地域の小学校 だからこそ伸びたこと
2010-09-30
今年から特別支援学校の中学部に入学した男の子、中学生になって初めての運動会を、先日迎えました。昨年までは、地域の小学校の支援級にいましたから、特別支援学校の運動会は初めての体験です。
> 中学校から特別支援学校を選択したことには、何の迷いもありませんでした。すばらしい力量と理念をおもちの先生と巡り会えて、とても幸せだったと思います。と同時に、これまで地域の小学校で、多くの子どもたちと共にがんばってきたことにより、どれだけ大切な力を培ってきたのかを、改めて振り返ることができました。
本当に深い愛情をもち、聡明なご判断をされてきたご家族だと感じました。
その担任の先生がお二人、夏休みに私の教室の指導を見学に来てくださいました。
実は、そのお二人の先生のことを、ご縁がありまして事前に存じ上げておりました。
私がサポートさせていただいていることを知らないでお越しいただいたので、顔を合わせたとたん、とても驚かれていました。
ますますステキな先生だという思いを強くしました。
できれば、可能な限り地域の中で、みんなと共にがんばらせたい。
その中で、培っていくこと、養われていくことが、たくさんあるに違いない。
きっと今回の運動会でご家族がお感じになったことは、そのようなことであったに違いありません。
私は、この特別支援学校で、まちがいなくこの子は育つと思っています。
だからこそ、地域の小学校に在籍していたことが光るのです。
今日、その特別支援学校の教頭先生から、来年の研究会で、ポスター発表をしてほしいという依頼を受けました。
毎週火曜日、学校が終わると、その男の子は元気一杯で、弾むように私の教室にも来てくれます。
この笑顔は、ご家族をはじめ、多くの先生方の愛情とご努力に支えらええているのです。
教育の道は、ある意味苦難の連続です。
決してこれで安心、というわけに行かない方が多いのかも知れません。
だからこそ、何よりこうした笑顔の価値があるのです。
子どもと歩む幸せは、きっとこんなところにもあるのです。

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「すべての子どもに 集団での学びと 特性に応じた適切な個別指導の場を」
コミュニケーションスキルを伸ばすということ
2010-09-29

最近、Skypeというソフトを利用しての、オンライン英会話教室が増えていると聞きました。
早速私、無料体験レッスンに申し込んでみました。
先生は、カナダ人の女の先生でした。
バンクーバーと岡山が、リアルタイムでつながっているというのも、ステキだと感じました。
事前に、「英語を通して、できるだけ自然で、日常的なコミュニケートの力を付けたい」 という希望を伝えておきましたが、まさに、私の願った通りの先生を紹介してくださいました。
体験レッスンは、15分という短い時間でしたが、私は、自己紹介と共に、このブログで紹介しているような内容を、ぜひ伝えてみたいと考えていました。
> で、どんな方法で、その子たちを教えているの?
> スモールステップとプロンプトフェーディングです。
> と、いうと?
> 簡単に言うと、ちっちゃい階段をちょっとずつ登らせていくか、支えている手をそっと離しながら、自転車に乗らせていくような方法なんですよ。
> なるほど、 それはかしこいね、すごい~
(私の方は、下手くそなボロボロ英語です)
以前にも感じたことですが、こうした内容は、日本人以上に、外国の方にはとても良く伝わったと感じてしまうのです。
私なりに、その理由を二つ考えてみました。
一つには、発達に対する見方 (インクルージョンの考え) を、当たり前のように理解してくれていること
そしてもう一つは、私の意図をしっかりくみ取って、いつも適切な言葉で返してくれるということです。
> ニューヨークで、どんなミュージカルを観たの?
> えっと、WICKED と LION KING と、あとそれから・・ えっとえっと OPERA・・ (なかなか出てこない)
> もしかして、The Phantom of the Opera?
> それ、それ、その通り~
> そうなんですか、いいなあ、すごい~、うらやましいな~
これだけで、彼女に、オペラ座の怪人のこと、いっぱい話したくなっちゃいますよね。
本当によく勉強されているすばらしい先生で、あっという間に15分過ぎてしまいました。
レッスンの後、その先生からメールがきました。
私のボロクソ英語に、予想以上の高い評価をしてくれましたし、次の課題も明確に示してくれていました。
実は私、このレッスンを受けながら、何故だかかれんちゃんおの顔が、同時に浮かんできていました。
いつものレッスンで、こんなふうに、かれんちゃんの伝えたいとの根元を見つめて、ちゃんと返すことができているだろうか?
内発的な学びの意欲を、掘り起こすことができているだろうか?
人と人とが、コミュニケートする楽しさそのものを、共有することができているだろうか?
自分の、かれんちゃんとのレッスンのようすが、何度も頭の中でビデオ再生されているように感じました。
レッスンのあと、先生からのメールには、
Shinobu is a very positive student who is eager to lean and improve his Engrish.
(しのぶさんは、英語を学び向上させたいと強く思っている、とても積極的な生徒さんですね)
と、書かれてありました。
バカですね、私、営業戦略とわかっていても、その日のうちに、メンバーの申し込みをしちゃいました。
そして、その日一日は、完全に、頭の中が英語モードになっているのが、自分でもわかりました。
短い時間ではありましたが、通じ合う楽しさを、体一杯に感じることができました。
このことで、英会話に対するモチベーションが、飛躍的に向上したのです。
たったの15分でしたが、だからこそ意義深い体験となることもあるのです。
私は、かれんちゃんにも、こんなふうに伝え、こんなふうに感じてもらわなければなりません。
そして、1回1回のレッスンで、学びのモチベーションをかっつり、培っていかなくてはなりません。
コミュニケーション指導とは、こういうことだと思っているのです。
今ごろ、かれんちゃん、どこで、どうしているかな?
木曜日のかれんちゃんのレッスン、何だかとても楽しみになってきました ♪
この記事は、「 特別支援教育 記事ランキング 1位 」に選ばれました。 (2010-9-30)

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「すべての子どもに 集団での学びと 特性に応じた適切な個別指導の場を」
発達面の課題に向き合う子どもだからこそ 理科の学習に参加させたい
2010-09-27
最近、私は、個別指導の場面で、理科を取り上げる機会が増えてきました。その理由としてして、一つにはご家族の願いがそこにあったこと、もう一つは内容的な面でも、ねらいとする学習の効果が高い場面が多くあることに気がついてきたからです。
例えば、視覚認知や文脈理解の力を育ててやりたいと願っている5年生の男の子。
彼は、理科が大好きです。やや断片的ですが、いろいろな科学的な知識を身につけています。
何より、理科の学習となると、モチベーションが格段に高まります。
これまで私は、ずっと国語や算数の学習を中心にレッスンを組み立ててきました。
ところが大好きな理科を教材に使うことが、ねらいとしている視覚認知や文脈理解の力を育てるうえでも、かなり有効な場合が多いことに気がついてきました。
理科の学習では、文章も視覚的な資料も、統合して教材化されています。
そこに、共有する知識と、強い関心があるのです。
ねらいを明確にもち、育てる手法が確立されているならば、教材は子どもの関心があるものでよいわけです。
まさに、理科を 教えるのではなく、理科で 教える学習が成立するわけです。
実は私、今ある研究の助成金を申請しようと考えていますが、その補助金をいただいたら、顕微鏡などの実験・観察教材を購入したいと考えています。
何らかの発達の課題に向き合っている子どもだからこそ、ミジンコやミドリムシ、花粉やデンプンの粒を、200倍以上の映像で、ぜひ見せてやりたいのです。
学校で、胸をときめかせる、こうした未知の世界に触れる機会の少ない子どももいることでしょう。
だからこそ、行き届いた個別指導の場で、実験や観察に取り組ませてあげたい。
それが、私の願いです。
理屈や言語を超えた、宇宙の真実に、ダイレクトに触れさせてみたいと思うのです。
きっと、初めて顕微鏡をのぞく子もいるに違いありません。
そのひとみには、ヒメダカの孵化は、いったいどのように映ることでしょう。
その心臓の動きや、血液の流れから、何を感じるのでしょう。
こうした学習を進めることにより、私の教室の子どもたちは、きっと自分自身の命の大切さをしっかりと感じ取っていくのではないかと思っています。
非言語の子ほど、感じる力はすぐれているのです。
実験のとき、学習班の中で、ちっともやらせてもらえなかったの、という女の子もいます。
何日もかけて、学校ではできない工作の大作を仕上げていく子どももいます。
マンツーマンで応援することで、不可能だと思っていた夢が、実現することもあります。
そういえば、以前小学校に勤務していたとき、いつも教室を抜け出していた6年生の子どもがいました。
私が、理科専科をしていた頃のことです。
自分のクラスの授業には入りにくい子でしたが、空き時間に理科室に呼ぶと、いつもキラキラとした表情で顕微鏡をのぞいていました。
顕微鏡の小さなレンズから、何が見えていたのでしょうか?
ここは、あなたたの学びの夢を、実現していくところです。
主体的な学び、肯定的な自己理解、社会参加・・
それらのことは、きっと、同じ流れのなかで息づいているのだと思うのです。
あなたが自分らしさを見つけ、自分の足で歩むその日がやってくるために、私がしなければならないこと。
学校教育に取って代わろうということではありません。
そんなこと、逆立ちしたって、できっこありません。
個別指導担当の私としては、その子にとって大切なことを見つめ、それをしっかりとえぐりだしていくことが必要なのです。
個別指導のなすべき役割は、こんな所にもあるのだと考えているのです。
この記事は、「 特別支援教育 記事ランキング 1位 」に選ばれました。 (2010-9-27)

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病気と向き合う子ども
2010-09-23
昨日、あるお子さんのお見舞いに行ってきました。病室には、とても心配そうな表情を浮かべたお父さんがいらしゃいました。
普段はとても元気で明るく、本当に魅力的なその子のなのですが、点滴や酸素吸入を受け、うつぶせで眠っているその横顔を見ると、胸が締め付けられるような気持ちになりました。
私の教室には、病気と向き合いながらも、懸命にがんばっている子も何人かいます。
酸素吸入のチューブを付けたまま、レッスンを受けてくれていた子もいます。
レッスンが始まる前日、あるいは当日になって、突然体調がわるくなり、お休みをされるお子さんも時々いらっしゃいます。
先週まで元気に来ていた子が、急に入院、というケースも何度かありました。
やっと順調に進んでいた矢先に、またどうして・・
ご両親の表情から、やりきれない、複雑な思いが、気丈にふるまうそしぐさから伺えることもありました。
酸素チューブを付けたままレッスンを受けてくれていた女の子は、最近になってそのチューブが必要でなくなりました。
歌や手遊びが大好きな女の子で、チューブがなくなったことで、一層その表情が輝いて見えました。
私は、ご縁があってレッスンをさせていただいていることを、とても大切に考えています。
仕事のやり繰りをつけ、安くない費用をご負担いただき、中には何時間もかけて通ってくださるケースもいるのです。
そして、それが子どもにとって、どれだけ意味のあることか。
決して、無駄な時間を過ごすわけにはいかないのです。
> よく、がんばったね~
> 楽しかった!
1回1回のレッスンでそういう時間を積み重ねていくことが、私が、その子に対してなすべき最大の責務であることは、明らかです。
来年、就学を迎える子もいます。
> 私のレッスンに対して、何かご希望はありませんか?
私は、そんなお尋ねをしてみました。
> いえ、ホント、今のままで十分です。 この子が、こんなに楽しそうに勉強している姿を見て、それだけで感謝の気持ちで一杯です。
いつも、明るく、それは一生懸命活動に取り組む子です。
そのひたむきさが、私の心を突き動かしていくのです。
決して、私のレッスンの質が高いと言うことではありません。
この一言に、私の方こそ、心の芯からしびれてしまいました。
今、懸命に病気と闘っている子ども
ご両親の切なる願いは、きっと天に届き、やがてそう遠くない時期に退院をして、この子は、またいつものように茶目っ気たっぷりの笑顔で、私の教室に帰ってきてくれることでしょう。
それが、どんなに大切なことで、価値のあることか。
そのことが、また深く、私の胸に刻まれていくのです。
何を目指して、何を育てて行かなくてはならないのか?
ご両親の信託を受けて、子どもを育てることの意味を、私は改めて見つめ直しているのでありました。

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音楽療法と コミュニケーション
2010-09-21
このところ、ご相談を伺いながらも、レッスンのご希望に添うことができず、お断りをさせてさせていただく機会が多くなってきました。本当に申し訳なく思っています。
これまで大切にしてきた部分を変えることなく、少ないご負担で、多くの子どもとご家族の最善の利益につながるような枠組みを作ること。
私が改善していかなくてはならないことの一つです。
今、私は、レッスンのサポートをお願いできそうな方の、お話を伺っているところです。
大学院の博士課程で音楽療法の研究をしている方、カウンセラーと保育士の資格をもち、小・中学校でメンタル面や学習面のサポートをしている方、子どもの学びと育ちに強い関心をもつ新進のST(言語聴覚士)の方・・
どんな形になるかは未定なのですが、子どもたちのために、これからぜひお力を発揮していただけるよう期待している所です。
私の教室に通ってくれている子の中には、言語によるコミュニケーがあまり得意でない子もいます。
では、その子と全くコミュニケートできないかといえば、決してそうではないのです。
事実、言語を通してではないけれど、心が通い合い、毎回楽しいレッスンを積み重ねている子もたくさんいます。
それは表情であったり、動作であったり、しぐさであったり、態度であったりします。
私は、その子に対して、いつも言葉を添えての対応をしていますが、こちらからのメッセージは、できるだけレッスンの内容に形として反映させるように心がけています。
> ごめん、簡単すぎてつまらなくなっちゃんだね、わるいわるい、じゃあ今度は、こっちにチャレンジしてみようか?
といった具合に、その子の求めていると思われる内容を、言葉だけでなく具体的な課題として示すのです。
それが、私からの返事であり、さもなくばコミュニケーショトは成立しなくなると考えています。
支援を必要とする場合、ある子は必ず私の目を見ます。また、ある子は手で頂戴をして 「教えて」 とサインを出します。
そして、「教えてください」 ときちんと言語で伝えることができるようになった子もいます。
分からないことを教えてもらう、という目的のために、手段としてのコミュニケートが成立しているのです。
ところが逆に、一見言葉の遅れはないように見えても、コミュニケートが成立しにくいことがあります。
例えば、「いつ遊園地に行ったの?」 と、尋ねたらキョトンとした顔で、何て答えたら良いのかわからなくなる子もいます。
その 「いつ?」 が、季節のことか、月のことか、日にちのことか、時刻のことか、何かの出来事のあとなのか、どう答えてよいかがわかりにくいのです。
こういう場合、「土曜日にいったの?それとも日曜日に行ったの?」 と尋ね直してやれば、大抵即座に 「日曜日」 という答えが返ってきます。
それは、私がその子の世界を共有しているから、できることです。
「いつ」 という言葉は、いくつもの多義的な意味をもち、精緻型の子にはハードに感じることが多いようです。
コミュニケートをより豊かにしていくためには、こうした点を理解すると同時に、共有する世界があるということが、とても大切になってくるのです。
音楽療法の話を聞いていると、音楽活動を通して、そのコミュニケートの力を育てようとしていることを強く感じました。
音楽には、音楽のもつ特有の効果があるに違いありません。
彼女のもつ技術を、ぜひそれを必要とする子どもの育ちに結びつけていきたいと、今考えているのです。
コミュニケーションの力を育てる上で、その子の発達特性にもとずき、マンツーマンのような行き届いた環境で、基礎的な体験を積み上げていくことは、とても意義のあることだと思っています。
しかし、それと同時に、生きた集団の中に居場所がしっかりあり、その子と同じ世界を共有しているリアルなお友達がいることが、不可欠であると私は考えています。
まず共有する内容や伝えたい気持ちがしっかりとあって、それがあってこそ、コミュニケートの力も、磨かれていかれるというものです。
言葉は最も大切なコミュニケートの手段であると同時に、それだけがすべてではないことを、しっかりと肝に銘じておこうと思っています。
言葉のかわりに、それはそれは豊かな感受性をもった子と、私は何度もであってきました。
そうした意味でも、音楽のもつ可能性に注目しているところです。
かけがえのない大切なクラスのメンバーとして集団に受け入れられながら、個の特性に応じた豊かな学びの場を構成していきたい、というのが私たちの目指している方向です。
そのどちらが大切かということではなく、その双方が不可欠なのです。
それは、算数でも、音楽でも、同じ事だと考えています。
私たちは、たとえどんなことをしてでも、自分のことを大切に受け入れて、精一杯誰かのために働ける子に育てていかなければならないのです。
そのために、今なすべきこととできることを、これからもそのご家族と一緒に追い求めていきたい。
私たちの目指すべき道が、そこにあるのです。

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家族として歩む 険しい道のり
2010-09-17
子どもに生涯寄り添い、歩み続けるのはご家族です。どんな状況にあろうとも、子どもの育ちに責任を負い、ずっとずっとその子のことを思い続けるのもご家族です。
私が、ご家族の意思や願いを、その子の育ちの主体者として、限りなく尊重し続ける理由がそこにあります。
そう言う意味において、特別な場合を除いて、ご家族に取って代わる機関などあり得ないと思っています。
だからこそ、私は、ご家族の自己決定を、何よりも大切に考えているのです。
支援とは、ご家族に代わって何かを代行することではなくて、主体者としてののご家族の力が、十分に発揮できるよう応援させていただくこと心得ています。
何らかの課題を背負って生まれてきた我が子と共に、そのご家族が歩んでんでいくべき道は、すべて未知なるものです。
その時その時に、精一杯判断した道でさえ、きっとその行き先に、不安を感じないではいられないことでしょう。
時には、予想だにしなかった展開となり、組織と対峙しなければならないことだってあります。
迷いながらも、心に不安を抱きながらも、子どもの育ちに責任をもつ家族として、その道のプロと対等に向き合って行かなければならないこともあります。
私は、色々な経過から、こうしたご家族の支援者としての、新しい道を歩み始めました。
時には、その結果が、必ずしもご家族の希望に添う形になりえず、自分の力の無さを痛感することもありました。
何のための支援者であったか?
でも、だからこそ、そこに支援者としての成すべき役割があることも、同時にかんづいてきました。
もしも、カーナビも何もない真っ暗な山道を、たった一人で進んでいるとするとと、心の不安はどんなものになることでしょう。
どうでもいい旅ならいざ知らず、二度と後戻りのできない大切な道であったとすれば、その不安も一層強くなるというものです。
そこに、地理に詳しい水先案内人は、不必要でしょうか?
この道は、まだまだ遠く苦しいもの、でも、ここを踏ん張れば必ず次の頂に到達する、そういって励ますナビゲートは、全く意味のないことでしょうか?
歩き続けるのは、ご家族です。
ご家族に成り代わって、歩むことはできないのです。
しかし、苦しい場面では、わずかであっても共に歩み支える支援者は不可欠です。
あまりにも大きな負担を、そのご家族のみに、強いている現状がありはしないか?
それが、家族支援の旗印を掲げ、3年近く歩んできた私の偽らざる気持ちです。
私は今、子どもの学びについて、学校側とデリケートな局面で向き合っているいくつかのご家族と共に歩んでいます。
そのご家族が、どんな気持ちで日々を過ごされているかを思うと、何とも言えない気持ちが胸一杯に広がっていきます。
私に何ができるか?
何をしなければならないのか?
その役割は、十分認識しているつもりです。
苦しい峠を越し、歩むべき次の頂が視野に入り、ご家族自身の足でしっかりと歩んでいくことができるようになれば、私の役割は終了です。
大きな課題に向かって行く旅路が、そんなにたやすいもので、あろうはずがありません。
そのことに、主体的ご立ち向かうご家族だからこそ、支援が必要となるのです。
ご家族の顔に、以前のような満面の笑みが戻るその日まで、私は一緒に歩み続けていきます。
家族にしかできないことがあるように、そこには支援者が果たすべき役割というものもあります。
そのことが、私の今を支えているのです。
そこに成すべき事がある限り、私はご家族と一緒に歩んでいこうと思っているのです。

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「就学」 大切なメンバーとして 心から受け入れられること
2010-09-14
閉まりかけのエレベーターに飛び乗ろうとしたとき、中にいた外国の方が、スイッチを押して扉を開いてくれました。私が, Thsnks とお礼を言うと、満面の笑顔で You are welcome ! と応えてくださいました。
この Welcome は、本来 「ようこそ」とか、「歓迎します」 というニュアンスがありますよね。
日本語の「いいですよ」 とか、「どういたしまして」 というよりも、「あなたを大歓迎します」「あなたはとても大切な人ですから」 というようなあたたかいメッセージを感じるのは、私だけでしょうか?
本当にステキな言葉です。
インテグレーション (統合教育) という言葉を、私は、「障がいがあっても、みんなと一緒に勉強してもいいよ」 というマイナーなイメージで受け止めています。
なぜか私は、「あなたは本当はここじゃないけど、でも一緒にしてあげてもいいよ」 というような上から目線を感じてしまうのです。
決してこうであっては、ならないと思います。
まずは、社会の一員として、大切なメンバーとして、尊ぶ気持ちがあって、そこから物事を見つめていくのが、私たちの目指すべきイングルージョンの姿だと考えているのです。
こういう気持ちがあったら、「入ってもいいですよ」 とか 「入れてあげる」 とか言えないはずです。
「お待ちしていました」 「ようこそ、うちの学校に来てくださいました。」 「大歓迎です」
まさに、 You are welcome !
私たちの学校にとって、かけがえのない大切なメンバーとして、受け入れられること。
この心があればこそ、特性に応じた質の高い教育が、必要となってくるのです。
社会の大切なメンバーだからこそ、質の高い教育によって、世に役立つ力を付けてもらいたいという願いが、そこに生まれてくるのです。
今、全国各地で、就学の話が、具体的な詰めの段階に差し掛かっているのではないかと思います。
そこに、You are welcome の心は、息づいているでしょうか?
謙虚であるのは、大切なことだと思います。
しかし、具体を詰めるとなると、大切なことがどこかに吹っ飛んでしまうことが多いものです。
子どもの心を、代弁するのは、ご家族しかできないことです。
怒るときに怒れないでいて、真実を見つめ、大切なことを作り上げていくこと、できるのでしょうか?
残念ですが、インクルージョンのような崇高な精神が、安々と根付く環境ではないのです。
「これでいいや」 なら、それも結構です。
それを背負って歩まれるのは、主体者であるお子さんとご家族なのですから。
私は、自分の命を捨てて、お子さんのために前に進んでいらっしゃる方を、たくさん知っています。
その心に触れているからこそ、困難な環境にも立ち向かっていくことができます。
少しでも、それが子どもの成長や幸せに寄与できるとならば、体は自然に動いていきます。
私は、自分の身の程は知っているつもりですが、こういう時の自分だけは、好きになれるのです。
人間は、自分のためでなく、誰かのために働けることで、力を出すことができるもの。
あなたのお子さんを、あなたのお力で、ぜひそんな人に育て上げていただきたいと願っています。
あなたのご苦労の分だけ、きっとお子さんにはやさしい心が育っていくのです。

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本当の力が育つための時間
2010-09-13
先日、花子ちゃんと漢字の学習をしました。今、習っている4年生の、漢字の書き順を中心にした指導を行いました。
花子ちゃんとは、1年生の終わりから、毎週90分のレッスンを続けています。
どうしても漢字が正確に書けない、というか、人から見て読める字が書きにくいということが、花子ちゃんの大きな課題になっていました。
視覚による形の微細な認知が苦手な分だけ、聴覚入力の文脈理解が発達している、典型的な継次優位の認知処理様式を示していました。
そこで私は、微細認知の解決を目指して、あえて得意な文脈理解をメインに利用し、それに微細認知の課題を織り交ぜる 「長所活用型・二系統同時刺激」 のスタイルで、ずっと学習を進めててきました。
本当に、色々なことに挑戦し続けてきました。
言語による筆順指導、カード、かるた・1画ごとのパーツの分解と構成、パソコン、学習漢字の系統的な再構成、大きい紙に書かせる指導、文脈を利用した読み指導・・
今でも、どれもが有効だったと思っていますし、決定打や最短距離というものもなかったのではないかと考えています。
その花子ちゃん、先週、ついに私が目指していた一つの頂に到達することができました。
数えてみると、2年と半年、30ヶ月目での到達です。
もちろん、それはまだ苦手の分野であることには、変わりありませんが、ここまで育てば、自分の力で学習を進めていくことができます。
もうそこには、低学年のころ、何日も何日も 「弓」 という字ばかりを宿題に出され続け、涙を泣かしながら取り組んでいた当時の痛みも面影も見ることはなくなったのでした。
4年生から通常学級に戻ったので、学習内容は嵐のように降り注いできます。
その内容には、まだまだ未消化なものも多いとは思いますが、その分、育っていることだって多いのです。
学習には、ついて行けていないのでは? という厳しい見方も受け止めたうえで、私は、この子が社会の中で生きていくための学力を育てるという視点に立てば、その距離はかなり縮まってきたと考えています。
かけ算も、わり算も、筆算を練習するところまで来ました。
文章を読むのが得意なので、理科や社会の問題にもトライできるようになりました。
漢字だって、4年生の漢字ドリルで勉強ができるようになってきました。
小学校でのテストの点数も大切だとは思いますが、それが絶対的な尺度であるとは思っていません。
それよりも、社会の中で、この子自身が自分の存在を大切なものとして受け止め、自分のよさを生かして、誰かのために働ける子になること、そしてそういうことを幸せと感じる子に育ってほしいのです。
そのための学力が、大切だと考えているのです。
そう言う意味で、この子にとって、文字を書くということに、道筋が見えたことは、大変意義深いことです。
元々、読むのも、理解するのも得意で、それを文字言語で表現することだけが、極端に苦手であったのです。
出来てしまえば、子どもの奇跡は、当たり前のことになります。
これが本物です。
花子ちゃん、また、今週、元気いっぱいで教室に来てくれることでしょう。
もう、身長もお母さんと同じくらいになってきました。
白ゆり教室、第1号の花子ちゃん。
来年度、私はある短大で、子どもの発達にかかわる講義・演習を一コマ担当させていただくことになりました。
オフィシャルな教育の場でも、子どもの学びや育ちについて、実践を紹介しながら大切なことを語り継いでいきたい。
そして、本当に一人一人を大切にした学びと育ちの大切さを、将来、現場で直接子どもにかかわるであろう学生たちに、直接その肌で感じ取ってもらいたい。
この子が、私に幸せを運んできてくれたのです。
2年半、ずっと寄り添い続けることにより育つこと。
軸をぶらさずに、受け継いでいくこと。
個別に育てる部分での、縦の軸の大切さを、これからも実践を通して世に示していきたい。
それが、私の役割であり、そのことが多くの子の幸せに、少しでも寄与していくことにつながって欲しいと願っているのです。

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パーソナルな学びの場
2010-09-10
私は、できることなら、どの子も可能な限り、みんなと一緒に通常学級の中で学んで欲しいと願っています。学校というのは、オフィシャルな教育機関です。
地域の小学校で、何々小学校の子ととして、しっかりとした居場所があり、我が学校の大切なメンバーとして尊ばれた上で、その子の特性に応じた質の高い教育の場を構成してやりたい。
これこそが、私の考えているインクルージョンの一つの形であると考えています。
偏見も、差別も、すべては無知から生まれます。
一緒に勉強し、遠足に行き、当番やグループや係の仕事をしていくと、下手な説明をするよりも、大切なことを子どもは感じ取っていきます。
誰かから差別的な発言を聞いたら、「あの子はそんな子じゃない、心のやさしい子だよ」 と、凛とした口調で伝えることのできるすばらしい子も育っていきます。
その子は、1年何組の大切なメンバーとして、子どもの心に受け入れられている証です。
こうして、その子もクラスも共に育っていくのです。
オフィシャルな教育としての学校の魅力と可能性が、ここにあるわけです。
私の教室には、特別支援学校に通う高校生の子が来てくれています。
国語と数学を一緒に勉強しています。
きちんと勉強をしたい。
この子は、そうした強い願いをもっています。
だからこそ、問題が解けないことに、強い痛みを感じてしまうのです。
こうなると、エラーレス学習の積み上げが効果的になってきます。
つまずいた時の手だてを事前に予測して、それを使えば、自力で問題解決が可能となる学習法です。
彼は今、習得漢字のブラッシュアップに取り組んでいます。
1日10枚程度の漢字のトレーニングを行っています。
これを繰り返すことにより、前回よりも、着実に成果が上がってきていることが、私にも感じ取れます。
> 結構伸びてきたね。 すごいじゃないか? そろそろ次のステップに進む?
> ・・・・・・・
> そう、じゃあ、もっと完璧にできるよう、しばらくこの勉強を続けてみるか!
> うん!
それまで、聞いたことのないような力強い返事に、私はびっくりしてしまいました。
やっぱり、この子、勉強したいんです。 その見立ては、間違っていませんでした。
だからこそ、苦しい場面、厳しい場面が、次々とやって来るのです。
決して迎合するというとではなく、甘やかすということではなく、その心の中の学びを信じて、この子に合った学びを構成してやろう。
この子を学びの願いを信じ切れて、本当に良かったと思いました。
学びたい気持ちがある限り、この子は、ずっと私の所に通って来てくれるだろうと思いました。
これが、パーソナルな学びの場の一つの形なのです。
私の所には今、高校を卒業した方が2名通って来てくれています。
一人は養護学校高等部を、昨年卒業した方、もう一人は高校の普通科を卒業して、大手の企業に就職された職歴をお持ちの方です。
それぞれに学びのニーズが違います。
でも、学びたいという、しっかりとした気持ちをもっていることには、変わりはありません。
どこどこの学校の生徒である、というオフィシャルな教育機関の果たす役割は、他で替えることはできません。
深い特性理解をベースとしながらも、すべてを学校が背負い込んでしまうのではなく、学校は、学校教育の果たすべき役割をより明確にすべきだと私は考えています。
一方で、ゆっくり学ぶ子だからこそ、縦の軸を通す学びの場も必要ではないかと、私は考えています。
オフィシャルな教育があればこそ、その子のもつ学びの願いを実現するパーソナルな教育の場を、実践という形で世に示していきたい。
それが、私の果たすべき役割の一つであると考えています。
今、ご縁があってレッスンをさせていただいている子。
私の所を巣立っていくその日まで、私は、ずっとこの場にいようと思っています。
先日、行政の方に、「白ゆり教室」 のこれまでの取り組みを説明させていただく機会がありました。
数字でまとめてみると、今、月1度以上指導をさせていただいている方が、80名を超えていました。
このところ、何名かの方に新規入会のお問い合わせをいただいていますが、ご希望に添うことができず、本当に申し訳なく思っています。
教室を始めて3年目。
こんな短期間に、こんなにたくさんの方に来ていただけるとは、夢にも思っていませんでした。
私は、臨床の最前線から、一歩たりとも下がる気持ちはありません。
朝、6時20分の新幹線に乗り日帰り出張、帰宅は11時、翌朝は9時からレッスン・・
自分で決めたことですし、そんな毎日がつらいと思ったことは一度もありませんが、パンクしては何にもなりません。
そのことには、ずっと首を縦に振らなかった私ですが、応援してくれるスタッフと、組織づくりも考えていかなくてはならない時期に来たのかも知れません。
何のために?
それは、子どもの成長とご家族の幸せ以外には、何もあり得ません。
たとえどんな課題があろうとも、生涯にわたって学び続けることができる、パーソナルな学びの場を、少ないご負担で、子どもたちとそのご家族に提供したい。
笑顔が集う、生涯の学びの場。
夢の形が、少し現実となって、私の心の中に広がって来ているのです。

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「すべての子どもに 集団での学びと 特性に応じた適切な個別指導の場を」
エラーレス学習の積み上げによる 教育的効果
2010-09-06
エラーレス (無誤) 学習は、私のレッスンの柱の一つです。まずは、その子の今の最近接な学習の領域を題材として設定します。
最近接領域というのは、既習学習を利用すれば解決でき、子どもが 「おや?」 「面白そう~」 「やってみたい」 と思えるよう、その子の学習の経過・特性・興味や関心をひく学習内容のことです。
題材が決まったら、その子になったつもりで、その子目線で、自分で実際に問題を解いてみます。
その子と同じ温度で、問題を解くことができるか? 平素の特性理解の深さがここで問われます。
いくら精緻な検査データをいただいたとしても、こうしたリアルな学習場面で、具体的に生かされなければ、まさに絵に描いた餅となってしまいます。
この子の場合、きっとここでつまずくだろうな、と感じたら、事前にその手だて、つまりヒントを考えておきます。
このヒントは、ほぼ答えに近いもので構いません。ただ、子どもが自分で出来たという気持ちを失わせないような配慮と工夫が必要です。
今、岡山の小学校の3年生では、算数で、長さの勉強を始めた所も多いようです。
例えば、km m cm の単位のイメージがわきにくいタイプの子がいたとします。
同時型の子には、1km 1m 1cm の長さを、一枚の紙に簡単なイラストを添えて強調したものをヒントカードとして用意しておきます。
また、継次型の子には、「kmは乗り物に乗るくらいの長さ」「mは、手を広げたよりも長い長さ」「cmはつくえの上ではかれるくらいの長さ」と、事前に紙に書いて準備しておくのです。
子どもの学びの展開を見つめながら、上手にこのヒントカードを利用していきます。
もちろん、自力で解決可能であれば、ヒントカードを必要としない場合もありますし、ポイントとなる場面で、ちょこっとだけ形を変えて生かすようなこともあります。
要は、子どもがつまずいたときに、少しだけ泳がせて、自分の力で川岸にたどりつかせるわけです。
そして、段階的にこうした厚い支援を除去し、自分の力で問題解決できるまで、指導を継続するのです。
下手でも、手足を動かしていれば、必ずゴールにたどり着くことができます。
恐ろしいのは、もうやめた、と泳ぐのを止めてしまうことです。
何らかの課題のあるお子さんの場合は、その子どものモチベーションこそが、最大のポイントになると、私は考えています。
このように達成感のある学びを学習の一部に組み込み、それを積み重ねていくことにより、大きな成長を遂げてきた子どもに、私はずっと寄り添ってきました。
すべての子がもっている学びの意欲を、育ちの願いをかなえてやりたい、それが私に与えられた責務であると考えているのです。
先日、ある女の子の指導で、大きな失敗をしてしまいました。
これまで快調に課題をこなしてきたので、調子に乗って、これまであまり取り組ませたことのない課題を、ぽーんと丸投げで提示してしまいました。
半分くらい支援つきでこなしていましたが、ついに途中で売り切れていまいました。
一所懸命がんばりたい、そうした思いが強い子でしたから、出来ないと言うことが受け入れにくいのです。
その日は、それ以後泣いてしまって、活動は一歩も前に進みませんでした。
何度も「すみません」を、繰り返すお母さん。
事前にお母さんは、「今日は、眠いし、体調が今一歩かも知れません」と伝えてくださっていたのに、完全に見立てが甘い私のミスです。
こういう時は、正直つらいですが、私が、謝ってすむことではありません。
料金を返せばいいということでもありません。
何としても、次回には、このことを生かすようにしなければ、そうでなければ、申し訳が立たないのです。
信頼して、私の所に来てくださっているのです。
それがプロとしての責務であるし、そうでなければ、プロとは言えないのです。
私は、「どうだ、できたぞ」とばかりに見せる、誇らしげな子どもの顔を見るのが大好きです。
そのこと自体が、私の苦心の労作の結果と知っているから、余計にうれしいのです。
やがて、成長した子ども、力を付けた子どもは、眼下に私を見下ろし、私の支援を必要としないときがやってきます。
私を踏み台にして、次のステージへと歩んでいくのです。
いつかは、私を必要としない子に。
だからこそ、巣立つまで、力を付けるまでに、手厚い支援が大切なのです。
育てるという営みは、こういうことだと思っているのです。
この子に私がしてやれること。
卒園までに、卒業までに、ぜひともこれだけの力を付けてやりたい。
だからこそ、1回1回のレッスンでの積み上げがが、何よりも大切なのです。
半歩でも、一歩でも、必ず前に踏み出さねばならないのです。
研究が深まるほど、技術が高まるほど、逆に内容はシンプルに見えます。
指導者は、力を付けるほど、スタイルは自然になり、特別でなくなります。
難解な理論や、目新しいテクニックではなく、子どもの今の姿をしっかりととらえ、さりげなく大切な部分に触れている。
本当は困難なことを、ナチュラルなスタンスで、ゆっくりとやさしくサポートできる。
横でニコニコ笑っている私。
子どもは、自分の足で歩み始める。
これが、本物です。
「勉強は楽しい。また来たい。」
その子どもの言葉こそが、私のレッスンの質をはかる唯一の評価の尺度なのです。

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