数量をイメージできる子に育てたい
2011-10-28

例えば、5+2という問題があったとします。
5という数に○印をつけて、6・7と数えたすやり方があります。
それはそれで、大切な数との出会いができているのです。
でも、これを5のかたまりと、2のかたまりをイメージして、念頭操作で7と出来てこそ、たし算の本当のよさに触れることができるのです。
たし算では、単に答えが出ると言うことだけでなく、数の合成や分解ができるということも大切な要素となってきます。
9+6を15と暗記しても答えはでます。
でも、9は10より1少ないから、6のはみ出した1個を9にはめれば10、残りは5という見方ができれば、色々な場面に役立ちます。
9+9の計算で、1から順番に18個数えたしている子、
9の足らない所に1個持ってくるという数の合成分解の発想があれば、あっという間に18と答えられるようになります。
9引く8の引き算
9本の指を、1本ずつ8回折っているうちに、答えが0になったりするのは、よくあることです。
もしもこの子に、9と8のブロックの量的なイメージが焼き付いたなら、違いは一つという、減算のプロフィールが、よりはっきりとつかめるに違いありません。
そういう子は、答えが 0 とは言わないのです。
数に対する豊かな見方を子どもに育てたい。
点数には現れなくとも、その力は一生ものです。
1対1対応ができるようになったら、あきらめずに、合成分解の力はどうしても育てていきたい。
これは、できないのではなくて、やらせなかったからだという仮説が、私の心の中では、日に日に広がってきています。
それができてこそ、位取りや単位の世界の扉が開くのだと考えています。
ダウン症のお子様の場合、滑走路を長くしてやれば、結構イケルということも分かってきました。
これは、肯定的な自己理解、豊かなコミュニケーションの醸成と共に、私の大切な夢の柱となっています。
とても楽しく、やりがいのあるチャレンジです。
指導性や方向感があれば、子どもは必ずついてきます。
そこに大切なものがあるならば、日々子ども共に歩む道のりが、楽しくないはずがありません。

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子どもを救う メタ認知の力
2011-10-24
私の究極の教育目標は、「肯定的な自己理解の力を育てる」 ということです。そのアプローチや切り口は、いくつもに分かれていますが、すべての活動は、ここにつながっていると思っています。
それこそが、子どもの成長と幸せのために私のなすべき役割だと信じ、そのために私は、毎日活動を続けているわけです。
肯定的な自己理解の力を育てていくためには、まず、ありのままのその子の姿を、受け入れることからスタートします。
子どもの存在は、唯一無二の絶対的なものです。
たとえそれがどんな姿であっても、その良さや課題を、なるべく正確に把握する力量が支援者に求められます。
力は強いが、スタミナはない、
視覚刺激には強いが、聴覚性刺激には弱い、
言葉は豊富だが、身も蓋もない言い方をして相手を傷つけてしまう、
長所は、別の角度から見れば欠点であり、短所や課題の裏側には、必ずその子の良さが見え隠れしているものです。
決して、欠点や課題を、そのままにして良いと言っているわけではありません。
教育の力で、必ずそれを望ましい方向に向かって歩んでいかせたいと思っていますが、欠点は、同時にその子の良さの裏返しであり、それがあるからその子らしいし、その子の良さも光るのだと考えています。
これが、私の子ども観と言えるのかも知れません。
良くも悪くも、これが私、
そういう風に、苦手な事も含めて、自分を受け入れることができると、心に余裕ができます。
客観的に自分を見つめることができる、いわゆる 「メタ認知」 のモードに入って行きます。
こうなると、困っているお友達を見たとき、きっとあの子は今、こんなことで困っているんだ、オレも前は一緒だった、だったら一緒に誘ってあげよう、というように、相手の存在も受け入れるゆとりも生まれてきます。
もしかしたら、相手の人を傷つける言葉を言ったのかも知れない、と気がつくこともできるようになってきます。
苦手だけど、やるだけやってみよう、という前向きな気持ちをもてるようになってきます。
私は、こういう子どもを育てたいのです。
そのために、まず私がしなければならないこと、
それは苦手なこと、課題点を明確に把握した上で、その子の良さを正しく伝えてやることです。
いくら自分で良いと思っていても、誰かに認めてもらわない限り、そのことを確かめることはできません。
ましてや、自分の課題に懸命に取り組んでいる子なら、なおさらです。
私は、その子の課題を明確にすることと、その子の良さや命の輝きを見いだすことは、両立できると考えています。
私の考えるメタ認知力とは、欠点も含め、ありのままの自分を肯定的に受け入れたうえで、自分をコントロールできる力のことを指しています。
ありのままのあなたはステキ、
自分の良さを生かして、みんなのために何かの出来る子は、もっとステキ、
人は、人とのかかわりを通して、初めて自分の存在の意味を確かめられます。
私の支援は、いつもそこを目指していきたいと願っているのです。

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育てにくい子どもの子育て
2011-10-21
以前、名古屋で講演会をさせていただいたことがあります。その時には、星の子ステーションのスタッフの方をはじめ、名古屋近隣の方々の、熱心であたたかいお取り組みに強く心を打たれました。今年は、11月27日 NFCC名古屋文化短期大学に松久眞実先生をお招きしての講演会があるようです。
とってもステキな内容のご講演だと伺っています。機会がありましたら、皆様、ぜひご参加ください。
↓ お申し込み、連絡先は下記のご案内の通りです。

☆ 連絡先 星の子ステーション
hoshinokostation@angel.ocn.ne.jp
090-6365-8455(岩堂)

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子どもを育てる 教育の仕事
2011-10-19


私たちがサポートさせていただいている年長クラスの男の子が、一輪車に乗れるようになりました。
りえ先生が、毎週、保育の現場にサポートに行き、実践記録を残してくれています。
今日は手を離して2M、次の日は5M・・・
そんな報告を目にする度に、もうこれはすぐに乗れるようになるなと、と確信していました。
程なく、「運動場1週できました」 という報告があがってきました。
お母さんは、その事をとても感激してくださり、目頭を熱くされていました、
「先生のおかげです。ありがとうございました。」
そう言って、私にも頭を下げてくださいました。本当にありがたいことです。
でも、この子を育てたのは、私でもなく、りえ先生でもなく、担当の保育士と、それを支えてきたクラスの仲間たちです。
日々の取り組みは、大きいですね、
子どもは集団の中で育つ、子どもを育てるのは教育の仕事、
その姿を、目の当たりに見せてもらいました。
私たちは、個の発達にかかわる専門的な視点から、より豊かな子どもの学びと育ちをサポートさせていただくのが仕事です。
決して教育にとって変わるものではないわけです。
横にいた園長 (私の家内) に尋ねてみました。
> 広汎性の課題のある子は、協応運動が苦手というのは定説だけど、うちの保育園でこんなふうに一輪車まで乗れるようになった事例はあるの?
> ケースによって違うけど、他にも乗れるようになった子はいるよ、それに、私たちはこの子の特性を理解して育てようとは思うけど、基本みんなと同じスタンスで育てているから・・
なるほど、そりゃそうか・・
そうしているうちに、竹馬やマット運動、跳び箱運動が始まり、その子も見事に側転を決めてる姿が目に飛び込んできました。
ちょっと見ないうちに、この子は、ここまで育っていました(驚)
今週末が運動会、
プログラムの中には、りえ先生が個別にサポートしてきた演技も含まれています。
こうした子どもの成長を見ればこそ、私たちが、どこに軸足を置いてサポートさせていただけばよいのかも明確になります、
私は、密かにこの子の数量の認知力に注目しており、どうやってそこを伸ばして行こうかと、毎回試行錯誤を繰り返す毎日です。
> 先生、小学校へ行った後にも、うちの子のサポートをしていただけますか?
もちろんです、
たとえ保育園を卒園しても、その先も、ずっとずっとご家族と共に歩み続けることが、私たちの専門性なのです。
学びや育ての主体者である学校・園やご家庭があればこそ、私たちのなすべきことや、専門性が生きてくるのです。
連携とは、そういうことだと私はとらえています。
運動会の晴れやかな舞台で、生き生きと自分らしさを発揮して、大きく育つ子の姿を見守ることこそ、私たちの醍醐味、
そのためになすべき役割や、支えの形がどうあるべきか?
私たちは、そのことをずっと見つめながら、歩んでいきたいと願っているのです。

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こんなにも違う 自治体や学校による特別支援教育の構成
2011-10-17
今、来年度のお子様の就学について、とても重要な局面を迎えられている方も多いのではないかと思います。私は、他府県の方のご相談も、何件か伺っています。
先日も、あるご家族がご相談にお越しくださいました。
来年、小学1年生になるお子さんについてのご相談です。
まず、その自治体のお子さんの受け入れ体制について、驚かされました。
ダウン症のお子さんで、適切な理解のもと、行き届いた教育環境の構成が必要なお子さんです。
支援級在籍でありながら、まずは通常学級の中で、しっかりとした居場所が確保されている、
と言うより、すべての子を、大切な子どもとして、通常学級の中で育てていこうというスタンスが明確になっている、
もちろん、支援級に籍があり、支援級の先生がいらっしゃいます。
つまり、大切なクラスの一員として、まず通常級の中でしっかりとインクルードしながら、その子の特性理解に基づいた行き届いた教育を実施しようとしているわけです。
それは、特別にこのご家族が要求されたからということではなく、市の特別支援教育の方針自体が、こうなっているということなのです。
以前、情報としてチラッと聞いたことはありましたが、実際にこんな地域が、実在することを肌で感じ、私の方が驚いてしまいました。
ある地域では、支援級在籍でありながら、1日1時間だけが支援級、残りの数時間は通常級というフレキシブルな対応が可能な地域もありますが、別の地域では、支援級在籍なら最低50%は支援級の授業が必要という内規のようなもの?がある地域もあります。
逆に、特別支援教育支援員、一人付いていただくために、今、ご家族に大変なご苦労や心配をおかけしているケースもあります。
また、昨年、何度お願いしても一向に耳を傾けてくれなかった学校が、校長先生が変わったとたん、前年度とはうって変わって、通常級に在籍している子の支援を中心になって行ってくださる専任の先生を配置し、その学びの環境をしっかりと構成してくださった学校もあります。
私は、ご家族に寄り添いながら、ただ一緒に考えさせていただいたに過ぎませんが、うまく回転し始めてよかったと、正直今、胸をなで下ろしています。
現在、結果としてうまく流れ始めたから良いようなものの、昨年度までのご家族の皆さんのお気持ちや表情を思い起こすと、私が側にいながら申し訳ない、といたたまれない気持ちですし、この違いは何なんだと思うと、どうしても割り切れない気持ちで一杯です。
昨日、うちの法人の運動会に、ある市会議員さんと国会議員さんがお越しくださいました。
ちょうど私の横に座ってくださいましたので、限られた時間の中でしたが、私は、こうした自治体や学校による対応の違いから生じる、ご家族のご苦労について、理解していただけるようお話をさせていただきました。
目指すべき方向は、明らかなわけです。
その移行期にあっても、どうかその大切な部分だけは、すべてのケースで最低限確保しなければならない。
後に続くご家族に、決してあのような心痛を与えることになってはいけない。
他地域で当たり前のように行われていることが、別の地域、別な学校では、あり得ない無理な要求として、はねのけられてしまう。
こういうことが、あってはならないわけです。
誤解や偏見は、無知から生じます。
知らないということほど、恐ろしいことはありません。
私は、臨床現場の最前線にいますし、ご家族の目を通して、様々なケースに寄り添っているわけです。
私のなすべき役割、ここの情報発信は大切だと考えています。
経済的、環境的な制約の中、子どもの成長と幸せのため、行き届いた教育の場の構成に向けて、何を優先していくべきなのか、
今後もこのことについて、皆さんと一緒に考えさせていただきたいと思うのです。
この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2011-10-18)

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かれんちゃんの言葉の育ち
2011-10-14


↓ 先日、かれんちゃんのお母さんから、以下のような内容のメールをいただきました♪
SHINOBU先生
かれんの最近の家での様子についてレポートします☆
抽象的な表現は理解できないのですが、ごっこ遊びはだいたいできます。
遊びに行った時の写真を後日見せて、そんときの感想を解説させるようにしています。
過去の記憶保持と、プレゼン力アップになるかなぁとたくらんでおりますが…。
一応過去の記憶をよみがえらせることはできるようで、「〜した」「おもしろかった」などと言っています。
[言葉のレパートリー]
確実に増えています。
感謝をするときに「ありがとう、ママ」と言うようになりました。
「ありがとう+○○」と相手の名前をプラスする言い方を覚えたようです。
相手がママ以外の人でもちゃんとお名前を言えてます。
お手伝いがしたい、次女と同じことをしたいときなどは、「わたしもする!」「わたしがする!」などの表現も増えています。
前までは「自分でする」「自分がする」って言っていたのですが、「わたし」って言うようになりました。
一時期「かれんが…」と言っていたのですが、それは短期間で消失。
「わたし」っていう言い方が気に入ったようです。
歌のレパートリーも増えてきて、発音は不明瞭ですけれど、なんとなく雰囲気は合っています。
[応答の広がり]
いろんな質問にも応答できるようになってきました。
たとえば絵本を見ながら、「アンパンマンは何しているの?」と質問すると、自分がイメージしたことを答えます。
わからない時は「わからない〜」と言います(困った表情で言うのでおもしろいです)。
めんどくさいときは「いや」といいます。
[食べたくないものがあるとき]
「これ、きらい」と言うようになりました。
「これいらない」と言うように教えていたのですが、「これ、きらい」という表現をするようになりました。
※上記のいろいろな表現方法は、家で教えたことはありません。
結局のところ、親が教えたことはほとんど獲得しておらず、SHINOBU先生のところや保育園で学習しているようです。(;´∀`)
かれんちゃん、かまめしどんのもっているしゃもじに注目して、
> これ何?
> しゃもじだよ
> しゃもじ? (びっくりしたような表情でリピートする)
さらには、
> どきんまん、
> おしい、それはどきんちゃん、
> どきんちゃん! (たしかめるような感じでリピートする)
アンパンマンの歌を、少し不明瞭な部分はあるが、最後まで歌いながらたいこでリズムを打つ、
> もう1回する?
> おしまい
「だめ、わたしも」
お母さんのメールにあったように、ちゃんと一人称としての 「わたし」 も使いこなしていました。
「りんごいくつ?」「3こ」「うん」「いらっしゃい」「今度は何?」「バナナ」「4本ね」「1・2・3・4」「いってらっしゃい」「バイバイ」「また来てね」「どうもありがとう」「ありがとう」
もう記録ノートに書ききれない程、いろいろな応答的なやりとりが繰り広げられたのでした。
こういうレッスンが、楽しくないわけがありました。
りえ先生には、2~3年前には、かれんちゃんが 初めて 「せ・ん・せ・い」 言った時、抱きかかえて高い高いをして、何度もケラケラ笑わせていた、そんなレッスンだったんだよ、と伝えると目を丸くしていました。
私が言語を育てたなんて、とんでもない、
ただ、外部刺激のほとんどない環境で、90分のマンツーマンレッスンを約3年間、150レッスン以上積み重ねてきたわけで、そういう実践の場を与え続けていただいたことは、まぎれもなく私の生涯の財産となっています。
かれんちゃんとの歩みは、私のダウン症との歩みそのものです。
今日も、言語性のたっても豊かな3歳の女の子と、とっても楽しい時間を過ごすことができました。
帰りがけに、お母さんが 「SHINOBU先生好き?」 と尋ねてくださると、はっきりとした口調で 「すき」 と答えてくれました。
内面がデリケートなお子さんだけに、わずか4回目のレッスンで、ここまで通じ合えて、とってもうれしかったです。
これもそれもすべて、多くの子どもたちとの心の通い合いから培ってきた真実です。
私は、この原点を決して見失うことなく、自分のなすべき役割を生涯見つめていきたいと思っているのです。

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言語表出に向かう瞬間
2011-10-12

私はこれまで、多くの子どもの言語の育ちに向き合ってきました。
言語によるコミュニケートが豊かになると、それまではイライラしたり、もどかしく感じていたりする場面での意思疎通が円滑になり、結果としてそれが、行動改善や情緒の安定によい影響を与えるようになります。
また、言葉を通して思考深めていくことにもつながり、学びの世界が一段とワイドに広がっていきます。
そのことを心から期待されているご家族にとっては、まさに悲願の言語表出となるわけです。
言語表出の時期は、徐々にではなくて、突然にやってきます。
ここ数ヶ月の間に、私はこうしたケースに、複数回出会ってきました。
先日レッスンを受けてくれた4歳の男の子もその一人です。
これまでは、はにかみ屋さんで、下を向いたり、横を向いたりしながら、横目でやりたいおもちゃやパズルをチラッと見て、私にアピールしていました。
「これにする?」「これがしたいんだよね~」と私が返すと、いつも笑顔でこっくりうなずく・・
そんな形のコミュニケーションがずっと続いていました。 ・
ところが、ここ1~2ヶ月で、この子の活動に大きな変化が見られました。
まずもって、表情がとても明るく豊かになり、活動に対する積極性が格段に向上してきました。
絵本を見て雨が降っている場面があると、「先生、雨が降ってるね」と心の中の言葉がはっきりと聞こえてくるがごとく、その動作化や表情を通して鮮やかに伝わってくるようになったのです。
言語を媒介としなくても、人の心と心はこんなに美しく伝わり合うものかと、50歳を過ぎた私が、心の芯からその楽しさを初体験したわけです。
そんなレッスンが2回・3回と続きながら、ついに「ブーブー」(自動車)・「きんちゃん」(どきんちゃん)などの言葉を、何度も何度も聞き取ることができるようになってきたのです。
ありのままの存在を受け入れ、自然なスタンスで子どもと向き合いながら、理解言語を増やすこと、伝え会う通い合う中身を共有すること、コミュニケートする楽しさを体感させること、内容をしっかりとキャッチして子どもの心に上手に返してやること・・
土を耕し、水を与え、肥料を施し、目に見えない豊かな土壌の中で、
後に大きな幹となるために、小さいけれども、しっかりと根をはり、
ずっとずっと待ち続けた、大切な言語表出、芽生えの瞬間、
そんな瞬間を共有できることが、私にとっては、何よりの喜びです。
願いが強ければ強いほど、見えない土の中の種を育てるご苦労も多いのではないかと思います。
だからこそ、私は、ずっとそれを信じて、土を耕し、肥料を蒔いていこうと決めています。
それが、多くの子の言語の育ちを直接見つめてきた者として、なすべきことの大切な一つであると考えているからです。
やがて、この子が大きく育ち、言葉を使って自由自在に話すことができるようになったら、それまでのことは、もう遠い昔の小さなエピソードの一つとなってしまうのです。
そんな時が来るまで、応援させていただくのが、私の役目、
今日もまた私は、子どもの目を見つめ、1回1回、大切な時間を過ごしていきたいと願っているのです。

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奥深き 子どもの認知の世界
2011-10-09

先日のレッスンのことです。
ある子が、「木」 という文字を、上の画像の A のように書いていました。
> 「木」という字はね、はらいを、もっと上の所からきちんと書くようにしようね、
私は、そんなふうに言葉による支援を入れました、が、その子は頭をかしげて、何をいっているのか分かりづらいようでした。
その子はすぐに、「先生、どこが違うのかわかない、教えて」 と、すぐに私に訴えました。
私は、B のようなお手本を、大きな文字で書いてみせました。
が、この時点では、まだ、首をかしげたままです。
どこが違っているのか、まだ認知していないのです。
そこで私は、
りんちゃんが書いたのは、こんな形、
先生が書いて欲しいのは、こんな形と、A と B とを並べて示してやりました。
あっ、わかった
その子は、こっくりとうなずいて、とてもしっかりとした 「木」 と言う文字を書き上げました。
4年生のお子さんです。
今、初めて 「木」 という文字の微細な形が、認知できたわけです。
言っておきますが、認知さえできれば、とても整った美しい文字を書く女の子です。
今日は、同じ学年 (4年) の男の子のレッスンがありました。
この子も同じ、継次処理優位の認知処理様式の子です。
「給」 という文字の練習をしているときに、「これは 「絵」 という字だ」とつぶやきました。
確かに 「絵」 と 「給」 という字は、9画目くらいまでは同じです。
つまりこの子は、9画目くらいまでしか見ていなくて、アバウトな形で、レキシコン(心内辞書) から、「絵」 という文字をひっぱり出したわけです。
同じようなメカニズムで、「親」 という字と、「新」 という字を書き違えていました。
継字処理の子は、こんなふうに言語と関連づけながら、形をインプットしているわけです。
こういうことを理解していると、何かのつまづきに出会ったとき、有効な支援の方略も見いだしやすくなるわけです。
この男の子、
微細な文字認知は苦手ですが、レゴのブロックなどでは、左右対称の、驚くほど精緻な作品を仕上げます。
先ほどの女の子も、微細な文字認知は苦手ですが、それはそれは美しく整った文字を書くことができるわけです。
例えば視覚認知が脆弱と分かったそしても、何のどんな部分が出来にくいのかは、100人子どもがいれば、そのすべての子は同じではないわけです。
入力、処理、アウトプットの、どこが脆弱なのかも、その子その子によって違うし、一月前と、一月後が大きく変化してるケースに、何度も出会ってきました。
この世界、ホント奥が深いです。
だからこそ、探求心が求められるし、それが明らかになり、子どもが大きく伸びた時の感激は、何よりの宝物です。
何かが見えれば、必ず打つ手も見つかってくるはず、
それが支援者としての力量だし、子どもと共に、学びの道を歩いていくロマンでもあるわけです。

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すべては子どもの成長と笑顔のために
2011-10-05

昨日、ある男の子が、自立歩行を獲得し、赤ちゃん体操を卒業されました。
多くの方の祝福を受けながら、この4月から、3人目となる卒業式をさせていただきました。
その生き生きとした、しっかりとしたお子さんの表情をみながら、今後もきっと力強く進んでいくであろうその育ちの道程に、思いをはせられるような気持ちになりました。
こうして赤ちゃん体操を、卒業されていく子もいれば、また新しく、輪の中に入ってくる子もいます。
選ばれし、母と家族のスタートが、ここにあるのです。
小さなお子さんを抱きかかえられ、少し緊張ぎみの表情の中に、私は、母としてのしっかりとした決心のようなものを、その横顔に感じ取ることになるのです。
この度、りえ先生が、「赤ちゃん体操指導員」の資格取得を目指して、講義や演習、実習などの研修会に参加させていただけることになりました。
「プロの支援者として、子どもの成長とご家族の幸せに、直接貢献できる人材となれるように、しっかり勉強してきなさい」
決定通知をいただいたその日、私は、そのように伝えました。
この日のりえ先生の立ち振る舞いを見ると、当初の頃と比べて、大きな変化が見られます。
子どもや、ご家族の幸せのために働くことの幸せを、もうすでに感じてきているのです。
やらされて、行かされていく研修会などという気持ちは、その心の中に欠片もも伺うことはできません。
何が人を動かし、何が人を育てるのかが、このことを通してはっきりととらえることができます。
この日は、ある大学の先生が、赤ちゃん体操のようすを見学にきてくださり、最後の子のレッスンが終了するまで席をお立ちになりませんでした。
とにかくレッスン中は、底抜けに明るい雰囲気で、笑顔と歓声が絶えることはありません。
この明るさとエネルギーは、一体どこから生まれてくるのでしょう。
天から授かった大切な命、
平坦ではないかも知れないその道程を遠くに見据え、深く強い気持ちを心に刻み、笑顔で前に進まれようとされるご家族の姿、
人として、これ程尊い営みが、他にあり得るでしょうか?
私の目には、ここに集うご家族の皆さんの姿が、いつもまぶしく映ります。
だからこそ、私たちがなすべき使命は重大です。
りえ先生が、研修会で何を学び、どれだけ大きく育つか、本当に楽しみです。
私の志を継ぎ、やがてすぐに私を追い越す領域も出てくることでしょう。
すべては、子どもの成長と笑顔のために、
私たちのなすべきことは、今、目の前にあるのです。

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通常級の魅力と可能性
2011-10-03
今、来年度の就学に向けて、お子様にとってより豊かな小学校のスタートとなるよう、多くのご家族の方が、懸命なお取り組みをされておられます。2年前の事です。
ある男の子のご両親が、私の所にご相談にお越しくださいました。
幼稚園での集団活動で、少し望ましい行動が取りにくい場面があって、行き届いたサポートを受けられる支援学級でのスタートがよいのではないかというアドバイスを、小学校の先生から受けられたようでした。
幼稚園での行事などで、お母さんがハラハラされる場面も、何度かあったようです。
でも、ご両親は、通常学級を選択されました。
「命に代えても、この子を一人前の子に育てたい。だから、私たちは、通常学級を選択します」
そうはっきりと、私の前で言い切ったお父さんの表情を、私は今でも忘れることはできません。
その男の子のレッスンを、日曜日にさせていただきました。
漢字も、国語の読み取り問題も、たし算の筆算も、とても熱心に取り組んでいます。
今では、就学前に私を困らせたような面影は、どこにも見あたりません。
本当に、立派な2年生になったもんだと、感心してしました。
もちろん、ここまでの成長の歩みが平坦だったわけではありません。
時に、1年生の1学期には、ご家族は、学習や生活の色々な場面での課題にその都度向き合いながら、一つ一つに真っ正面から取り組んでいかれるような毎日でした。
時間は、かかりましたし、ご苦労は並大抵のものではありませんでした。
でも、結局、こういうことがこの子を大きく育てました。
「命に代えても、この子を~」
そうおっしゃっていたお父さんの言葉が、私には、何度も、何度も思い起こされるのでした。
今、私の教室に通ってくれている子どもの中で、通常級か、支援級かで、真剣に悩まれているご家族がいます。
私の、立場からすると、迷われた場合には、支援級をお勧めしておけば、それで良いのかも知れません。
私にとっては、支援級をお勧めしなかったということのリスクの方が、圧倒的に大きいわけですから。
でも、私には、安易に支援級をお勧めすることは、できにくい。
それは、この子のように、通常級で伸びた子を、何人も目の当たりに見てきたからです。
その選択を通して、さらに高いステージと進まれるご家族の営みを、直接、肌で感じ取ってきたからです。
なぜ、そうまでして、通常学級を選択されるのか?
それが、ご家族の見栄や、無理解であろうはずがありません。
自分の命を捨てても、親として、我が子のために力を尽くしたい。
私の教室に来られるご家族は、このような方ばかりです。
通常学級を選択したら、バラ色の未来が手に入るなって、誰も思ってもいません。
それでもなお、通常学級を選択される方の真実を、
そして、その魅力と可能性を、シャープに示すことができる自分でいたいと思うのです。
そこが見えれば、最終的にどのような選択をされても、進むべき道筋が見えてくるような気がします。
ここでの、選択は重要です。
そして、選択後の創造や構成も、さらに大切になってくるに違いありません。
すべては、晴れやかな小学校のスタートと、そこから広がる豊かな学びの道程のためです。
あなたの大切な一歩は、きっとそこにつながっているに、違いないのです。

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