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子どもの今が見えるということ

 2010-05-31
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この画像は、大坂・南海電鉄、なんば駅のものです。


なんの変哲もないただのトイレのようですが、実はとっても親切な工夫がなされています。

入り口に近づいてみると、「左側が男性用、右側が女性用・・・」 と、適切な音量で音声案内がされているのです。

もちろん入口の段差などはなく、中もとっても使いやすく、キレイです。

音声案内は、目の不自由な方への配慮かもしれませんが、それは、すべての人に使いやすいトイレを目指したひとつの形にしかすぎないのだ思いました。

ユニバーサルとは、とってつけたものではなく、本質を見据え、機能的にも美しく、そのこと自体のレベルが高いもののことを指すのだと、改めて感じることができました。


今、私は毎週のように県外におじゃましており、その際には巨大なキャリーケースを転がして移動しています。

トイレの入口に段差 (階段) があると、腰痛持ちの私は、泣きたい気持ちになります。

キャリーバックなら、何とか持ち上げることもできますが、車椅子だったらどうしたらいいのでしょう。


岡山駅の新幹線コンコースのトイレは、近年やっと段差がなくなりました。

ところが、新幹線の停車する大きな駅でも、まだまだ段差のある駅、結構あるんですよ。

キャリーバックがあるからこそ見えることでもあるわけです。

機能的に美しいレベルアップした社会を目指すうえで、こういう視点はとても大切だと思っています。


私は、子どもとよくすごろくゲームをします。

さいころは、12面体のものを使います。

「9」 の目が出たとき、「1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・・・」  と、オーバーランしてしまう子がいます。

数えているうちに、出た目の数を、ショートターンメモリーにキープできにくいのです。

こういう子は、算数の問題文で、「4つ色をぬりましょう」 という課題のときに、わかっていたはずなのに、ぬっているうちに、うっかり5個ぬってしまうかも知れません。

楽しみながら、ショートターンメモリの容量を増やすには、すごろくゲームは有効な方法の一つでもあるのです。

また、数唱と事物の1対1対応や、継次的に数処理をしていくベイシックな力を育てるうえでも、すごろくゲームは有効です。

ルールや勝ち負けの、社会的なスキルだって育っていきます。


先日、ある子にひき算を教えていて、減数にまるをつけ、その数だけ斜線を引いて消していく活動をさせてみたら、その子は突然はっとした顔をしました。

「ひき算って、こういうことだったんだ~」 と、気がついた証拠です。

今まで、 「 7-3 」 という式を見ても、それが何を示しているのか、わかってなかったのです。

ここまで来るまで、パソコンで数回、ひき算ゲームをさせておいてよかった♪

やっぱり二系統の方が、つながりやすいと思っていましたから、


「6+7=13」

そういう答えが出せても、数理的に深い理解・多面的な理解をしているとは限りません。

言語的に、丸暗記していれば、とりあえず答えは出ます。

でも、言語記憶だけでは、やがて薄れていきます。

1年生に出来ていたことが、3年生になって出来なくなってしまうという現象も起こるのです。

とりあえず言葉でわかっていても、実際に数の操作やロールプレイやゲームをしながら、深い理解・多面的な理解を構成していくことを、私は、「学習」 と呼ぶのだと考えています。


なぜ、子どもにとって時計がわかりにくいのか、あなたはわかりますか?

なぜ、「お正月」 という字が読みにくいか、知っていますか?

なぜ、すごろくで、自分の所から1と数えてしまうか、わかりますか?

どうして 「35」 という数を、「305」 と書いてしまうか、わかりますか?


子どものつまずきには、物事の矛盾や本質が、見え隠れしています。

それがわかれば、そこへ到達していくための小さなステップ、つまり課題分析の道筋が見えてきます。



自分が小さい時に、勉強があまり得意でなかった人も、いることでしょう。

私も、その一人です。

だからこそ、子どもの今が見えるのです。


理論だけでは、わかりません。

現場にでなけりゃ、わかりません。

キャリーバッグを持って移動するからこそ、ユニバーサルな設備の大切さに気がつくことができたのです。


子どものつまずきに寄り添うことで、大切な何かが浮かび上がってくるのです。

ちゃんと見る気で見れば、見えてきます。

大きなキャリーバックを持ってみるという発想も、子どもの今を見つめるためには有効かもしれません。


トイレの段差にこそ、その都市の品格がうかがえると、私は思っています。



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つまずきがあればこそ 君は輝く (セットの発想で 肯定的な自己理解を育む)

 2010-05-28
例えば、昨日、交通事故を起こして、多額の修理費が発生してしまったとします。

誰しもが、「しまった」 と思い、後悔することでしょう。

そんなとき、「大けがにならなくってよかった」 とか、「あれは避けようがなかったことだった」 とか言いながら、大好きなケーキを腹いっぱい食べながら、友達に愚痴って、そのことを忘れようとします。

イソップの寓話で、取れなかったブドウを指さして 「ま、いっか、どうせ、あのブドウはすっぱいから」 とうそぶいたキツネも、そんな言い訳をして、心理的なダメージを回避しているわけです。


この、「ま、いっか」 は、一見ずるいことのように思われますが、現実生活の中では、こうしたことは、こころの安定を保つためにとても大切なメカニズムです。

心理的なミサイルをまともに食らいすぎて、自分が沈没したのでは何にもなりません。

このことを、精神分析では、「防衛機制」 と言ったりもします。


「ま、いっか」 が出来にくいことが、自閉症の大きな課題であるでいうことを、昨日、あるお父さんのお話の中から教えていただきました。

「自閉症とは、嫌なことを、忘れられない障がいである」 とも伝えてくださいました。



目の不自由な方は、聴覚や皮膚感覚がとても研ぎ澄まされると聞きます。

言語の少ない子が、人の感情を読み取る力が強いのは、日々の実践で、私が日常的に感じていることです。

継次処理の苦手な子は、同時的な力が育ちます。

表出言語がなく、聴覚性言語の入力も苦手な子が、裏返しにしたパズルを、見るも鮮やかに1~2分で完成させてしまう場面を、私は何度も見てきました。

まさに、長所と短所は表裏の関係にあるのです。


もちろん、すべての力が全面的に伸びていってほしいと願っていますが、言い換えれば、花子ちゃんは、書字が苦手だからこそ、お話をスラスラ読む力が身についてきたのです。

太郎君は、聴覚性の言語の入力が苦手だからこそ、工作や漢字の書字が発達してきたのです。

苦手なことだけを、片面から必要以上にネガティブにとらえすぎると、時として、子どもの成長や利益につながらいことだってあるのです。


「俺、目が見えなくってもいいや、ピアノが弾けるから。」

ピアニストの辻伸行さんの言葉であったと記憶しています。


先のお父さんは、こんなふうに思えないことが、マイナスのことだけが、ぐるぐると頭の中で回り続けることが、自閉症の大きな課題であるのだと伝えてくれました。


そのお子さんが、週に1度、私の所に通ってくれているのです。

私は、一体何をすべきなのでしょう?

その一つの方向性が、昨日の話の中で、私たちには見えてきました。


子どもを育てる道筋は、2つ。

子どもが育つまではと、支援を施し、子どもの自立に合わせてそれを段階的に除去するプロンプトフェーディング法と、課題分析をし、小さなステップを構成して、一歩ずつそれを登っていくスモールステップ法。


現実生活に密着したご家庭では、プロンプトフェーディング法で、子どもの気持ちを支えることが第一です。

そして、教育的に環境を整えた私の個別指導の場では、スモールステップ法で大切なことを培っていきたいと思います。


私が、その小さなステップで、この子に培って行くことは何か?

それは、「君は苦手なところがあったけど、だからこそ君の得意なことが伸びたんだ」 というセットの発想で、肯定的な自己理解の力を培うことです。

誰しもが、長所と短所をもっている。

比べるのは他人とではなく、絶対的な唯一無二の存在として、君自身のよさを見つけてほしい。


何のために、この子と勉強を続けているのか?

ずっと心の中で繰り返してきた、私自身の問いに、今一つの道筋が見えてきたように思います。


大きな可塑性をもった子どもですから、苦手なことも、できればもっとここまでという営みで、努力を続けて欲しいものです。

そのことによって、大きく開かれる未来もそこにあるはずです。


しかし、時としてそのことがマイナス面ばかりに目が向き、存在そのものを否定的にとらえがちになる、マイナスの作用があることも、心得ておくべきであると思います。

肯定的に自分を理解できている子は、少々のことは大丈夫です。 うんと鍛えてやってください。 そのことで、さらに達成感をもつことができます。


しかし、マイナス面だけに目が向いて、自分はダメだと思っていては、伸びるものも伸びません。

そこは、育て育む者が、心しておかなくてはなりません。


あの時の苦労があればこそ、今の自分がある。

少年時代のつまずきがあればこそ、今の私がある。

苦手なこともあったからこそ、今のあなたの輝きもあるのです。


あなたのステキなこと、

防衛機制が苦手だからこそ、私はそのことを、言葉だけではなく、学びという形でずっとこの子に示していこうと考えました。


毎回の、学びの小さな積み重ね、

それは、あなたの特性を生かした、長所活用型指導の具体化でもあります。

軸さえぶれなければ、やがてそれが大きなうねりと化することだってあるのです。



この子、自分では気がついていないかも知れませんが、それはそれはすばらしい才能をもっています。

かぶせすぎると、負担になるので、そこらの配慮も必要です。

私は、ご家族と共に、この子を育てていけることに、大きな誇りと喜びを感じているのです。

だからこそ、静かに、慎重に、ゆっくりとした歩みで、私の気持ちを、これからも形として、しっかりとこの子に伝えていこうと思っています。


短期間に集中してがんばることは、案外たやすいものです。

しかし、それを5年・10年と脈々と続けることができるか?

言葉だけでなく、形で示すというのは、こういうことでもあります。

子どもは、そういうことは感じます。

本物だからこそ、むしろ歩みは遅く、長く長く続けられるのです。


子どもが、どんな時でも、自分で自分の存在をしっかりと受け止められること。

自立し、巣立つというのは、そういうことです。

その日がやって来るまでは、しっかりと守ってやることが、家族としての何よりのつとめなのです。


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教育における プラシーボ効果とノーシーボ効果

 2010-05-27
同じ薬を飲んだとしても、「この薬をのめば、絶対に効果がある」 と信じて飲むのと、「こんなものが効くはずがない」 と思って飲むのとでは、実際に体に及ぼす効果は違うようです。

前者のプラスに働くケースを 「プラシーボ効果」、マイナスに働くケースを 「ノーシーボ効果」 と言います。


大学の教育心理の授業で、「ピグマリオン効果」 ということを習いました。

ギリシャ神話の逸話から、その名が付けられたのですが、「きみは絶対良い子」 と、先生が心の底から信じていると、そうでない場合に比べて、教育効果に有意な差が生じるというものです。

私はいつも、教育は可能性を信じることからスタートする、とお伝えしているのも、こういうことを、長年の教育実践の中から、体験的に理解しているからです。


よく、私の教室に来ると、子どもが別人に変わるということ聞きます。

お母さんが、何度も繰り返して、私のブログの記事を読み、この先生にならと決心を固め、忙しい中、時間と費用のやり繰りをつけてお越しになるわけです。

お母さんには、完全にプラシーボ効果が、働いています。

また、「この先生は、絶対にすばらしい先生」 と、信じてお越しになるご家族の気持ちは、私に少なからずの影響を与えます。

私も、精一杯この期待に応えようしますから、必然的に逆ピグマリオン効果が生まれるわけです。

この美しい思いこみ?、は、子どもの成長にとってマイナスに働くわけがありません。


各種検査は、発達面の課題を明確にすることが、大切な目的です。

苦手な面を明確にするのが目的ですから、内容はどうしてもネガティブになってしまいます。

例えば、レントゲンで少し気になる部分があったときに、「こんなの大丈夫だと思いますよ~」 じゃなくて、そこは精密検査をして、ちゃんと調べてほしいと思います。

「もしかしたら」 という視点で、マイナス面を徹底的に洗い出すのも、その役目です。

そういうことを理解して、検査結果を見ることも、私は大切だと思います。

レントゲンにちょっと気になることがあって、ちゃんと調べることと、それを真に受けて、必要以上に絶望的になることとは別物です。

いくら検査結果で、子どもの課題点が明確になったとしても、子どもやご家族の気持ちに暗い気持ちを落とし、モチベーションを低下させすぎては、何にもなりません。

発達検査も、子どもの成長や幸せに役立ってこそ、意味のあるものです。


私がこうやって記事を書き続けるのも、この先生なら、と安心してお子様を託していただけるよう、私の気持ちの深さをお伝えしていくためです。

信頼感のない所には、教育は成立しません。

教育とは、まずは子どもの可能性を信じて、それを培う営みなのです。

発達にかかわる理解は、子どもの成長に生かされてこそ、初めて意味をもつのです。

マイナス面を指摘するだけの検査なら、受けない方がよいと私は思っています。


リポビタンD、あなたは効くと思いますか?

飲んだ私は、本日、絶好調です (笑)


今日一日、何としても充実した1日にしたい。

指導の後、笑顔で、子どもとご家族を送り出したい。

そういう強い気持ちがあるから、コンビニでリポビタンDを買ったのです。

だからといって、リポビタンが効かないから、金返せ、どうしてくれる、というのはおかしいです。

主体者はあくまで自分で、150円のリポビタンDに、すべてを丸投げできるわけがありません。

ぐびっと飲んで、よしやるぞ、それだけでリポビタンDは、私にとって十分、価値があるのです。

気持ちの萎えている人は、リポビタンDなんて、きっと買わないと思います。


何としても、この子を育てたい。

迷っているヒマなんてありません。

ご家族のそういう強い気持ちは、やがて具体的なアクションにつながっていきます。

その気持ちは、指導者にも、子どもにも響きます。

そのことが、子どもに伝わらないわけがない。

私の所で、子どもが伸びる背景には、こうしたメカニズムが働いていることが多いようです。


私は、そういうご家族の強い意志の代弁者として、子どもに向き合っているのです。

信じる、信じないは、気持ちの強さと深い相関があるはずです。

どちらが、子どもの幸せに通じるか?

プラシーボ効果とは、まずは我が子の可能性を信じる、ご家族の強い気持ちからスタートするのです。



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達成動機の高さを指導に生かす

 2010-05-25
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あきなちゃんは、来年就学を控えた年長組の女の子です。

4歳の時から私の教室に通ってくれるようになり、もう1年半になります。

その頃は、色の付いたカラーボールを、同色のペグに差す課題が出来ただけで、「信じられない」 とお父さんが驚かれていました。

今の成長を見たとき、そのことが遠い昔のことのように感じます。


先日、あきなちゃんの通う保育園の先生が 「私の教室での指導の様子を見たい」 と言ってくださり、通常の保育の時間をさいて、わざわざ見学に来てくださいました。


あきなちゃん、この日は、お母さんと先生と一緒に教室に入ってきました。

普段は、指導中は、お父さんにもお母さんにも退室していただいていますので、この日はいつもとちょっと違うテンションです。

私の方も、何だかギクシャクして、いつものような弾む感じがなく、ちょっとあせってしまいました。


そこで、わざと声のトーンを落とし、ゆっくりした口調で 「あきなちゃん、それじゃ、これやってみようか~」 と言ってにやりと笑った瞬間、あきなちゃんも私も、いっぺんに緊張の糸がほぐれたように感じました。

気持ちが通じるというのは、こんな感じです。


今では、とまとちゃんの絵のついたパズルを、「とまとちゃん」 と言いながら、「と」 という文字の書かれた位置にぴたりとはめることができます。

カードを見て、「し」 だの 「の」 だの、ちゃんと読むこともできます。

鉛筆を使って、「りんご」 から 「りんご」 まで、直線をぴたりと引くことができたり、パソコンのマウス操作も上手になってきたりしています。


この日もいつも通りを見ていただきたかったのですが、なかなかむずかしいものですね。

ずっとずっと、この教室で育ってきたこの子のことを、お母さんや先生に、何としても「すごいね」 と言って、ほめていただきたい。

そのことを第一に考えて指導を行いました。



見学に来られた先生からは、以下のような感想をいただきました。




とても楽しく課題に取り組んでいる様子を見させていただいて、見ている私も、とてもほほえましく、あたたかい気持ちになりました。

その中に、これから必要となるひらがなや数の学習があり、楽しく活動をしながら、子どもに身について行く姿、また、長時間集中力を切らさずにイスに座っている姿に、「すごいなあ~」 と思いました。

子どもががんばっているとき、できたとき、もっとこうしたらいいなあというときの、声のかけ方、手だての方法を勉強させてもらいました。

子どもの気持ちがのり、やってみようとする 「しっかりほめる」 を、私自身心にとめ、今後に生かしていきたいと思います。

ありがとうございました。






また、お母さんからは次のようなメールをいただきました。




今日は、見学させていただきありがとうございました。

今回、初めて私も娘が勉強している姿を見ましたが、ちょっとビックリでした。


思っていた以上に出来ていることと、45分集中できていること。

そして、何より、ペースが早い!!

集中力を切らさないためになのかなぁ?と思いながら見ていました。

私もすごく、勉強になりました。

実は、今日は私の車で先生も一緒に伺ったんです。

だから、最初の数分は集中できなかったのかなぁ?と思ったんですが、

急にスイッチが入って、真剣にやっていたので、

「スイッチが切り替わったよねぇ。」 と先生と話をしながら帰りました。(*^_^*)

先生もタメになったぁと言っていました。


今日、伺った先生は、私の同級生なんですよ。

お忙しいでしょうが、また時間があったら、保育園へ行ってみて下さい。

園長先生も変わられているので。

本当に、ありがとうございました。m(__)m





スイッチ切り替わったの、やっぱり、わかったのですね。

あのまま、暴走モードに入らなくて、ホントによかったです。


できれば、先生やお母さんにいいところを見てもらいたいとは思っていましたが、それ以上のものはありませんでした。

そのためには、いつものままを見てもらうのが一番と思っていました。


もともとこの子は、いつもやる気まんまん。

それがこの子の最大の魅力なのです。


昨年の秋、私はこの子の保育園の、運動会の予行演習を見せてもらいました。

その時に私は、私の教室では、私の教室でしかできないことを、この子のためにずっとずっと続けていこう、と強く思いました。


いつもポジティブで、何にでも挑戦してみたいあきなちゃん。

ここは、あなたの夢をかなえる場所です。

先生は、そのことを通して、あなたがどれだけステキな人かを、教えることが仕事です。


先生とあきなちゃんとの、楽しい学習の積み重ねを、この日、先生やお母さんに伝えることができました。

本当に、よかった。


先生は、あきなちゃんが大好きです。

初めてくだものペアペアパズルが出来るようになった日、初めてひながなが読めるようになった日、初めて数が数えられるようになった日、み~んな先生の宝ものです。

そして、あなたと勉強したそのあゆみが、今では多くの子の指導に生かされているのです。


きっと、これからも楽しい学習は続いていくのだと思います。

さあ、来年の春は、小学生。

あなたのその前向きさと明るさが、きっと新しい扉を開くことにつながっていきます。


毎回の、いつももと同じあなたの学びが、先生にとっては何よりも大切な時間なのです。

また来週、いつものように、元気一杯に教室の扉を開けてくださいね。

先生は、ずっとずっと楽しみにしています♪



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イチロー君の成長にみる 豊かな理解

 2010-05-24
イチロー君も、3年生になりました。

私が巡回相談をさせていただいていた頃は、毎回、巡回相談を終えた後に、ご自宅に伺っての指導をさせていただいていましたが、巡回相談が終了した今は、隔週で月2回、私の教室に通ってくれています。


先日、3桁のたし算の筆算の問題をしました。

1・2年生の時に、繰り上がり・繰り下がりの計算にあれだけ苦しんだ子です。

この当時のことは、2009-8-10の記事 でも触れています。


さあどうか? と、やらせてみると、ものすごい勢いで次々に問題を解いていきます。

完全に筆算の手順が身についているのです。

しかも、正答率はほぼ100%です。

もちろん、繰り上がりだってへっちゃらです。

ここまで成長しているとは、

正直、私は驚きました。


初めてのことには時間がかかるけれど、入ってしまえば誰よりも速く正確にできるタイプのお子さんがいます。

1・2年の時のテストの時には、点数はでなかったかも知れませんが、今なら決して他の子にも負けません。

学校では、短い期間に習得すると、ほめられる機会はたくさんありますが、こうしたことを評価する機会は、なかなかもてません。

でも、そのことがとれだけ尊いことで、将来に生きて働く力となることか。

私はそのねうちを知っています。

私は、イチロー君の成長を我が事のように喜び、そのすばらしさを、心を込めて本人とそのご家族にお伝えをしました。



すごろくをするとき、最初の1コマを、今自分のいるポジションから、「1・2・3・4・・・・」 と、数えてしまう子はいませんか?

これだと、5の目が出ても、4のところまでしか進めません。

「最初の1は、自分の次のところからスタートするんだよ」 と教えても、何度も同じことを繰り返します。

どうして、こういうミスをするか、わかりますか?

それは、それまでものを数える時に、必ず1対1対応で数えさせていたからです。

今、何人か数えるときには、必ず自分の数も数えさせたはずです。


すごろくの時だけ、起点となる自分の位置を数えないのは、常に 「自分の位置」 + 「さいの目」 の計算をさせているのと同じだからです。

「すごろくはたし算」 

指導者が、そういう数理的な意味を理解していれば、子どもの心にストンと落ちる指導を工夫することができます。

「何度教えたらわかるの? 自分の場所は数えずに、次から数えるのよ」

それで、分かる子は問題ありませんが、そうでない子には、一工夫欲しいところです。

ルールのわかりにくい子、継次的な処理の苦手な同時処理タイプの子は、すごろくゲームで苦労します。

ここにスモールステップを構成することで、継次処理能力を育成することができます。

「ぱっと見てわかる」 同時的な力と、「手順に従い一つずつ処理する」 継次的な力は、数量の力を身につけていくためにどちらも大切なことです。


また、「どちらが多い?」 という課題も、同時処理タイプの子には、わかりにくい課題です。

なぜなら、当たり前の事ですが、「3は2よりも多い」 くせに 「3は4より少ない」 からです。

Aという場面では 「多い」 3が、Bという場面では 「少ない」 になってしまうわけです。

こういうことが、わかりにくい子がいるのです。

当たり前だからこそ、そのつまづきは、指導者には見えにくくやっかいになるのです。

子どもが何で分からないかが分かる人ほど、そのつまずきが、自分の事のように見える人ほど、指導者としては優秀なはずです。

ここのところを、ストンと落とすことが、今の私の課題です。 


イチロー君は、文章読解問題を毎回5枚以上やり遂げていきます。

1度さーっと読むと、心の中に内言語的なイメージが思い浮かんでいて、3択問題などは得意中の得意です。


逆に、文字を皿のように見て、キーワードをピックアップするのは、苦手です。

字句の細かい形がとらえられなくて、1年2学期の漢字の書字には、かなり苦労をしました。

しかし、学習によって、苦手な微細な文字の認知力も向上してきました。

1年の漢字が書けるようになりさえすれば、あとはへんとつくりに分解して理解すれば、何とかなるのです。

大変なのは、最初のそのときなのです。


今できないからといって、ずっとできないわけではありません。

1年生の時に苦労したからといって、2年生・3年生も同じとは限りません。

今このときだけで切り取って、それを絶対的な尺度でとらえるのは、誤りです。


うさぎとカメではありませんが、多少時間はかかっても、その分豊かに育つ子もいるのです。

3年生になって、安定感が増したような気がします、とお父さんは伝えてくださいました。

当時のご家族の努力が、形となって実ってきました。

イチロー君の成長が、また一つ大切なことを教えてくれたのです。



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子どもの心に寄り添う構造化

 2010-05-20
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気持ちを伝えるのには、いろいろな方法があります。

言葉で伝えることも、とても大切な方法の一つです。

でも、その方法は、言葉だけではないはずです。


かれんちゃんは今、言語性の力が急速に身についてきています。

「来たよ」 「はいどうぞ」 「これ、しようよ」 「いいよ」 「ありがとう」

指導中に、さまざまな言語によるやりとりができるようになってきました。


しかし、かれんちゃんは何かのアクションから、私のその日の体調や機嫌を敏感に読み取るのが得意です。

じっと私の顔を見て、そのことを伺う場面が必ずあります。

その事に気がつき、私がにっこりほほえむと、急に安心したような顔になり、あたたかい感じで以後の指導が流れていくのです。

言語ではなく、表情から、かれんちゃんは私の気持ちを読みっているのです。


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ここの歯車が狂うと、かれんちゃんの場合、有り余るエネルギーがありますから、物を投げたり、ひっくり返したり、指示に逆らって暴走することがあります。

個別指導で、こうなってしまうのは、一にも二にも、私の力量不足、指導者の責任です。

こんな時に、言葉でつくろっても無意味ですから、私は次の指導に形として具現化することで、そのメッセージをかれんちゃに伝えていくのです。



かれんちゃんの学びの欲求を具現化する指導の形、

ある意味それは、「構造化」と呼ぶことができます。

「構造化」 とは、指導の意図を、形として子どもに示すことだと考えています。

私とかれんちゃんは、こうして信頼感を培ってきたのです。



同じ 「構造化」 であっても、部屋の環境などの 「物理的構造化」 もあれば、指導スケジュールのような 「時間的構造化」 もあります。

私が今回、最も大切に感じたのは、子どもの心に寄り添う 「指導内容の構造化」 ということです。



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先日、紙芝居の食い付きから、理解言語の題材を、急遽カードから紙芝居へと変更したエピソードを紹介させていただきました。

この日のかれんちゃん、前回できなかったカード学習に、とても熱心に取り組むことができました。

私は、20枚くらいをワンセットにしたカードを、5つくらいのボックスに入れて手元に置いています。


この日、動物パズルで、めちゃくちゃ先生からほめられたかれんちゃん、ふと私の手元にあるカードボックスのきりんに目をやりました。

「これしたい」

「いいよ」

しめしめ、思うつぼです。

当然、心の私は、「ばんざ~い」 と叫、大きな声で叫んでいました。

「きりん」

「ぞう」

「しまうま」

次々とカードを読んでいきます。

「しいたけ」

「ぶらんこ」

「しろくま」

など、音声模倣もとってもクリアで、楽しい学習です。

気がつくと、5個のカードボックスを全部読み切ってしまいました。


この爆発力こそ、かれんちゃんならではの魅力です。

調子づいたかれんちゃん、お買い物ゲームでも、音声指示だけでちゃんと 「ばなな」 や 「もも」 を私に手渡してくれます。

こうなると、もはや絶好調モード、90分経っても 「帰りたくない~、まだしたい~」 モードになってしまいました。


何回か前のつまづきが、こうした指導内容の構造化につながりました。

私は、指導に向き合う自分の気持ちを、やっとかれんちゃんの心に伝えることができたのです。



先日、広島の女の子のお母さんから、またメールをいただきました。





SHINOBU先生、いつもお世話になります。
先日は、ありがとうございました。

車で帰るとき先生に頂いた、プリントのファイルを嬉しそうに
「あれやったね、月のつ」とか言いながら楽しそうに見ていました。

3歳くらいのとき幼児教室でも同じような問題をしていました。
そのプリントも家にあるのですが、見せるとものすごく嫌がります。
無理やりさせられたのだと思います。
あの頃は何も分かってなかったので、いつも先生がやってくれるような感じでした。

やったことを振り返っても嫌がらないことに私たちは、
先生と楽しくやった事を感じます。
ドットと数字がつながらない日々や、頭では分かっているのに紙に出せないもどかしさ。

先生は1年付き合ってくれたんだなぁと思うとかんしゃの気持ちで一杯です。

嬉しかったです。

毎日見てニコニコしています。

これからもよろしくお願いいたします。







タイプはまったく違いますが、この子とも、指導内容の構造化で心がつながったのです。

子どもは、学びたい気持ちと願いを強くもっているのです。

その主体的な気持ちを信じるからこそ、私はその欲求に即した題材を用意することで、子どもに指導者としてのメッセージを伝えているのです。


大切な勉強だからこそ、無理矢理やらせると、心が痛む時があります。

内発的な学びの欲求を信じ、それを具体的な教材として子どもに示していく力量と才覚、

それをもっともっと磨き上げて、勉強大好きな子どもを育てたい。


引っ張り上げるアプローチと、積み上げるアプローチ、

教育にも二つの方法があります。

どちらが大切ということではなく、どちらも大切なのです。


私は、子どもの今を感じて、積み上げていく方法で、子どもとご家族の願いに応えたい。

それこそが、私に課せられた責務であると考えているのです。



この記事は、「特別支援教育記事ランキング 1位」 に選ばれました。 (2010-5-20)



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子どもを育てていく一つの道筋 (トライアル&エラーの実際)

 2010-05-18
例えば、株で儲けようと思えば、「安い時に買って、高いときに売る」 ただそれだけのことです。

ところが実際にそのことができるなら、誰だって大もうけができるはずなのに、現実には勝利者は、ほんの一部の人だけです。

それだけ、実践はむずかしいということです。


私の指導のポイントを一つあげるとするならば、「最初に厚い支援 (先行刺激) を施し、達成感をもたせながら、少しずつそれをフェードアウトして、子ども自身の手でできるようにさせる」

たったそれだけのことです。

今の私は、このことだけで飯を食っているわけです。


しかし、言葉に置き換えればたったそれだけのことですが、現実の指導場面で実際に結果を出すことは、そんなにたやすいことではありません。

理屈でわかることを演繹的理解とするなら、実際の体験から身につくものを帰納的理解と呼ぶことができるのでしょうか。

その双方が、大切であると考えます。

単ある理屈ではなく、実践を通してそのことをお伝えしていこうというのが、このブログを始めた動機でもあるわけです。

理論だけではなく、生きた実践から見えてくるものもあるはずです。


例えば、パズルの嫌いな子がいたとします。

その中には、認知が苦手な子もいれば、手指の巧緻性が未発達な子もいます。


最初の頃は、それぞれの苦手な部分を補完するように、見えない神の手のごとく私が手助けをしながら、パズルを完成させるのです。

今まであんなに嫌だったパズルが、SHINOBU先生の教室ではできるようになるので、子どものモチベーションはそれだけで上がっていきます。

それを何回かさせていくうちに、その手厚い支援をだんだん減らしていきます。

そして、もう子どもの手で解決可能なレベルに来たなと思ったら、私は手を離し、子ども自身の手でさせるようにします。


先行刺激を活用し、自力解決できるこの頃合いが、ある意味命です。

私が手を離すと、ほとんどの場合、子どもはトライをして、失敗をします。

簡単に成功するくらいなら、手厚い支援はそもそも必要ないわけです。

実は この失敗こそが、子どもが育つ最も大切な時間であると、私は考えています。


ある子が、黄色いカラーボールを、まちがって赤色のところに差し込んでしまいました。

横でお母さんが指導の様子を見ていると、子どもが失敗すると見るに見かねて、すぐそれを修正させようとします。

お気持ちは、よくわかります。

でもその時、私は心の中で、「あ~、もったいない」 と叫んでいます。


もう1秒だけ待ってください。

私の判断に間違いがなければ、必ずその子は黄色と赤色のミスマッチに気がつき、それを自らの手で修正するはずです。

その1秒が待てないのが、親心です。


実は、この1秒の間に、脳内ではニューロンがニョキニョキとひげを伸ばし、シナップスを構成しようとしているのです。

この瞬間のために、私は何週間も支援を施し続けて、この時を待っていたのです。


失敗して、自力でそれを乗りこえたとき、さらに深い理解が生まれてくるのです。

指導をしていて、「よし、これでわかったぞ、本物になった」 と見えることがあります。

これぞ、待ちに待った感動の瞬間なのです。


支援してうまくいっている段階よりも、たとえそれが失敗だったとしても、子どもに試行をさせる段階の方が、はるかにレベルが上です。

そのステップの、最終局面に差し掛かったとも言えます。

このことを、「トライアル&エラー」 と言ったりもします。


子どもが失敗しても、自らの手でそれを解決するだけの力を育てなければ、それを克服し、学習することはできません。

そのために、どんなステップが大切で、どんな力をつけていけばよいのか?

そのことを 「課題分析」 と言ったりもします。

パズルでいえば、ある子にはそれが色の識別であったり、手指の巧緻性であったり、集中力の持続性であったり、言語的な認知力であったりします。

その子によって、あるいは発達の段階によって、そのことは千差万別で、絶えず変化をしています。

それに、子どもは日常生活の連続性の中で生きており、ここに来ているのです。

それを見る目が、指導者の力量と言えるのかも知れません。


本質をつかめばつかむほど、原理はシンプルになっていきます。

シンプルだからこそ、奥が深いし、むずかしい。

私の実践から、何か一つでも参考になることがあればと願っています。

へたくそな実践ですが、これからもずっとずっと皆様に情報を発信し続けていくつもりです。


たとえそれが二流であったとしても、私は子どもを育てる実践者であり続けたい。

これからも、どうぞよろしくお願いします。


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文脈理解が苦手な人の困り感

 2010-05-17
「けんちゃん、何年何組になったの?」

「1年3組です」

「で、先生の名前は」

「SHINOBU先生です!」


けんちゃんは、真顔でそう答えました。

先日、実際にあったエピソードです。

文脈の中で、当然私は1年3組の先生の名前を尋ねているのです。


笑い話のようなエピソードですが、特性を理解しているはずの私としては、これでは失格です。

「1年3組の先生の名前を教えてね」 と、尋ねるべきでした。

時間が経てば経つほど、「けんちゃんに悪いことしたな」 という思いが強くなってきました。



先日、ある方から、以下のようなエピソードを伝えていただきました。




先日、ある小学校で先生方との話の中で中学年ぐらいの支援学級の男の子なのですが、国語教材「ちいちゃんのかげおくり」を勉強したときのことです。
 
 先生「読んで感想を書きましょう」
 児童「感想はない」
 先生「どう思った?」
 児童「何も思わん」
 先生(少し内容を説明しながら)「爆弾をどう思った?」
 児童「おもしれえ」
 先生「家族やちいちゃんが死んだんだよ」
 児童「死んだとひとことも書いとらん」

たしかにひとことも書いていませんし、先生はこの子に、戦争・爆弾・死についてどう説明していったらいいか困られたそうです。






実際の場面を知りませんから、何とも言えませんが、私の心の中では、もしかしたらという思いが巡ってきたのは確かです。



先日から、成人された方が私の教室に通ってくださるようになりました。

運転免許をお持ちで、大手の企業で働かれていた職歴のある方です。


事前の相談で、「小さいときから、文章に書かれている意味が、本当はちっともわかってはいなかった。 誰に相談しても、この事は理解してもらえなかった。 たまたま先生のブログを見て、この先生ならわかってもらえるかも知れない、そう思ってここに来ました」 と、伝えてくださいました。


きっと、友里ちゃんへの指導実践をお読みになってここに来られたのだと思いました。

「文を速く読むのも、苦手なんです」 と、おっしゃるので、アセスメントも兼ねて国語のプリントをやっていただくと、予想通り、文脈理解の苦手な 「精緻・同時処理型」 の傾向が伺えました。

全体を読まずに、必死でキーワードだけを見つけようとするような読み方をされています。

ならばと言うことで、友里ちゃんと同じ文脈理解へのアプローチを、この方とも一緒にさせていただこうと考えました。


「先生、宿題を出してください」 と、言われるので、その日どっさりとプリントを持って帰られました。

やる気満々なのも、これまた友里ちゃんそっくりです。


「私の所に来たからと言って、苦手な部分が、魔法のように改善されることはありませんよ。 でも、あなたは苦手な所がある代わりに、得意な事もいっぱいあります。 その得意な事を生かしていけば、苦手な部分が少し軽減出来るかも知れませんよ」

「私に得意な所があるのですか?」

「もちろんです。 少なくとも、私はそのことを理解しています。 あなたは全体をとらえることは苦手ですが、部分を細かく見る力はとても優れています。 細かく見る優れているからこそ、全体が見えにくいこともあります。」


私は、自分の英文読解のエピソードをお伝えしました。

英文になると、私はとたんに一語一語の単語にとらわれすぎて、簡単な英文1ページもなかなか読めない。

そうではなくて、わからない単語は読み飛ばしてでも、たくさんのページに目を通すことが必要だと、私は英会話の先生にそう教わったのです。


まずはね、わからなくてもいいから、全体を読んでから、それぞれの問題を考えてみるようにしていきましょう。

どれくらい?と尋ねられたので、私は2000時間と答えました。

いつか英会話の先生に、目標として教えてもらった時間数です。


この方、2000時間、やるかも知れないと思いました。

スピードラーニングではありませんが、私の英語のヒアリングは、ある日突然スイッチが入りました。

テレビや映画の会話が、その日から急にシャドーイングできるようになりましたたから。

それまで、何で聞き取れなかったのか不思議なくらいです。

40代にして初めて知った、「わかる・できるの強烈な体験」 です。


英文の文脈理解は、まだ全然です。

明らかに経験不足・勉強不足。

友里ちゃんや、この方に負けちゃいられません。


それにしても、友里ちゃんの成長は大きな希望を与えてくれました。

たとえ2000時間であろうが、20000時間であろうが、この道を歩めばどこかに繋がっていると思えば、大して苦にはなりません。

やっても無駄だと言われたり、どこを歩めばよいのか分からないのとは、まったく気持ちが違います。


私には、私の道があります。

ゆっくりだって、へっちゃらです。

決して、人と比べる必要はないのですから。



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1年以上にわたる家族の辛抱

 2010-05-15
私の教室に、通ってきてくれている小学校2年生の男の子がいます。

就学前から通って来てくれているので、かれこれもう1年以上になります。

毎週土曜日、ほとんど休みなく、いつもぴったり定時に来てくれます。


大変熱心なご両親で、よく勉強され、家庭環境もしっかりと構造化されているようなご家庭です。

そんなことは、決して表面に出さず、いつも 「ゆっくりのペースでこの子を見守ってやってください」 「先生を、全面的に信頼し、お任せをします」 と、言ってくださいます。

が、言語や数量の指導の話になると、その辺の先生が裸足で逃げ出すほど、経験も知識も熱意も豊かなご家庭です。


この子に、数量の概念を培いたい、言語を媒介としたコミュニケートの力を育てたい、というのは私の悲願でした。

しかし、当初は全く指導が成立しませんでした。

ありとあらゆる方法で、手を変え品を変え、アプローチを試みて来ましたが、なかなか自分のイメージ通りに指導は進んでいきませんでした。

それでも、ご両親は、「いつもありがとうございます」 と、深々と頭を下げて教室を後にされていきました。

何とかして、このご両親の願いに、少しでもお応えしたい。

その後姿を見送りながら、私はいつもそんな思いを胸に抱いていました。


そうして、1年以上の月日が過ぎていったのです。

時には、私の思いばかりが先行して、この子の表情が曇ってしまった時もありました。

そんな時には、いつも 「ゆっくりのペースでこの子を見守ってやってください」 という言葉が、頭の中で何度も何度もリフレインしていきました。

あきらめてはいけない、でもけっしてあせってもいけない、指導中、いつもこのことをかみしめながら実践を続けていきました。


その子が、最近になって少し変わってきました。

数の1対1対応のスキルが、かなり精査されてきました。

数唱とポインティングが、ずれなくなってきたのです。

「1・2・3」 という数唱が、個々の事物としっかりと対応できるようになり、りんごを3つポインティングして必ず 「3」 と認知できるようになってきました。

プリントのチューリップを 「1・2・3」 とチェックして、数字の 「3」 と線を結ぶ作業も、さまになってきました。

お買い物ゲームで、「なすび2つをください」 と言うと、ちゃんとなすびを2つかごに入れ、十円玉を2つ、私に渡せるようになってきました。


おまけに、「おしっこ出そう」 と、ちゃんと言語で私に伝えることもできるようになってきました。

10分も経たないうちに、またおしっこというので本当かなあと思いながら、トイレに連れて行くと、しっかりとおしっこをし、まさかと思う3回目も、しっかりと出ているのには、さすがに驚きました。

子どもは、信じてやらなくてはだめですね。

でも、ちゃんと言語で伝えられるのです。

私たちの関係も、育ってきました。


書字プリントで、ハネに気をつけてひらがなを書きなさいと指導し、できなきゃ小さい○、できたら大きい花丸をつけてやると、ちゃんとはねに気をつけてていねいに書くことができりうようになってきました。

「すごいね」 とほめてやると、天使のような笑顔で、体をすり寄せてきます。

私はこの日、この子との間に、あたたかい感情が脈々と流れ込んでくるのを感じないではいられませんでした。


ここまで来るのに、1年以上、まさに今日がこの子との記念日になりました。

ここまで来れば、やりたいことは、いくらでも見えてきます。

一年間耕し続けた畑から、ちっちゃい芽がやっと見えたのです。

本当に、よくここまで辛抱し続けてくださいました。


このちっちゃな芽を、決して枯らすわけには行きません。

小さくともよいから、何としても花を咲かせ、実をつけたいものです。

まさに希望の光。


この日、大阪から通って来てくれた子も、むさぼうるようにカード学習に取り組んでくれました。

教室に入るとうずくまって、なかなか指導にならなかったあの子です。

向かう先には、様々な道筋が見えてきます。


1日のうちに、こんなことが2つも起きるなんて、めったにあることではありません

子どもの育ちは、教育の中核をなす学校と、それを支援するチームの多くの先生方の努力の賜です。

私の力なんて、ほんの微々たるものに過ぎません。

改めて、そこに主体者としてのご家族の深く強い気持ちがあればこそ、山も動くものだと感じざるを得ません。

この先、また多くの課題に向き合っていくのは、覚悟の上です。

それだけに、何よりも、次回の指導が、今から楽しみでならないのです。


私が、今夜いただくビールの味は、格別なものに決まっています。

今日の仕事は、これにて終了、本日閉店です。

今日は、本当にいい日でした。


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帰納的に理解をさせるための 小さなステップ

 2010-05-13
2×1=2 2×2=4 2×3=6 2×4=8 ・・・・・

覚えてしまえば、何のことはない九九も、そういうことが苦手な子もいます。

九九が不正確だと、かけ算の筆算やわり算の筆算など、そこから先の学習に進めません。

ならば、九九表でも使いながら筆算に取り組ませ、少しずつ九九をブラッシュアップしていくのも一つの方法です。

一般的に使われているのは、下のような形式のものです。


九九表




ところがこの九九表、九九を覚えるのが苦手なタイプの子には、なかなかハードルが高いようです。

ならばどうすれば、自分で九九を調べて、筆算などに取り組ませることができるか?

もちろん、すべての子に有効であるとは限りませんが、中には





2×1=2 3×1=3 4×1=4 5×1=5 6×1=6 ・・・・・・
2×2=4 3×2=6 4×2=8 5×2=10
2×3=6 3×3=9 4×3=12
2×4=8 3×4=12
2×5=10
  ・
  ・
  ・





と、式を添えて表示してやると、水を得た魚ののようにスイスイと学習を進めることができるようになる子もいます。


理屈ではなく、パターンを入り口に、理解をマルチにしていく方法があります。

そのパターンを示す場合も、その子にわかりやすい小さなステップというものがあります。

まずは 「できる」 を第1歩にして それから 「わかる」 へと、少しずつステップアップしていく方法だってあるのです。


つまずきは、何気ないところに潜んでいます。

九九をすでに完全習得した人には便利な九九表も、それが苦手な子にはわかりにくいことだってあるのです。


フラットな提示なら、どんなに広くても瞬時に見つけることが出来る子も、それをいくつかの階層に分類しただけで、何が何だかわからなくなってしまうこともあります。

そういう子には、まずはなるべく原型に近い形で提示して、理解が進んだ段階で、それを整理した方が近道になる場合があります。


九九表の意味がわかりにくかった太郎君は、2×1=2 の表示なら瞬時にピックアップできます。

そりゃそうです。

この子、パズルのピース見つけるの、天才的です。

2×1を映像として焼き付けて、瞬時にそれを重ね合わせる作業は、大得意です。

漢字だって、そうやって習得してきました。



同じ所で、立ち止まり続けるより、まずは自分の得意な方法で!

山登りのルートは、決して一つではないはずです。

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言語表出のない子への コミュニケーション指導

 2010-05-11
私の教室には、表出言語があまりない子も来てくれています。

今年の春、養護学校の高等部を卒業した大輔君もその一人です。

大輔君との出会いについては、昨年の3月の記事 「 君の学びが未来を拓く重度の困難も打ち砕く学びの力 2009-3-18 」 で紹介をさせていただきました。

卒業後も、2週間に1回、私の所に通ってきてくれています。


お母さんの情報を参考に、言語と数量に関するいくつかの教材を作成してみました。

指先によるポインティングが出来ると聞いていましたから、たとえば 「23+51」 のような問題を提示して、答えの 「74」 を指さすような学習に何度かチャレンジしてみました。

以前には出来ていたと伝えてくださったこと、家では出来たと聞いていたことが、私の所へ来ると、あまりできない場面が多かったので、私はとまどいました。

時々目をつぶってしまうことがあって、正直それが一番こたえました。


私の所には、大輔君以外にも言語表出の少ない子もいます。

その子の活動の時には、次の学習の準備ができるまで、いわゆるトランジットエリアで大好きな絵本を読んでもらっています。

ある時、ひらがなパズルを準備して、学習コーナーに来るように伝えてもねそべってちっとも動きません。

私は、その時ピンと来たことがあります。

もしかして、先週やった動物パズルがやりたいのかも?

ひらがなパズルを一旦さげて、動物パズルを用意すると、目を見開いて0.5秒くらいで吹っ飛んできました。

「動物パズルがやりたい」

ということを、彼は言語で伝えることができません。

寝っ転がるという仕草は、言語に代わる彼のメッセージだったわけです。


確かに、彼が言語でコミュニケートできるよう目指していく教育の営みがあります。

しかし、彼の行動を読み解く受容感度なくして、コミュニケーション指導のプロにはなれないと感じました。

動物パズルをやった後、彼はためらうことなく、ひらがなパズルをやりとげることができました。


最近になって、私は大輔君のポインティングにごだわり過ぎたのではないかと思うようになりました。

何もポインティングだけが、コミュニケーションではないはずです。

そればっかりを期待しすぎたのではないか?

それよりも、まず私がこの子にしてやれるること、伝えられることを工夫してみよう。

そして、この子の表情としっかり対話してみよう。

私は、そんなふうに考えるようになってきました。



言語の教材に、私は 「じごくのそうべえ」 を選びました。

いくつか読み聞かせをして、この話を聞いているときが一番表情が輝いていたからです。

聴覚性の言語のもつエネルギーが、彼の心にダイレクトに響くからなのでしょうか?


彼のためだけに作る教材ですが、このエキスは私の指導の大きなパワーとなっていくはずです。

小学校で教えていたように、場面ごとに内容精査をして、読み深めたり、語句の意味を考えたりしていきました。


教えているうちに、手でポインティングをしなくても、彼がそれを目でしっかり追っているのを発見しました。

学習への集中力も、次第に高まっていきました。

何を語らずとも、その生き生きとした表情で、学習への意欲が伝わってきました。

やっぱり、コミュニケートとは、こういう事だったんだと改めて感じることができました。

数量指導用のパソコンも、生き生きとして見てくれていました。

そして、指導が終わると、これまで見たことのないような満面の笑顔を私にプレゼントしてくれました。

私は、涙がこぼれそうになりました。


ふ~、ここまで来るのに1年以上かかってしまいました。

この日の岡山には、たくさんの雨が降っていました。

車いす専用のレインコートをかけ、駐車場から教室までやってきてくださいました。

お母さんは、その車いすのタイヤを、毎回ていねいにていねいにふいてから教室に入ってくださいます。


「あきらめないことの大切さを、大輔の育ちをお通して、私は若いお母さん方に伝えたい」

いつか、お母さんは私にそう言ってくださいました。

本当に、あきらめなくってよかったと、今、思っているのは私です。


コミュニケートの線が繋がらなくては、指導になりません。

でも、それは双方の関係が育たなくては、決して道は拓かれないのです。

彼のコミュニケート能力を高めるためにも、受容する私の感度と姿勢は重要です。

コミュニケートにかかわるスモールステップ構成の大切なポイントは、こんなところにあったわけです。


大輔君が、また一つ私を高いステージへ引き上げてくれました。

学びについても、こうした相互の関係性で高まっていくものなのです。

何だか次回のレッスンが楽しみになってきました。

さあ、積み上げはここからです。

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わり算のできるようになった花子ちゃん

 2010-05-09
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2年・3年と支援級で勉強していた花子ちゃん、4年生からは通常級で勉強するようになりました。

ご家族の強い気持ちで、実現しました。

課題となることも、たくさんあります。

でも、いいことだってたくさんあります。


わり算への学習意欲が、ぽーんと向上したこともその一つです。

「先生、わり算のひっ算、教えて~」

教室の扉を開くと、花子ちゃん、息をはずませながら、そう伝えてくれました。


ここまでモチベーションが高くなると、そりゃもう、できたも同然です。

花子ちゃんの場合、継次処理優位タイプですが、細かい部分の認知と巧緻性を伴う作業は苦手です。

というわけで、今回は市販されている教育ソフトを使って学習をしてみることにしました。


事前に細かくチェックしていたわけではありませんが、わり算に関しては、花子ちゃんにぴったりのプログラムでした。

何がぴったりかというと、手順を細かく継次的に示してあるのと、ヒントボタンをクリックすると、内容を焦点化し、映像が見やすくなるように色の補助刺激が効果的に使用されているということです。

こうして花子ちゃん、今日のステップを順調に刻んでいくのです。


1年生の時、算数が嫌で嫌で何度も涙をこぼしていた花子ちゃん、4年生ではこんなに楽しくわり算の勉強ができるようになりました。

いつだったか、まだたし算も十分にできないでいた頃、私は不安そうな顔を浮かべているお母さんに、

「大丈夫です、この子だったら九九はちゃんと覚えられ、かけ算やわり算も、きっとできるようになりますから」

と、お伝えしたことがあります。


決して、でまかせで言ったつもりはありません。

少し回り道をしましたが、今では九九もかなりブラッシュアップされ、十分使えるレベルになってきました。


漢字の学習の時にも、新出漢字を提示すると、

「あっ、この漢字、今日習ったんだ~」

と、大喜びです。

こういう学習の手応えも、通常学級ならではの利点です。


担任の先生は、お母さんの気持ちをしっかりと受け止めて、一緒に考えて、工夫してくださるタイプの先生です。

どんなスーパーテクニックをもつ先生よりも、花子ちゃんのお母さんにとっては、そのことがうれしいのです。


もちろん、いいことばっかりがあるわけではありません。

これから向き合っていかなくてはならない大切なことがいくつもいくつもあるのです。

でも、それはちっとも苦痛に感じない。

それは、長い長い道程かもしれませんが、この道を信じて歩いていけば、いつかはそこへ行けるかも知れない、

今の私たちは、そんな気分なのです。


ずっと前、こんな日が来てくれたらと、願い続けた歩みがあります。

でもここは、ゴールでも終着点でもありません。

指導者というならば、次のポイントをしっかり見据えて、そこへ花子ちゃんとご家族をご案内しなければなりません。

歩むのは、子ども自身であり、それを支えるご家族なのです。

それが私の支援であるわけです。


この日のレッスンを終え、飲んだビールは、格別でした。

次の一歩はどっちに踏み出すか?

ここまで来ると、登山も苦にはなりません。

さあて、来週が楽しみです♪



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バラバラに細分化しない教育

 2010-05-07
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私は今、ご家族のご相談の時には、なるべく専門用語を使わないようにと気をつけています。

まだ指導に自信がもてなかった頃は、勉強したての専門用語を並べて、「私、こんなに勉強しています、専門家なんだから~」 と、目一杯背伸びをしていました。

いつの相談だたっか、あるお母さんがお子さんに向かって 「この先生は有名な先生なの、すごい先生なのよ」 と、言っておられるのを聞いて、これはイカンな、と思いました。

こんなふうになってしまったのは、私の場合、自分の指導が貧弱だった証拠です。


人は、内容が充実してくると、虚栄をはらなくなるものです。

自信があればあるほど、ごく普通のニコニコした顔で指導ができます。


大学院の課程を修了したての頃は、それぞれの先生から教えていただいたことを試してみたくて、なるべく早く子どもをそのステージに押し上げるような感じで指導に取り組んでいました。

先に手順があって、そこへ子どもをはめ込んでいました。


それで、一定の成果は見られました。

目に見えやすい部分だけを切り取って、一般化された手順を施しますから、一定の成果が見えるのです。

その頃の私にとっては、意味のあることではありました。

でも、それはそれだけでのことです。

しかし私は、次第に子どもの生きたステージそのものに入り込んで行きたいと思うようになってきました。


大人が子どもを叱るとき、理屈で言いくるめようとします。

「そんなことで、将来どうなると思っているの? どうして、お母さんが怒っているか、わかる?」

子どもを怒りながら、いつの間にか親としての自分の稚拙さを、論理で正当化しようとしている。

私なんか、いつもそうです。


でも、論理で動かない子どもは、「あと30分聞いていれば、きっといつものお母さんに戻る」 ことを体験的に感じ取っていて、ただじっと背中をまるめ、その時を待っている・・

その間のお母さんの言葉は、右の耳から入り、左の耳に抜けているのです。

言語の少ない子ほど、そういう感覚は鋭いですから、こういう場面になると、子どもの方が1枚も2枚も上手なのです。


論理にも、光と影があり、決して万能ではないのです。

ましてや、日常生活は、何かの論理で動くのではなく、起こった出来事そのものが現実であるわけです。

その子どもの現実そのものをしっかり見つめ、日常生活の文脈の中で、論理で培った力量を生かしていこうというのが、今の私の指導スタイルなのです。


「あー楽しかった」

そんな子どもの横顔が、すべての価値を物語っているのです。

綿密な計画性と、深い論理的ベースを併せ持ちながら、子どもに向き合う時には、いつまでも 「大好きな先生」 として、ありのままの子どもの今を受け止めてやりたい。

子どもだって、時にはつらいことを引きずりながら、前に進んでいかなくてはならないときがあります。

つらいことがあるから、甘えさせるということではありません。

まず、そのことを感じ取れる指導者でありたいと願っているのです。


そうした子どもの今を感じ取って、その日狙っている価値との接点を見つけていくのが、指導者としての力量であると思っています。


この日、かれんちゃんは、アンパンマンの紙芝居に食いついてきました。

私は、このアンパンマンの紙芝居を、私の教室の子ども向けに、セリフをアレンジしているのです。

そのまま読んでしまったら、多くの子どもは、わけわかならくなって途中で表情が変わってしまいます。


私は、紙芝居を読みながら、常に子どもの表情を伺っています。

イメージが湧いている子どもには、内容をふくらませて、ゆっくりと時間をかけて読んでやります。

そうでない子には、テンポアップして、映像的な変化を楽しませながら、言語としての補助刺激を添えます。


何のために紙芝居をしているのか?

この紙芝居を通して、子どもに何を培おうとするのか?

そのためには、先行刺激として、何をどう工夫して子どもに提示すればよいのか?

そこが見えてくると、紙芝居も立派な教材となります。


この日、私は絵カードを使って、理解言語を増やすためのポイティングをしたいと考えていました。

でも、予想以上に紙芝居への食い付きがよいので、この紙芝居を題材にポインティングをさせることにしました。

「つみきのしろは、どれ?」

「お手紙は、どこにあるかな?」

楽しい学習が、次々と展開されます。


就学前の小さい子どもでも、少しいい加減だけどストーリーをとらえるのが得意な文脈アバウト型の子と、そういうことは苦手だけど、細かい部分をちゃんとちゃんととらえる映像精緻型の子がいます。

そのバランスも子どもの中で刻々変化しますが、かれんちゃんの今は、言語面の急速な発達に伴い、紙芝居のようにストーリー性 (文脈) の中でとらえさせると効果的です。

紙芝居を使って、応答的な言葉のやりとりもたくさんできました。

「あんぱんまん  びっくりして ころんだ」

ちゃんと助詞も使えるようになってきました。


絵カードは便利で、使いやすいです。

語彙も系統的に配列されて、大学の先生が監修された1セット何万円もするカードを使えば、何だか専門的なことをやっているような気になります。

しかし、それは使う人の才覚によって、宝ものにもなれば、ゴミにもなります。

要は子どもの実態と、具体的な向かう先と、その教材とを結びつけることができるかどうか、ということにかかっているのです。


系統的なプログラムには、その良さと使命と役割があります。

学校の教育課程だってそうです。

それがきちんと機能されての話ですが、子どもの今を見つめる縦軸は、一体誰が担っていくのでしょう?

今多くの方が取り組んでおられる個別の教育計画には、ぜひその視点を盛り込んでほしいと願っています。


焦点化し、細分化して、特定された部分を伸ばしていくこと

特別支援教育の進展によって、この部分はかなり充実してきましたね。

と同時に私は、トータルでその子を丸ごと見ていく教育、バラバラに細分化しない教育の大切さを、しっかりと見据えていきたいと願っています。


指導がうまくいかなかったら、理屈で自分を正当化するのではなく、次のレッスンでその事を生かして内容を組み立て直したり、子ども理解の精度を見つめ直したりすることが大切です。

その拠り所となるのは何か?

それはきっと、子どもの笑顔と、学びに向かうモチベーションだと思っています。

自分にもできる、そんな学習が楽しくないわけはありませんから。


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家族から託された願い

 2010-05-06
昨日は、京都へ行ってきました。

この度ご縁があって、京都の地で、何人かのお子様の指導をさせていただくことになりました。


新幹線に乗り、京都に向かう途中、いろいろな思いが心によぎっていきました。

昨年は、満開の桜の下で、大阪での指導を始めさせていただきました。

その時に出会った子どもたち、今では私にとってなくてならない大切な存在となっています。

これから、出会おうとしている子どもたちは、一体どんな子どもたちなのだろう、これから一体どんなドラマが展開していくのだろう、

そう思うと、胸がワクワクしてきました。

本当に不思議なことですが、不安感も、ネガティブな思いも、カケラも浮かんできません。


数日前からの腰痛で、重い荷物をもって地下鉄の階段を降りたときには、さすがに少しこたえましたが、帰るときには、階段を使わずに移動できるルートをしっかりとチェックできました。

大阪での指導実践は大きいですね、期待で胸がいっぱいです。


会場は、ご厚意により、工房の一室をお借りすることとなりました。

岡山・そして大阪で指導させていただいた子のお母さんを通して、私の活動に深い理解をいただき、本当に真心のこもったご準備をしていただきました。




この日、初めて出会った子どもたちは、どの子も本当に魅力的な子どもたちでした。
どのご家族も深い愛情と、困難な課題にも立ち向かう強い気持ちをもった、聡明な方々ばかりでした。

絶対そうだと思っていましたし、何だかずっと前から知っていて、とても初めて会ったような気がしませんでした。


この日会った多くの方は、今回は相談のみで、実際のレッスンは6月からとなります。

その中で、今回がファーストレッスンになった3歳の男の子がいます。

前回、岡山に相談にお越しいただいたご家族です。


部屋に入ると、恥ずかしがって席に着くことができません。

ちょっと面くらいましたが、事前にご相談いただいていましたから、あわてることはありませんでした。

少し時間を空け、まずお母さんのひざの上に乗せていただきました。

リズムが付けば、すぐにいすに座れると信じていました。

自分で言うのも変ですが、毎週毎週多くの子の指導に直接かかわってきましたから、このあたりは落ち着いたものです。

ほどなくその子は着席し、お母さんは横で見ていただけるようになりました。

天使のようなかわいい笑顔を見せて、その子は次々に課題をクリアしてくれるようになりました。

「今、目の前で起こっていることが、信じられません」

「この子、誰の子?って思えるでしょ、時々、そんな感想をお聞きします」

これくらいは絶対できると思っていましたが、お母さんがこんなに驚かれるとは思っていませんでした。

ファーストレッスンで、良いところをお母さんに見てもらって、よかったと思いました。 きっと、この子の自信になり、今後にはずみがつくことでしょう。


初めて京都から岡山へご両親で相談に来られた時、お母さんは、「何とかこの子にレッスンをお願いできませんでしょうか?」と、深々と頭を下げられました。

「もしも、京都駅からさほど遠くない所に会場があり、費用を数人でシェアできる環境が整いましたら、京都行きを検討させていただきます」

私がそうお答えして、三月も経たない間に、そのことは現実となりました。


数日前から腰痛は、悲惨でした。

しかし、気持ちは決して萎えませんでした。

どんなことをしても京都に行き、皆さんの期待に応えたい。

私には、皆さんの気持ちを踏みにじることは決してできません。


だからこそ、指導のイメージもしっかりとふくらませて京都に来ました。

私をそうさせたのも、このお母さんの切なる願いと強い意志があればこそ、

私は、そのお母さんの気持ちの代弁者なのです。

大げさに言えば、お母さんの気持ちが乗り移って、私の手足や口を動かしているのと同じ事です。

そうでなければ、私は京都にはいません。


指導が終わり、そのお母さんから、こんなメールをいただきました。






今日は、ありがとうございました。

なれない場所、人、眠い時間帯だったので、今日はきっと何にもできないだろうなぁ~
と予想していたのですが・・・50分間いすに座り、集中して課題に取り組んでいたのには、びっくりでした。

気に入らないことがあると、物をぽいぽい投げてしまうので、どきどきしながら見ていたのですが、
一度も投げることなく終えたことだけでもびっくりでしたが、
型あわせやパズル、色の認識ができること・・・
びっくりの連続でした!

たった一回指導していただいただけですが、きっと先生の情熱と愛情を見抜いていたのではないかと思います。

来月、指導うけさせていただくのをとても楽しみにしています。






この子が見抜いたのは、私ではなく、お母さんの情熱と愛情だったのです。

託す思いがそこになくて、私の手足は動きません。

母には、ずっと母としてお子さんに寄り添ってほしい。

だからこそ、母に代わって私がさせていただく内容があります。


昨日の京都は、夏のような暑さでした。

次回に、ファーストレッスンを迎える子もたくさんいます。

ご縁があって、こうして向き合える瞬間を、ずっとずっと大切にしていきたいと思うのでありました。


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子どもの今が見える才覚

 2010-05-04
私の所には、広島から通ってきてくれる子もいます。

昨年も、連休中にレッスンがありました。

かなり時間に余裕をもって出発していただいたのですが、高速道路の大渋滞に見まわれ、朝11時の予定の時間に岡山に到着することができませんでした。


今年は、どうかなと思って心配していましたが、11時前には、園庭の遊具で遊んでいる声が聞こえてきました。

「何時に出発されましたか?」

そうお尋ねすると、

「実は、朝の5時に出発しました」

というお返事が返ってきました。

ありがたくて、ありがたくて、本当に頭の下がる思いでいっぱいになりました。


広島から通ってくれている女の子は、インプットは得意ですが、アウトプットは苦手な子です。

文字も読めるし、理解言語も豊富、数量の同時的理解力もとてもすぐれています。

でも、会話や書字、プリント類となると、そのすばらしい能力を表現することがなかなかできません。

当然、検査等でも、この子が理解している内容より、ずっと下の数値が出てしまいます。


検査の数値は、何かの申請に使うだけなら、低い方が補助や支援の対象になります。

しかし、いくら補助や支援を受けられても、予想より低い数値が出た場合、親としては、我が子の能力を断定的に突きつけられているようにな気持ちになり、心理的なダメージを強く受ける場合も多いのではないでしょうか?

私は、何度も何度も、ご両親に、この子のもっているすばらしい理解の力について、ご説明をさせていただいてきましたが、早くそれを形としてお返ししたいと願っていました。


最初の頃のレッスンは、なかなか形になりませんでしたが、さすがに1年過ぎるとそれも形になってきました。

わかりやすいレッスンの構成をして、その枠組みを崩さない。

それを数回続けていくと、何度も説明しなくても、私の意図がこの子にはちゃんと伝わるようになりました。

私は指導者ですから、言語ではなく、学習の構成そのもので、この子とコミュニケートできるようになってきたのです。

つまり、場の構成がメインで、言語を補助刺激として使うようになってきたのです。

机の上に新しい教材を置いておくと、「次は、新しいアンパンマンのパズル!」と、この子から声をかけてくれるようになってきました。

これを続けているうちに、1年前はほとんどおうむ返しだった言葉のやりとりが、今ではかなり応答的になってくるから、不思議なものです。


この子の数量の同時性は、まちがいなく1級品です。

まだ就学前です。

この年齢なら3~4が同時的にぱっと分かればよいと思っていますが、この子の場合、8でも9でも、一瞬で読み取ります。

それが順序よく並んでいなくても。「これは7だね」 「これ9だね」 と瞬時に見分けるので、私が指で継次的に「1・2・3・4・・・」 と数えて確認をしています。

まず、間違えることはありません。

すごい才能です。


こういうことが、ずっとパソコンソフトでは出来ていましたが、プリントになると、なかなかうまく行きません。

あれやこれやと工夫はしてみました。

しかし、それはちゃんと認知しているはずなのに、何故かドットの 「・・・」 と、数字の 「3」 を線でつなぐことが出来ませんでした。


隔週で来てくださっています。

先週、その芽がちょこっと出かかったと思っていましたが、今回そういうことが、ちゃんと形になってきました。

鉛筆の動きが、全然違うのです。

ついに、私の意図が、この子に届いたのでしょうか?


これまで体の中に蓄えてきた理解のエネルギーが、いよいよデビューの時を迎えようとしています。

1年前と違う子が、今、私の目の前で、それはそれは楽しそうに90分間の学習活動を楽しんでいます。

このことががつながりさえすれば、きっとこの子は、もっともっと変身する、と私は思っています。

なんて魅力のある子どもでしょう。


どんな子の指導の時もそうですが、ここまで来るのは大変です。

以前は60分を過ぎると、集中力が切れて、もう帰りたがっているようすがみえみえでした。。

どうやって場をキープしようかと、あぶら汗が出たものでした。


やっと土台が一つできた。

朝の5時に出発して、広島から来てくださったご両親に、少しだけ恩返しをすることができました。

さあ、積み上げはこれからが本番です。


うまく行っているときは、私も子どもも楽しいものです。

そういう指導をずっと続けていられるよう、進化していかなくてはなりません。


子どもの今が見えれば、簡単ですが、なかなかどうしてそれがむずかしい。

その才覚に、もっともっと磨きをかけていかなくてはなりません。

真剣に子どもの今に向き合うこと、

その気持ちと情熱さえあれば、技術も方法もきっと見えてくる。

道はきっと、そこから拓けていくのだと思います。


いくら経験や知識があっても、既製品や決めつけでは、たかだか知れています。

子どもと共に、未来をつくる先生であり続けたい。

楽しい勉強は、きっとそんな気持ちからスタートするのだと思っています。


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