真剣 だからこそ 心に一滴の潤いを

 2010-08-31
先週、「遊びの広場」 という保護者会主催の学習会に、アドバイザーとしてお招きをいただきました。


12名の方が参加してくださいました。

今回は、小学生だけでなく、高校受験を目前に控えた中学生のお子さんをお持ちのご家族も多く、子どもの自立と家族の果たす役割という内容が、話題の中心となっていきました。


それぞれの方が、自己紹介を兼ねて、ご自身の思いを語ってくださいました。

肢体不自由のお子さん・重い課題に立ち向かっているお子さんの話もあり、お聞きになっている方が、大粒の涙を落とされながら、真剣に話の内容を受け止めていらっしゃる場面が、何度もありました。

1時から5時までの4時間が、あっという間に過ぎ去っていきました。


きっと、そうだろうなあと、予想して会に参加させていただきましたが、その内容の豊かさと切実感、そして母としての思いの深さと複雑さ、まさに一つ一つの言葉が重く、深く、そして真摯な思いに満ちあふれていました。

そして、どの方も底抜けに明るく、さわやかなお人柄を、随所ににじませていました。

私は、担当の方に、「最後に30分は私にお時間をくださいね」 と、申し伝えていましたが、その時間さえも押してしまうくらい、活発な話し合いが続けられました。


自分のお子さんの育ちを通して、誰よりも真剣に学びと育ちに向き合っておられる方ばかりです。

本当によく勉強なさっています。

主体者としての家族の役割を、十分すぎる位果たされていることが、言葉の端々からびんびん伝わってくるのです。


会を計画してくださった担当の方から、「この会のアドバイザーは、SHINOBU先生でなくてはならないのです」 と、事前に伺っていました。

それぞれの方のお話を聞きながら、その意図を明確に感じ取ることができました。

母を応援することによって子どもを育てるという、私の役割をしっかりと果たさねばならないという思いが、次第に心の中で強くなっていくのを感じていました。


真剣であればあるほど、前向きであればあるほど、そこには支援者が必要となってくるのです。

逆に、何もしない人には、私の考えているような支援は必要とされないのです。


学力を育てることに懸命であればあるほど、その方向性を見失いがちになる時もあるというものです。

適当な気持ちの人には、こういうことは起こりません。

だからこそ、その心の中に一滴、潤いをもたらす瞬間が必要となってくるのです。

真剣であればあるほど、その心にしみわたる一滴は、とても大切な役割を果たします。


才覚不足・力量不作の私ですが、その活動の尊さと使命感とが、私の気持ちを突き動かしていくのです。

私には、一人一人の子どもたちと、そのご家族が懸命に歩んできたその大切なことを、より多くのご家族の糧となるよう、皆さんにお伝えしていななければならない責務があります。

これからも、子どもの成長と幸せのために、前に向かって進んでいくご家族を、ぜひ応援させていただきたい。より一層、豊かな愛情と強い気持ちをもって、活動に取り組み続けていかなければならない。


わずかであっても、皆さんの心に潤いと、希望の光を見いだせるような内容のお話をお伝えしたい。

皆さんの真剣なまなざしを見つめながら、何度もそう自分に言い聞かせているのでありました。





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コミュニケーションレベルの向上と 行動の安定との相関

 2010-08-27
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先日のレッスンで、かれんちゃんが、おさるのぬいぐるみを持ってきました。

こういう小物一つあると、次々に色々なストーリーが展開していくのが、かれんちゃんのスペシャルな所です。


> こっちよ~

> これちょうだい

> かわってね

> いいよ


> ダメ?

> あった?

> ごめんな~



まるで、保育園での生活の一部が切り取られているようです。

毎回、これまでに聞いたことのない、新しいフレーズが登場してきます。


かれんちゃんは、内言語化された日常の出来事を、このロールプレイ場面で再現しているのです。

そして、かかわりを通して、多様な言語を導きだし、やりとりの中で上手に返してやりながら、その意味をよりゼネラルなものに磨き上げていくのが、私に与えられた役割です。


コミュニケーションの世界、通じ合う心が広がっていくと、活動はとても楽しいものになります。

少し、お姉ちゃんの顔になってきたかれんちゃんですが、この子、毎回どうしてこんなにステキな表情ができるのでしょう。



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そのかれんちゃんですが、活動の場面で、しばしば 「こわい」 という言葉を使います。

今のかれんちゃの 「こわい」 は、狭い意味でのこわいだけでなく、「したくない」 「嫌だ」 という拒絶の言葉の総称として使われているように、私は受け止めています。

もちろん、言語指導を優先するならば、その誤った使われ方は、早めに修正してやらなければなりませんが、ことコミュニケーションを優先させるとするならば、言葉の裏に込められているかれんちゃんの思いを受け止めてやる方が先になります。


コミュニケーションと言葉とは、密接な関係にありますが、同一ではありません。

語彙が豊富でも、細かなニュアンスや内容が伝えにくいタイプの子もいれば、表出言語が全くなくても、その表情や仕草から、私と毎回豊かにコミュニケートできる子はいます。

いつだったか、かれんちゃんが今ほど言語表出のない時に、「ちょっとスイッチ切ってくれる?」 と言ったら、スタコラ歩いて、教室の電源をパチリと切ってくれた事があって、本当に驚いたことを、今でも鮮明に覚えています。


そういえば今日のアンパンマンカードの活動の時、かれんちゃんは、バイキンマンやおむすびまんミミ先生など、半数くらいのカードを 「こわい」 カードとして分類して、にんじんさんやちびぞううくんやりんごちゃんなど、やさしいキャラクターのカードばかりを集めてマッチングしていました。


かれんちゃんの他にも、「こわい」 というメッセージを発信してくる子は、たくさんいます。

その多くの子は、いわゆる衝動性の課題のある子どもたちです。

「物を投げたり、突発的な行動にブレーキが効かない子ほど、実は内面がデリケートで、敏感だ」 というのが、毎日多くの子どもと直接かかわってきた私の見立てです。

一見静かに見える子、おとなしく見える子であっても、こんなふうに 「こわい」 や 「不安」 のメッセージは発信してきません。

衝動性と不安とは、大変密接な関係にあると、私は思っています。


ご家庭で、衝動的な行動に日々立ち向かっておられるご家族のご苦労と、その心の痛みを知らないわけではありません。

現実場面では、様々な背景や要素が複雑に交錯していますから、そんな単純に方策を明確に示せるわけでもありません。


即効性はないかも知れませんが、認知レベル・コミュニケーションレベルの向上こそが、不安を呼びよこす要素を軽減させ、その解決のエネルギーになっていくのではないかと、私は信じています。

そのことが、私に課せられた大切な役割であるとも思っています。


コミュニケーションとは、心と心が通じ合うことです。

その楽しさが、情緒の安定や心の豊かさに、無意味であろうはずがありません。


いつも子どもと大切な部分が通じ合える指導者でありたい。

行動改善のためには、家族の深い愛情とともに、こうしたよき指導者との出会いも重要です。

家族としてなすべきことには、こうしたいろいろなアプローチが必要なのだと、私は考えているのです。




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役割が子どもを変える

 2010-08-26
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夏休み期間中、私の教室では、朝の7時半から8時半まで、早朝学童保育をさせていただいています。

多い日は、12~13人くらいの小学生が来てくれています。

1年生から3年生までの子どもたちばかりです。


早朝学童保育の中身は、さながら 「朝の図書館」 といった感じです。

みんな無言で、本を読んだり、自主勉強をしたり、パズルをしたりしています。


ここでの約束は、最初の時に、きちんと伝えてあります。


① あいさつをして教室に入ること

② くつのかかとをきちんとそろえて中に入ること

③ おしゃべりは、しないこと (先生に話し声が聞こえたら、アウト)


それだけです。


もちろん、必要なこと (先生に尋ねたいこと、用事など) は、遠慮無く伝えるように言っています。

しかし、余計なおしゃべりをしたら、それが誰であろうが、厳しく注意されます。


初めの頃は、そういうことにとまどっている子もいました。

でも、スタンスは不変ですので、やがて、その良さをどの子も感じ取ってきました。


これだけ静かで、整った学習環境は、なかなかありません。

そうした環境の中で1時間、漢字ドリルをする子もいれば、読書に目覚めた子もいます。

みんなに読んで欲しい本や図鑑、取り組んでほしいパズルは、私が時間と費用をかけて用意したものばかりです。

私の願いは、そこに込められているのです。


このブログでおなじみの太郎君 (小学3年生) は、いつも朝一番に来てくれています。

保育園の時は、言語コミュニケーションが大きな課題になっていましたが、今では、入室すると 「おはようございます」 と、立派なあいさつをしてくれています。

もちろん、くつはかかとを揃えて、きちんと置いてくれています。


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太郎君は、1年生の時から来てくれていますから、この早朝学童では最年長です。

言語化していませんが、私の気持ちや意図を、しっかりと理解してくれています。

しかも、いつも一番に教室に来てくれています。


この太郎君が、実に良い働きをしてくれています。

となりには、ちょっと幼い感じの1年生の男の子が座っています。

最初の頃は、チョロチョロして、何度か私に注意を受けていました。

太郎君はその子に、実に見事に、優しく、お手本を示したり、面倒を見てくれています。

その子も、太郎君を信頼しきっているようで、見ていて実にほほえましい様子です。


太郎君は、早朝学童の流れを作るリーダーになってくれています。

彼がいるから、小さい学年の男の子が、それを見て同じようにしてくれます。

その表情も、実に頼もしく、しっかりと見えます。

目元も、口許も、キュッとしまっていて、かっこよく見えます。

3年生になると、ここまで立派になるものでしょうか。


1年の夏、衝動的な行動で、私たちを悩ませていたころの面影は、もうどこにも見ることができません。

個別指導の時のやさしい太郎君も大好きですが、早朝学童の時の太郎君は、ほんとうにたのもしく見えます。

時々目が合うのですが、その時は 「任せておきな」 「おれがリーダーだぜ」 というように、どの子よりもしかりとしたまなざしです。


夏休みもあとわずか。

前日、夜9時までレッスンをして、朝7時半に教室に入ることは、私にとってはちょっとハードな設定です。

でも、この夏は、太郎君に助けられました。


役割が人を変える。

それは、子どもも大人も同じです。

特にそうした機会に恵まれにくい子どもには、教育的・意図的に配慮された場の構成が必要です。

みんなと共に学ぶダイナミズムもそこにあります。


人にとって大切な育ちの中身は、一体何なのでしょうか?

太郎君の成長は、私に大切なことを、しっかりと見つめさせてくれているのです。


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山を動かす家族の思い

 2010-08-24
昨日、あるご家族の方がご相談にお越しくださいました。

ご夫婦で、そのお子様を連れて、お見えになりました。


お子様の発達にかかわることで、1時間余りお話をお伺いさせていただきました。

口ぶりも対応も、とても謙虚なご家族でしたが、そこには深く・強い気持ちが随所ににじみ出ているように思いました。

また、お子様を育む姿勢にも愛情が満ちあふれ、それでいて課題点を明確に焦点化されていました。

内容的に見て、教育的に豊かな経験をお持ちである方であることは、すぐにわかりましたが、そこに立つのは真摯な思いの家族のそのものでした。


私は今、時間的にも、体力的にも、限界を超えた仕事をしています。

それは、一つ一つの真摯なご家族の思いを積み重ねてきた結果なのです。


何とかして、この気持ちに少しでもお応えすることはできないか?

お話を伺っているうちに、心の中にそんな思いが広がっていきました。


時には、大きな、ダイナミックな気持ちや動きが必要な場面もあるでしょう。

しかし、本当に人を動かし、山を動かすのは、こうした深く、強く、真摯な思いであることを、改めて感じていました。


今の私を突き動かしているエネルギーの源は、こうしたお一人お一人の真心であるに違いありません。

ご両親は二人とも大変忙しいお仕事につかれていながら、平日の午後、双方が休暇を取られて私の所にお越しくださったようです。

そんなことは、一言もおっしゃらなかった。

あるのは、そこにどんな困難があったとしても、親として、子どものためにできることは、すべてやりたい。

そんな思いであったに違いありません。


この気持ちが、きっと何かの扉を開いていくに違いない。

その後ろ姿を見つめながら、私は、自分の心の中に、湧き上がってくるものを、感じずにはいられないのでした。



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特性理解から 命の輝きに

 2010-08-23
私も時々講演会などで2時間くらいのお話をさせていただく機会があります。

お伝えしたいことの柱立てさえしっかりできていれば、後は口が勝手に動いてくれます。

下手に原稿をこしらえたりすると、それが棒読みになってしまい、大切なことがちっとも相手に伝わって行かないのです。

相手の目を見て、その反応を伺いながら、語りかけるようにお伝えしなければならないことを、その経験を通して学んできたからです。

私の場合、多くの方に、しっかりと耳を傾けていただける講演会は、苦でも何でもありません。

楽しいものです。


こんな私ですが、劇のセリフなどは、全く覚えられないのです。

それが、たったの2~3行の短いセリフであったとしても、カンニングペーパーなしでは、とても対応できないのです。

長いセリフを自分のものにして、台本通りにスラスラと言える他の皆さんのことを、私は、超能力者のように思えてなりません。

「信じられない」と、多くの方がおっしゃいますが、事実私は、台本暗記は「超」が付く位、苦手中の苦手なのです。


その代わりというのも変ですが、町探検は得意です。

どんな新しい町であっても、何カ所もぐるぐるいろいろな場所を巡ったとしても、ちゃんと元の位置に帰る自信があります。

それが、外国であろうが、どこであろうが同じです。


物事を切り取って精査に見るタイプの方には、方向音痴の方が多いようです。

逆に、文脈でアバウトに物事をとらえるタイプの方は、町探検が得意なようです。


家庭訪問の時、学校から家までの地図をかくこともあるでしょう。

かなりいい加減であっても、全体を俯瞰して、ちゃんと枠の中に道順が収まるタイプの方は文脈型。

ていねいにかこうとしたものの、学校からかき始めて、家がはみ出しちゃうタイプの方は精査型です。

物事のとらえ方の道筋の違いが、こんなところに伺えるのです。


これだけの情報があれば、指導法も変わってきます。

例えば、読解問題をさせてみると、文脈方の子は、大体のことがわかっていても、それを文章の言葉と対応させるのが苦手です。

聴覚性の言語支援を入れて、アバウトな理解と言語とを対応させる指導をします。

こうすることにより、より確かな、多面的な、読みの力が育つのです。


逆に精査型の子は、穴埋め問題は得意ですが、選択問題は苦手です。

細部にこだわるあまり、全体を俯瞰することができにくいのです。

こういう子には、場面絵などを利用して、バラバラな情報を一つの枠の中に統合化していくような学習を進めていきます。

こうすることにより、全体を俯瞰する道筋を学習させていくのです。


得意なことと、苦手なことは、表と裏の関係です。

入り口は違いますが、出口は同じです。

認知特性の違いを理解して、多面的な力を育てることが、私の指導の中身となっていくのです。

長所活用の原点は、短所矯正の道筋でもあるわけです。



みんなと同じようにとがんばらせることも大切ですし、良い意味で、競い合う事にも教育的な効果はあります。

ただし、それが行き過ぎるとと、劣等感にさいなまれ、モチベーションを下げることにもつながります。


ぼくは、これは苦手だけど、ここは得意なんだとと自信をつければ、やる気もわくというものです。

それは、やがて肯定的な自己理解力をはぐくみます。

さらには、自分をメタ認知(客観的にとらえること)ができ、他者受容のできる、ふところの深い、やさしい子どもに育っていきます。


競争も時にはいいですが、無意味な、どんぐりの背比べは、できれば避けたいものです。

行き過ぎた競争は、安物の優越感と、その裏返しの劣等感をもたらせます。

その一部のことを比べていたはずのものが、その存在までも比べることになりかねません。

極論ですが、それは、やがて命の尊さを比べることに、つながるような気がしてならないのです。


どの子にも得意なことがあって、どの子にも苦手なことがある。

命の尊さは、皆同じ。

だから、協力して、一緒に学習を進める、これが正解なのだと私は思っています。


共同学習の共同の意味は、子ども同士が助け合うということであって、支援級と通常級が場所を共同するという意味ではないと、私は願っています。

他者受容は、必ず自己受容につながります。

他者を受け入れることのできる子は、必ず、自分のことを肯定的にとらえることができるように育ちます。

交流学習のねうちは、きっとそんなところにもあるのだと信じています。


セリフの覚えられない私ですが、講演会の講師はできます。

ホームランが打てなくとも、バントができる選手は必要です。 みんがシュンとしている場面で、「元気出していこう」と、渇をいれるムードメーカーも必要です。

試合に出られないあいつの分まで、がんばらなければ・・ 

何よりこういうチーム作りが大切なのです。


この世に、意味無くして生まれた命など、決してないのです。

それぞれが持ち味を生かし、命を輝かせる場を見つけること。

他者の命を大切に思える子ほど、自分の命の尊さに感謝できるに違いありません。

幸せとは、こうしたことを感じる力なのです。

教育の大切な営みの一つは、きっとそんなところにもあるのだと思っているのです。



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親として 我が子に伝えること

 2010-08-19
私ももう50歳を超えました。

こんな私にも、娘が三人います。
上の子が大学生で、下の二人は高校生です。
それぞれが、それぞれの持ち味と個性で、それぞれの道を歩み始めましたが、そのうちの一人の子に、どうしても伝えておかなければならないと思うことがあるのです。

どうやって、そのことを伝えようかとずっと考えていました。
この子は、いつもミュージカルの話になると、目を輝かせていました。
もしかしたら、大好きなミュージカルに誘えば、このことを伝える機会が生まれるのではないかと思うようになりました。

いつも臨床の最前線にいたいと願い、ここ何年か、お盆も正月もほとんど休みをとらずに教室にこもっていた私ですが、この1週間はお休みをいただき、その娘と今、私は旅行に出かけているのです。


昨日はウィキッド、今日はライオンキング、明日はオペラ座の怪人を観る予定になっています。

いつもとは違う娘の表情がそこにあります。
役者の台詞の一部は、事前に彼女の頭に入っているらしく、舞台と完全に一体になっていました。
最高レベルのクオリティの舞台であることは、私にもわかり、圧倒的な迫力で、舞台の役者がすぐ目の前にいるような錯覚に陥りました。
娘に心からの笑顔が戻り、涙を流しながら感動しているその姿を感じて、私は本当に連れて来て良かったと思いました。


Because I knew,I have been canged.  (自分の命の大切さを知っていたから、私は変わることができた)
Remember who you are.   (あなたは、自分が誰であるかを決して忘れてはいけない)


私は、幼い頃から両親がいませんでしたから、青年期はずっと世の中を斜めに見、投げやりになっていました。
高校生の時、幼くして生き別れた母が、何を自分に託していたのかにやっと気がつき、その後、生まれ変わったように、教師の道を志しました。
今、私がどんなにきつい場面になっても、何とか踏ん張れることができるのは、この気持ちが今でも、心の中に息づいているからに他なりません。

娘の人生は、娘自身のもので、いくら親だからといって、そのすべてを取って代わることはできません。

親なき後の人生だってあるはずです。
娘は娘自身の足で歩むように、育てなくてはならない。
だからこそ、親として、どうしても生きているうちに、この子に伝えたいことがあったのです

そのことを、舞台の役者は、この台詞を通して娘の心に伝えてくれているように思いました。


今日の舞台は、最前列の席でしたので、舞台下のオーケストラをのぞくことができました。
タクトを振っている方の表情が、手にとるように伺えました。
すべての歌詞を口ずさみ、舞台の上の役者に目をやりながら、舞台下のオーケストラの指揮をとっているその姿に、私はこれまでに感じ取ったことの何かを見ているような思いにとらわれました。

主役級の役者の圧倒的なパフォーマンスにも、心うたれました。
と同時に、舞台にいるどの役者、舞台下にいるどの演奏者にも、一人として不必要な者がいないことに気がつきました。
心一つにして、同じステージを作り上げる美しさと尊さを、私は、目の当たりに感じることになるのでした。

娘には、どんな役であってもいいから、人生のステージにしっかりと立っていてほしい。
私は、見えないステージの隅から、精一杯タクトを振り続ける親であり続けたい。

たとえ主役でなくとも、何も恥じることはないのです。
ただ自分に与えられた命を、精一杯果たせる子でいて欲しいのです。
それだけでいいのです。

決して自分をダメな奴と思わないで欲しい。
この子にある、この子の命の輝きを、決して見失わないようにして欲しい。
私の思いは、ただそれだけです。


娘に成り代わって、生きることはできません。
一日も早くそのことに気がつき、自分らしさを生かして、誰かのために働ける子になってほしい。
だからこそ、私は、親としてこのことを、必ず伝えなくてはならないと思っているのです。

父と子の、こうした時間が、この先どれほどあるかは、知れません。
週末には、岡山に帰らなくてはなりません。


娘は、何を感じ取って、ふるさとに帰り、その後どんな道を歩んでいくことになるのでしょうか。
娘の目には、一体何が映っていたのでしょうか。

我が子を甘やかすことと、親として限りない愛情を注ぎ込み、その存在を慈しみ、命の輝きに目を向けさせることの、どこに境界を見つけることができるのでしょう。

そこにどのような苦悩があったとしても、果たして、愛情以外に、人の心を揺り動かすことが出来るものがあり得るのでしょうか。



私は、小学校に入る前に、何百ページもあるギリシャ神話を、毎日、寝る前に枕元で読んでいました。

おそらく、何百日も、その本ばかり読み続けていたことと思います。


「しのぶ君、本を大切にしましょうね。何度も繰り返し読むことにより、きっと何か大切なことをつかむ日がやってきます。  ママより」


ある日突然、私の元から、母の姿はなくなりましたが、その本の裏表紙には、青いインクで書かれた母の文字がずっと刻まれていました。

幼少期に、何百日も続いたこの読書体験こそが、私が社会の中で自分らしさを発揮できる、唯一の源泉となったのです。

これがあるからこそ、私は教師にもなれたし、今の活動が続けられているのです。

今の私の命を支えているすべては、ここにあるのです。


親としてなすべきことに、テクニカルな方程式など、どこにもありません。

この子に大切なことを伝えたい、培っておきたい、

そんな思いが、きっと何かを突き動かしていくのです。



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行列のできる校長室 (トップに立つ者だからこそ、現場の最前線に立て)

 2010-08-16
昨日の日曜は、私の教室のレッスンもお休みでした。

これまで、日曜にお休みをいただいた週は、県外に出張に行かせていただくことがほとんどでした。

久々のフリーの日曜日でしたので、娘と食事に行ったり、買い物に行ったりしました。


私には娘は3人おり、一番下の子は高校2年、上の子は大学3年生になりました。

私が今、どんな活動をして、休みの日曜日にも県外に出張していることも、理解できる年齢になりました。

私が何をしているのかが、非言語ですが、娘に伝わっているなと感じることがあります。

全力投球で活動に取り組むようになったことで、娘との関係にマイナスが生じたと思うことは一度もありませんでした。


多いときには、週に60時間近くののレッスンを行うことがあります。

1回1回、子どもと直接向き合うレッスンを積み重ねていくことを、私は何よりの誇りに思っています。

朝5時半に起き、大阪で9人のレッスン、日帰りで夜10時半に岡山に帰ります。

翌朝7時半には、学童保育の朝学習を指導し、9時からはデイリーのレッスン。 メールの返信や教材準備などは、食事の合間や、往復の新幹線の中で行っています。

そこに強い気持ちがあり、願いがあれば、忙しいことにも喜びを感じるというものです。

手応えのあるレッスンができたとき、新大阪の駅で飲む生ビールは最高です。

そんな毎日です。


体調管理は命です。

調子の悪いときは、何もかもしんどくなります。

心も体もベストな状態で、子どもの前に立つことが、私の責任であり仕事であるのです。


アイデアがひらめくことのほとんどは、レッスン中に起こります。

真剣モードで子どもとご家族と向き合う、その1回1回の積み重ねが、私の命を磨き上げているわけです。

そのことをを誰よりも強く感じているのは、私自身であり、だからこそ前に進んでいけるのです。


小学校の現場にいるとき、私は、すばらしい校長先生に何人も出会ってきました。

校長室にいながら、どうしてあんなに一人一人のことを、的確に把握できているのだろう?

まるで超能力に思えるようなそのことも、強い意志と真心の積み重ねであることが、すぐにわかってきました。

当時は、まだコーディネーターという制度ができていないころでした。

その校長先生は、私の授業時数を週数時間のみに設定し、その空き時間に私は、家庭訪問に行ったり、ご家族の相談を伺ったり、幼稚園・保育園・中学校などをはじめ、各関係機関に足を運んだりさせていただいたりしました。

地域の民生委員会にも、毎回出席し、気になる子どもの情報を交換させていただきました。

私の授業時間は、他の先生が、少しずつ負担してくださっていたわけです。


こんなシステム、校長が命をかけるくらいの気持ちがなければ、できないと思います。

「私は、自分のクビなんて、とっくに洗っています。 責任は、私が取ります。 あなたは、可能な限り現場に足を運び、子どもたちの幸せのために、全力を尽くしてください。」

そう言う校長先生でした。


それでも、私以上に、子どものことを知っている校長先生でした。

一番子どものことを知っている人が、トップにいる。

だからこそ、そのリーダーシップが発揮できるのです。


学校の代表者として色々な会合に出席することは、大切な仕事です。

でも、最も肝心な子ども姿や保護者の声に耳を傾けないのであれば、何のために仕事をしているのか、わかりません。


すべての校長先生に、まず、現場の最前線にしっかりと立っていただきたい。

一人一人の姿が届かないでいて、決して生きた組織の運営はできないと思います。

自分のリーダーシップが、子どもの育ちに大きく寄与する手応えを、ぜひすべての校長先生に感じ取っていただいたいと願っています。


私は、公教育のトップである校長先生に、子育ての主体者であるご家族が、直接お会いになるべきだと思います。

行列のできる校長室

まさに、生きた教育がそこからスタートしようとしているのです。


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形で示す 先生から君へのメッセージ

 2010-08-13
先日、ある就学前の女の子のレッスンをしていたときのことです。

それまで順調に進んでいたのですが、何を思ったか、突然、その女の子が離席してしまいました。

お母さんは、少し離れた所でそのようすを、を見守っています。

少し前までは、ポイ投げが見られていたお子さんです。

その時、私がお母さんの表情を伺うことはしませんでしたが、そのお母さんの心境は、痛いほど伝わってくるのでした。


でも、私は、待つことにしました。

決して、それがマイナス行動ではないという、確信があったからです。


この日、導入時に、お買い物ゲームをしました。

この子は、かごの中から品物を選び、机の上に並べ、お財布から十円玉を、品物と1対1で対応させています。

わずか数回の指導で、手順を覚え、自分で活動をリードして進めることが出来るようになっています。

驚きです。


手順さえ明確に構成してやれば、達成動機の高い子ですから、自分で何でもやってみたいわけです。

それに、これまでずっとこの子の主体性を信じ、できる限り教材を自己選択させ、学びの意欲に基づきながら相互の信頼関係を培ってきたはずです。

多少のことはあっても、絶対にここに帰ってくる。

私は、そう判断し、何も声かけをせず、様子を伺ってみました。


そこに、ちょっと気になる、何かがあったのでしょうか。

数秒、それをごそごそいじると、すぐにその子は席に帰ってきました。

胸をなで下ろすような、お母さんの息づかいが伝わってきます。


お買い物ゲームで感じた、この子のモチベーションと、学びの構えは、やっぱり本物でした。

この日のレッスン、その後、信頼感の糸も、集中力の糸も、ひとときも切れることがありませんでした。

スケールの大きいこの子を育てていくのですから、正直私は、もう少し自由に泳がせてもいいと、思っているくらいです。

この日は、色々な状況から、このくらいの塩かげんでいいかなと、判断をしたのです。


マイナス行動の対処の仕方として、すぐに、それが望ましい行動でないことを、子どもに伝えることは大切です。

でも、それが確信犯であったなら、そこには行動の読み解きが必要です。

その子の生活の文脈・背景・行動を維持する要因・そのマイナス行動によって何を訴え、何を得ることができるのか、どうしてそんな労力を要してまで、何がその子をそんなマイナス行動に駆り立てるのか、その源泉はいったいどこにあるのか?


私なら、そういうことを自分なりに整理して、次回のレッスンの方略を立てます。

それは、いけないことだよ、と言語できちんと伝えると同時に、「本当の君の気持ち、先生はわかっているよ。だから、こんな子になってほしいんだ」 ということを、言語ではなく、レッスンの内容の工夫という形で子どもに示すことにしています。

それが、私の何よりの答えなのです。


言語で示すべき事と、言語以外で伝えることがあるのです。

言語化されないことの方が、子どもの心には、結局早く、深くしみわたっていきます。

建前の言葉が、こうした子どもの心に届くであろうはずがありません。



「親としては、あのように、信じて子どもを待つことができません」

レッスンの後に、お母さんはそう伝えてくださいました。

聡明なお母さんです。


そりゃ、当たり前です。

教育の場と、生活の場では、環境が同じではありません。

だからこそ、時間をかけ、費用をかけ、ここに通ってくださっているのは、お母さんご自身ではありませんか。


私が決して親の代わりができないように、親だからこそできることと、できないことがあるのです。

だからこそ、その付託を受け、私にしかできないことを、ここでさせていただいているのです。

この環境だからこそ、子どもに培っていかなくてはならいない内容が、そこにあるわけです。


子どもによっては、非言語の方が、つながると、ダイレクトに心は通い合います。


いつも、教室に入ると、スイッチを一つ消す子がいます。

言語表出のあまりない子です。

言語は少ないけど、私、最近この子との信頼関係が、飛躍的に深まっているのを感じています。

信頼が深まってくると、言葉がなくても、コミュニケートはできるのです。


私、ずっと遊び半分の自己刺激でスイッチをいじっているのだと思っていました。

「ダメだよ、スイッチで遊んじゃあ」 と言いながら、何度もそのスイッチを元に戻していました。


ところが、それでもまたその日、そのスイッチを消すのです。

よくよく見てると、それはいつも、南半分のライトのスイッチでした。

「そうか、そっち半分のスイッチ、消して欲しいんだ」

試しに、そのままにしておくと、いつもに増して、快調に学習を進めています。


そこに子どもを信頼する気持ちがなくて、果たしてこういう行動の読み解きができるでしょうか?

簡単なようですが、相互の信頼感がないと、こういう行動の読み解きは、なかなかできません。


以前は、着席さえなかなかできにくかった子です。

「何回、注意したら分かるの?」

そこで、心を傷つけるような発言の一つでもあろうことなら、マイナス行動は次々とエスカレートしていきます。

こういう場合、そのどちらに責任があると思われますか?


私の場合、そういうことの積み重ねで、子どもとの信頼感を培ってきました。

それが、私の何よりの財産であり、宝ものです。

私が信じているのは、子ども自身の学びの欲求なのです。

誰だってみんな自分を向上させたい、いろいろなことをいっぱい知りたい、成長したいと思っているのです。


それがその時、たとえうまく行かないことがあったとしても、教育はまず、それを信じる所からスタートします。

それがたやすいことなら、努力も苦労も、喜びもありません。


子ども学びの欲求と、無限の可能性を信じ、明るく、笑顔で、子どもにしっかりと力強く道筋を指し示す。

それが、私の仕事です。

私が目指す真の教育者の姿が、そこにあるのです。


私が行う日々のレッスンは、そこへと向かう大切な一コマです。

さあ、進んでいくのは、あなた自身なのだよ。

私にとって、こんなに楽しく、やりがいのある仕事は、決して他にはないのです。



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オフィシャルな教育機関としての 学校の果たす役割

 2010-08-10
学校は子どもにとって、唯一無二のオフィシャルな教育機関です。

学習内容に法的な拘束力があり、その学びに一定の責任が伴っています。

子どもには何年何組という公的な所属の場が与えられ、何々小学校の児童という社会に認められた存在となるわけです。

担任の先生は、その代表者として一定の権限が与えられ、子どもにとっては他で代えることのできない特別な存在となるのです。

そう言った意味で、学校の役割を抜きに、子どもの学びや育ちを考えることは決してできません。


学校は1年を単位として、責任をもって、法で定められた教育を行うオフィシャルな機関ではありますが、子どもの育ちを全部まるごと引き受ける所ではありません。

子どもを育てるのは、本来、保護者のつとめであり、学校はその一部である教育を、責任もって実施する場でしかすぎないのです。

どんな熱心な先生であっても、1年経てばさようならで、一生面倒見てくれるわけではありません。

持ち上がりであっても、それが1年を単位とした期間であることには、変わりはないのです。

それが、学校教育というものなのです。


子どもは、保護者が育てるのです。

それを、学校が請け負うことはできないのです。

その強い気持ちがあったならば、学校に何を付託すべきかが、見えてきます。

ここのほんのわずかな気持ちのズレが、重なり合って、現実の具体的な場面で、多くの問題に発展していくこともあります。


逆に言えば、他ではできないこと、学校でしかできないことも、たくさんあるのです。

地域の同年齢の児童との、日々のかかわり。

相互に協力して、学習を深めていく営み。

社会性・協調性・忍耐力・課題遂行力・・・


どんなに行き届いた個別指導であっても、どんなに高邁な理論とメソッドが開発されようと、それがオフィシャルな集団の学びに取って代わることはできません。

子どもの集団への所属感があればこそ、こうしたすぐれた指導が生きてくるのです。

連携とは、決して同じ事をするのではなく、それぞれにしかできないことを、機能的に構成することなのだと、私は考えています。


親としてすべきことが明確になってこそ、学校に責任をもって育てていただきたいことが、はっきりしてくるわけです。

学校で出来ないことを補完する、支援の枠組みを構成することだってできます。

先生に要求する内容も、シャープで、説得力のある、実現可能な具体的なものへと進化していきます。


「このことは、学校にしかできません。 先生にしか、できません。 だから今、先生にこのことをお伝えし、お願いに来たのです。」

その具体的な中身は、どんなことでしょう。

無理な要求と、建設的な提案との違いは、どこにあるのでしょう。

実現できることと、できないことのボーダーラインは、どこにあるのでしょう。


結果は、子どもが享受することになります。

子どもを育てる主体者は、保護者であるのです。

ならばその支援者である私は、多くのケースに寄り添いながらも、そのことをシャープに洗い出していかなくてはなりません。


学校が、学校としての持ち味を生かし、その機能をフル回転させることも、とても重要なことです。

我が子のために、上手に学校の教育力を引き出す。

言葉は簡単ですが、具体となると、至難の業です。


今、来年度に向けた就学相談を実施している地域も多いのではないかと思います。

そうしたことを、どうか皆様と一緒に考えさせていただきたい。

そのことが、私に与えられた大切な使命であると考えているのです。


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何年も積み上げながら 学び続けていける環境

 2010-08-09
金曜日に友里ちゃん (小学6年) のレッスンをしました。

「今江祥智作品」 を教材化したものを使いました。

大好きなみよちゃんをデートに誘うことができた主人公の太郎君でしたが、思いがげず、そのみよちゃんに、大の苦手な 「かえるつり」 にいきましょう、と誘われ、太郎が冷や汗だらだらで目を白黒させている場面・・

問題文を読みながら、友里ちゃん、とうとうゲラゲラと笑い始めてしまいました。


文脈理解、場の状況、完全につかめている!

どんな問題ができることよりも、こうして物語全体を楽しめるように育ったこと、そのことを私は何よりもうれしく感じたのでありました。

4年生の時には、はるか彼方に見えていた文脈理解の光が、こうして今、自分の手の中にあるのです。


「ここまで来たら、新しい学習の発展も見えて来始めましたね」

レッスン後に、お母さんにそんな話も伺いました。

2年前には、考えられなかったことです。 大げさに言えば、まるで夢のようです。


文脈理解だけにシフトして、毎週90分のマンツーマンレッスン。

1年以上、そのことを続けられたこと、そしてそれが成果となって、友里ちゃんに息づいていること。

土台づくりに1年、その上の積み上げが1年。

このことが、どれだけ私たちの励みとなり、自信となったことでしょう。


この教室を始めたころは、私も、色々なことがありました。

土・日の指導の後には、疲労と緊張感からの解放から、物が言えないほど全身から力が抜けたようになっていましたが、今では、心地よい達成感を毎回感じるようにまでなりました。


以前、レッスンに拒否反応を示し、机の上に上がって物を投げていた子も、今では体をすり寄せるようにして、私のそばを離れません。

教室を飛び出していた子は、レッスンが終わってもなかなか帰ろうとしなくなりました。

常時無意味な言葉をしゃべり続けていた子、勉強中、体を揺すったり、たたいたりせずにはいられなかった子も、学習に集中し始めると、一切そうした行動が消えてなくなっています。

そうしたことを見たり、触れたりする度に、私は何にも代え難い最高の評価を与えてもらったと、感じることができるのです。


私の気持ちが届くまで、私の願いが通じるまで、

土台づくりに1年、そしてその積み上げにさらに1年の歳月を要したのです。


今春、養護学校高等部を卒業し、今は、作業所に通う大輔君。

卒業後にも、月2回、私の所に通ってくれています。

言語の表出は見られませんが、その表情と、かすかなポインティング、そしてお母さんからの様々な情報から、私は大輔君のことを理解し、レッスンを通して、私のメッセージを届けています。

「地獄のそうべえ」 「歴史上の人物」 「かけ算九九」 が、今の中心教材です。

私は、ここに、今後の私の活動につながる一つのスタイルを感じているのです。


去年卒業した6年生は、みんなそのまま中学校生なっても、私の所に通ってくれています。

今、岡山の教室には、静岡や小倉から学校を休んで通って来てくれる子がいます。

10月には、和歌山からお越しくださる方もいます。

来年、就学を迎えられるお子さんは、就学後には、午前中のレッスンというわけにはいかなくなります。


ここまでして培ってきたものが、そういうことで切れてしまうことが、子どもの利益につながるとは思えません。

ご希望の方には、わずかであっても、つながりをもつ機会を提供することも、私の責務であるような気がしています。



発達に課題のあるお子さんだからこそ、生涯にわたる学びの場が必要なのです。

学校を休まなくても、何とか土・日に、それを必要とされている方に、学びの機会を生涯にわたって提供することはできないか?

何とかして、経済的な負担を軽くして、質の高い学びの環境を整えたい。

生活の中に、定期的に豊かな学びの時間を構成することにより、ご家庭にもより潤いのひとときをもたらしたい。

多くの子の、多くのご家族の切なる願いに、何らかの形で道筋をつけたい。


何かよい学びの枠組みは、構成できないものか?

私は今、その方法を、真剣に模索しているのです。


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子どもの特性を生かして、次のステージへ歩ませる

 2010-08-06
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かれんちゃん、昨日、久々に私の教室にやってきてくれました。

このところ、保育園のキャンプや、私の出張などで2週間も続けてお休みになってしまいましたので、とてもさみしく思っていましたが、扉を開けると、また元気一杯のかれんちゃんの登場に、教室の中がいっぺんに華やいだ感じになりました。

魅力満開のかれんちゃんの登場です。


このところ、かれんちゃんは内言語=イメージの世界が次々と発展していくようになりました。


おなべ1個、フィギュア1組、ミニカー1台あっただけで、続々とお話が発展していくのです。

「さあ、みんなおいで~」

「だいじょうぶ」

「こっち来て」

など、上手にその言語をキャッチして返してやると、面白いように世界が広がっていきます。

きっかけとなるものだけ用意できたら、あとはあまりごちゃごちゃ細かく限定して設定をしない方が、そのエネルギーが加速していくことも、活動を通して明らかになってきました。


かれんちゃんは、場の状況を読み取ったり、人の気持ちを感じ取ったりする力がすぐれています。

小学生の子どもで、聴覚性の言語ではナチュラルに応答できるのに、文字言語になると、とたんにイメージとして内言語化することができにく子がいます。

発達の過程で、時々起こるこんな場面に、私は何度も遭遇してきました。

一口に言語といっても、そのルートはとても複雑で高度なものなのです。


イメージを、正しく言語に置き換えて表現したり、文字言語などと対応してとらえるようにすることが、今後、かれんちゃんが目指していく課題の一つになっていくわけですが、この優位性を理解していることが、次のステージへ進むための支援を構成していくうえで、大切なポイントになるのではないかと考えています。



この日、かれんちゃんは、公文のステップアップパズルと、数字カードを自己選択してくれました。

私は、可能な限り、教材を子どもに選択させるようにしています。

それは何より、内発的な学習の動機付けを大切に考えているからです。


課題の多いお子さんほど、課題の重いお子さんほど、自己決定・自己選択の場面は限定されているのです。

そこには、周到な準備と、教育的な配慮、そして見通しという指導性が不可欠です。

平素、やらされることが多いお子さんだからこそ、自己決定・自己選択の場面を、工夫すべきであるというのが、私の願いであり、信念でもあるのです。


自立とは、自己肯定をベースにして、主体的に生きることです。

支援者に、その存在を肯定的にとらえる理念や価値観がなくして、どうして自立をめざすことなどできるのでしょう。

そこには深い哲学と、人が生きるという価値のとらえが不可欠なのです。

私が、子どもの内発的な意欲を、何より尊重するのは、こうした理由によるものです。


だれだって、成長の欲求、学びの欲求はあるのです。

歩むのは、子ども

導くのが、指導者です。

そこには、深い子ども理解と、周到な道筋が必要なのです。


人を、育てるということ

たとえそれがどんなに険しく、むずかしい内容であったとしても、人間として、親として、これ以上尊い営みが他にあるでしょうか?

私は、苦しみながらも笑顔を忘れず、真摯に歩んでいくご家族を、これからもずっと応援していきたいと願っているのです。


一人の子が育つというねうちを、しっかりと見つめていきたいと思っているのです。



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「予算が無い、人がいない」 で引き下がってはいけない

 2010-08-02
私が以前、支援学級の担任をさせていただいたとき、当時の校長は、「学校で一番優秀な者を、支援学級の担任に据える」 と、おっしゃってくださいました。

前年度、たしか私は、その学校の6年生の学年主任と研究主任をさせていただいていました。

その言葉が、どれだけ私の気持ちを奮い立たせたか知れません。


その時はまだ、その学校に支援級はなく、新しく入って来るたった一人の1年生のために、新しい学級を創設するということになっていました。

たった一人のために、これだけの構想を実現させた校長、ただ者ではありません。

3人以上いないと、学級はできないなどと平気な顔で言う校長も多いようです。

その方、本当に学級を作る意思をおもちなのでしょうか?


後にこの校長は、県の校長会の会長をつとめ、様々な功績を教育界に残していくことになります。

取る気が無くて、予算は取れません。

「予算が無いからできない」 が、ただの言い訳にしか過ぎない場合だってあるのです。

物事を成す人は、万難排して、子どものために動くものです。


卒業式が終わると、私は、すぐに準備に取りかかりました。

まだ、担任発表もされていない段階 (3月下旬) に、お子さんとご家族に会い、すぐその足で療育機関に行き、担当の先生と引き継ぎをさせていただきました。

完全なフライングだったと思いますが、私には、ただできる限りの準備をしてこの子を迎えたい、その思いの外、何一つ考えることはできませんでした。

通常級の1年生担任には、前年度私と共に6年生の担任をしていた有能な女性の先生が選ばれました。

入学式では、30人以上の子の名前をすべて覚え、一切名簿を持たず、その顔を見ながら点呼をしていました。

この先生も、支援学校の1級免許をもっていました。

前年度、一緒に6年生を卒業させた大切なパートナーでしたから、無理なお願いも、いつも笑顔で引き受けてくれていました。

1学期は、多くの時間を通常級で過ごし、私は、ほとんど支援員のようにサポートに回る形でした。




「通常級在籍だと、残念ですが、特別なサポートは、行うことはできません」

そんなことを言われた方は、いませんか?

以下の内容は、今、通常級に在籍している、あるダウン症の5年生の支援内容です。 




①「言葉の教室」他校にて・・・2時間×1日
②「個別授業」2対1・・・1時間×2日
③「学生ボランティア」・・・5時間×1日
④「指導助手」・・・2時間×2日以上(授業内容により増える)






すごい充実度で、さすがの私も驚いてしまいました。

この5年生のお母さんによると、さらに行き届いた行政サービスが受けられる地域もあるそうです。

就学猶予だって、病気以外の理由で認められる自治体と、そうでない自治体があるようです。



「財政厳しい状況なので、ご希望に添うことはむずかしいです」

「そうなんですか・・」



本当に、それで、いいんですか?

知らないということは、恐ろしいことです。

その能力と特性に応じて、行き届いた教育を受ける権利を、子どもは有しているのです。

結果を受け入れるのは、あなたのお子さんです。



「そうなんですか・・」


半端な決心で、物事が前に進まないのは、百も承知です。

もう一度、腹を据えて食い下がって見る気はありませんか?

勉強してください。

調べてみてください。

足を運んでください。




何も学校と対立的になれと言っているわけではありません。

私だって、ご家族の真剣度は見ています。

子どもの最善の利益のために、あなたがなすべきことあるはずです。

次の一言が、あなたのお子さんの、豊かな学びの場を構成する大切な一歩になるかも知れないのです。


この記事は、「特別支援教育 記事ランキング 1位」 に選ばれました。 (2010-8-5)



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Author:SHINOBU
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