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心いやされる育ちの場

 2012-02-29
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太郎君が、先週から 「ケアリングレッスン」 に参加してくれるようになりました。

「ケアリングレッスン」 というのは、夕方3時~6時までの間、専任の担当者を付け、1日限定3名、安定した生活リズムと環境の中で自己肯定感を培う、就学後のお子様のためのレッスンのことです。


この日から、同じ学年(4年生)の女の子も、新しく参加してくれるというので、私、ちょっと様子を見に行ってみました。

太郎君は、ちょうど同じ部屋にいた0歳の子と、一緒におやつを食べていた所でした。

0歳児担当の職員と、りえ先生、そして太郎君、

何だか、とてもいやされる空間になっているのでした。


おやつを食べ終わると、太郎君、すぐに脇にあった机に移動し、宿題を始めました。

以前には、あれほど強い抵抗感を示していた宿題に、自主的に取り組み始めたのです。

学校でも時折見せていたあの不適応行動の要因は、一体何だったのかと、不思議に思えるような光景です。


程なくして、4年生の女の子もやってきました。

この子も、これまで私のマンツーマンレッスンを受けてくれていた子です。

この2人がすぐに仲良くなり、心の中にあたかたい気持ちが芽生えて来るだろうことは、その明るくリラックスした表情からすぐに伺うことができました。


この 「ケアリングレッスン」 というコンセプトを生み出したのは、私です。

太郎君と、この女の子とのコラボレーションを構成したのも私ですし、ここで育まれる内容についての全責任を負うのも私です。


私はこれまで、個別指導という学びの文化を切り開くことに、ある意味命をかけて取り組んできましたし、現役バリバリの実践者であることに、何よりの誇りをもっています。

だからこそ、子どもたちの笑顔のために、真に私がなすべきことを明確にしていかなければならないと思うようにもなりました。


この女の子や太郎君の笑顔が、一体何から生み出されてきたのか?

そして、後に続く多くの子どもやご家族のために、私は一体何をなすべきであるのか?

その問いは、私自身に大きなインパクトを与える結果となりました。


すべては、子どもの最善の利益にのために

その方向さえしっかりとしていれば、真心の通い合う学びの場・育ちの場は、いくらでも工夫できるし、そのアイデアもいくらでも構成できる、

今回の太郎君の笑顔は、私にそんなことを気づかせてくれました。


こうした手応えは、担当者のモチベーションも、きっと格段に向上させるに違いありませんから、






この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2011-2-29)






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苦しい場面こそが 子どもを育てる

 2012-02-27
この春、中学への進学を機会に私の所からも、卒業する子が何人かいます。

どの子も、教室を始めた当初からずっと通ってくれた子で、それぞれに忘れることのできない大切な思い出があります。


まさお君もその一人です。

4年生の時から、3年間通ってくれました。

籍は今でも支援級にありますが、6年の2学期からは完全に通常級での学校生活となり、「卒業証書を受け取る時には、通常級の先生から名前を名前を呼ばれたい」 というまでになりました。


この教室に通い始めた頃のエピソードは、たくさんあります。

初めてレッスンを始めた日に、「親に見捨てられた~」 の迷言?を残したのも、この子です。

90分のレッスンで、1枚のプリントをするのにも骨が折れたものですが、この頃は事前に決められた学習を毎回完全にやり遂げるようになりました。

本当に楽になりましたし、今では毎回のレッスンが待ち遠しいようになりました。

苦労が多かった分、感慨もひとしおです。


ある特定の分野には、とても優れた能力を示す反面、あいまいな言い方、婉曲な言い回し、場の状況や微細な感情理解ができにくく、話す言葉の表現がストレート過ぎて、とかくトラブルが絶えないタイプのお子さん、

それでいて、平素の言動とは裏返しの、とても傷つきやすくデリケートで繊細な心、

私は、何人ものそんなタイプのお子さんと、これまで一緒に歩んできました。


そうした生活面でのトラブルは、小学校中学年くらいから表面化するケースも多いように感じました。


そんなタイプのお子さんに、私がなすべき役割、

それは、

① 毎回の生活の出来事に傾聴し、受け止めてやることにより、事実と経過を整理して示してやること

② 共感的立場で、あるべき方向をさりげなく伝えながら、本人に意思決定をさせること

③ その子の良さと優れた点を、具体的な例を挙げながら評価すると共に、苦手なこともあるからこそ、自分の優れた点があることをとらえさせること

④ ご家族の代弁者として、自分がいかに家族から愛され、期待されている存在であるのかを伝えること

⑤ 肯定的な自己理解の力を育てていく一方で、自分の苦手な部分を受け入れ、別な方法でそれをコントロールしながら、他者を受け入れる心のゆとりを培っていくこと

そんなふうに考えて、これまで、毎回のレッスンに臨んできました。


昨日は、2年生の男の子のレッスンがありました。

お父さんは、外科のお医者様で、前日夜7時から、大動脈解離の12時間の手術を終えられて、おそらくはほとんど睡眠をとられることもなく、私の教室にお子様を連れてきてくださいました。

「患者様の容体にによっては、明日のレッスンに行けなくなることも考えられます。その時には、すぐに連絡します」

前日のメールには、そのように添えられていました。

きっと、朝までの手術であったに違いありません。

実際にお越しになったお父さんの表情には、ギリギリの人の命をさずかる責任の重さ、医師としての使命感、そして、大切な我が子にかける親としての気持ちが、深く刻まれているようでありました。


そうまでして、私の所に来てくださるというそのお気持ち、

これで、私の心のスイッチが入らないわけはありません。


我が子の課題について、十分過ぎる程、精査に受け止めておられるご両親、

ならば、支援者として、どんなに苦しくとも、私が胸を張って指し示すことは何か?

私には、主体者に成り代わることはできくても、そのご家族を支え続ける責務があると考えています。


私はこれまで、どん底の淵で、もうダメだと身を捨てる所から、浮かび上がってきたご家族に何度もめぐり合ってきました。

今、厳しい現実に向きあっておられるその時だからこそ、苦しくとも目の前に指し示す道しるべが必要です。

「多くの子どもの育ちにかかわってきた私の実践から見れば、この子は、将来きっと社会のリーダーとして活躍する子に育つと思います」

私が、そう申し添えると、明らかにご両親の表情に変化が見られました。



まさお君とのレッスンは、3月の終わり間まで、あと2回、

卒業式も、セレモニーもなく、いつも通り教室を後にしていくはずです。


子どもが、そしてご家族が、自分の足で力強く歩むことができるようになったら、私の役割はそれで終わりです。

やがて、このご家族も、いつかは私の所から巣立っていかれる日がくるに違いありません。


あるべき形、指し示す道しるべが、そんな簡単に見つかろうものなら、こんなに楽なことはありません。

だからこそ、一瞬一瞬に心血を注いで、子どもに向き合っていかねばなりません。


その日、その時を迎えるために、日々の学習のやりとりの中で、一体何を積み上げていくべきなのか?

そこを大切にしていきながら、私は今日も、子どもたちと一緒に歩んでいきたいと思っているのです。




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先生も選ばれる時代

 2012-02-23
保育園は、措置の時代から、直接契約の時代になりました。

「ここの保育園に行きなさい」 という措置の時代は過ぎ、「選ぶ方の自由もある代わりに、選んだことの責任もが伴う」 そんな時代になったのです。


選んだ・選ばれたという時点で、保護者と保育園は対応な関係です。

子どもの成長ということを共通の目的として、相互に協力する関係が必要なわけです。


選ばれない保育園は、やがて淘汰されます。

そのことで園の独自性や、保育・教育の質が担保されるわけです。

利用者の方には、いくつかの園の中から、その保育園を選んだということで、その保育・教育の方針に賛同し、契約を結んだという責任が伴うわけです。


今、私たちが行っている福祉・療育の活動も、直接契約にあたります。

それぞれが、特色ある療育や福祉サービスを提供し、子どもや保護者が、自分にあった内容や事業所を選び、契約を結ぶのです。

私たちは、子どもの可能性を信じ、ご家族と一緒に歩む福祉・教育的な色彩が強い活動をさせていただきたいと願っています。


学校も、一部ではありますが、保護者が選択できるように変わってきました。

ただ、保育園も学校も、先生を選ぶことはできません。

それは、組織として、トータルにその内容に責任をもっているからです。


私たちの所では、赤ちゃん体操、音楽療法、マンツーマンレッスン、グループレッスン、ケアリングレッスンと、それぞれに担当者をお知らせし、内容について説明をさせていただいた上で、保護者の方に選んでいただいています。


先日私は、それまで自分の担当していたある女の子を、音楽療法の先生に紹介させていただきました。

今のこの子には、音楽を通した感覚やコミュニケートの育てが、きっと大切になるに違いないと感じたからです。

さっそく、お母さんや先生との調整をして、音楽療法のレッスンが始まりました。


昨日が、その2回目のレッスンの日でしたが、教室に入ると、その女の子がにっこり笑ってすぐに音楽療法の先生の方を向いたのがわかりました。

時間が来てもなかなかやめようとしないその子の様子を見て、本当に良かったなと感じることができました。


りえ先生は、赤ちゃん体操の資格認定の研修を終え、活動にますます弾みがついています。

先日は、共同発表者のメンバーの一人として、「日本ダウン症療育研究会」 で実践発表をさせていただきました。


学校や保育園では、担任の先生を選ぶことは出来にくいと思います。

ただ、保護者から 「ぜひ来年も先生に受け持ってほしい」 とか、「今度受け持ってもらうなら、ぜひあの先生にお願いしたい」 とか、言ってもらえるような先生でいてほしいと思います。

そういう気概で、日々の実践に取り組んでもらいたいものです。

職員に対する一定の成果主義の内容も、重要ではないかと思っています。


直接、校長先生に 「来年は、あの先生にもってもらいたい」 と直訴すると、逆効果になる場合もあります。

でも、そういう直接的な方法ではなくて、意中の先生を引き寄せるケースを、私は何度となく見てきました。


先生や担当者は、それぞれが持ち味も違うし、その専門性も異なります。

だからこそ、選んでいただいたことを、何よりの誇りに感じ、日々の活動に取り組んでいるのです。


私の所には、県外から、何時間もかけてお越しになる方がたくさんいます。

先生を選ぶということは、ある意味、お子さんに今必要とされる教育的な内容が、明確になっていることを意味します。

我が子の今に、何が必要かの具体が明確になった方こそが、先生探しを始められるのです。


「誰でもいいから、うちの子を何とかして」

そんな考えの方がいらっしゃるとしても、その結果を背負うのはご自身ですし、だからこそ家族支援が重要となってくるのです。


私が、大阪や京都や神奈川に行かせていただいたのも、そこにご家族の明確な願いがあったからに他なりません。

ある意味私は、他の方にはない専門性ももっていますが、決してスーパースターではないし、オールマイティでもないからです。


先生を選ぶ才覚、

その鍵は、きっとそれを選ぶ利用者側の力量に負う部分が多いのではないでしょうか?


私は、ごくごく狭い内容を、今日もマニアックに掘り進めています。

ここだけは臨床の最先端、という自負もあります。

こういう私を育ててくださったのも、これまでかかわってくださったご家族の、熱い気持ちでしかあり得ません。


そういうものを選ぶか選ばないか?

その自由も責任も、その多くは利用者側にあるのです。


そういった意味で、今や、先生も選ばれる時代になっていると、私は思っているのです。





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母の願いが 言葉の世界の扉を開ける

 2012-02-20
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私の読解指導のスタートは、今から4年前、友里ちゃんとの実践からスタートしました。

「何とか、この子に物語の世界の扉を開けてやりたい」

そんなお母さんの熱い願いを受けてのスタートでした。


当時は、友里ちゃん、花子ちゃん、太郎君の3人しか生徒はいませんでしたから、オリジナル自作教材の作成に朝から晩まで取り組みました。

今となっては伝説の「夏休み個別集中講義 マンツーマンレッスン90分 毎週2回」 というものもありました。


友里ちゃんの場合、一文字一文字を精査するのは得意でしたが、文字を文章としてとらえる学習経験が十分ではありませんでした。

そこで、文字にはすべてルビをうち、わかりにくい言葉は事前に教えてやり、聴覚性のメモリーがキープできる容量で範読してやり、今度はそれを友里ちゃんに音読させ、文字を文章としてとらる学習経験を少しずつ積み上げていきました。 


何回目の時だったでしょうか?

「いろはにほへと」 という教材で、突然、友里ちゃんが吹き出し、腹を抱えて笑い出しました。

私は、この時の感激を忘れることができません。


「最近は、本屋に行って、本を買ってほしいって言うようになりました」

笑顔で、そんなふうに伝えてくださったお母さんの表情が、今でもしっかり心に焼き付いています。



土曜日には、明日香ちゃんのレッスンがありました。

4年生の女の子です。

月に1回、私の所に通ってきてくれています。


月に1回のレッスンを、どのように組み立てていくか、

お母さんとの話し合いを重ねていくうちに、文章を読み、物語の世界を味わうことのできる学習を積み上げて行こうということになりました。


これまで、いつくかの自作教材に取り組んできました。

この子も、45分間、一度も集中力を切らすことなく、学習に取り組むことができます。

いつながら、内発的な達成動機の高さに、こちらの方が圧倒されてしまいます。

このあたりは、友里ちゃんとそっくりです。


この日、「三枚のおふだ」 の最後の場面で、その明日香ちゃんが、ニカッと笑う瞬間がありました。

私は、その時、「ついに入ったな」 と思いました。

この瞬間のためにずっと取り組みを続けてきたし、4年前に、あの友里ちゃんが急にゲラゲラと笑い出した時と、全く同じシチュエーションだからです。



映像には、映像でしか味わえない魅力があります。

音楽には、音楽でならではの空間があります。

それと同じように、物語には、文章をイメージ化することでしか体感できない、楽しい世界があるわけです。

今、まさにこの子は、その扉を開けることができたのです。



↓ その日のレッスンが終わって、程なくして、明日香ちゃんのお母さんから次のようなメールをいただきました。


SHINOBU先生

今日はありがとうございました。

レッスンのあと、いつものように、ふたりで食事に。

注文を終えて、ほっと一息ついた時に、「三枚のおふだ」のことを話題にしました。

最後は、小さくなって・・・食べられちゃうよね~と、私が言うと

明日香は、その光景を思い浮かべるように、にやっと笑って、うんうんと頷きました。

そして、

化けるところが、おもしろかった

頭の中で、化けるところが、うかんできたんだよ。

というようなことを、ちょっと興奮したように話してくれました。


感動の瞬間でした。

この一言を、是非先生にお聞かせしたかったです。

今日、明日香は、物語の世界に、どっぷりと浸ったのです。

明日香は、こんなところまで、登ってきたのです。


物語を読み

物語の世界に入り込み

笑ったり、泣いたり、びっくりしたり、怒ったり・・・


明日香は、物語と友達になれました。

これからが楽しみです。


先生に、読解をお願いして、本当に良かったです。

国語の成績なんて、ほんとはどうでもいいです(笑)

読み取りの力なんて、ほんとはどうでもよかったのです。


物語を読んで、にやっとして欲しかっただけです。

本と一緒に、ドキドキして欲しかっただけです。

ありがとうございました。

これから、きっと明日香の世界は、どんどん広がっていくでしょう。




この日のようすは、お母さんのブログにも書いておられました。 (→「明日は晴れる」)




友里ちゃんとの実践があればこそ、この日の明日香ちゃんのレッスンがあったわけです。

そして、この明日香ちゃんとの1日は、必ず、次の子のレッスンへとつながっていくのです。





私の母は、私が幼い頃、ある日突然、2冊の本だけを置いて私の元から遠く離れていきました。

その1冊が、「ギリシャ神話」

もう1冊は、「太平記」でした。


その本の裏表紙には、直筆の母の言葉が添えられていました。

私は、その本を、毎晩毎晩、何千回読み返したか知れません。

今でも、その挿絵や本のシミに至るまで、私の心で息づいています。


ストーリーに込められた人の真実、

私の活動は、すべてここからスタートしているのだと、信じているのです。




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次のステージへと歩み始める母と子

 2012-02-17
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私の教室には、いつも保護者の方とご相談をさせていただく席があります。

これまで、ゆうに100人を越えるご家族のご相談を、その場所で伺ってきました。


その場所、その席で、何人ものお母さん方が、ハラハラと大粒の涙を落とされました。

心の中でがんばってきた、踏んばってきた思いが、いちどきに、わき上がってくるのでしょうか?

そんな光景を、何度も何度も見つめてきました。


ご相談には、一番しんどい時の真っ最中に、ここにお越しいただくケースも多いように思います。

そういう時に、私のような立場の者が、そばにいて差し上げること、


涙をぬぐわれたお母さんは、やがて少しりりしい表情に変わり、遠くを見つめるように、背筋を伸ばして歩いて行かれます。

次のステージに向けて歩む覚悟と決心を、この日この場所で、なされて帰られるわけです。

その日、そのとき、一番苦しい時にそばにいて差し上げることが、私のなすべき大切な支援の形なのです。


この4月に、中学への進学を機会に、何人かの子どもが、私の元から巣立っていきます。

3~4年生の時から通ってくれている子が、ほとんどです。

そのアプローチは、それぞれに違っていて、私にとってはかけがえのない1回1回のレッスンの積み重ねだったように思います。

本当に、抱きしめたくてたまらないような時間です。


中学の支援級に進む子、

通常級から、通常級へ進む子、

中学から、これまでの支援級在籍が、通常級在籍に変わる子もいます。

まさに、それぞれの子が、それぞれのステージに向かって歩み始めるのです。


私は、同じ子どもに毎日接しているわけではありません。

そんな私が子どもたちにしてやれること、

それは、内発的な学びの意欲を育てること、自分らしく前向きに歩んでいくためのサポートをしていくことだと考えて取り組んできました。


変わったのは、決して子どもだけではありません。

私は、初めてご相談にお越しいただいたときの、あの表情を、片時として忘れることはできません。


私もかなり自由な立場でしたから、通り一遍の相談ではなくて、随分変わった動きもさせていただいたように思います。

でも私は、その日その時、結局はそばにいて差し上げただけで、決してスーパーマンのような活躍をしたわけではありません。

物事を前に前にと進めて行かれたのは、主体者であるご自身以外にはありえません。

これが、私のできる支援の一つの形であると思っています。


多くのお母さん方は、今や所属される団体の中心となって、ご活躍をいただいています。

子どもたちのために、大きな流れを作ろうと、日々ご尽力いただいている方もたくさんいます。

我が子の大きな課題に立ちつくし、たった一人で立ち向かおうとされている方を見て、知らないふりは決してできないのです。


今日もまた、新たにご相談にお見えになる方がいらっしゃいます。

親の代わりは、私にはできない。

でも、決して孤独にはさせない、

すべてのことを、家族だけに抱えさせてはならない、


やがて、涙を拭いて、力強く歩み、次のステージに向かわれるその日まで、

私はこの日から、また一緒に歩んでいこうと思っているのです。




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子どもとつくるレッスン

 2012-02-15
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私の所には、中学生の子も来てくれています。

特別支援学校中等部に通うダウン症の男の子もその一人です。


小学校は、地域の小学校の支援級に通っていました。

小学生の時期に地域の小学校で過ごしたことで、多くの大切なことを学ぶことができました、

また、中学校から大学の附属の特別支援学校に行くことになり、専門性豊かで、愛情一杯の先生と出会えたこともとてもありがたいことだと感じています、

SHINOBU先生には、週に1回ではあるけれど、この子の気持ちに寄り添った個別指導の時間を与えていただければと思っています、


お母さんは、そのように私に伝えてくださいました。

中学1年生の時、特別支援学校の先生がお二人、私の教室を訪ねてくださいました。

先生たちは、教室に入ったとたん、とても驚いた表情をされました。

それもそのはず、そのお二人の先生とは、私が大学院にいたときに、親しくさせていただいた間柄だったからです。

こんな感じでご縁がつながっているものかと、とてもうれしく感じたものです。


実は私、こんなことではいけないと思いながらも、昨日は少しテンションが下がり気味の状態でした。

でも、この子が教室に入ってくれただけで、そのテンションを目一杯明るいものに変えてくれ始めました。


> 先生、トイレ行ってもいいですか?

> ごめんなさい、おそくなりました

> さあ、カードの勉強をしよう


構音がやや不明瞭なことがありますから、言っている内容がうまくキャッチできないこともあります。

ですが、1年2年と一緒に学習を重ねていくうちに、共有する内容も、その関係もだんだんと豊かなになってきました。


この日の中心教材は、上の画像のような2語文のカードでした。

> ガラスを割ったの、いけないなあ

> きっと、ボールが当たったんだね、気をつけないとあぶないね


> シチューを煮る? いいねえ

> そう、先生もシチュー大好きだよ


絵でイメージを共有するので、通い合う内容がとても豊かになります。

プリントの読解問題も、毎回積み重ねて学習を続けることが出来ています。


レッスンを終わる頃には、私のモチベーションがすっかり上がってしまっていることに気がつきました。

この子との意味のある学習時間が、私の気持ちをいつの間にか、そこまで押し上げてくれていたのです。


この子と、ご家族と、私、

それぞれがそれぞれの願いをもち、それぞれの出会いの中で接点を見つけ、これまでの学習内容をつくりあげてきました。


まるでキャストがオーディエンスに支えられ、会場と一体となることにより、演技に魂が込められていくように、私は、こうしてこの子とご家族と一緒に学びの場を作り上げているのでしょうか?

その子の学びに寄り添うというのは、きっとこういうことを指すのに違いありません。


こういう醍醐味も、個別指導にはあるんだな、

この子にとっても、私にとっても、いつの間にかこの時間はなくてはならない大切なものになってきました。


じゃあ、今度は2月21日、

いつも次に来る日を確認してから、その子は教室を後にします。


この子は、いつもここに来る日を楽しみにしています、

先生に、そう言っていただけれると、親としては本当にありがたく思います、

お母さんは、いつもそう私に伝えてくださいます。


この時間は、ご家族が、この子のために付託した大切な時間、

そのご期待に少しでも応えようとして、育てていただいたのは、私も同じことです。

私は、可能な限り、これからも多くのご家族と一緒に歩んでいきたいと願っているのです。




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数値化できない言語のアプローチ

 2012-02-13
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先日のレッスンのことです。

ある女の子が、歌の絵本を指さしながら、「ぽけもんもん」 と言いました。

ぽけもんもん??

というか、私には 「ぽけもんもん」 と聞こえちゃったわけです。


でも程なくして、それはポケモンのことではなくて、「ゆきだるま」 のことだとわかりました。

「そう、ゆきだるまのことなんだね、じゃあ一緒に歌ってね」

そう言って、私がタッチパネルの 「ゆき」 の所を押すと、「雪やこんこ♪ あられやこんこ♪」 と、それはそれは楽しそうに歌い始めるではありませんか?


「ころたろ」 は、 「ももたろう」 のこと、

「まくら」 は、「ゆりかごのうた」 のこと、

「もしもし」 は、「うさぎとかめ」 のこと、

「あるこう」 は、「さんぽ」 のこと、


この子にとって、自分でタッチパネルを押すことは、ごくごく簡単なことなはずです。

そうではなくて、自分の言ったことがきちんと私に伝わり、コミュニケーションが成立した中で、先生と大好きな歌を一緒に歌いたいわけです。

先生に、タッチパネルを押してもらうという意味がそこにあるのです。


「しのぶせんせい、押して」

「ここ押して」

「あるこう、うたう」

「もう1回」

「押したらいけん」

構音にやや不明瞭な部分はあるけれど、言語がコミュニケーションツールとして、生きて働き始めたのです。


かつて私が、英会話のNOVAに通っていた頃、私のへたくそ英語を、きちんと受け止めてくれた先生のことを忘れることができません。

いや~、うれしかったですね

仕事のこと、私が目指していることを、外国の先生にちゃんと伝えることができ、内容を共有できた喜びは、その後の私の英会話のモチベーションを飛躍的に向上させました。

伝えられること、通じ合うことは、人としての大切な基本的な欲求の一部であるに違いありません。

だから、楽しいわけです。


今でも、この子の表出言語を、100%キャッチできているわけではありません。

何を言ったかわからないのに、適当に、「うん、そうだね」 などと返したりすると、極端にがっかりした表情を浮かべるものです。

子どもの心は、ごまかせません。


まずは、子どもの内発性を信じ、尊重すること、

自己決定・自己選択できる素材、教育的に意図され、整理された教材を用意しておくこと

活動の内容や体験を共有すること、

それがあるからこそ、「ぽけもんもん」 を、「ゆきだるま」 とキャッチできるわけです。


週に1回、私たちに与えられた大切な時間、

ご家族の信頼や願い、

恵まれた環境、


この日、活動が楽しすぎて、終了時間が来てもなかなか帰ることができなくなってしまいました。

検査データやプリントのように、数値化されたもので、なかなかレッスンの内容や手応えをお伝えすることはできにくいものです。

だからこそ、私がしなくてはならない内容があるはずです。


休まずにずっとずっと通ってくれる子どもたち、

その心の芯に残る力を、培うことができればよいのだけれど・・


ぽけもんもんがちゃんとキャッチできたこと、

この子が伸びていくための、大切な一歩にして行きたいと願っているのです。




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子どもの心に寄り添うということ

 2012-02-10
先週の日曜日、

この4月に就学を迎えられる男の子のレッスンをさせていただきました。

この日が、初めてのレッスンの日でした。


なかなか教室に入ることができず、教室の入り口まで来たとたんに固まってしまい、そのまま一旦、園庭の方へ戻っていってしまいました。

こりゃ、今日は無理かも知れないな、そんなふうに思ってみたりもしました。


数分して、ガチガチに固まった超緊張モードの男の子が、教室に入ってきました。

私は、そのようすを見て、かわいくてかわいくて仕方がありませんでした。


事前にご家族から、検査データをいただいていましたので、一定のイメージはできていました。

が、そのようすを見て、私は一部をすぐにシフトチェンジすることにしました。


ここにはマニュアルがありませんからね、

最優先すべきは、子どもの今

その子の今に寄り添えない個別指導になったなら、それはとても残念なことです。

私は、これから続く長い道のりの第1ページを、何とかこの子の心に残るものにしてやろうと思いました。


「なるほどそうか、動作性と言語性の数値がこれだけ乖離していたら、きっと本人が抱えている内容もいろいろとあるはず、ならば最初は長所活用で組み立てるのに限るよね」


それに近い内容が、何となくその子の表情から、伝わってくるような気がしました。

用意していたプリントをそっとボックスにしまい、まずはお試しにと、パズルやパソコンを導入に使ってみました。


そして、関係が少し温まってきたところで、小学生向けのオリジナル読解プリントをさせてみました。

パズルよりも、パソコンよりも、このプリントができることの方が、きっとうれしいはずだと思ったからです。

このプリントは、こんな子のために作ったプリントですから・・


何とか、この日のレッスンを無事終了することができました。

レッスン修了後、私はお母さんに 「お家に帰られてからの、レッスンに対するお子さんのリアクションについて、メールでお知らせいただけますか? 次回以降の参考にさせていただきますので」 そうお伝えして、その日はお帰りいただきました。


私は、はにかみながらも、少し昂揚したオーラをその子の背中に感じていました。

わずかだけど、何かがつなっがていく方向が見えてくるような心持ちになっていました。


程なくして、お母さんから以下のようなメールを送っていただきました。




日曜日はお世話になりました。

レッスンに行く前の不安からのパニックが嘘のように、 先生のお部屋を出てすぐに(本当に階段をおりながら) 「また ここに来る」 と言いました。

車の中でもとても楽しそうに先生の名前を聞いたり、 尋ねると 「秘密」 と教えてくれないのに、レッスンは何をしたかと私にあてさせたかったり、よくしゃべりました。

そして「お母さん 人生は坂ばかり というけど健ちゃんは今 下り坂じゃ 来るときは上り坂だったけど」とも。


楽しいレッスン、

今まで考えてみたこともありませんでした。

集団療育・個別療育・作業療法・言語訓練 どれをとっても がんばるもの 本人にとっては本当は行きたくないものでしかなかったのに 、自分でまた行きたい というところまでたった40分で何がどうなったんだろうと、主人と驚いています。

もちろんこの先、 楽しいばかりのレッスンではないと思いますが、 苦手なことをがんばらせること、耐えること を主にやってきた私達は、 彼のいいところを伸ばしてやる、 認めてやる、 ということを後回しにしすぎたのではないかと、楽しそうなこの子のようすをみて思わざるをえませんでした。

次に行かせていただくのは先のことなので、また不安になってしまうかもしれませんがいろいろ楽しい体験など思い出させながら一緒に通わせていただけたらと思っています。

これからもよろしくお願いします。





私は、私の教室から巣立っていく子どもの後ろ姿を、何度も何度も見送ってきました。

そして、それが決してテクニカルな要素の積み重ねでは、成立しないことを感じてきました。


子どもの心の大切な部分を、しっかりと見つめ、それをていねいにはぐくんでやれば、やがて子どもは自分の足で歩み、自分の羽で飛び立てるようになってきます。

自分の命の輝きは、他者とのかかわりの中から、感じるもの、

ご両親の付託を受け、私が子どもたちを支えのは、きっとその部分であるに違いありません。


あなたは、どんな時に心の芯から楽しいと感じますか?

私の場合のそれは、少しでも自分が、誰かのためにお役に立てていると感じたときです。


この子もきっと、みんなの中で、自分の輝きを感じていたいに違いありません。

その気持ちを育てるのが、私の大切な仕事、

その大切な一歩が、この日からスタートしたのです。




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すべては子どもの笑顔のために  ~就園・進級・就学に果たす家族の役割~

 2012-02-08
独立歩行を獲得し、赤ちゃん体操を卒業した子が、グループレッスンにデビューしてくれました。

中には、初めてお母さんのもとを離れて、お友達と一緒に活動を始めた子もいます。不安や緊張を乗り越えながら、みんなと共に育つ楽しいステージがここから始まるのです。


子どもの育ちのすべてを家庭だけが負うことはできません。

子どもは、みんなと共に伸びていく存在です。お友達と一緒に活動し、社会的な体験を積み重ねながら、それぞれの先生による教育的な愛情を受け、人としての大切な資質を培っていくのです。


どの子も、生まれながらに、それぞれの特性に応じた豊かな教育を受ける権利をもっています。

その道は、決して1本道ではありません。

それぞれの子には、それぞれの子にふさわしい道があり、それを選択したり、構成したりしていくことが必要です。そのための支援機関も自己責任で選ぶ時代になっているのです。


発達面に何らかの課題のあるお子様の場合、それぞれのお子さんの特性に応じた個別的なアプローチが大切です。

だからこそ、それと同じように、この子をこれから集団の中でどのように育てていくかというビジョンをもっていたいと思います。


障がいがあっても、ここに入れてあげるという発想は、あまり望ましいものではありません。

あなたは、うちの学校(園)の大切な子ども、社会の大切な宝もの、だからこそあなたの育ちにぴったりの個別的な内容を工夫させてください、というのが正解です。              


私はこれまで、我が子の学びや育ちの環境づくりのために、懸命にご努力をされたご家族と一緒に歩んできました。

決してそれは平坦な道ではありませんでした。


集団の中では、いろいろなできごとが起こります。時には思い通りに行かないことや苦しい場面もあるでしょう。

きっと、良いことばかりではないはずです。

だからこそ、成長があり、感動があり、喜びもあるのです。

自分がみんなから必要とされている、そう思えることにより、子どもは肯定的に自分をとらえることができるのです。


就園も就学も、選べばそれで終わりというものではありません。

その後の連携も大切なポイントです。

局面、局面で考えていかなくてはならないことも、たくさんあります。


すべては、この子の笑顔のために、

そう思えばこそ、どんな困難も打ち抜くことができます。


ご家族の大切な一歩は、きっとそこにつながっているに違いありませんから。




この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2011-2-09)



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教育と療育の間にあるもの

 2012-02-06
先週、個別支援計画作成にかかわる県の研修会に参加しました。

演習を中心とした2日間の内容でしたが、多くのことを学び、たくさんのことを感じてきました。


グループワークでは、いただいた子どものエピソードやデータをもとに、模擬支援会議通して実際に個別支援計画を作成してみました。

個性豊かで、たいへん優秀なグループの中に入れていただきました。


データや行動の読み解き、その内容を分析して、今なすべき目標を精査していくプロセスや手法を体感することもできました。


会の終了後に、隣に座っていた方と名刺交換をさせていただきました。

そこには、小さな文字で 「臨床心理士」 と書かれていました。

なるほど、この人はただ者ではないと思っていましたが、そういうことでしたか、

改めて療育的なアプローチの実際について学ばせていただく、貴重な体験となりました。


療育機関は、就学前のお子さんが中心、

就学前には、療育を受ける機会も多かったけど、就学後となると、そうしたサポートを受ける機会が急に少なくなってしまう、

これまでそんな声を何度も聞いてきました。


療育のアプローチを、教育の現場に取り入れることにより、これまで多くの面で多くの改善や進歩が見られました。

特別支援教育の切り口は、そういう所からスタートしたように、私は感じています。


しかし、教育のプロにとっての療育的な視点は、取り入れるべきものであったり、学ぶべき内容であったりしても、決して教育そのものに取って代わるものではないと思っています。

療育的なアプローチを、十分咀嚼しないままに、そのまねだけをしても、きっとあまりうまくないはずです。

「ショートターンの分析→プログラム」 だけでなく、学習内容から培う能力開発という、「人間形成の視点から見たロングターンの学びのスタンス」 を、教育はしっかりともっておくべきだと思っています。

それぞれがそれぞれの持ち味と専門性を生かして、うまく機能連係を図っていくことこそ、子どもの最善の利益に通じるものだと考えるのです。


学校の先生は、教育の専門性を明確にした上で、療育的なアプローチを可能な限り生かしていく才覚と、ふところの深さをもっていたいものです。

療育の担当者は、教育の主体者としての学校の専門性を十分に理解した上で、実際の教育現場に生かしていくためには、どういった配慮が大切であるかを明らかにしながら、有効で具体的な支援を示していきたいものです。


そのはざまで、ご家族や子どもたちが揺れることがあってはありません。

多様性というのは、子どもやご家族にとって、決して不利益なことではないはずです。

むしろ制度や切り口やスタンスが違うからこそ、その相互の役割が明確に見えるということもあります。


子ども中心、

その視点があってこそ、相互の専門性や連携の中身が明確になるというものです。


あの臨床心理士さんがいらしゃる事業所から、この春から、私の所に来てくれる子もいます。

これまで育ててくださったその大切な芽を、これからもずっとていねいにはぐくんで行かなければならないと思っています。

責任は、重大です。


持ち味と個性を明確に示しながら、ご家族と子どもに信頼され、選んでいただける内容を示していきたい。

主体者と共に歩む支援者の役割を、しっかりと自覚しながら、自分の役割と専門性をさらに豊かにしていきたいと思っています。


子どもの成長と幸せを中心に置くからこそ、つながる中身も、家族と共に歩む道も、きっと見えてくるのです。



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母の願いにかなう実践

 2012-02-01
京都でのレッスンがありました。


この春に、年長クラスに進級するダウン症のお子さんと、数の遊びをしていました。

お母さんは、この子の行動面の安定を、いつも心に願っておられました。

小さい頃は、離席したり、コントロールが効かなくなることや、衝動的に物を投げてしまうような場面も何回かありました。


この日は、制御不能になる場面は、一度もありませんでした。

言語による応答的なやりとりも、回を重ねるごとに豊かになってきました。

それよりも何よりも、この子と通い合う非言語の内容は、とんでもなく高いレベルに到達してしまったと、この日のレッスンを通して、私は強く感じてしまったのです。


私は、限られたこのマンツーマンレッスンの空間の中なら、ほぼパーフェクトに、この子の行動を予測したり、その行動を維持させる要因を読み解くことができるようになりました。

それは、私の感度だけが一方的に高まったのではなくて、その子とインタラクティブに通い合う体験を積み上げていくことができた、ということなのだと考えています。


この日、お買い物ごっこをしました。

りんごは3個で30円、バナナは2個で20円、トマトは5個で50円、

1対1対応で十円玉を並べていきます。


この子は、このお買い物ごっこが大好きです。

この日も上手に、りんごの横に10円玉を3個並べることができました。


ところがこの日、りんごを選択した後に、さらにバナナを要求しました。

普通なら、活動のねらいを逸脱してしまいますから、「まず、りんごのお金をください」 と、投げかけるべきです。


でも、私はすぐにピンときました。

この子、足し算やって、もっと大きい数の勉強が勉強がしたくなったのです。


「3個と2個と5個と、合わせて何個になるのかな、数えてみよう」


10円玉を3個、2個、5個並べて、その十円玉を1・2・3・4・・・・と、10まで数えることができました。

1対1対応ズレませんね、すばらしい内容です。


その後、お財布の中の10円玉、全部で40個くらいあったでしょうか?

全部机の上にひっくり返してしまいました。


本当なら、「何やっているの?」 と注意しなければならない場面かも知れません。

でも、この子きっとたくさんの数を、感覚として量的とらえたかったのです。


しばらく見ていると、今度は100円玉のお財布もひっくり返してしまいました。

おまけに、それをぐちゃぐちゃに混ぜ始めました(笑)


お母さんが横にいたら、まるで気絶でもしそうな場面ですが、私はニコニコと笑ってしばらくそれを眺めていました。

さて、もうこれくらいかというタイミングで、「お財布入れるの手伝ってくれる?」と問いかけると、ていねいに100円玉と10円玉を選別して、お財布に片付け始めました。

やっぱりなと思うと同時に、予想以上に、すごい勢いで数感覚が伸びているなと感じました。


ハイライトは、この後にもやってきます。

もう一度10円玉10個を机の上に並べると、先生・私、先生・私・・・というように、5個ずつ均等にお金を分け始めました。

まるで3年生の割り算の導入、等分除の操作活動そのものです。

私たち2人、いったいどこに行ってしまうのでしょう?


完全に異次元の空間に飛び立ってしまいました。(笑)


例えば前回、パソコンに熱中していた子がいたとします。

ならばということで、次回いきなりパソコンを開くと、たいがい振られてしまいます。

もうたらふくやったから、次は何にシフトするかなって読み解く方が、歩留まりが高いです。


系統性のあるプログラムで、小さなステップを刻む方法

これがスタンダードな、学びの王道です。


私の場合は、育てたいねらいは誰よりも明確にもっていますが、材料自体は何であっても、その日その時で、どんな風にでも味付けができます。

これは一子相伝、いつでも誰にでもできるというものではなく、マニュアル化できない秘伝のたれのようなものです。

マンツーマンレッスンのみで、年に2000時間

それを4年やって、やっとここまで来ました。


だからこそ、こんなレッスンは、月に1回で良いという部分もあります。

基本、子どもは、集団の中で育つのです。

毎日の白ごはんこそが、子どもを育てるのです。


学校・園の先生が、もしこの姿をご覧になったとしたら、どう思われるでしょう?

きっと、学校・園のなすべき役割がより一層明確になるのではないでしょうか

母の役割も、さらに明確になるのではないでしょうか?


一歩扉を開けると、子どもは日常の世界に帰っていきます。

この子も、そんなことは十分わかっています。


私は、岡山に帰ります。

道中の新幹線の中、

私の心の中でも、いつまでもいつまでも、楽しかった今日のレッスンの光景が、繰り返されています。


お母さんからいただいたレッスンは、この日、とってもステキなプレゼントになったのです。


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