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お母さん方と共に考える 算数指導の学習会

 2011-01-31
先ほど、私の教室を会場に、お母さん方8名と、算数指導の学習会をさせていただきました。

小学生のダウン症のお子さんの、豊かな数に対する感覚を、親としていかに培っていくか、ということがメインのテーマとなる学習会でした。

私は今、多くのダウン症のお子さんの個別指導に直接かかわっていますから、それぞれのお子さんが、向き合っておられる課題やその困難さが、ダイレクトに伝わってきました。


一口にダウン症といっても、それぞれのお子さんによって、課題も違えば、特性も異なり、それを一般論として語ることはできません。

ただ、実際に、こうしてダウン症児をおもちのお母さん方が8人も集い、それぞれのお子さんの課題に向き合うことで、大切なことがいくつか浮かび上がってきたというのも事実です。


順序数から離れにくい、数を量的につかむことができにくい、継次性優位の認知処理様式であるが、手先の巧緻性や正確さが欠けるため操作活動ができにくい、あるいはショートターンのメモリーが十分でないためにその良さが発揮できにくい、数や文字をイメージ化することが苦手である、演算の意味がわからない、念頭操作が難しい、4以上の数をぱっと見てそれを4と認知することができない・・

それぞれのお子さんの具体的な課題の中から、それをどう考え、何をすべきかを一緒に見つめていく、そんな学習会になりました。


> あなたのお子さん、明日から、こんな風にやってみると、きっとうまく行くはずです。

> まずは、こんな風にトライしてみてください。


具体的なアドバイスをさせていただきたいと願っていましたが、ちっともそんな風に、スマートにお答えすることはできませんでした。

しかし、このような学習会には、できれば今後もぜひ参加させていただきたい。

そして、具体的な実践例を、もっともっと積み上げて、そして整理して、皆さん方にお伝えしなくてはならない。

私の心の中には、こうした強い思いがこみ上げてくるのでした。


会が終了し、帰る間際のお母さん方の後ろ姿を見ていると、それぞれのお母さん方も、私と同じように何かを感じ取っているようすを、その反応から伺うことができました。

ダウン症のお子さんを、小学生まで育ててこられたお母さん方です。

ましてや、事前に資料を準備し、日程を調整まで、この会に参加されるようなお母さん方です。

日々子どもの学びに真剣に立ち向かう者が、こうして同じ場所に集い、共通の課題に向き合ったわけです。

そこから、何かが生まれるのは、当然と言えば、当然のことです。


こういう会をもとう、こういう会をしよう、そういう企画が持ち上がったこと自体が、私にとっては何より価値のあることで、大切な財産となっています。


学校教育の重要性を十分に理解した上で、ご家族と共に、豊かな個別指導の文化をつくっていく。

私の活動の大切な一歩が、またここからスタートしたのです。




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奇跡は こうして起こる

 2011-01-29
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    (白ゆり教室の実践をお伝えしたポスター)



昨日は、岡山大学教育学部附属特別支援学校・平成22年度研究協議会の日でした。


私は、昼からのポスター発表をさせていただくことになっていました。

何とか午前中の授業公開に参加できないものかと思っていたら、ある方の朝一のメールから、そのことが可能な展開となったのでした。

もし、このメールが届かなかったら、これからお伝えする色々なことは、きっと起こらなかったのだと思います。


まずは、ポスター発表の控え室入ったとたん、今うちの教室に通ってくれている子のお母さんにばったりとお会いしました。

きっとPTAの役員として、お手伝いをしてくださっているのでしょう。まあ、先生と、びっくりさなっていました。


> 先生、授業には間に合わないとおっしゃっていたのでは?

> それが、急遽、都合がついちゃって・・

> うちの子がね、SHINOBU先生は勉強時間には来られないと何度伝えても、いや絶対に先生は来る、と言い張って聞かなかったんですよ。


結果として、この子の予想の方が当たったわけです。 こういうことが、日常的によく起こるので本当に不思議です。


その数分後、私の元上司(今は岡山大学の特任教授をされています)が、いきなりポスター発表の控え室を尋ねてくださいます。


> やっぱり、ここにおったか?

> えっ、先生、今日は所要で来られないとおっしゃっていたはずでは?

> いや、それが、いてもたってもおられなくなって、都合を付けてやって来た。


きっとこの先生も、私と似たような展開だったのでしょう。この時点で、本来ならあり得ないことが2つ重なっているわけです。


中学部の子は、私の顔を見ると、少し驚いたような顔をしましたが、とっても喜んでくれました。

夏には中学部の先生が2人、わざわざ私の教室のレッスンの様子を見学に来てくださっていましたので、授業後の情報交換会にも参加させていただきました。ほんのわずかではありますが、恩返しをさせていただくことができました。

と同時に、この時でしか培うことの出来ない、信頼の輪がじわりと広がっていくのを、私はしっかりと感じることができたのでした。


実は、私は、高等部に通う一人の男の子のことが、ずっと気になっていたのです。

私の横にいる上司が、地域の小学校の校長だったとき、私は支援級の担任でした。

たった一人の子のために、支援級を創設し、前年6年生の主任だった私を支援級の担任に起用したのがこの校長であり、その一人の子が、今この高等部に在籍しているのです。


特別支援学校の先生にお尋ねしたところ、みんなとは違う別室で勉強しているということでした。

やっぱり、だめか、会えないか?

残念な思いを抱いたのは、私も元校長先生も同じでした。


それぞれの教室を二人で回りながら、とある教室の前を差し掛かった時、突然扉が開き

「あっ、SHINOBU先生」 

と、大きな声が廊下に響きます。

何と、個別指導の時間がちょうど終わったその時に、偶然私たちがそこを通りかかったのです。

「小学校の校長先生!」

校長先生のことも、しっかりと覚えておいてくれました。

この子にとっては、本当は大恩人の校長先生であります。

と同時に、今高等部に通うたった一人の子のことを、退職後までも、旧担任とともに気にかける。これぞ、校長のあるべき姿であるに違いありません。


「私のことを覚えてくれていて、うれしい」

と、校長先生は感激されていましたが、その気持ちが、届かないわけはありません。

改めて、私はこの校長に、教育の神髄をたたき込まれたことを、誇りに思ったのでした。

特別支援という最も大切な教育の営みにかかわるリーダーには、人としてのこうした理念と信念が何よりも大切だと思うのです。


この子は、以前私の教室に通ってくれていました。

私は、次にいつどこで、この子に会うべきかを、ずっとずっと考えていました。

一目で良いから顔を合わせ、私の願いを伝えなくてはならないと思っていました。

図らずも、それは最高の形、最高の場面で実現したのです。


ポスター発表が終わると、これもたまたま大学院でお世話になった先生とばったり出会い、そのまま大学の研究室までお誘いくださり、色々な面で今後の私の活動に示唆を与えてくださいました。


その夜、あの高等部に通う子のお父さんから、電話がかかってきます。

この日、わずか何秒か顔を合わせただけのことではあるけれど、それがどんな意味をもつのかを、噛みしめるような瞬間でした。

神様、本当にありがとうございましたと、この日の驚くような偶然の積み重ねに感謝するのでした。


真摯な意思のあるところ、初めて道は通ずる。

それを必然と見るか、奇跡と見るかは別にして、教育にとって何が大事なのかを、改めて感じた一日でした。


実は、この日はまたまだ不思議なエピソードがあるのですが、とてもではありませんが、そのすべては書ききれません。

私は幸せ者であると同時に、その責任は限りなく重い。

その思いと誇りを、強く噛みしめた一日なのでした。



この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2011-02-01)




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太郎君の育ち

 2011-01-27
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太郎君、これまで継続的に取り組んできた漢字と算数の学習が、支援のフェードアウトの時期になってきました。

今まで施してきた支援の意味が理解でき、自分の手でそれをやりたくなってきたのです。


例えば、「安」 という文字は、音では 「安心」 と読み、訓では 「安い」 と読むなど、文脈によって使われ方が違ってきます。 

そこで私は、文脈の中で、音読みの時には赤で印を、訓読みの時には青で印をつけてやるようにしました。

理屈ではなかなかわかりにくい事でも、何回か続けると、「あっ、そうか」 と気がつく時期がやって来ます。


今の太郎君が、まさにその時期で、なるべく私の支援なしで、やってみようとがんばっているのです。

むずかしくなってきたら、ちゃんと質問します。

何だか表情が凛々しくなってきたように見えます。

そんな太郎君の成長を、本当にうれしく思っています。



カードなど視覚的な入力が得意だけど、数の操作を念頭でできにくいタイプの子もいます。

入力が視覚系で、処理が継次的なタイプの子です。

太郎君の場合は、写真のようなカード一枚置いてやるだけで、それを見ながら、かなりのハイスピードでひき算をすることができるようになってきました。


きっと、1・2ヶ月もすれば、やがてこのカードもフェードアウトできるのではないかと思っているところです。

次は、位取りや筆算の学習が視野に入ってきました。

たとえゆっくりではあっても、どんなに時間がかかっても、めざす頂がそこにあるのです。

こんな風に、週に1時間であっても、ずっとずっと積み上げていくことによって築かれる力もあるのです。



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先日、太郎君の通う学校へおじゃましたときの事です。

生徒指導担当の先生が、校門の所で、太郎君に 「さよなら」 と、声をかけてくださいました。

これまでは、はにかんだりすることが多く、なかなか 「さよなら」 と言えないことが多い太郎君でしたが、この日は、しっかりと 「さよなら」 とあいさつを返すことが出来ていました。

私の教室に入ると、くつをちゃんとそろえ、自分でタイムタイマーをセットして、やる気満々で私を待ってくれていました。


学校の教室の廊下に、太郎君の図工の作品が飾られていました。

東京スカイツリーが真ん中に描かれていました。

今年届いた年賀状には、その東京スカイツリーをバックに、お兄ちゃんと一緒に写った太郎君の姿がありました。


太郎君は、これまでずっと通常級で頑張ってきました。

そのことが、太郎君の成長に果たしてきた役割は、計り知れないものがあります。

集団の中にしっかりと居場所があること、一方で複数年にわたってその学びを個の視点で支える支援者の存在も大切です。


太郎君の担任の先生は、私がお願いした内容のプリントを印刷して、太郎君に手渡してくれています。

私の教室では、そのプリントを使って学習し、担任の先生が丸付けをしてくださるのです。

先日、担任の先生にそのお礼をすると、「こちらこそ、ありがとうございます。太郎君のこと、これからもいろいろと教えてください。」 と、おっしゃてくださいました。

主任の先生、ベテランの先生でありながら、謙虚ですばらしい先生です。


こうした太郎君の成長は、きっと何か大切なことを指し示しているに違いありません。

「さよなら」 と、きちんとあいさつができるようになった太郎君を、私は何よりも誇らしく思えるし、と同時に、学校がこの子をここまで育ててくださったと実感しているのです。


もう昔の太郎君ではありません。

そのあゆみが、人が育つことの、意義とすばらしさを、私にしっかりと伝えてくれるのです。



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学びの成果とは何か?

 2011-01-24
昨日、1年生の女の子と一緒に勉強しました。

就学前、ご相談を伺い、ご両親のご判断で、通常級を選択されました。


1年生も後半となると、漢字の学習が始まります。

2週間に1回来てくれている子ですが、昨日、漢字の練習をしていて、書字能力が大きく伸びてきたのに驚きました。

45分間、集中して最後まで、学習に取り組めるようになりました。


元気いっぱいだけど、就学前にはちょっと幼い感じが残る子でした。

今日もしっかり勉強ができた。

そんな手ごたえを感じながら、ちょっとお姉ちゃん顔にになって、満足げに教室を後にするその子の姿が、とても印象に残りました。


学校の担任の先生は、以前同じ学校に勤務していたことのある先生です。

体育会系で、さっぱりとしており、愛情深く、笑顔でこの子を包んでくださっている様子が目に浮かぶようです。


1年前とは、見違えるようにしっかりとしてきた、この子の姿がここにあります。

学校での勉強に、真剣に取り組んでいく。

それを、必死の思いで支えてこられたご家族。

そのことにより、学習内容そのものだけでなく、様々な能力や態度が身についていくものだなと、改めて学校教育のもつ意義の深さ、存在の大きさを感じたのでありました。

この真剣さ、強い気持ちがあればこそ、子どもが育つのだと、改めて感じたのです。


しかし、すべての場合に、すべての事が、ご家族の期待通りに進むとは限りません。

そんな時、その願いが強ければ強いほど、真剣であればあるほど、家族の気持ちは痛むものです。


私は、何度もそういう厳しい場にも遭遇してきました。

私がかかわれば、すべてうまく行くなんてことが、あろうはずはありません。

せめてここだけは、という切なる願いがそこにあるからこそ、心が痛んであられるのです。


そんな時、私は、

お父さん、お母さん、そんなに自分を責めないで、

確かに、それはとても大切なことであるけれど、あなたのお子さんは、ちゃんと育っていますよ、

笑顔を忘れないで、

それだけがすべてではないことを、心のどこかに置いておいて欲しい、

そう、そっと願うのです。


それが苦しい場面であればあるほど、私はご家族と一緒になって揺らいではならないと、心に言い聞かせえています。

ご両親の強い気持ちに、やがて深い思いが付加されていく時が、必ずやって来ます。

それを、サポートしていくことが、支援者としての大切な役割の一つであると考えています。


野球をするなら、どんなチームも甲子園を目指して、練習をしてほしい。

最初から、どうせ俺のチームはダメだと思わないでほしい。

でも、甲子園は目標であっても、本当は、その目的そのものではないはず。

例え、試合に負けたとしても、勝ったチーム以上に、もしもナインに最も大切なことが培われていたとしたら、それが本当の目的ではなかったのか?


学びをおろそかにしていては、子どもの成長はあり得ません。

目の前の一つ一つを大切にしてこそ、豊かな学びがあるというものです。

と同時に、時には、その目的そのものを振り返ってみることも大切です。

苦しい時であればあるほど、そこを振り返ることによって、次に目指すべき道が見えてくような気がします。


家族にしかできないことと、家族だからできないことがあるのです。

そんな時程、揺らがない役割の者も必要なはずです。

そのお手伝いをさせていただくことが、私の役目であると思っているのです。



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個別指導の文化を ご家族と共につくる

 2011-01-21
昨年、ある教育委員会主催の研修会で、私の行っている個別指導の実践の一部を紹介させていただきました。

その時、お聞きくださっている先生方の反応やご感想、主催者として企画・担当してくださっている先生方のご助言をいただいき、個に寄り添う学びの具体的な実践に、とても強い関心をおもちであることを、切実に感じることができました。

私の実践が、何かの形で先生方のご指導の参考になるのでしたら、次回は、より具体的で、より内容のあるものを、整理してお伝えさせていただくことを、お約束させていただきました。


昨日、岡山JDS(ダウン症協会)の担当の方が、月末に予定している学習会の資料をお持ちくださいました。

今回は、8歳~12歳までの8名のお子さんの算数の学習について、具体的な事例をもとに考えていこう、というものです。

まずもって、こういう企画を実現する所がすばらしいのですが、いただいた資料の中身が、半端でなく貴重なものです。

演算の意味や決定のプロセス、数の量としての認知、CMなどの単位の理解、位取り記数法の意義、順序数の発展、具体物と概念操作のバランス、金銭感覚・・

それぞれのお子さんのリアルな課題についての資料を、整理して封筒に入れてくださっているのです。

何としても、このお気持ちにお応えすべく、全力で取り組ませていただきたい、そんな思いで胸が熱くなっていきました。



来週の金曜日には、岡山大学附属特別支援学校の研究協議会で、かれんちゃんの実践について、ポスター発表をさせていただくことになっています。

やっと資料が完成し、本日送付させていただきました。

「 ダウン症児に対する個別指導 ~ストーリー性を大切にした個別指導の実際~ 」

岡山大学附属特別支援学校 平成22年度研究協議会 平成23年1月28日(金)
   
「研究活動」→「平成22年度研究案内」 のページをご覧ください。



県外にお住まいの方から、文字の学習教材についてのご質問をいただきました。

とても熱心なお父さんで、奈良県から何度も岡山までお子様を連れて、お越しくださった方です。

私に時間的なゆとりがないため、ご家族のご希望にかなうレッスンの時間のご案内ができず、いつも心苦しく思っていました。

しかし、例え私の小さな助言であっても、このお父さん、早速、新しい教材づくりに取り組んでおられるようです。


学校教育のプロが先生であるなら、ご家族は子どもの今を一番良く知っているプロであるわけです。

個別の指導の文化を、ご家族と共につくる。

それが、私のなすべき役割だと思っています。


私は、これから、5年、10年と、子どもをの成長を支えるパートナーとして、ずっとご家族の応援をさせていただきたい。

あなたと、あなたのお子さんとの貴重な歩みや取り組みを、ぜひ後に続くお子さんの成長や幸せのために、使わせていただきたい。

あなたの努力は、他のお子さんの成長や幸せと無縁ではないわけです。

私の実践発表は、ご家族の熱い願いに支えられている。

あなたの果たすべき大切な役割が、もうひとつ、ここにあるのです。




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読解支援のエキス

 2011-01-17
文字を見て、それを音声化する。

とても大切なことです。


豊かな学びを続けていくうちに、「と」 「け」 「い」 という3文字を見て、すぐに頭の中に 「時計」 のイメージが浮かぶようになってきます。

それぞれの物には固有の名前が付けられ、言葉を通して、自分の生活を取り囲む事物への関心や理解がどんどん深まっていくのです。


やがてそれは、名詞だけでなく、動詞や形容詞、そして文章へと発展し、人の心の動きや状況の変化、さらには目に浮かびにくい抽象的な概念までが、文字や言葉を通して表現され、それを理解していくことを学んでいきます。


子どもの中には、こうした内容を読み取ることが苦手なタイプの子がいます。


「男の子は、額の汗をふくこともなく、お母さんの方へ走っていきました。」

「そこには、真夏の日差しを浴びで、向日葵の花がキラキラと輝いていました。」


私は、母の豊かな愛情を受けて、元気いっぱいに成長する子どもの弾むようなエネルギーを、この二つの文章で皆さんに伝えたいと思いました。

あえて、ダイレクトに、「その子は、母の愛情を一身に受けて、元気一杯な子どもに成長しました」 とは、書かなかったわけです。

場の状況を意図的に示すことによって、読む人に、自分のイメージを追体験してもらいたいと思ったのです。

いわゆる文学的な表現にあたるわけです。


「へー、向日葵の花がキラキラと咲いていたんだな」

その状況が絵として浮かんでも、そこに、筆者の意図が込められていることが、わかりにくい子もいるのです。

額の汗や、走るという行為に、「お母さん大好き」 という気持ちを込めていることや、向日葵の花にすくすくと伸びる子どものエネルギーをだぶらせていることを、感じ取ることが難しいのです。


では、どうするか?

なかなか特効薬は、編み出せませんでした。


でも、私には、友里ちゃんとの3年にわたる読み支援の実践がありますから、自分なりのアプローチの方法はあります。

それは、文章の冒頭から、文脈の流れや主題から、意識をドロップアウトさせないように、ていねいに一緒に物語の内容を味わっていくことです。

問題文に取り組む中で、その子の理解度に合わせて、どうしてそう思ったか、その理由を尋ねたり、その子が意図した内容に意識が向きやすいような等価の選択肢を用意して選ばせたり、キーワードや読みの範囲を限定して、再読させたり、判読したり、その方法は様々です。


文脈のレールに乗り始めると、明らかに子どもの表情や意欲に変化が見られます。

ここまで来れば、なるべく自走できるように、後ろからそおっと応援するようにします。


先日、ある3年生の女の子の読解支援をさせていただきました。

この子のレッスンでは、お母さんには、少し離れた位置で、学習の様子をご覧いただきようにしています。

その様子を、そのお母さんが、下記のように、ブログ記事にまとめてくださいました。


 明日は晴れる 「白ゆり教室」 (2011-01-15) 




先日、大学生の娘が面白いことを教えてくれました。

この子は、以前、「餃子の王将」 でバイトをしていたのですが、その賄いごはんの話です。


> 前の店長のチャーハンは、それりゃあおいしかったけど、店長変わってから、チャーハンは食べる気がしなくなった。

> 材料も、道具も一緒で、そんなに味が変わるものか?

> 全然違う。 ああいうシンプルなものほど、腕の差が出る。

> チャーハンは、看板商品だよね。 その辺、敏感なんだね。


例えば、子どもの読解にかかわる認知特性とその育ちを瞬時に深く理解し、最適な教材を選択し、体調や学習の流れ、そして成長のようすを読み取り、子どもが自力で大海を渡っていけるような、ナイスな支援を、一度でいいから行ってみたいものです。

もっと、もっと腕をあげなきゃ。

実践の場こそ、自分を磨く最高の舞台。

なべの振り方一つで、チャーハンの味は変わるものです。


ここでしか食べられない究極のチャーハン、

いつの日か、そう言っていただけるよう、修行を重ねていきたいと願っているのです。



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個別指導 3年間の成果

 2011-01-14
あの時、1年生だった花子ちゃんも今は4年生。 この春には、高学年の仲間入りです。

あれから毎週、90分のレッスンを、ずっと楽しみにしてくれました。


「今日くらいは、休んだら?」

そうお母さんに言われた日でも、休むことはありませんでした。

少しくらい体調が悪くても、校外学習から帰ったその日でも、くたくたに疲れているはずの日であっても、必ず私の教室には来てくれました。


初年度から私の教室に来てくれた子は、今3年目のレッスンを受けてくれていることになります。

学校教育と違って、多くの子は、1週間にたった一度だけのレッスンです。

しかし、こうして継続的に3年、目標を明確に定めて、個別指導を積み上げると、それぞれの子にそれなりの成長の跡が伺えます。


もちろん子どもですから、成長するのは当たり前のことです。

その成長が、私だけの手柄であろうはずがありません。


この教室を開くとき、私はこの教室の教育目標を、「肯定的な自己理解力の育成」 と明確に定めました。

今、私が実感しているのは、そのことに対する手応えに他なりません。


先日、太郎君のお母さんから、うれしいメールをいただきました。

このところ、算数で大きな手応えを感じている太郎君、家庭や学校でも、その算数の学習に対する前向きな態度が見られ始めたという内容でした。

私自身は前に進んでいる自信はありましたが、なかなかそれが形として表れてにくかったですからね。

ここに来て、これまで2年にわたって培ってきた数感覚を、やっと形にして表現できるレベルに育ってきました。


こんなに時間がかかって済みません。

正直、そんな気持ちです。

よくぞ、これまで信頼し、辛抱して待ってくださいました。

感謝の気持ちで一杯です。


例えば、英会話にしても、ピアノにしても、1年・2年で完成できるものではありませんよね。

言語や、数量の分野だって、似たようなところがあります。


子どもにとって、オフィシャルな集団での学びは、命です。

と同時に、その子の特性に応じた、行き届いた個別の学びも大切です。

それをごちゃまぜに考えてはいけない。その双方が、重要なわけです。

せめて3年、ねらいを明確に定めて、継続してじっくり培っていけるような学びの場を、それを必要としている子には、最低限保障してやりたい。

1年単位では、出来ることと出来ないことがあります。


その大切さと実績を世に示していくことは、私に与えられた大切な役割の一つと思っています。

できるようなりたい、わかるようになりたい。

子どものその気持ちに応えてやることは、大人としての責務です。


教室を始めた時の、あの時の気持ちを、ずっと忘れないようにしたいと願っているのです。



この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2011-01-16)






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それぞれの発達の曲線に寄り添う

 2011-01-13
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かれんちゃんは、3・4歳の頃は、パズルが嫌いでした。

当時は、まだうまく言語で表現出来ない時期でしたから、途中で目を三角にしてパズルを放り投げてしまうこともありました。


その代わり、ロールプレイ大好きで、時間を忘れるようにごっこ遊びを楽しむことができました。

私に初めて、「せんせい」 と言ってくれたのは、いつだったでしょうか?

「せんせい」 と言ってくれる度に、うれしくて何度も何度も抱き上げてほめると、ケラケラと笑ってくれたのが、遠い昔のように思い出されます。


> 紙ちょうだい

> はい、紙をどうぞ

> ありがとう

> いいえ、どういたしまして 


今日は、何度も何度も、そんなやりとりができました。

ご覧のように笑顔いっぱい、心が通い合い、笑い声の絶えない時間を過ごすことができました。


そのかれんちゃんが今、昔あれほど嫌がっていた認知系のパズルを選択する機会が増えてきました。

今日も、アンパンマンのシェイプソートや、鍵開けなどに、自分からチャレンジするようになりました。

ここに来て、認知・巧緻性・達成動機など、いわゆる学習レディネスが整ってきたわけです。


ひとつのスタンダードな発達の指針として、3歳ではここまで、4歳ではこのくらい、そして5歳ならここまでは、という目標を決め、系統的・計画的なプログラムのもとに、計画的な教育を実施していくのが王道だと思っています。

そのことによって、得意なこと、苦手なことが明確になり、未知であるあるけれど、大きな可塑性をもった子どもに、豊かな教育の営みが展開されていくのです。

例え、到達度はそれぞれの子によって違っていたとしても、オフィシャルな教育の場では、ぜひ、こうあってほしいと願っているのです。



一方、微細な認知は苦手だけど、感受性が豊かな子もいれば、パズルは得意だけど、絵本のストーリーをつかむのが苦手な子もいます。

可能であれば、ぜひ苦手なことにもチャレンジして、それができるような子に育てたい。

そう願うのは、当然なことです。


しかし、いくらそういう願いが強くとも、学習レディネスが整っていない段階で、課題分析をしないままに、根性だけでこれでもか、これでもかとやったら、さすがにパズルが嫌いになってしまいます。

一人一人の発達のカーブはそれぞれです

もしもそのことで、やる気を失うようなことになったなら、何のための営みかわけがわからなくなってしまいます。


できることなら、多くの豊かな内容を学習させたい。

苦手な事にも取り組み、それができる喜びを体感させたい。

そういう思いが強ければ強いほど、無理強いをして、失敗するリスクも高くなります。


適切な理解のもとに、苦手な事にも、みんなと一緒にチャレンジさせたい。

その一方で、個に寄り添う機会が構成できるなら、その子の発達のルートに寄り添いながら、できる・わかるを軸にしながら、豊かなに枝葉を付ける活動を取り入れてやりたい。

そのことが、私に与えられた役割の一つであると考えているのです。


一見回り道に見えるようなことが、実はずっと近道だったと感じることが、何度もあります。

待つ勇気と、行き先が見通せる力量は、表裏の関係です。

かくいう私も、目先の要求が先行して、子どものやる気を踏みにじることはしばしばです。

そのさじ加減は、いくら経験を積んでも、なかなか思うようには行かず、反省ばかりの毎日です。

正解は、だれも教えてくれません。


課題をいくつか用意して、子どもに選ばせるのは、一つの方法です。

子どもの発達のストーリーはそれぞれですし、日々成長していますからね。

しっかりした見通しと、柔軟な対応。

受容と要求のバランス。

言ってしまえばそれだけのことですが、なかなか実践場面ではむずかしいことです。


子どもの表情は、多くのことを示してくれます。

それを読み解く才覚と、方略を具体化できる実践力を、もっともっと磨いていきたいと願っているのです。




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表出言語・理解言語・文字言語と 思考・イメージ・コミュニケートとの微妙な相関

 2011-01-10
先日、テレビを見ていると、興味深い1シーンに出会いました。

まだ1歳に満たない小さい赤ちゃんに絵を提示して、「きゅうり」 とか 「ねこ」 とか、音声を添えてやると、赤ちゃんの視点がそれにわせるように移動していることを、視点ポインターのようなもので映像化して証明しているのです。


やっぱりな、と私は思いました。

日々の実践の中で、例え表出言語がなくても、理解言語の豊かな子に、たくさん出会ってきましたから。


表出言語がなくても、相互に豊かなミュニケートは出来るし、

表出言語のない時だからこそ、大切に理解言語やコミュニケートの体験を培っていくと、

必ずそのことが次につながり、それが豊かに実っていくことを肌で感じてきましたから。



1年が終わり、大好きだった先生とお別れをする時がきます。

胸にこみ上げる気持ちを、「かなしい」 という言葉で置き換えることを学びます。


しばらく経ち、飼っていたハムスターが、死んでしまいます。

こういうときに、「かなしい」 という言葉が、頭に思い浮かんできます。

でも、この 「かなしい」 と 先生とお別れしたときの 「かなしい」 は、似てる部分も多いけど、決して同じではないのです。


例えばこの 「かなしい」 という人の気持ちを、人は古来より、さまざまな舞台芸術や映画、文学作品を通して、表現してきたに違いありません。

大きくなり、その芸術作品にふれたとき、その子は、大好きだった先生とさよならした体験や、ハムスターが死んだ日のことも重ね合わせながら、「かなしい」 という気持ちの意味を、さらに深く意味のあるものへと高めていくのです。


表出言語が豊かであるに越したことはありません。

こっとそのことによって、コミュニケーションは容易になり、思考も豊かになります。


ただ、表出言語がなければ、コミュニケートができないとか、思考が全く深まらないのかと言えば、それは NO です。

むしろ、言語を媒介としない分、ダイレクトにその感覚が伝わってくるケースも、日常的にあります。


昨日、ある子がなかなか席に着こうとしません。

フロアのマットにしゃがみこんで、ブーンと一発、鼻を出してしまいました。

鼻を出したら、私が、ティッシュをもって来てくれると思っているのです。

本当は、早く勉強がしたいのです。


「また、また~」(笑)

「はい、じゃあこれで、お鼻をとって、さあ、一緒に勉強しようか?」

そう言って、両肩にそっと手を添えてやります。

彼は横目で私を見ると、それはそれはうれしそうな表情を浮かべます。

百万の言葉はなくても、私たちの心は、豊かに通っています。

どんな言葉に置き換えなくても、行為や表情から、私が彼の事が大好きだということが伝わるのです。


私が彼の肩に手を置くと、彼の足は、すっーと椅子の方に、すべるように向かっていきます。

この子からの信頼が、その手の感触から、ダイレクトに伝わってくるのです。


今、この子には表出言語は、ほとんどありません。

表出言語がない分、こうした感性が研ぎ澄まされているということは多いと思います。

間違っても、何も考えてないということはありえません。

決して、この豊かな感性を侮ることはできません。

この子の心に、周りの世界が、そして自分がどのように映っているのかを思うと、時々ドキッと思ってしまします。


言語はある意味、思考を豊かにしていきますが、決して絶対的なものではありません。

時にそれは、先入観や思い込みにつながり、まるで 「裸の王様」 のように、真実が見えにくくなることだってあるのです。


文字を音声化しても、内言語化できているとは限りません。

内言語化できても、それをイメージ化できているとは限りません。

逆にイメージ化できているのに、それを文字と対応させたり、表現することが苦手な子もいます。


同じ子でも、ある事柄は、言語からイメージに広がり、ある事柄はイメージから言語につながっていくのです。

文字言語、理解言語・内言語・イメージ、その相互のつながりを豊かにしていくことが、私の教室での中心となる目標の一つになります。


ある部分が苦手な子は、必ずそれを補完するように、何かが育っています。

子どもの可能性を広げるという意味で、苦手な部分に目を向けることはとても重要ですが、ご家族の場合は真剣度が高いので、どうしてもそのことにとらわれすぎて、わが子の良さが二の次になってしまうリスクが強くなってしまいます。

親子には、絶大な信頼の絆があるので、それはそれでいいのですが、教育者の場合は、子どもの可能性を肯定的にとられることが最も重要であると、私は考えています。

その二つを、うまく役割分担できることが、連携ということだと、思っています。


私は、あなたのお子さんの良さを、少しだけ知っています。

あなたは、あなたのお子さんの可能性を、どこまで信じていますか?




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真実の保育

 2011-01-06
白ゆり教室も、昨日には京都、本日には岡山のレッスンを開始しました。


1月3日の祖母の通夜に、ある子が、お母さんと一緒に足を運んでくれました。

祖母が、園長・理事長時代に、保育園に通ってくていた子です。

今ではもう、立派な青年になっていました。


彼は、保育園卒園後、地域の小学校に入学しました。

その後、養護学校に進み、卒業後は施設で農作業などをするようになりました。


その彼が、 施設で、しいたけ栽培をするようになりました。

私は、しいたけ栽培については、あまり詳しい知識はないのですが、良質なしいたけを栽培するには、湿度や温度、光や換気といった行き届いた管理が大切なのだそうです。

彼は、すばらしい指導者に出会い、自分らしさを発揮できる場所を、このしいたけの栽培で見つけることになります。

通常なら、まあいいやと妥協するようなことでも、きっとかれは根気強い世話を継続することが出来たのでしょう。

一般農家と同じフィールドで、品評会全国上位の成績を収めたと聞いています。

何とすばらしい快挙であることでしょう。


その彼が、卒園して20年近く経った今、通夜の場に、足を運んでくれているのです。

棺に納められた祖母の顔を、彼は何とも言えない表情で、のぞき込んでいました。

私は、熱いものがこみ上げてくるのを、抑えることが出来ませんでした。


きっと彼が保育園にいた同時には、インクルージョンという概念も、特性理解にかかわる情報も、今ほど豊かではなかったはずです。

しかし祖母は、保育者として、真実の保育を実践したに違いありません。

そうでなければ、この時彼が、ここにいるはずはありません。


死してなお、私の進むべき道を指し示す。

この魂は、何としても受け継いでいかなければならないと、思いました。


普通の覚悟じゃ、祖母の真似はできない。

私は、自分の心に弱い部分がたくさんあったことを、深く反省しました。

ただ、がむしゃらにやるのは、逃げているのと同じ事。

私には、苦しくとも、本質を真っ正面に受け止めていくことが必要なのです。


何を大切にして歩んでいくべきか、

心の中に、新しい何かが宿ってくるのを、感じる瞬間がそこにあったのです。



この記事は、「 特別支援教育 人気記事ランキング 1位  」に選ばれました。 (2011-01-09)

この記事は、「 教育ブログ 人気記事ランキング1位 」 に選ばれました。  (2010-01-09)




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