積み上げることには、相当の決断と深い決心が必要です。

その深い営みこそが、結局は子どもを変える。


私は、これまで、幾人となく大変身した子どもの成長を見届けてきました。

でも、感動するのは、たった1日、

独立歩行を獲得した子どもは、翌日には、また、その子は次の目標に向かって歩き始めるのです。

教育とは、そういう営み、


その育ちの最前線で、日々子どもの成長と向き合っていけること、そのことを、私は幸せと呼ぶのだと考えているのです。



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