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内発的な学びが 子ども変える

 2011-02-26
先日、あるお母さんが、自分のお子さんのレッスンの様子をご覧になり、とても驚かれていました。


この子、ここに来て、内言語と文字言語の接点が、かなり豊かになってきたのです。

以前は、一文字一文字のひらがなを認知することができても、単語になると、なかなか理解できにくい状態が続いていました。

しかし、その組み合わせで、「わに」 や 「みみ」 など、そこに新たな意味が生まれることに気がついてきたのです。

また一つ、広い言葉の海へと、今、泳ぎ始めようとしているのです。


私、この子が、なぞり書きが大好きなことを、知っています。

書字練習の後、自分で 「じょうす」 と言って、誇らしげに私の顔を見るのです。


ならば、と言うことで、言語の中心課題が済んだ後に、この子の大好きな書字課題を、時間までたっぷりやらせてあげようと考え、いつもよりかなり多めに、手書きの書字教材を準備しておきました。

私との楽しげなやりとりの中、我が子が、集中して書字課題に取り組んでいるその後ろ姿をご覧になって、お母さんがとても驚かれたというのが、今回の出来事なのです。


初めて私の教室に来始めた時のことを思えば、驚かれるのも無理からぬ話です。

もう、レッスンを初めて2年にもなりますが、この子との間に、あたたかいものが、流れ始めたのはつい最近のことです。


> できるようになりたい、わかるようになりたい

> 君は、ここに学びにきているんだね

> そのありのままの気持ちで、楽な気持ちで勉強したらいいんだよ

> きっとできる

> 心配しなくてもいいよ、君には、先生がついているんだから・・


不思議なもので、そう思い始めてから、この子の集中力が飛躍的に向上してきました。

あれだけ私を悩ませた、離席も、奇声も、どこかへ吹っ飛んでしまい、いつの間にか、体をすり寄せるようにして勉強するようになってきました。

北風と太陽ではありませんが、この子の心の中にある、内発的な学習意欲を、、私自身が、心の芯から信じることができてから、明らかにこの子の態度に変化が起こったわけです。



昨日、初めて図柄のマッチングができるようになった子がいます。

しかも、その図柄に対応する文字があるということに、まだ何となくではありますが、気がついてきたようです。

その瞬間、はっと気がついた表情があったことを、私はしっかりと見届けました。

完全なる AHA体験 の瞬間です。


この学習にどんな意味があり、私が何を願っているのかも、やっと伝わり始めたようです。

この一歩は、私たちにとっては、限りなく大切な一歩となるのです。

私は、胸の中の高まりを、抑えることができませんでした。


最初からあきらめていて、この日を自然に迎えられたとは、私には思えません。

たとえ打率は低くとも、やってみなければ、わかりません。


可能性は信じるからこそ、見えてくるもの

人の絆は、信じるからこそ深くなるもの


これは、真実だなと思いました。

信じることさえ出来ないで、一体何の教育が、そこにあると言うのでしょう。


そのことを教えてくれたのは君、

私は、これからも、ずっと君と一緒に歩んで行きたいと、心から願っているのです。




この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2011-02-28)



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理解言語を 文字言語へとつなぐもの

 2011-02-25
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かれんちゃんは、昨日、少しだけ不安定な状態で教室に入ってきました。

でも、お父さんにバイバイと手を振り、教室の扉が閉まった瞬間、すぐにまた笑顔が復活し、いつもの楽しい活動がスタートしました。


「出して~」 「これ何だ?」 「取って~」

など、この日は、要求言語 (デマンド) の、オンパレードです。

言語がまさに、生きたコミュニケーションツールとして、根付いてきた証です。

ずっと、内発性・主体性が生かされる学びの場の構成を大切にして来て良かった、

そう、感じさせる瞬間でもあります。


この頃のかれんちゃんの活動には、明らかに変化が見られます。

以前、あれだけ抵抗感を示していたパズルなどの認知系の活動を、自分から選択するようになってきました。

かれんちゃんの場合は、言語が先に入り、後から形などの認知がつながっていくパターンです。

こんな子も多いし、全くその逆の学びの道筋の子だっています。

信じて、待って良かった。

まさに、発達の道筋は百通り、それぞれの子に、それぞれの学びのストーリーがある証拠だと言えます。



そのかれんちゃんが、ひらがなに興味をもち始めました。

さかんに 「ひらがなタッチボード」 や 「ひらがなつみき」 の活動をしたがります。


かれんちゃんの場合、図柄を見て、犬ら 「いぬ」、ありなら 「あり」 と言えるようになってきました。

絵を見て、それを 「いぬ」 と認知し、それをスムーズに音声化できるように育ってきたのです。

犬の絵を見てそれを犬と認知できる、かれんちゃんの理解言語の数が、日に日に増えていることを、レッスンの度にしっかりと感じることができます。

それに加えて、ここに来て、ひらがなという文字言語への内発的な達成動機が芽生えてきたわけです。

学習のレディネスが整うというのは、こういう状態を示すのだと思います。


かれんちゃん、えんぴつの絵を見た後、その裏を見て、そこに 「え」 と文字が書かれているのを確かめています。

すかさず私が、聴覚性の言語を添えて、それはえんぴつの 「え」 だよ、と教えてやると、自分でそれを音声化して、「え」 と発語しています。

ははん、かれんちゃんの場合は、きっとこうやって文字言語を獲得していくんだろうなと、今後の学びの道筋が見えてくるようで、とってもうれしい気持ちになりました。


私も、かれんちゃんも誕生日が同じ日で、3月の終わりにかれんちゃんは6歳、私は52歳になります。

先日、かれんちゃんの就学猶予の決定がされ、私は、就学までもう一年、かれんちゃんのレッスンを担当させていただくことが可能となってきました。

この猶予の1年間を、実りあるものしなければならない。

理解言語と文字言語をさらに豊かにつないでいく、

これまで多くのご苦労を重ねて来られたご両親の切実な願いに、支援者として、なすべき仕事がここにあるのです。


もちろん、私がすべてを請け負っているわけでも、何でもありません。

子どもの今が見えること、発達の道筋が見通せること、育てる中身を明確にすること、教材を子どもの育ち会わせて選択したり、開発したりできること、こ家族や教育機関と連携し、ここでしか出来ないスペシャルな役割を分担させていただくこと、そして複数年にわたりご家族を共に歩み続けること、

今でこそ、何十人もの就学前のお子様そレッスンを担当させていただいていますが、そのすべては、このかれんちゃんとと出会いから始まったのです。



この記事をアップさせていただいたその夜、かれんちゃんのお母さんから、以下のようなメールをいただきました。






ブログ、拝見しました。
夫も私も、SHINOBU先生との出会いに大変感謝しています☆

偶然にもかれんと同じ誕生日。
きっと赤い糸があったんだなぁって思います。

かれんは、落ち着きがなくて認知が低く、育児面で非常に困難を感じていました。
今でも落ち着きのなさはすごいんですが、3年前に比べたら別人のようになりました。
じっと椅子に座ってご飯を食べるし、短時間ならやりとりが続くようになりました。
また、このように落ち着きがない状態なのに、言語も獲得してきています。

正直、このくらいの知的なレベルだったら、言語の獲得は難しいと思っていました。
↑頭でっかちな両親なので、最初に仮説を立てちゃう癖があります(^_^;)。


でも、SHINOBU先生のところでお世話になり、90分間個別でレッスンを受けるようになってから、私たちの仮説をどんどん覆す進歩です(*^_^*)。
6歳を目前にした現在、言語コミュニケーションで日常会話ができる状態ではありませんが、少なくともかれんの生活においては最低限必要な言語力は獲得できていると思います。


自分がどうしてほしいのか、何が食べたいのかは、言葉と身振り手振りで表現します。

「ママ、○○して~(ちょうだい)」というセリフを使いながら、いろんな要求もできます。
だいたい言いたいことが理解できるので、コミュニケーションには支障を感じなくなりました。

2語発話も爆発的に増えてたし、所有格(~の)も使えるようになりました。


毎週、先生がじっくりつきあってくださったおかげです☆







レッスンを、思い切ってコミュニケーションにシフトして、本当によかった。


これからも、ご両親の思いに応えていきたい。

私とかれんちゃんのチャレンジは、これからもずっと続いていくのです。




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信じる大切さを 君に伝えたい

 2011-02-22
その日が訪れるまで、君に出会うことなんて、予想も出来ないことだった

出会うべくして出会ったという見方ができる一方で、

いくつかの偶然の積み重ねの先に、私たちの出会いがあった


君は、私の横にちょこんと座り、ここから二人で歩む旅がスタートした

少し照れながらも、行く先にあるぼんやりとした大切なものに、胸がときめくような気持ちがそこにあった


小さな空間であるけれども、前に進んでいくごとに、次々と課題に向き合っていった

そのしぐさの一つ一つから、飾らない言葉の一つ一つから、君の真実を読み解こうと、私は、自らの心を開いていった


君の今が、どんな体験の積み重ねによって築かれてきたものなのか、

そして今、君が何を目指し、どこへ進んでいこうとしているのかが、徐々にではあるが、伝わってくるようになった

ありのままの私の願いを伝えることによって、君の真実は、何度も反射しながら私の心に届くようだった


可能性は信じるからこそ、見えてくるもの

人の絆は、信じるからこそ深くなるもの


曇りかけていたその言葉を、忘れかけたその真実を、

君は、そのくったくのない笑顔で、私に呼び覚ましてくれるようだった


3年、それとも1年?

私がそばにいて、君と一緒に歩んでいけるのは、きっと限られた時間になるだろう

だからこそ、1秒たりとも、それをないがしろにはできない


やがて、私のところを巣立っていくその日

私はもう、その日を見つめている


だからこそ、横に座って一緒に歩む、その時間を大切にしたい


人を信じること、可能性を信じることのすばらしさを、私に教えてくれたのは君

私は、いつまでも、その気持ちに応えられる自分でありたい

そのために、前に進む自分であり続けたい


生まれ変わったのは、私も同じこと

二人に与えられた時間の、一瞬だって無駄にしたくない


君が、私の所を巣立つその日まで、

私はここでずっと、君の笑顔を支え続けたい





この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2011-03-2)





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認知処理様式も可能性も、学びと共に変化する

 2011-02-21
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私はこれまで、就学前の子どもと幾度となくパズルを一緒にしてきました。


色から入る子、形から入る子、図柄から入る子・・

バラバラにはめる子、順番にはめていく子・・

同じパズル一つにしても、攻略法は全然違うのです。


「これは、アンパンマン目だから、この下はアンパンマンの鼻」

こんなふうに、図柄から攻略する子は、同時に微細な形認知を使いません。

逆に、パズルのピースの形をマッチングさせるのが得意な子は、図柄は全く見ない場合が多いのです。

極端な例ですが、ピースを裏返しにしても、瞬時に次々とピースをはめていく子がいて、私を驚かせました。


私自身は、図柄をたよりに、順番にはめていくのが楽なタイプですが、さすがに端っこまっすぐなピースは、形の認知を使います。

こうして、いろいろな認知を使うわけることができるのは、子どもの何倍もの学習経験が私にあるからです。

継次処理タイプの私でも、さすがに内容によっては同時処理ができるのです。


計算で言えば、6+7は、数を合成したり分解したりして、同時的に処理しますが、9+3くらいだと、9・10・11・12と、継次的に処理します。

自分の優位な継次的な認知特性をメインにしながら、内容によっては同時処理を使い分けているのです。

小さい子どもは、その一つ一つの力を、今培っているわけです。


先日、面白い体験をしました。

それまで、形でしかピースを見られなかった子が、「これはアンパンマンの目だ」と、その図柄の意味に出会うことができました。

ところが、これまで形認知ですぱすぱと、パズルをはめていた子ですが、同じパズルも、図柄でパズルをはめようとすると、これまでのようにうまくはまらないのです。

この活動を通して、この子は今、認知を切り替える体験をしているのだなと、感じ取ることができました。




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このような絵カードを提示して、図柄を見て 「ひこうき」 と、元気よくスラスラ答えていた子に、図柄の部分をかくしてひらがなだけを提示すると、とたんに 「ひ・こ・う・き」 と逐次読みになってしまいます。

それをしばらく続けて、今度は元のように図柄とひらがなを同時に提示しても、モードがひらがな読みのままになっていると、図柄の方に目が行かないで、やっぱり 「ひ・こ・う・き」 と逐次読みになってしまい、なかなかまとまり読みができません。

図柄と、文字の認知モードを切り替える体験を、まさに今、培っているわけです。


先月まで、形モードだった子が、今月には図柄モードに変わっていることがあります。

優位性は残っても、成長するにしたがって、その双方を使い分けることができるようになっていくのです。


人の育ちのストーリーは、様々です。

同じ山を登るにしても、そのルートは100通りだってあるのです。


検査でどんな数値が出ようとも、決して今だけのプロフィールで、可能性を決めつけることはできません。

一つステージが上がるだけで、展開が変わるだけで、景色が全く違うことだってあります。


これまでは、とても手の届かないと思っていたあの頂が、もしかしたらと思えるときがやってくるのです。

それも含めての可能性なのです。


子どもの可能性を信じることこそ、教育の原点。

私の信念が揺らぐことは、決してないのです。



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3年・5年・・ 継続的に子どもの学びを支える支援者の必要性

 2011-02-18
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お父さんが、初めてつよし君 (小3) を私の教室に来られた時、彼はまだ1年生でした。

支援学級に在籍しているお子さんですが、友達とのトラブルや、衝動的な行動が多く、何度も学校から電話がかかり、相手側の家庭に頭を下げるという日々だ、と伺いました。


私が、日曜日のレッスンを始めたのは、このつよし君のご相談を受けてのことでした。

こうして、隔週90分のレッスンを始まったのです。


当時はまだ1年生ということもあって、プレイセラピーの時間の方が多く、教科学習をする時間は、半分にも満たない状態でした。

予想したとおり、一見たくましそうな外見とは裏腹に、デリケートで繊細な子どもでした。

それを、言葉で素直に表現することが、苦手な、とてもシャイな性格でもありました。


どうしてそれが衝動的で、乱暴な行動に結びついてしまうのか?

私は、そんな場面が目の前に浮かんでくるような気がしてなりませんでした。


私は、情緒障害児短期治療施設の派遣学級の担任を3年間させていただいた経験があります。

この子の育ちの方向性がある程度見えていましたら、こりゃ結構大変だとは思いましたが、この環境なら、必ず通じ合うという自信をもっていました。


「ここに来始めてから、つよしは変わった」

いつ頃からか、つよし君のお父さんは、何度もそう伝えてくださるようになりました。

「字がていねいに書けないの、直りますか?」

「お父さん、もうちょっと待って。必ずていねいに書くような子に育てますから」


上の画像は、先週つよし君が書いた漢字プリントです。

「これ、つよしが書いたのか!」

お父さんは、笑みを浮かべながら、何度も何度もお子さんの顔を見つめていました。


3年生ともなると、つよし君は、私の決めたプログラムを最後まで集中してやり遂げるようになりました。

以前には涙を流していた、かけ算も、割り算も、自信満々で取り組むようになりました。

「交流学級での勉強が増え、学校でも頑張っているようです」

「もう、学校からの電話におびえることもなくなりました」


デリケートな子、不安感の強い子ほど、衝動的な行動を起こしやすいのです。

つよし君、以前は、出来ない問題、わからない問題があると、固まって動かなくなることも多くありました。

今も、自信が無いときには、独特のサインを出します。

でも、そこに一緒に培ってきた安心感があるから、それとなくいつの間にか、私に質問したりすることも出来るようになってきました。

関係が育つと言うことは、こういうことです。


子どもとの関係づくり一つにしても、一定の時間は必要です。

もしも、すべてを1年の単位としてすべきであるなら、もしも関係づくりに9ヶ月かかったらなら、もう残りの時間は、たったの3ヶ月しかないのです。


やっと子どものこと、わかってもらえたと思ったら、また春には1からやり直し、

1度お伝えしたこと、お願いしたことを、何年も何年も伝え続けなければならない、

私の耳に届くのは、そんな言葉です。


もちろん、1年を単位として、オフィシャルな組織として、系統的な教育を実施する学校の存在は絶大です。

しかし、何らかの課題に向き合っている子どもには、発達の連続性という観点から、縦の軸を通す支援者の存在も必要です。

私の目から見れば、それは明らかに構造的な欠陥です。


1年を単位とする系統的なプログラムという横糸に、個の特性理解と発達の連続性という横軸を通すことにより、きっとより豊かな学びの場が構成されていくに違いありません。


そういうご工夫をされている学校も、増えてきていると聞いています。

そこに果たす、ご家族の役割も、重要です。

しかし、そのことを、ご家族だけに背負わせるのは、本来の姿ではないと思います。


つよし君は、毎回、隣接する市から通ってくれています。

先日、仕事の関係で、お父さんが送り迎えが出来ない日がありました。

電車を乗り継ぎ、駅から歩いて20分以上の道程を、寒い中、おばあちゃんが付き添ってくださいました。

経済的な負担も、決して軽くはありません。


このご家族の願いには、何としても応えなければならない。

子どもと、そして家族と共に歩む、支援者の存在の大切さ

その一つのモデルを、私は実践を通して、広く伝えていきたいと願っているのです。



この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2011-02-21)





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感覚を培うことの大切さ

 2011-02-16
「この時、主人公は心の中で、どんなことを考えていたと思いますか? 次の3つの中から選びなさい」

そんな問題が、あったとします。

私の教室に来てくれている子の中には、こういう選択問題が、特に得意な子が4人います。

ほとんど即答で、いつも驚くべき正解率です。


「なんか知らんけど、心の中にぱっと思い浮かぶ」

理由を尋ねると、ほとんどの子がそう答えます。

あまりロジックに、言語の操作をしているわけでは、ありません。


この4人は、意外な共通点が、もう一つあります。

それは、低学年の頃、微細な、書字認知がとても苦手であったということです。

「大」 という漢字や、「9」 という数字、そして 「ら」 というひらがなを、書いたりするのが、とても嫌で、何度も何度も涙を流していたのです。


今でも、書字は得意な方ではありません。 微細な文字認知も、やはり苦手です。

ですが、学習経験を積みかさねていくうちに、以前の痛みは、全くなくなってしまいました。

何とかなるレベルまで、しっかり成長できたのです。


神様は、そのご褒美に、文脈理解というステキな宝物を、この4人に与えてくださいました。

「なんか知らんけど、心の中にぱっと思いうかぶ感覚」

微細な書字認知の改善を進めていく上でも、この文脈理解の感覚を磨きあげていくことが大切であると、私はずっと考えて来ました。

時間をかけて、これを、一生ものの財産にする。

それが、ご家族にお伝えした、私のお約束でもあったのです。


脳の機能局在の面から考えても、ロジックに問題解決する部分と、感覚的にものをとらえる部分は、同じではないはずです。

論理的考える力を育てることは重要です。 しかし、論理は万能ではなく、時に思い込みとや先入観という、大きな落とし穴に入り込んでしまうことがあります。


表出言語はほとんどないけど、私が何を考えているかを、超敏感に感じ取る子がいます。

その微妙な表情の変化を見ると、この子を、口先でごまかすことはできないと、いつも思います。

私は、表出言語を媒介としながらも、私の中の思いを、感じ取ってもらうようにかかわりを続けています。

でないと、この子は、席につきません。

でも、伝わっている時には、40分間、一度も離席はないのです。


子どもの発達段階によって、感覚を育てることと、論理性を育てることの、バランスは変わってくると思います。

ロジカルなことは、後でもできる。

幼児期に、内容を先取りしたプリントをやらせると、大人はやったような気になり喜びますが、実際に般化という面ではむずかしいことも多いと思います。


一方、具体物を使ったロールプレイ的なことで、感覚を育てていく学習は、成果がすぐには見えくいものです。

ただ、ここでの育ちは、その子が大きく育っていくための、貴重な財産となっていくのは明らかです。


論理性と感覚、

どちらも育てていかなくてはならない大切な内容です。


30分ロールプレイをして、どこまでその感覚が育ちましたか?

申し訳ありません。 感覚を育てたことを、きっちりと評価するものさしは、あまりないのです。


先生にお任せします。

ご家族の絶大な信頼感があってこそ、初めて本気でここに取り組むことができるのです。


2年・3年と育てて、化けるときは、あっという間に化けます。

また、機会をみてお伝えしますが、今の太郎君がその時期になっています。


教材は、題材で、育てるのはどんな力か?

そこを明確に示すことができてこそ、初めて感覚を育てるということを、お伝えできるのだと思っているのです。



この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2011-02-18)





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ご家族の願いの代弁者であり続けたい

 2011-02-14
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このブログは、2008年2月15日に誕生しました。

つまり、今日でちょうと3年が経過したわけです。

この間に762の記事を、アップさせていただきました。


3年間の間に、ブログの内容も徐々に変化してきましたが、「発達面の課題に向き合うご家族の学びと子育てを応援する」、「その具体的な内容を、理屈だけではなく、実践を通してお伝えする」 というスタンスだけは、守り続けていきたいと願ってきました。


このブログを通して、多くのご家族と出会う機会をいただきました。

秦野、大阪、京都、名古屋、福島にも、おじゃまさせていただきました。

そして、東京、静岡、和歌山、小倉など、全国各地から、岡山にお越しいただきました。

一時帰国の機会を利用して、シンガポール、オーストラリア、アメリカ、イギリスなどから足を運んでくださる方もいらっしゃいました。

一期一会と言いますが、どの瞬間も、ご家族にとって、私にとって、とても大切な時間の積み重ねとなりました。



たとえ微力であっても、ご家族と共に歩む支援者であり続けたい。

主体者として懸命に前を向いて進んでいるご家族を、孤独にさせてはいけない。

決してご家族にとって代わることはできないけれども、そうしたご家族の姿を、そして願いを、その代弁者として、全国に情報発信していくことこそ、私に課せられた責務であると自覚するようになりました。


今朝、ブログのランキングを見ると、特別支援教育のカテゴリーで、1位になっていました。

これまで、2位になることはあっても、1位になったことは3年間で1度もありませんでした。

もちろん、これは暫定的なランキングですので、これからもずっと1位ということではありませんが、この日の1位は、私にとって特別の意味をもつのでありました。


いつか1位になりたいと、ずっとそれを励みにしていました。

でも、それは単なる目安であって、ランキングが目的そのものではありません。

私は、自分の活動を通して、多くの子どもたちの成長とご家族の幸せに貢献することこそが、その目的であるはずです。


ブログは、私にとって、最も大切な活動の一つです。

このブログがあればこそ、多くの子どもたちとそのご家族に出会えたのです。


3年間、自分なりにがんばることができたので、少しずつこのブログも厚みを増してきました。

でも、まだまだここは通過点、百万アクセスまでは、まだ1/3にも満たないのです。


これから生まれてくる新しい命だってあるのです。

ご家族が、その命と幸せを育む応援を、させていただきたい。

すべての子どもに、成長と学ぶ楽しさを、心の芯から体感させたい。


これからも、私はこのブログを通して、その大切なことを、ずっとずっと発信し続ける自分でありたいと願っているのです。



この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2011-02-15)





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特性理解を ポジティブ発想で生かす指導の実際

 2011-02-11
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私は、大学院で勉強していたとき、それぞれの先生に、とても大切なことをたくさん教えていただきました。

その中でも、特に強烈に心に響いた言葉、

それは、

「ダウン症という障がいは、本人にとってもご家族にとっても重く切実な現実で、決して軽々しく受け止めることは許されないけれど、発生学的、あるいは医学的な見地から見ると、必ずしもネガティブな側面ばかりとは言えない」

という一言です。


私は今、月に40名ものダウン症の子の個別指導に直接かかわっています。

今日、事例を紹介するりんちゃん (小3) も、その一人です。

同じダウン症のこ子といっても、それぞれが、それぞれの魅力と課題をもっていますが、私は今、改めて、りんちゃんとの指導を通して、その特性をポジティブ発想で指導に生かしていくことの、意味と価値をかみしめているのです。


かれんちゃんもそうですが、私の教室のダウン症のお子さんの中には、達成動機が高く、本番に強く、そして人の気持ちや文脈、場の空気をデリケートに感じることの出来る子が多いのです。

一旦ツボにはまれば、それはそれは楽しい学習活動が展開できます。

しかし、それが自分の意に反する内容であったり、連続性の意味がわかりにくかったりすると、突然固まったり、暴走モードに突入したりします。


そこで、そうした特性を、いかに指導場面で生かしていくかという具体的な事例の紹介が、今回の紹介させていただく記事の中心となるわけです。



この日も、りんちゃんは、中心教材となる算数のプリントに取り組みます。

「何だ、またこれか?」 と、小さい声ですが、先制パンチを食らってしまいます。


ここで、心に余裕の無いときであれば、指導者の心に微妙に心に焦りが生じ、急に高圧的なトーンに変わったりするので、ますます子どもの意識は、ネガティブになってしまいます。

そういう痛い経験を何度も味わってきた私は、すかさず、「これから算数の勉強を始めます。 誰か、号令をかけてくれる人はいませんか?」 と、必殺技を繰り出します。

この一言で、りんちゃんに、これから始まる楽しい算数劇場の華やかな扉を開けさせるのです。




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> さて、一番の問題を読んでくれる人はいませんか?


りんちゃん、元気よく手を挙げてくれます。個別指導教室ですから、生徒はりんちゃんしかいません。必ず、りんちゃんが当たるのです。でも、ここはバーチャルリアリティ=仮想現実の学校現場の再現になっているのです。

りんちゃんの学びの夢をかなえる空間が、今ここにあるわけです。


さっきまで、「何だ、またこれか?」と、言っていたりんちゃんですが、「はい、それでは、りんちゃん、お願いします」と、言うだけで、それはそれは生き生きと問題を読んでくれるようになるわけです。

あれだけ、算数の問題文を読むのが嫌だったりんちゃんは、どっかに行っちゃいました。


これまでの取り組みにより、文字を見てそれを音声化し、さらにそれをイメージ化するプロセスが、少しずつレベルアップしている手応えを感じていますが、まだまだ支援は必要です。


> 「たまごが、10こありました。」  誰か、黒板にたまごを10個かいてくれませんか?

うちの教室に、黒板なんてありません。 が、りんちゃん、またまた手を挙げて、プリントにたまごを10個、かいています。

> 「きょう、5こたまごやきにつかいました」 誰か、使ったたまごに、×印をつけてくれますか?

ここが、今日のポイントです。 私は、りんちゃんの演算決定のこれまでの育ちを把握していますから、この第1問は、あえて、「使ったたまごに、×をつけてください」 という発問をしたのです。 こうすることにより、彼女の得意な文脈やストーリーの中で、引き算の意味を体験的にとらえさせたかったのです。

今のりんちゃんには、ここで 「さて、これは何算ですか?」 と、文字言語だけで判断させるより、「使ったたまごに×印をつけてくれますか」 と、自らの手による操作活動を1本取り入れ、ストーリー性をきっちり把握させることによって、エラーが未然に防がれ、「これは引き算」という演算決定の意味が、しみこみうように理解できていくのではないかと思ったのです。


ダウン症の子のレッスンに、この手の発想の手だてが、有効に働く確率はかなり高いと思います。

りんちゃんも、これまでの活動体験がありますから、×をつけたとたん、「これは引き算」とすぐにピンときたようで、問題を解くのが、楽しくてたまならいようすです。

もちろん、この支援も、やがて段階的にフェードアウトしていきます。

このさじ加減は難しいですが、育てるのは、そういうことだと、私は思っているのです。




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この日、りんちゃんの学校は、3年生のクラブ見学の日でした。

その影響で、いつもは90分のレッスンが、60分しか出来ませんでした。


文字を読んで、それを具体的にイメージ化できる。 演算の意味を、体験を通して理解できる、

ねらいとする所に、手が届き始めた、

そのプロセスが、安定してきた、

支援が最近接の領域に近づき、徐々にそれをフェードアウトしていくことも可能になり始めた、

思ったより早く、次のステップに進めるかも知れない。

私にとって、その60分は、楽しくて楽しくて、手応え十分の内容になりました。


指導の後で、りんちゃんのお母さんと、今日の指導内容の報告をさせていただきました。

「調子が出るまで、時間がかかる」

それは、多くのダウン症のお子さんに共通することがらです。

そういうお子さんには、長い長い滑走路が必要なのです。


しかし、それは、短所であると同時に、長所でもあるのです。

かれんちゃんにしても、りんちゃんにしても、一度スイッチが入ってしまえば、それはそれは楽しい学習が展開できるのです。

これは、この子たちにあたえられたすばらしい才能だと、私は感じているのです。


私の教室には、あるお母さんからいただいた、「すてきなダウン症」 というカレンダーが飾られています。

2月には、ちょうどそのお子さんの写真が掲載されています。


ダウン症を 「すてき」 と、表現できるには、その可能性を信じることのできる裏付けが必ず必要なはずです。

教育が可能性を伸ばす

その可能性を信じることの出来ない者に、教育を語る資格などはないと、私は思っています。


目の不自由な方が、音に敏感になるということを聞いたことがあります。

また、脳には代償性機能というのがあって、左脳に障がいがあるがゆえに、右脳を使って天才的な業績を残したというエピソードも聞いたことがあります。


学童期の子どもは、脳の可塑性が高い時期ですので、あらゆる学習でその可能性を高めていかなくてはなりません。

苦手な面にも、挑戦させてあげなくてはなりません。

と、同時に、短所だけにとらわれすぎず、発想を切り替えて、長所活用の視点も取り入れていきたいものです。


ご家族の願いは、切実です。

短所を見過ごすことは、出来ないのです。

出来ないことを、出来るようにさせたいと願わずして、親とは言えないわけです。


教師も、基本的にはそうあるべきだと思っています。

だからこそ、家族だからこそ出来ない部分については、指導者がそれを長所活用の視点で生かしていく才覚も、併せ持っておくべきだと思っています。

例えば、集団での授業の中で、りんちゃんのような子が活躍できる場を、もっともっと豊かに構成することはできないものでしょうか?


子どもの学びは、一般論で語れない部分が、たくさんあります。

私が、多くの実践例を紹介させていただいているのも、そのためです。


ダウン症の子には、ダウン症の子に共通する課題と魅力があります。

それは、広汎性の発達課題のある子にも、同じ事が言えます。


これからも、具体例を通して、何か少しでもお子さんの育ちに大切なことを感じ取っていただきたい。

後に続く多くの子どもたちの幸せのために、

それは、私のかかわっているすべてのご家族の、共通の願いでもあるわけです。



この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2011-02-15)





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子どもの心と 学ぶ力との相関

 2011-02-10
私の行ってきた個別指導の経過と、その学習場面で見られるそのお子さんの特性について、学校の先生に直接お伝えする機会をいただきました。

レッスンの都合で、どうしても私が学校にお伺いすることができないので、ご両親が学校にお願いをし、担任の先生とコーディネータの先生が、勤務時間終了後に、わざわざ私の所にお越しいただくことになったのです。

この時点で、私は、通常では考えられないほどの、ご家族の強い気持ちと信念を、受け止めることになります。


初めは、口頭で思いつくままをそのままお伝えしようかと思いましたが、こうした状況の中では、どうしても文章化した資料が必要だと判断しました。

でも、明日まで・・ 時間がない。


自分で言うのは変ですが、この時点での私の集中力は、これまでの私の能力をはるかに超えたものになりました。

ご家族の強い気持ちが、私に乗り移ったとしか考えられません。

まるで何かに取り憑かれたように、私は、キーボードに向かっていました。


お父さんは、心療内科のドクターをされています。

医療チームのキャップをされていますが、このケース会のために、お仕事の都合を付けて同席してくださいました。


> 人は、心のもち方一つで、免疫力も変わってくるのですよね

> はい、従来は経験的に言われてきたそのことが、今では、量的なデータとして実証されるレベルまで来ています。


ですよね。

あれだけ、鬼のように集中して資料を作成し、翌日の教材も作成し、朝6時の新幹線に飛び乗って、10人近いお子さんのレッスンやご相談を伺っても、眠くも、つらくも、何ともない自分が、不思議で仕方ありません。


自分自身を振り返りながら、これは、子どもも同じことだと気がつきました。

私は、一度やる気スイッチをオンにした子どもが、その後見違えるように変身した場面に、何度も何度も遭遇してきました。

指導者の子どもの内発性を信じる強い心と信念、それが本物であってこそ、それを子どもが受け止めたときこそ、やる気スイッチはオンになるのです。

苦しい期間が長い子ほど、この時の爆発力は大きいものです。

これぞ、教師の最大の指導性です。


もちろん、教育のプロとしての、テクニカルな技術は、不可欠の必要条件です。

免疫力もさることながら、子どもの内発性=やる気スイッチを押す心の教育の営みが、質的なデータとして、やがてその有効性が実証される日が来るに違いありません。


私が、ご両親のお気持ちを受け止めさせていただいたように、ご両親は、私の気持ちをしっかりと受け止めてくださいました。

私たちの相互に、あたたかい信頼の心が、流れ込んでくるような感覚になりました。

支援者と、そのご家族、

そのあるべき姿の一つの形が、今ここにあるのです。


作成した資料自体は、手段の一つであって、その目的でも何でもありません。

資料を作成しただけで、何かが、魔法のように前進していくとも思っていません。

それが、豊かな子どもの学びに繋がってこそ、初めて意味のあるものになるわけです。

むしろ一歩踏み出したことにより、今後立ち向かっていかなくてはならない課題が、次々と生じて来るかも知れません。


> この先、どんな局面が来ようとも、私は負けずに立ち向かっていきたい、今は、そんな気持ちです。


私は、ご家族に、そのようにお伝えしました。

これも、それも、すべて、その根元には、ご家族の我が子の成長を心から願う強い気持ちと、どんなことがあってもへこたれない深い決心があるのです。


私自身も、また一つ次のステージに進んだと思っています。

ご家族が、支援者を育てているのです。

内発的なものでなくて、やらされていて、果たしてこんなことが出来るでしょうか?

こうした歩みそのものが、私を今とは違う人間に、成長させてくれているのです。




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ご家族の 強い気持ちに応える

 2011-02-07
今朝は、教室に通ってくださっているあるお母さんのお見舞いに伺いました。

10時に、年長クラスの記念写真を撮り終え、その足ですぐ病院に直行しました。

病院までは、片道1時間近くかかります。

1週間の中で、2時間の時間の余裕があるのは、今日しかありませんでした。


私は、お子様、もしくはご家族が入院された場合は、例え短い時間であっても、必ずお見舞いに伺いたいと思っています。

私は、網膜剥離で1回、虫垂癌で1回、入院をしました。

その時の、お見舞いに来てくださった方のお気持ちが、今でも、忘れることができないのです。


先日、熊本にお住まいの方から、レッスンのお申し込みをいただきました。

今、私は新規のレッスンをお受けできる時間的な余裕がないので、やむなくお断りをさせていただきました。

このところ、何件も、立て続けにお断りをさせていただく事が続き、何とも申し訳ない気持ちで一杯です。

一日も早く、より多くの方のお役に立てる枠組みを作らなければと、正直、少々焦っている所です。


熊本のお母さんには、1回だけというお約束で、ご相談をお受けすることになりました。

新幹線が開通するので、岡山には通うことができる、

メールには、そう添えてありました。



先週、大阪でのレッスンで、すばらしい学習ぶりのお子さんがいました。

お母さんは、そのようすを部屋の外で見守りながら、毎日でも岡山に通いたい、と私に伝えてくださいました。


レッスンをしていて、こんなにうれしい瞬間はありません。

大阪レッスンの日には、朝6時24分の新幹線に乗ります。

家を出るときは、真っ暗で、この日の朝は寒いのと、頭が痛いのとで、泣きたい程でした。


ところが大阪に着くと夜が明け、太陽の光で、視床下部が刺激され、気合いが徐々に高まっていきます。

そして、ひとたび会場に入ると、脳から促進系の神経伝達物質がガンガン出まくって、あれだけしんどかったはずの体調が、どこかへ飛んでしまうので、本当に不思議なものです。


私のレッスン、実はうまく行かない日、思い通りにいかない事が、何度も何度も訪れます。

どちらかといえば、うまく行かないことの方が多く、ちっともスマートではありません。


でもというか、だからというか、実はそこが勝負の分かれ目となります。

もがいてもがいて、それでも私が、それを捨てずに、あきらすに、立ち向かうことができたのは、何故か?

それは、そこにご家族の、何より強い気持ちと願いがあるに他なりません。

それがなければ、毎週のように、県外にお伺いすることなんて、できるわけがありません。

その繰り返しが、私を、ここまで育ててくれたのです。


子ども育てているのは、主体者である、ご家族より他には考えられません。

そのご家族に強い気持ちがあればこそ、私が、させていただく内容が浮かび上がってくるわけです。

言わば私は、ご家族の願いを受け、教育者として、その一部を代行し、それを応援させていただいているに過ぎないのです。

ご家族に強い気持ち無くして、私がさせていただくことは、何もないのです。


何万円もの費用をかけて、岡山までお越しくださることの意味は、そこにあります。

真摯に子どもの学びと育ちに向き合う、ご家族を、決して孤独にさせてはならない。

ほんのわずかであっても、そのことを共有し、共に歩む支援者の存在が、どれだけ主体者としての家族に必要であるかということを、私はその体験を通して、毎日のように感じているわけです。

そのことが、私の目を開き、手足を動かしているわけです。


病院に着くと、何と入れ違いに、そのお母さんは退院をされていました。

携帯の発信履歴を見ると、10時に病院に問い合わせた時には、「入院されています」 ということだったのに、11時過ぎに病院に着くと、「もう退院されています」 ということだったようです。


このお母さんが、どんな気持ちで、どれだけのご苦労をなさって、毎回、私の教室に来てくださっているか、私はそれを理解しているつもりです。

そう言えば、いつだったか、このお母さん、私に少し耳の痛い内容を伝えてくださったことがあります。

何事も、こういう時が、大切なわけです。

今から思うと、それは、教室運営にとって、とても大切なことで、まだ公務員気分の抜けていなかった私の目を、しっかりと覚ましてくれたのです。

真摯な思いがあればこそ、耳の痛い指摘があり、それを起点として相互の信頼が培われ、母として、指導者としての役割がより明確になっていくわけです。


その気持ちにお応えする方法は、ただ一つ。

質の高いレッスン、それしかあり得ません。

苦しい、苦しい、力の無い自分には、そのことが一番苦しい。


でも、だからこそ、やらなくてはならない。

微力だからこそ、今日も、それを真っ正面に受け止めていきたい。


ここに来て良かった。

そんな風に言ってくださる方が、一人でも増えるように、精一杯、前に前に進んでいきたいと思うのです。



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りんちゃん 算数の情景図を自分でかくようになる

 2011-02-04
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りんちゃん (小3) は、この日も元気一杯にやってきました。

指定の場所にカバンをかけると、「1・2・3・4」と、準備体操を始めて大爆笑、気合いの程を、私に強烈にアピールしてくれます(笑)


「文章を読み、それをイメージ化した上で、演算決定ができる」

「位取りの仕組みを理解して、筆算ができるようになる」


その2つの力を、何としても4年生の終わりまでに身につけさせたい。

そんな具体目標を定めてから、私の指導の軸のブレが、目に見えて少なくなりました。


えらいものですね、すべてをそこにシフトすると、ちゃんとそのことが伝わるものです。

何度やっても、「12」を数える時に、数え棒をバラバラにして1から数えていたりんちゃんが、今ではちゃんと10の束をばらさないようにして、「10・11・12」 と数えるようになりました。


今日、文章問題をするときに、りんちゃんは、先生役がやりたくなったようでした。

いいチャンスだと思って、「りん先生、1番の問題をお手本で読んでください」 と、やってみると、あれだけ嫌がっていたのに、算数の文章題をスラスラと読んでくれるではありませんか?

勢いで、「先生、問題がむずかしいので、ちゃんと黒板に書いて説明してください」 と伝えると、何と情景図までかき始めました。


その情景図を見て、これまたびっくり!

絵こそ稚拙ではありますが、その手順は、これまで私がモデルとして示したもの、そのものなのです。

そして、「で、だから、これはひき算、いいですか?」 と、やってくれるのです。

えっー、りんちゃん、わかってたのー??

先週までの、演算決定の迷走は、一体何だったの?

分かるとき、ネットワークがつながるときは、こんなものですが、本当に、おったまげました。


4年生までに目標が達成できなかったら、切腹しますと、私は冗談交じりにお母さんにお話をさせていただいたことがありますが、これなら何とか、切腹は免れそうな気分になってきました。

でもね、特性的に、まだまだ長い滑走路が必要な子です。

私の、まるで神の手のような滑走路が無くても、自分だけの力でテイクオフ出来なければ、本当の力が育ったとは言えないのです。


でも、正直、うれしいし、こういうレッスンは、指導者冥利に尽きるというものです。

もっともっとかかると思っていたのに・・

改めて、子どもの今をとらえ、その道筋を明確に示す力量が、何よりも重要であることを思い知らされました。


そこさえ見えれば、どんな風にだって対応できる。

実は、その道が見えるまでの歩みこそ、本当は大切なのだと思っているのです。



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教育の可能性を否定する言葉  

 2011-02-03
「何々症の子どもは、いくら教えても数量の概念が入らないから、算数の勉強なんかやっても意味がありません」


世の中に、そんなことを言う人は、一人もいないと信じています。

もしも、似たような内容の発言があったとしたら、それはきっと、その子に優先的に身につけさせたい大切な教育的な願いがある、ということをお伝えになりたいのだと、思っています。

だとしたら、もう少し、慎重に言葉を選ぶべきではないでしょうか?


例えば、小学校の学習指導要領には、「数と計算」 「量と測定」 「図形」 「数量関係」 という4つの領域に、それぞれ系統化された到達目標が示されています。

これを大切な基準としながら、できれば示された内容がクリアできるよう精一杯取り組むことは、とても大切で意味のあることだと思っています。

ですが、これに到達出来ないからと言って、学習そのものに意味がないというのは、誤りです。

むしろ、私は、例えば算数が苦手な子だからこそ、初等教育果たす役割が極めて重要になると考えています。


なぜなら、算数が苦手ということは、その子の認知や発達の特性と深い関連があることは明らかであるわけです。

数の合成分解が苦手で、減加法による繰り下がりの計算が出来にくいのは、多くの場合、同時的処理が苦手な認知処理様式に起因しているわけです。

ならば、この算数の学習を通して、得意の継次処理の力を利用しながら、同時的に数をとらえる力を育てていくことが、教育としての最も大切なねらいの一つになるのではないでしょうか?


特に、脳の可塑性が高い学童期にあるのです。

苦手だからこそ、今そこを刺激しないでいて、いつ誰がそこを育ててくれるのでしょう?

誰が、そのことに真剣に向き合ってくれるのでしょう?


私は、それぞれの教科を通して、その子のもつ可能性を、最大限に高めていくことこそ、教育の目標だと考えています。

もちろん、目の前の具体的な到達目標に真剣に立ち向かわずして、子どもの育ちはありません。

ですが、それは具体的な到達目標であるけれども、教育目標実現のための、大切ではあるけれども一つのステップにしかすぎないのです。


決して、今出来ないから、やっても無駄ということではなく、どうすればそれが出来るようになるか?

どんな力が育っていないから、それができないのか?

では、どんな力を付けてやれば、それができるようになるのか?

そういう視点で、その子の学びに向き合うこと自体が、極めて大切だと思うのです。


繰り上がりの計算ができるようになった子どもは、計算ができるようになったこと自体が、とても価値のあることです。

そして、繰り上がりの計算ができるようになるほどの、様々な能力の育ちが、そこにあるわけです。

それが、教育の果たすべき役割であり、可能性だと思うのです。


青年期以降の教育の果たすべき役割と、初等教育の果たすべき役割は、全く同じではないはずです。

計算、いくら教えても出来ないから、やらせても無駄??

その子がなぜ出来ないのか、分析できてます?

そのために今、あなたがすべきことは何もありませんか?


今出来る力をベースにすることは必要です。

でも、今すでに出来ていることをなぞるだけでは、子どもの可能性を高めていくことにはなりません。


繰り下がりの計算は、そのための、一つの大切な切り口だと、私は考えているのです。



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