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ダウン症児の早期支援の有効性を世に示す

 2010-04-30
私は今、就学前のお子さんだけで、20名近いダウン症のお子さんの個別指導をさせていただいています。

それぞれに輝きがあり、魅力たっぷりの子どもたちばかりです。

中でも、勉強に対する意欲、いわゆる達成動機の高さには、目を見張るものがあります。


私の指導の支えとなっている基礎理論は、応用行動分析の考えです。

平たく言えば、それは、厚い支援を先行刺激として施し、課題分析をして小さなステップを構成して、ほめて強化する適切なスケジュールを構成することだと、私は考えています。

この応用行動分析の手法を生かした個別指導は、達成動機の高いダウン症の子どもたちには、極めて有効だと感じるようになってきました。


就学前には、療育などで、個別指導を受けるチャンスもありますが、就学後は特別支援学校や特別支援学校へ進んだ場合も、小集団での指導を受ける機会はあっても、なかなか個別指導を受けるチャンスが少なくなってしまいます。

もちろん、集団の中に居場所がしっかりあって、みんなと一緒にここまでがんばってみようという学校教育が、学びの中心となることは、まちがいのない事です。

それがあった上で、その子の特性に応じた質の高い個別指導の機会を!

ダウン症のお子さんに限らず、それが多くのご家族の皆さんの切実な願いであり、それを実践を通して広く世に示していくことが、私の大切な役割であると考えています。


今日は、研究助成をいただいている福竹教育振興財団 (ベネッセ) の、原稿締め切りの日です。

今、この記事は大阪のホテルで書いていますが、午後には岡山に帰ってベネッセビルへ直行です。この私の願いを、少しでも多くの人に届けたいと、願わずにはいられません。


特性理解に基づいた質の高い個別指導の、具体的な実践の形を、私は保護者の皆さんと手を携えて作っていきたい。

そして、その大切さ、重要性、有効性を、広く世に示していくことは、もはや大切な私のライフワークの一つとなってきました。


機会があって私の指導を受けてくださっているお子さんのご家族の皆さんに、お願いがあります。

直接指導を受けてお気づきになられたこと、家庭や学校・園でのお子さんのようす、家族としての思いや願い、私への厳しいご批判やご指摘でも結構です、そうしたことを、メールで遠慮なく送信していただけないでしょうか?


こうしたメールの内容は、何にも代え難い、貴重な実践のデータとなるのです。

私は、いただいた貴重なメールの内容を、整理・分析して、きちんと公式の場で発表させていただかなければならないと思うようになりました。


もしもこのことが、何らかの形で、後に続く多くの子どもの幸せや成長に役立つことができたなら、これ以上の幸せはありません。

5月には、京都でまた、たくさんの就学前のダウン症のお子さんと出会うことになります。

私は、ご家族の皆さんと共につくる実践研究をしてみたいと考えているのです。

ご協力、どうかよろしくお願いします。


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かかわりの中から 自分が好きになれる気持ちを育てる

 2010-04-28
私の所に通ってくれている一人の男の子、

1年生の時から、私の所に通い始めて、今ではもう3年生になりました。


1年生の時から、体格も体力も図抜けていて、すごいパワーを示していました。

一見そんな風には見えませんが、内面はとてもデリケートで、何にしても恐がりの子どもです。


学校では、その有り余るパワーが爆発して、相手にケガをさせるようなことが何度かありました。

そんな中、まだ教室を初めて間もない頃でしたが、お父さんがその子を連れて私の所へご相談に見えられました。

隔週日曜日に、90分の指導をさせていただくことになりました。

今では、日曜日は10人近くの子の指導をさせていただいていますが、当時はまだ日曜日に指導を行っていませんでした。


当初は、90分のうちの学習時間は、ほんのわずかでした。

学習に自信がもてず、何をするのにも抵抗感がありました。

ですが、今では90分の指導時間、すべての時間を計画していた学習に費やすことができます。

算数にも、国語にも、一生懸命取り組んでくれます。

1年生の頃を考えると、夢のようです。


「ここへ来始めてから、この子は変わった」

お父さんは、いつもそう伝えてくださいます。

あの頃は、学校からの電話が鳴るのがとても怖かった、誰かにケガでもさせたのではないかと、心穏やかに暮らすことが出来にくかった、

そんな風にも、おっしゃいます。


この子が、ある日、竹とんぼのようなおもちゃを家に持って帰りたいと言い始めました。

私の教室には、子どもにとって魅力的な玩具がたくさんありますが、それを家に持ち帰らせることはできません。

「じゃあ、次に来るときは、ちゃんと返してくれるかい?」

そう伝えると、その子は、うんとしっかりうなずきました。


2週間後、勢いよく扉を開けたそのこは、何も言わず、黙ってすぐにそのおもちゃを私の前に差し出しました。

私がにっこり笑ってそのおもちゃを受け取った瞬間、私はこの子との間に、細いけれど大切な絆がしっかりと結ばれていくのを感じることができました。


私は、この子が自分の魅力に気がつき、ありのままの自分を素直に受け入れることだけを考えて指導を行いました。

そのことを伝えるためには、勉強が不可欠だと考えました。

あれほど抵抗感のあった引き算も出来るようになりました。

少しずつではありあますが、文字もていねいに書くことができるようになってきました。

そのことを、誰よりも喜んでいるのは、この子自身なのです。


自分の苦手なことも受け入れて、自分が好きになれる感覚、

私は、そのことを肯定的な自己理解と呼んでいます。


この気持ちが育つと、まちがいなく、友達対するやさしい気持ちが芽生えてきます。

心痛めている友人に、やさしく寄り添う自分に気がついたりします。

そして、心通う友達とのかかわりを通して、自分自身の大切さやねうちを確かめていくのです。

そんな子は、もう自分を守るために他の子を攻撃したりする必要が、なくなっていくわけです。


私は、保護者の信託を受けたマンツーマンの個別指導という本当に恵まれた教育環境をいただいています。

公的な扶助のありませんので、料金は、決してお安くありません。

そんな中、90分の指導の半分以上が勉強にならなかったあの頃、あたたかいご理解をいただいたご家族の皆さんに、よく辛抱してくださったと、感謝せずにはいられません。


本当は勉強したいのに、みんなと比べると自分ができないから、やりたくない。

私の教室には、そういう子がたくさんいます。

競争原理の負の遺産です。


英語が話せるようになりたとあれ程あごがれていた子が、テストの点数が低くてやる気をなくしてしまう・・

テストなんか出来なくたって、ネイティブの人は、みんな英語が話せます。


テストで人と比べなくったって、ちゃんと学びを積み上げていく楽しさを実感させることで、子どものモチベーションは上がります。

みんな何かを学びたいし、出来るようになりたいのです。

そのことを、実践を通して広く世に示していくことが、こうしたすばらしい子どもたちの出会いをさせていただいている私のつとめであると思っています。



今回、ご縁がありまして、「星の子ステーション」様の主催により、名古屋で講演会をさせていただきことになりました。(ご案内は下記の通り)

さまざまな子どもたちとのエピソードを通して、皆様に、何か一つでも大切なことを感じとっていただければと願っています。

機会がありましたら、ぜひご参加ください。

どうぞよろしくお願いします。


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 ▽ PDFによるチラシは、こちらからご利用いただけます ▽





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学級担任はどんな手順で決められているか?

 2010-04-27
入学・進級まで何度も学校に通い、親として出来る限りのことをすべてやり尽くし、そして迎えた新しい春のスタート。

そのスタートで、これまで訴え続けたことが何一つ反映されていないがごとくの人事構成??

それでも、まだ始まったばかりだからと思い直してみたものの、次々と起こる落胆の事実・・

こんなことに、負けちゃいられません。

しかし、こういう内容の連絡を受けると、共に歩んできたチームの一人として、とても申し訳ない気持ちになってしまいます。


あれほど、手を尽くしてお伝えもし、お願いもしたのに、なぜそれが最も大切な担任の人事に反映されないのか?

その原因の一つとして考えられるのが、学級担任決定のプロセスです。


学級担任を決めるのは、最終的には校長の判断です。

すべての責任は校長にあるのですから、責任の所在を明確にするという意味で、そのことはそれでいいのだと思っています。


学校では、それぞれが自分の担当とするクラスや役割 (校務分掌と言います) が、明確に決められていますから、それぞれの先生方は、正直自分のクラスや担当している部分以外のことは、見えてこないことが多いのです。

もちろん、大切な内容は、職員会議などで連絡をします。

しかし、学校にはありとあらゆる内容が飛び込んできますから、例えば、体育担当の先生には、特別支援教育にかかわる保護者の願いがすべて伝わっているということにはなりません。

そういうことを、トータルに把握できるのは、校長・教頭・教務主任・生徒指導担当くらいなものです。


学級担任を決めるときには、多くの場合、こういう立場の先生の意見や情報をもとに、校長が決めることになります。

人事異動の経過を把握しているのは、校長だけなので、そうせざるを得ないのです。

その人事が最終的に固まるのは、終業式間近になってのことです。


学級担任の人事は、先生が一人いる・いないで、がらっと腹案を組み直すことも、よくあることです。

「あの先生が来ることになったから」 「あの先生が来ないことになったから」

そんな感じで、9割方決まっていた学級担任を、がらっと組み替えたこともあります。

時々、「あの先生は、昨日まで1年生の担任にきまっていたのに、幻になってしまったなあ~」 と、思ってしまうようなこともあります。


担任を決めるときは、まず、教務主任・生徒指導主事・保健主事・研究主任・学年主任など、学校運営の柱となる主任を決めます。

そして、次に考えるのは、前年度、その学年運営がうまくいったかどうかです。

もちろん、幼稚園や保育園の情報も、その中に含まれています。


もし、ある学年で、学級崩壊や保護者の強烈なクレームが入った学年には、何を差し置いても、そこにはエース級の先生を配置します。

そうしないと、申し訳が立ちません。

となると、前年度、うまくいった学年が、どうしてもある意味リスクが高くなってしまうのです。


次に考えるのが、先生同士の人間関係です。

学年団というのは、先生にとっては、最も身近なチームになります。

1度同じ学年を担当すると、ある意味、一生のお付き合いになるのです。

傍目で見る以上に、学年団の人間関係は重要です。

あの主任の先生なら、この先生は同じ学年に、あの先生は別の学年に、という事を、校長は真剣に配慮します。


こうやって、教員の学年団構成が、決められるのです。

もちろん、個々の保護者の願いや要望を、忘れているわけではありません。

あの子の担任には、ぜひあの先生をと、最優先でダイレクトに決めることもあります。


こういう人事が行える時は、学校全体がうまくまわっているときです。

もしもある学年で学級崩壊が起こったら、この先生をと思っていたエース級の先生が、その学年に行ってしまうことがあります。

まさに、幻の学級担任です。

わかっていながら、校長が希望に応えることができないのは、こういうこともあるからです。


一度担任が決まってしまったら、少しでもその1年を充実したものにすることを考えなくてはなりません。

その1年、お子さんの表情をしっかり見ながらの、対応になります。


そして、次年度に向けて、次の一手も考えておきましょう。

当たり外れのメカニズムがあるのです。

結果は保障できませんが、うたぬ矢が当たることはありません。

作戦もないわけじゃありません。

実際に、私も一目置くスーパーお母さんも、いるわけです。


すべては、子どもの幸せと成長のために、親として何をすべきかという判断にかかっています。

方程式も、マニュアルもありません。

直球より、カーブが効果的な場合もあります。


いい先生になってよかったね、

そう我が子に語りかけるお母さんの横顔は、とても美しいと私は思っています。

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数の基本の力を育てること

 2010-04-26
「9+7」 は、1年生の問題です。

「0.1+0.2」 や 「3/5-1/5」 といった小数や分数の計算は、4年生の問題になります。


単に答えを出すだけなら、「9+7」の方が、よっぽどハードです。

「0.1+0.2」 や 「3/5-1/5」は、答えの出し方さえ教えれば、小さい学年の子でも簡単にできる場合が多いのです。

小数も分数も、「0.1」 や「1/5」 を基本の単位と見方が大切です。

それがわかれば、小さい子でも答えを出すことができます。


1~9までは、「1の位」 の数ですが、10になったとたんそれは「十の位」 の数となります。

10本ある指のうち、9本までが 「1の位」 10本目が 「10の位」 の数になります。

10円玉1個を1円玉10個と本当に置き換えて見立てる力を育てるのは、大変なことです。

0・3×4=1・2と解答用紙に書けても、お店に行き、30円のバナナ4本で120円と即答できるとは限りません。


6+7を13と、言葉やカードで暗記して答える子もいます。

そんな子には、60円は十円玉が6個、70円は十円玉が7個、6たす7は13、十円が13個だから。10円・20円・30円・40円・・・・・・・130円と、具体物を操作しながら、多面的な数の見方や力を育てていくことが大切です。

紙の上で答えが出せるだけでなく、そういうことが、特に発達面の課題のある子には大切だと考えて、私は指導に取り組んでいます。


小数も、分数も、そうした多面的な数の見方を育てるための、教材だと私は思うのです。

ですから、逆に、小数や分数を使って、数の基本をもう一度教えることもできます。

0・1を一つの単位として見る見方を教えながら、10円玉を1円10個と見立てることをより確かにしていきます。

0・3+0・4 という問題を考えさせながら、3+4 と 30+40 の仕組みを考えさせるのです。

0・1に置き換えることを教えることで、逆に10に置き換えるというこれまでの位取り記数法の意味が、わかりやすくなるとは思いませんか?

つまり、4年生の小数の題材を使いながら、1年生や2年生で不十分であった数の感覚を、もう一度磨き上げていくわけです。


こういう学習は、結構子どもは食いついてきます。

この仕組み (=単位量の見方) が本当にわかれば、面積だって、体積だって、そんなにむずかしいことではないわけです。

数の基本とは、そういうことです。


こういう学習が構成できてこそ、少人数指導は意義があるのです。

一斉指導と同じ内容の指導に、人数だけ減らして、中身が同じなのでは、手抜きと言われても仕方ないし、大きな成果はあまり期待できないのではないかと思います。


それに、例えば4年生の子に、毎日毎日 「1年生」 という文字の印刷されたプリントばかりさせるのは、いかがなものでしょうか?

算数では、系統性を大切にしますから、「繰り上がりのできな子に、小数の勉強をさせるのは・・」 と、ためらう先生も多いようです。

それは、わかります。

ですが、似たような、ほとんど変化のない、代わり映えのしない1年生の問題ばかりを、ずっと6年生まで、毎日毎日やり続けることで、子どもの学びの意欲やモチベーションは、大丈夫でしょうか?

そこに達成感や意欲や、新しい教材へのあこがれは、全く必要ではなののでしょうか?


個に寄り添った指導計画というなら、その子のために、オリジナルな算数指導の単元構成をダイナミックに構成することに、チャレンジしてみることも大切です。

お料理を作ったり、畑を耕すことも、大変教育的価値が高いことですが、小数やかさ、面積や体積など、知的好奇心を高める算数的な活動は、子どもの知的な好奇心や未知のものへの探求心を育てます。

基礎基本を大切にするということと、1年生から6年生まで、ずっと同じ 「3+4」 のプリントをやらされ続けることとは、決して同じではないと私は思うのです。


特別支援学級に期待する保護者の期待は、どんな教育の形であるか、掘り下げて考えてみることも大切です。

個に寄り添った教育の充実・・

それは、紙切れではなく、魅力ある実践で答えを出していくものだと、私は考えています。

そういう先生が、たくさんご活躍していただいていることを、私は知っているから、日本の教育は捨てた物ではないと思っています。


一方で、そうでなない場合もあることも認識しています。

支援級の場合は、通常級の場合以上に、その落差がダイレクトに跳ね返ってきます。

だからと言って、1年間がまんというわけにもいきません。

その1年が、こうした子どもにとっては、取り返すことできない大切な教育の機会となっているのですから。



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子どもの自尊感情とやる気を どうやって育てるか

 2010-04-22
昨日、ある5年生の男の子とお母さんが、ご相談に来られました。

少し、はにかみかげんの男の子と、これまで真剣にそのお子さんの育ちに向き合ってこられた、そんなお母さんでした。

「これから、先生と一緒に勉強するかい?」 と尋ねると、その子は首を横に振りましたので、私は先にお母さんのお話を伺うことにしました。

凛とした感じのお母さんでしたが、お話を伺っていると、途中こらえきれなくなって、大粒の涙をはらはらと落とされる場面もありました。


しばらく、お母さんとの話を続けていると、突然、その男の子が、「勉強したい」 と言い始めました。

私は、待ってましたとばかりに、すぐにその子を席につかせ、お母さんにはその斜めうしろから、勉強の様子をご覧いただきました。

この子に合った勉強の仕方を教えてほしい、ということでしたので、私はいくつかのプリントを用意して、認知特性が継次処理優位か、同時処理優位かを探ってみました。

認知処理様式には、大きな偏りはないように思われました。

主に特性理解を目的とした学習でしたが、つまずいた時の支援を事前に想定するエラーレス学習のスタイルを取っていました。

どうやら、このスモールステップのエラーレス学習が、この子にはえらく合っているようでした。

「先生と勉強して、楽しかった」

そう言って、その子は帰っていきました。


今日、3年生の女の子の読解指導をしていた時のことです。

この子は、入力は同時処理優位タイプなので、逐次読みになりやすい子で、読解プリント1枚するのも一苦労でした。

しかし、聴覚性の言語理解力は豊かなので、私が感情を込めて範読したあとに、その子に音読をさせ、内容については細かく区切って、視覚的に統合する読み指導を続けてみました。

この日も絶好調なので、半分冗談で、「今日5枚、やってみるか」 と言うと、「うん」と大きくうなずきます。

少し前までは、1枚するのにも涙が出ていた子です。

え~い、ダメでもともとという覚悟でやらせてみると、本当に5枚やってしまいました。

ダウン症の女の子、90分の指導ですが、90分終わってお母さんが入ってくると、「お母さん、いつもより早いじゃない」 と、言います。

読解プリントを5枚もやったおかげで、全部のプログラムが90分過ぎても終わらないのです。

この子にしてみれば、全部の課題が済んでいない時点でお母さんがやってきたので、予定時間より早く来たと勘違いしてしまったわけです。

それにしても、90分よく集中力が続いたものです。

入級したてのころは、半分くらいの時間は、折り紙や工作をしていましたが、今はそれより勉強がしたいと、この子も言います。


もちろん、どちらのケースも、私の支援があればこそできる事であって、とてもその支援をフェードアウトしたり、状況が変わっても力が出せるほど学力が定着しているわけではありません。

しかし、うさぎとカメではありませんが、一歩一歩前に進んでいると、必ずゴールには到達できるのです。

本当に大切な学習だけに焦点を当て、一歩一歩踏みしめていけば、いつかきっと目指す頂に到達できると、私は信じて日々の学習を積み上げているのです。

そのことが、この2人の子どもには、心地よく感じたのではないでしょうか?


やる気も、自尊心も、言葉だけではなく、こうしたかかわりのなかから育つものです。

それには、価値あるものに向っているという手応えが、どうしても必要となってきます。

これは、大人でも同じことです。


相談が終わった後、5年生の子のお母さんから、下記のようなメールをいただきました。







今日はありがとうございました。

ずっと迷ってましたが今日行ってよかったと思います。

片道2時間弱の新幹線の旅も息子とプチデートみたいでしたし、弟がいるので今日みたいな二人の時間も貴重で一石二鳥だったかと思いました^^

息子を指導している先生のやり方に関心しましたし見習ってガミガミママにならないように努力しなきゃです。

ちゃんといい子に育ってるじゃないですか^^的なことをおっしゃっていただき本当にほっとしました。

自信がなかったので・・・近くに先生みたいな方がいたらなとすごく思いました。子供はもちろん親まで成長&安心するかと思います。

もっと近くにだったら週1通いたいところですがそうも行かないので近いうちにまた息子を指導していただきたいと思っています。

またメールでも相談させていただきたいと思いますのでよろしくお願いします。








私は、この子は、人から好かれる子だと、直感的に思いました。

社会の中で、十分に貢献出来る子だし、そのことでこの子は自分の存在や意味を確かめ、幸せに暮らしていくに違いない。

ぜひとも、そういう子になるように、ずっとずっと応援していかなければならないと思いました。

そして、こういう心豊かな子に育てて来られたご家族も、ずっと応援していきたいと思いました。


人は、自分のことは、自分自身で支えきれないようにできているのです。

大脳辺縁系といって、生命をつかさどるような大切な脳の部位に、集団の中で生きるエキスが凝縮されているのです。

誰かに支えられてこそ、人は自分の大切さを確かめられるのです。


あなたがどんなにステキな子どもか?

それを私は、一緒に登った山の頂から、一緒に見つめてみたいと思っているのです。

毎日毎日一歩ずつ、

日々の大切な時間をいただいているわけですから、ちゃんとした山に登りたい。

そこに目指す大切なものがあれば、学びも、子育ても、決して苦しいものではないのです。



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真に保護者を応援することのむずかしさ

 2010-04-20
私の朝1番の仕事は、いろいろな方からいただいたメールのご返信をさせていただくことです。

時には、何件もの保護者の皆様から、切実なご相談をいただくことがあります。

2時間以上、メールの返信に時間がかかる日もあります。

「先生がお忙しいのは存じておりますから、読んでくださるだけで結構です」 と、言葉が添えられていることもあります。

しかし、内容に目を通すと、そのままで既読フォルダへ振り分けることができないことが多いのです。

朝1番の指導がある時には、そのメールを受信フォルダに置いておいて、なるべく早くご返信をと思っているのですが、どうしてもその返信が3日後になってしまうこともあります。



明日は、県外から2組のご家族がご相談にお越しくださいます。

事前に資料をいただいています。

県外から、新幹線を利用してお越しくださいます。

学校をお休みにして、お子様と一緒にお越しいただくこともあります。

海外に在住されているかたが、一時帰国を機にお越しいただくことも、珍しいことではなくなってきました。

切実な思いと、ご期待がそこにあるのです。

半端な相談でお帰りいただくことは、許されることではありません。



「これまで、色々な相談機関に足を向けたけど、こんなに気持ちが軽くなったことはありませんでした」

「問題点やリスクを次々と指摘された方は、山ほどいました。 でも、私たちといっしょにこれをやってみませんか、とか、こういう方法で共にがんばってみましょう、という方には、ほとんど巡り会うことができませんでした」

そんな声を、何度か聞きました。


学校や相談機関に足を向けて、クソミにたたかれて、涙を流して、落ち込んで、気持ちをボロボロにされて帰って来た・・

残念なことですが、そんな話を、たくさん聞いてきました。


私は、昨年度まで、教育委員会の巡回相談員をさせていただいていました。

嘱託ですし、時給いくらの待遇ですが、臨時と言えども、ある意味教育委員会の職員であることに変わりはありません。

これがあるとね、こんな私でも立場が頭をよぎります。

そうであってはならないと思いながらも、心のどこかで、表現がややソフトになったり、婉曲な言い回しをしたり、どことなく歯切れが悪くなったりしてしまいます。

面と向かって批判はできにくくなってしまいます。

この秋に、ある教育委員会で研修会講師をさせていただきますが、そんなことさえ頭によぎるのです。


私は、元教員です。

多くの場合、学校は、支援学級在籍を勧めることが多いのです。

私が、その子のサポートをしているとわかったら、教頭先生などから私宛に電話がかかってくることもあります。

「どうか先生に、支援級入級に向けてのお力をいただけないか?」 というような内容であることもあります。

でも、今の私は、保護者のサポーターなのです。

時として、学校と対峙する場面があるはずですから、そうした依頼にはお断りをするしかありません。


保護者が、時として学校や組織と対峙したときに、公的な相談機関は、どちらに寄り添ってくれるのでしょうか?

自分の立場や身分をはねのけて、保護者の味方になることが出来るでしょうか?

私は、今の相談機関の限界が、こういうところにあるのだと思っています。

だからこそ、県外から、学校を休んででも、私の所に相談にお越しになるのだと思っています。


組織と対峙したとき、個人であるご家族には、知識も経験もありません。

そうした家族が、プロ中のプロと向き合うことになるのです。

圧倒的に不利な立場で、とても対等な関係であるとは言えません。

だからこそ、支援者が必要なのです。


費用は公的な負担だけど、弁護士や税理士のように、しっかりと保護者を応援できるような制度はできないものですかね。

私は、保育園の副園長という立場がありますが、結構風当たりは強いものがあります。

もちろん、私立保育園ですし、これからの保育経営は、真に利用していただく皆様のニーズや期待に添うことだと心得ていますから、平気ですし、立ち向かっていく覚悟はできています。


立場があると、なかなか自由に振る舞うことは許されません。

「あなたはいいね、自分の思うことが出来て、言いたいことが言えて、」

そんな声が聞こえてきそうです。


その通りだと思います。

だからこそ、私は、私に与えたれた使命を果たさなければならないのです。


明日の2組の相談、微力ですが、全力投球で立ち向かいます。

私は、保護者のサポーターです。

これが、私のライフワークなのですから。


(↓ この記事を読んでいただいたメールを、コメント欄で紹介させていただきました ↓)



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母と支援者、それぞれの役割

 2010-04-19
「家では、いくら言っても後片付けをしないのに、SHINOBU先生の教室に行った時には使ったものを、使う前よりきれいに整頓して帰る・・」

「離席もせず、背筋を伸ばし、指示に従い、物をとってきたり、待つことができたり・・ この子、一体どこの子かしら、と思うくらいSHINOBU先生の前だけ、我が子が別人になります・・」

「ちゃんと席に座って勉強している我が子の姿を、初めてみました・・」


最近寄せられた感想の一部です。

一方で、「家でカードやパズルをさせようと思っても、まったくやろうとさえしません・・」

と、いう声も聞きました。


この子はこの日、アンパンマンの46pのひらがなパズルを、それは見事にやりとげました。

ちょっと無理かなと思っていた、数字カードのポインティングも難なくやり遂げて、私を驚かせました。


多くの場合、私の教室に連れて来られる際には、

「今日は、SHINOBU先生とのお勉強の時間だよ、楽しみだね~」 と言いながら、期待をふくらませ、わずか1時間程度の指導のために、費用と時間を工面してお越しになるわけです。

そこに、週に何十時間も、直接子どもの指導に向き合い、そこから手応えのよい教材のみを選りすぐり、満を持して待ちかまえている指導のプロがいるわけです。

日常生活の中のパズルと、私の教室で行うパズルとが、同じであろうわけがありません。

お子さん、私の教室で一所懸命がんばったのです。

しっかりほめてあげてほしいと思います。


私の教室でお子さんががんばれたのも、日常生活の中で、ありのままのお子さんの存在を慈しみ、親として出来る限りのことをしてやりたいと願い、ご努力とご苦労を重ねてこられた、お母さんの深いお気持ちがあればこその話です。

私の指導は、そうしたお気持ちを受け、お母さんの願いを私を通して一つの形にしただけのことです。

もう一人のお母さんが、私の姿を借りて、指導をなさっているのと同じ事です。


もし、それが可能であるのなら、ご家庭では、何も飾らない、ありのままのお母さんでお子さんに接してください。

指導のプロはいくらでも探すことはできますが、母の代わりは誰にもできません。

ありのままの母の愛情なくして、私の指導は絶対に成立しません。

それがあるからこそ、私の前で一生懸命がんばるお子さんの姿があるのです。

家で甘えたり、素の自分が受け入れられているからこそ、私のところではりきって勉強しているのです。


ご家庭での行動面でのご苦労、決して理解していないわけではありません。

一日も早く、望ましい形になってほしいと願っています。


子どもを育てる主体者は、まちがいなくご家族です。

しかし、その課題を解決していくための環境や支援は不可欠です。

すべてを一人で背負い込むのではなく、子どもの最善の利益につながるような環境を構成していくことも、ご家族の大切な努めだと思っています。


私は、いつもご家族の思いを背中に感じながら、それぞれのお子さんにかかわっています。

家族の願いを受けない指導なんて、あり得ません。

家では出来ないことは、私がさせていただきます。

ご苦労は、百も承知です。

ですからどうか、これからも笑顔を忘れずに、すてきなお母さんでいてください。


私には、母にとって変わるような大きな力はありません。

しかし、その母の存在を、決してひとりぼっちにはさせませんから・・

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子どもの心の声を聞き取る

 2010-04-16
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かれんちゃん、以前は好きではなかったパズルに、最近少しずつ意欲を見せてくれるようになりました。

つみき遊びも好きになってきたようで、4段くらい積んだり、トンネル状になった隙間に細い板を通したりする活動を、好んで取り組むようになってきました。


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ちょうど、積み木を片付け始めた時のことです。

「くま!」 

突然、かれんちゃんが口を開きました。


「くまさんの本、読みたいの?」

「うん」

「じゃあ、もってきてくれる?」

「うん」


そう言うと、かれんちゃんは、自分の体がすっぽりかくれてしまうような大型絵本をかかえて帰ってきました。

そして、おさらいっぱいのドーナツの絵を見ながら、

「いっぱい!」

「ほんと、いっぱいだねえ、食べたいの?」

「うん」


そんな会話できるようになってきました。

かれんちゃんが、 「くま」 と言った瞬間に、私にはかれんちゃんが、「くまの本が見たい」 というように聞こえてきます。

そして、そのことがちゃんと私につたわるようになったからこそ、かれんちゃんも進んでメッセージを発信してくれるようになりました。

かれんちゃんの理解言語数・表出言語数は、着実に増えてきています。

こうした相互の関係が醸成されてこそ、コミュニケーションの力が育ち、その結果として言語が習得されるのだと、改めて感じ取ることができました。

指導者たるもの、子どもの心の声が聞き取れないでいて、通い合う心がそこになくて、何の言語指導が出来るというのでしょうか?


For here, or to go ? 「こちらでお召し上がりですか? お持ち帰りですか?」

外国のマックへ行った時、こう聞かれました。

ごくごく簡単な単語の組み合わせですが、体験がなければ何のことかもわかりません。

でも、ネイティブの人なら、幼児でも To go. と答えることができます。

むずかしい英単語を覚えることと、コミュニケートは同じことではないのです。


もしかしたら、言語の少ない子ほど、その感性は鋭いのだと思ってもよいのかも知れません。

いくら言葉で言いくるめようとしても、すぐそっぽを向かれてしまいます。

言語で読み取らない代わりに、私の仕草から、表情から、そのまなざしから、私の心をしっかりと読み取っているのです。

言葉でごまかすことなんてできません。


子どもに伝えようとする、子どもの心に培おうとする、教育的な意図をしっかりと伝える事が出来ない限り、子どもは心を開きません。

子どもは誰しも、成長したいと願っているし、誰かの役に立ちたいと願っているのです。

誰かの役に立てることで、初めて子どもは自分の存在を肯定的にとらえることができるのです。


かれんちゃんは、赤ちゃんのお世話が大好きだと、お母さんが教えてくれました。

この子、本当にやさしい子なんです。

そういうことを信じ、役割を何か役割を与え、育てていくことも大切だと思います。


すべての子が、自分らしさを生かし、ほんのわずかであってもよいから、何かの事で社会に役立つ子に育てたい。

自分が何かの役に立つ、誰かの役に立てることで、自分の存在を肯定的にとらえ、他者に対するいたわりの気持ちが芽生えてくる・・


お母さんは、月謝袋をいつもかれんちゃんに渡し、私はかれんちゃんに 「どうもありがとう」 と、言ってそれを受け取ります。

もっともっと、かれんちゃん、色々なことで役に立ちたいと願っているに違いありません。

そういう心の声を、ピュアな思いをくみ取っていくことも、支援者として大切な役割であるような気がします。


かれんちゃんのようにエネルギーのある子は、ダイレクトにそれが出ます。

個別指導のように教育的で、密度の高い空間だからこそ、私がすべきことがきっとあるはずです。

ご家族の切なる願いに、少しでもお応えすることができたらと、願わずにはいられません。


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決して負けることのできない 長い戦いの始まり

 2010-04-15
始業式・入学式も終わり、新しい春のスタートが切られました。

家族としては、この1年の豊かな学びの場を構成していくために、ずっとずっと努力を積み重ねてきたわけです。

子どものためだと思えばこそ、親としてできることのすべてをしていく覚悟で、取り組んできたのです。


中には、みんなが待ち望んでいたかのような、すばらしい先生との出会いを迎えられたケースもあるようです。

ところが、こうした家族の思いや願いに比例して、その結果がすべて等しく返ってくるわけではないのが、現実です。

とても残念なことですが、中には、これだけは避けて欲しかったと、目を疑うような人事に愕然とされたというお話を聞かせていただくこともありました。

それも、1件だけではないのです。


あの努力は、何だったのか?

何のためにこれまでがんばってきたのか?

努力の結果がすべて裏目、と涙を落とし、自分を責めておられるお母さんもいました。


私は、そういうご家族の皆さんの責任の一部を共有しています。

決して他人事ではありませんが、だからといって一緒に肩を落とし、嘆いている場合ではありません。

サポーターであればこそ、現実を真っ正面から受け止め、事態を冷静に分析し、シャープな次の一歩をご家族と共に踏み出さなければならないのです。


どんな環境であろうとも、このまま引き下がるわけにはいきません。

理想通りの1年とはならなくとも、とにかく前に進んで、次の道筋を見つけていかなくてはなりません。


私は、鉄の意志で、次々と道を切り開いて行かれたお母さんを知っています。

私の今があるのも、その方の応援をいただいているからだと思っています。

本当に自分が嫌になります、とそのお母さんは何度もこぼされていましたが、その努力は、ダイレクトに子どもの笑顔に跳ね返っていきました。

前例を作るのを恐れる教育委員会さんは、まさに戦々恐々といった感じです。


私は、そのことを、ただすごいと感心しているだけではなく、多くのご家族のサポーターとして、ご縁があって出会った多くの方々に伝えていかなくてはならないと決心をしています。

私たちの戦いに、負けは許されないのです。

長い戦いは、覚悟の上ではありませんでしたか?


お気持ちは、痛いほどわかります。

お気持ちの整理がついたら、顔を上げてしっかり前を見つめてください。

子どものために命を捨てて、そこから浮かび上がって来られた方もいるのです。


人は、自分のためなら、がんばれることには限界がありますが、我が子のためなら結構踏ん張れるものです。

我が子の課題に向き合ったその日から、ずっとそうやって、いくつもの山を乗りこえてきたではありませんか?

今こそ、もう一度気持ちを奮い立たせる時です。


環境については、単なる取り越し苦労であったということもありますが、子どもの表情だけは、決して目をそらさないようにしてください。

負けの許されない、長く苦しい戦いに、これから立ち向かっていくのです。 

腹をくくってください。

覚悟を決めてください。

道は、必ずそこから開けていきますから。


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読解指導が コミュニケートの力を育てる

 2010-04-12
島には、飛行場も病院もありません。

( しかし ・ それに ・ そこで )

ヘリコプターが飛んで行きました。


このように、文脈の中で、接続詞を選択する問題が苦手なお子さんはいませんか?

穴埋め問題はわりと得意だけれど、こういう選択問題が苦手なタイプのお子さんは、認知処理様式が同時処理タイプのお子さんに多いようです。

漢字はわりとちゃんと書けるのに、本読みが一字一字の逐次読みになってしまう。

一部をフォーカスして詳しく見ることは得意だけれど、全体を俯瞰したり、文脈から類推したりすることが苦手、

「お正月」と書くときだけ、何で 「正」 を 「せい」 ではなく 「しょう」 と読むのか、迷ってしまう。

こういうタイプのお子さんは、目から入った文字情報を、アナログ化 (内言語化) していくのが苦手なわけです。



昨年の夏くらいまで、友里ちゃんは、文章を読むのが苦手で、「わ・た・し・は・・」 と、一字一字をきっちり拾いあげていくような読み方をしていました。

教科書1ページ読むのも大変でしたが、この頃では、当時と比べると、とてもスラスラと読むことができるようになってきました。

「とにかく、文を読んで、内容が理解できるような子になってほしい」

というお母さんの強い気持ちを受け止め、ここでの指導では算数を捨て、毎週の90分の指導のすべてを読解指導に充てることにしました。


えらいもので、これだけの覚悟で環境を整え、1年間みっちりと指導を継続していくと、「逐次読み・拾い読み」 は、いつの間にか、「まとまり読み・スラスラ読み」 に変わってきました。

もちろん、彼女のレベルに合わせて、モチベーションを低下させないよう、上手に小さなステップを構成していくことが重要だったと思います。

言葉の海を自由に泳ぐことが出来るようになった友里ちゃんは、これまで知らなかった様々な世界に触れることが出来るようになりました。

そのことで、これまで文脈を類推することが、極端に苦手だった友里ちゃんも、それを攻略するためのボキャブラリーを、少しずつではありますが、増やしていくことができるようになってきました。

多い日には、1日に10枚以上の読解プリントに取り組みました。

「今日も、こんなにたくさんプリントが出来た」

今では6年生になった友里ちゃんですが、毎回弾むように学習に取り組んでくれました。


しかし、例えスラスラ音読できるようになったとしても、それを内言語化したり、情景としてイメージ化出来るレベルに達しているかどうかはわかりません。

友里ちゃんの場合、文字言語に親しむ経験が十分とは言えないので、音読はできていても、現段階では、それをアナログ化していく作業に慣れていないのです。

ならば、どう支援するか?

今の友里ちゃんに効果的だったのは、友里ちゃんが自分で音読した後に、もう一度私の方でていねいに範読し、それを聞かせ、文字言語と聴覚性言語をシンクロさせて行く方法です。

こうすると、友里ちゃん、かなり文字言語とイメージとの接点を見つけやすくなるようです。

友里ちゃん、物語を、かなり読み取れるようになってきましたよ!


この作業も、何度か続けていくと、きっと私の支援が、必要でなくなる日がやって来ると思います。

そして、また次のステージへとチャレンジしていくことになるのです。


「おかげさまで、この頃、会話がかみ合ってきて、変に聞き返すことがなくなりました」

友里ちゃん、生活場面で、聴覚性言語をイメージ化することが得意になってきたのです。

生活場面と読解学習との相互効果が見られ始めたのです。

「国語に焦点化して正解でしたね」

私とお母さんは、心の中でがっちりと握手をしました。

驚くべきは、このお母さんの決断と先見性です。

毎度のことながら、恐れ入ります。

私は、このお母さんのビジョンに、わずかなお手伝いをさせていただいているに過ぎません。


イチロー君は、友里ちゃんとは逆に、内容をアバウトにイメージ化してとらえることは得意ですが、それをピックアップしたり、きちんと表現することは苦手です。

選択問題は得意だけど、穴埋め問題が苦手なタイプです。

問題文を解く時に、ちっとも文章を再読しようとはしません。

わかっていないわけじゃないけど、正確な答えを引き出すことが苦手な子どもたちです。

こういうタイプの子には、どんな支援が効果的か?

それは、あいまいなイメージから、ぴったりな言葉をひっぱり出すためのヒントやキーワードを、その子のレベルに合わせて提示していくことです。

具体的な事例は、また後日お伝えしたいと思いますが、このヒントも、最初は厚くても、パターンがわかれば、だんだんと少なくしていくことができます。

支援を必要としなくなるその日まで、楽しんで、子どもを言葉の海を泳がせていくのが、私の仕事です。


今回、読解学習が、コミュニケーションの課題に、ダイレクトに結びついたことに、大きな喜びを感じています。

学習は、子どもを育てる手段であって、大切なのは子どもの育ちそのものですから・・


去年の夏休み、90分指導を週二回もさせていただいた友里ちゃんのご家族に、少しだけれどお返しをさせていただくことができました。

特性も、うまく生かせば武器になります。

子どもの可能性を信じることから、すべての成長はスタートしていくのです。



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特別支援教育の枠組みを 最低2年の単位で構成することはできないものか?

 2010-04-10
ちょうど昨年の今頃、私の教室には、次から次へと新しい子どもたちが入会してくれました。


当時から、土・日ともなると、1日に10名近くの子どもを指導していました。

その頃の大変さを、今でも忘れることができません。

次から次へと新しい課題に向き合っていたあの頃・・

よくぞ、あの時を乗り切ったものだと、我ながらその時を誇らしく思います。


今日も、その頃に入会してくれた子を10名近く指導させていただきましたが、そりゃあ楽しいものです。

子どもからの信頼感、保護者からの信頼感、子ども理解の深まり、指導の継続性・・

土台がしっかりと出来上がり、そこに学習の成果を毎回積み上げていくわけですから、時間が経つのもあっという間です。

10人の指導の後でも、この記事を書くくらいの余力は、しっかりと残っています。


先生、無理しないでください、

先生が倒れたら困るのは、私たちの方です、

健康には、十分配慮して、たまには休んでください、


よくそんなご心配をいただいています。

お気持ちをとてもうれしく思っています。

しかし、私はこの頃、指導がうまく行かなくて心を痛めることはあっても、指導時間が長くて倒れそうになったことは1度もありません。


手応えのある指導ができたなら、10人くらい指導しても、へっちゃらです。

うまく行かない1人の方が、よっぽどダメージが大きいのです。


笑顔も、ゆとりも、手応えも生まれてきました。

疲労がないわけではありませんが、疲労感はありません。

指導が終わったあとに飲むビールは最高の味です。

嫌々だったら最初からこんな仕事はしていません。

そこに生き甲斐を感じていないで、1日に10人の子どもに向き合うことなんて、初めから出来るわけがありません。


春になり、全国各地から、新しい年度教育の枠組みについて、情報をお寄せいただいています。

通常学級に在籍するお子さんの中で、担任の先生が持ち上がった、というメールもいくつか届いています。

本当によかったと、笑顔がにじむような内容です。


支援の枠組み、指導の土台を築く作業は、並大抵の努力でできるものではありません。

やっと思いで1年かかって積み上げた土台が、次の年にはまた最初からやり直し・・

これは一体、如何なものでしょうか?

家族の悲鳴が、聞こえて来そうです。


4月・5月の新しい局面での、子どもの揺れや不安定さ、家族の不安・・

特別支援教育の指導の継続性については、もう一歩踏み込んだ対応が必要なのではないでしょうか?

リスクがあるのも承知ですが、特別支援教育に限って言えば、最低でも2年継続のシステムを、検討しても良いのではないでしょうか?



私の場合は、週に1度の個別指導ですが、土台を作るの、最低半年はかかります。

このご家族は、心の心から私を信頼してくださっていると感じたならば、ちゃんと説明をして、「だまされたと思ってもう半年辛抱してください」 と、お伝えしています。


そりゃそうでしょう、スポーツでも、ピアノでも、ちょっとうまくなるまでには、半年位かかるのは当たり前ではありませんか?

こういう関係ができたケースでは、1年後には大抵、きっちり答えを出してお返しできていると思います。


「よくぞここまで辛抱してくださいました。」  =  「こちらこそ先生にお預けして本当に良かったと思っております。」


土台が出来るというのは、こういう時です。

ここからが、まさに稼ぎ時となるわけです。 

ここからの積み上げが、楽しくないわけがありません。

苦労したら、苦労した分だけ、喜びも増してくるというものです。


私、もう一度、去年の4月に戻って、同じく苦労が出来るかと問われたら、きっとNOと言わざるを得ないと思います。

今だからこそ言いますが、本当にあの頃はきつくて、よく乗り切れたとしみじみ思います。

私の一生の中で一番がんばった日々で、もう二度と同じ事はできない位に思っています。


時間は欲しいです。

今の悩みは、ブロクを書いたり、教材を作ったり、実践を整理したりする時間がとりにくいことです。

教材づくりの学生アルバイト、本気で募集しようかと考えているくらいです。


そろそろ一部でもいいから指導を人に任せてはどうかと、多くの人に言われます。

園長(私の家内)は、ずっと前から、そう言い続けていますが、それでも、私は指導を人に任すつもりは、サラサラないのです。

経営者になって、全国チェーンにして、儲けようというつもりも、全くありません。


なぜなら、指導は楽しいし、自分の誇りでもあるし、生き甲斐であるからです。

私は、何より実践者であることに誇りを持っています。

学術理論より、経営的手腕より、子どもを育てるのは、高い臨床技術と深い教育愛なのです。

私は、何よりその二つを兼ね備えた教育者実践者として、生涯を全うしたいと願っています。


ここまで苦労して積み上げたおいしい仕事を、やすやすと人になんて任せたくないのです。

ベストな体調で、多くの子どもの成長を支えたい。

今日も、指導が終わって、つきものが落ちたように、さわやかな表情で教室を後にする子がいました。

これがあるから、この仕事はやめられません。


だからこそ、私はこの仕事を続けることができるのです。

今の私から、この仕事をとったら、何にも残りません。

私は、この仕事をするために、神様が命をつないでくださったのだと、本気で信じていますから・・


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学校の影響力と責任

 2010-04-07
4月1日の記事 で、この1年に大きく育った3年生のお子さんのことについて、紹介をさせていただきました。

そのお母さんから、昨日メールをいただきました。
ご苦労をされた1年生の時の様子について、お伝えいただきました。

このブログは、学校の先生方もたくさんお読みいただいています。
真摯に子どもの育ちに向き合っていただいている先生方には、このことをぜひ心に留め置いていただきたいと願い、内容を公開させていただこうと思いました。





ずいぶん暖かくなってきたので、衣替えをしようと押し入れを開けたところ、懐かしい物が出てきました。

息子が一年生の頃の状況を記録したものでした。
日付を見ると10月、2学期が始まってしばらくした頃の様子が書かれてありました。

「算数の授業中に離席してしまいました。机の上にはビリビリに破られた教科書とテスト用紙(T_T)」

「授業中によく物を積み上げているそうです。お道具箱、教科書、筆箱…何かに見立てて、その世界に逃避しているようで、先生のお話はまるで聞いていないとのこと」

「今日、ついに先生の腕を噛んでしまいました(`o´)」

また、あまりの変わりように相談をしようと、学校を訪ねた時のことも書かれていました。

「先生のお話によると、8割方授業には参加出来ていないそうです。
『お母さんは、どのくらいの状態に持っていきたいとお考えですか?』との問いに、『クラスのお友達と同じことを、例え5分でも一緒に頑張れるようになってほしいです』と答えました。
それに対する通級担任の言葉は信じられないものでした。『お母さんの願うレベルに持っていくのは相当時間がかかります。そのためには、私達はもっと怒っていこうと思います。』という内容でした。

まるで、怒りたいところを我慢して関わってきたから、好き勝手する子になってしまったと言わんばかりの対応でした。悪いことをしたら、叱ることが必要な場面なら、いくらでも叱って頂いてかまわない…でも、叱る事でしか解決出来ないのでしょうか。校長室で、しばらく絶句してしまいました」

当時の絶望感が蘇ってちょっとつらくなってしまいました。が、同時に、驚くほど成長した今の姿と、支えて下さったたくさんの方々に感謝の気持ちでいっぱいになりました。

初心を忘れないように、この記録は残しておこうと思いました。






この翌年、この子はすばらしい支援級と交流級の先生に出会い、この子にもご家族にも笑顔が戻りました。

そうでなかったら、一体この子は、どうなっていたのでしょうか?

担任が変わると、子どもはここまで変わるのです。

この事実に対して、教育という営みに対して、学校はもっと重く、深く受け止めていかなければなりません。


とても悲しいことですが、教師の指導力不足が、子どもの発達面の課題にすり替えられてしまうことがあります。

先生の指示に従わない子・離席する子は、みんなAD/HDで、関係機関へ連携? 薬の服用??

そんな子が、翌年、先生が変わると、とたんに生き生きと勉強を始めたりします。
この責任は、どうとっていただけるのでしょうか?


以前にも書きましたが、関係機関との連携は、教育活動にプラスされるべきものであって、どんな診断があろうとも、教育としての責任が軽くなるわけではないのです。

教育のプロ集団は学校であって、医療がそれにとって代わるわけではないのです。


学校という場所は、子どもの命を育てる大切な場所です。

子どもに与える影響力には、はかりしれない物があります。

どうか、そのことを深く心に刻み、責任をもって平素の教育活動に取り組んでいただきたいと願っています。


我が子を、地域の学校で、多くの友達と一緒に学ばせたいのです。

校長も、担任も選べないのです。

家族が学校に足を運ぶのは、真摯な思いがそこにあるからです。

その真摯な思いを行動に移せなくて、どうして親であることができるでしょう?


私の知っているお母さんは、春休みにお姉ちゃんと一緒に、ボランティアで支援級の教室に掃除に行かれたようです。

「ほこりだらけの教室を、ぞうきんが真っ黒になるまで掃除してきました」

こうしたご家族の気持ちが、伝わっているのでしょうか?


教育は、重く、責任のある仕事です。

どうか、ご家族の声に、真剣に耳を傾けていただきたいと、願うばかりです。


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新年度のスタート! 是は是 非は非で学校側と向き合いたい

 2010-04-06
この頃は、入学式や始業式の前に、子どもの支援の方向について、学校側から保護者に説明や提案を行う機会が増えてきました。

私の所にも、これまで何件か、その時の様子についてご報告をいただいています。


たまたまかも知れませんが、この春の異動で新しくその学校に赴任されてきた方が、担任になったということを続けてお聞きしました。

前年度にその学校にいらした先生なら、「ああ、あの先生か」 と、胸をなで下ろすように感じることもありますが、他の学校から初めてこられた先生と聞くと、「本当に、我が子のことを理解してくださるだろうか」 「これまで何度も、学校にお伝えしてきたことが、ちゃんとこの先生にも伝わっているのだろうか」 と、不安な気持ちが胸をよぎるのも、致し方のないことです。


担任決定は、校長の専決事項です。

新しく来られる先生については、校長が前年度に勤務していた学校の校長に電話で詳細にそのプロフィールを尋ねます。

転勤1年目というと、新しく来る先生はその学校の詳細な事情は知りませんから、「先生には何々学級の担任をお願いします」 と聞かされても、「はい、わかりました」 としか言いようがありません。

その1年目で、その先生は、その学校での評価が大きく左右されますから、当然その先生は、いつも以上に頑張らなくてはならない環境になります。

転勤1年目というのは、教員にとっては、勝負の1年でもあるわけです。


このことが、裏目に出るか、そうでないかは、やはりその先生の力量によるところが大きいように思います。

ある意味、抜擢ですから、子どもにとっても、先生にとっても、とても価値のある大切な1年となることも多いようです。


しかし、残念なことに、保護者の抱いていた不安が、現実のものとなってしまうこともあります。

また、最初に会ったときは、エネルギッシュで頼もしく見えた先生が、その年の終わり頃には、とんでもないチャラチャラ先生にしか見えなくなることもあれば、最初は頼りなく思えた先生が、一つずつていねいにていねいに実践を積み上げ、年度の終わりには、子どもも保護者も涙でお別れしなければならないほど、大切な先生になっていることもあります。


こればっかりは、まったくどちらかわかりません。

ならば、ここは先生と手を取り合って、出来る限りの協力をし、子どものために望ましい関係を築いていくスタンスで向き合うべきだと、私は考えます。


しかし、だからといって、すべてのことに目をつぶるというのは、どうかと思います。

不安に思うこと、疑問に思うことは、ちゃんと先生にお尋ねをし、先生の教育的な方針をしっかりとお聞きしていくことは、とても大切なことだと思います。

もちろん、原則、先生を信頼してお任せをするのですが、見るところはきちんと見ておくことが必要ですし、伝えるべきことを、きちんと伝えることも、親として果たさなければならない大切な責務なのです。

これから、一人の人間を育てていく大切な1年が始まるのです。

その道が、単調で、平坦であろうはずがありません。

子を思う熱い気持ちがあるのなら、時には自分の身を投げ打って、前へ進まなくてはならないことだってあるはずです。

まさに、是は是、非は非で、学校に臨まなくてはなりません。


学校には、子どもを育てる最も大切な部分をお任せするのですが、子どもの育ちのすべてを請け負っていただくわけではありません。

子どもの育ちに責任をもつのは、親の仕事です。


心の整理がついたら、子どもの表情を確かめながら、しっかり前を向いて進んでいきましょう。

親がするべきことは、山ほどあります。


親がするべきことがなくなるとき、それが、子どもが自立するときです。

私たちのゴールは、そこにあります。

嘆いてばかりでは、いられないのです。


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通い合う中身と 感じ取る感性 これぞコミュニケーション指導のエキス

 2010-04-05
うちの教室に通って来てくれる子の中には、表出言語があまり見られない子もいます。

では、言語表出がなかったら、コミュニケートができないかと言えば、それはとんでもないことです。

言語表出がなくっても、通じ合う中身と、それを読み解く感性があれば、十分コミュニケーはできます。

むしろ、言語を媒介としないからこそ、ダイレクトに通じ合う中身が共有できることだってあるのです。


今度、養護学校で5年生になる男の子

これまで、書字の時には、私が手を添えてなぞり書きをさせていました。

半年以上、この支援を続けてきました。

でも、最近、私が手を添えることを少し嫌がるようになってきました。

自分で書きたい気持ちが芽生えてきたのです。


なるほど、そうか。

ならば、手を添える支援ではなく、自分の手でクリアできるスモールステップ教材の支援に切り替えることにしました。

効果はてきめんです。


それまでは、この課題の時、着席するまで少しウロウロして、「しょうがないなあ~」 てな感じで着席していましたが、方法を切り替えてから、一発着席で、生き生きとした表情で学習に取り組んでくれました。

できばえは、私が手を添えていた頃より稚拙かも知れません。

しかし、この事が、この子の成長にとって意味のある大きな一歩であることは明らかです。

まずは、指導者が、そういうことを読み解く感性をもたずして、何のコミュニケーション指導ができるというのでしょうか?


一見言葉は豊富に見えても、行間や場の空気、細かい感情理解の苦手な子もいます。

「もういいよ」

それが、もう来てもいいのか、もう来なくてもいいのかを、文脈から判断する力を、どう育てたらいいのか。

長い間、私は色々な方法にトライしてきました。

最近、その一つの方法として、思いっきり感情を込めて音読してやる支援に力を注いでみました。

「ほんとだ、ほんとだ。雨がふったら、ピッチャンチャンだあ。」

この時、おじさんが、雨が降ってうれしかったのか、いやだと思ったのか、視覚性の言語でわかりにくかったら、聴覚性言語に感情を込めて支援を施し、育ちの過程に応じてフェードアウトしていくのはどうでしょう?

文字に映像を添えた二系統同時刺激のように、視覚性言語に聴覚性言語を添える二系統同時刺激です。

音読や読み聞かせ、

ねらいを少しシフトさせるだけで、これは、単なる本読のスキルということだけではなく、こうしたコミュニケーション指導にも、とても意味のあるものになっていくのです。


同じ 「ありがとう」 でも、伝わって来る意味が、全く違う場合がありますよね。

言語は媒介として、極めて大切ですが、ありがとうという言葉の中に込められた感情が伝わることが、コミュニケーションの本質であるわけです。

以前、英会話のグループレッスンをしていたときに、たまたま他の生徒さんが欠席され、私と先生とのマンツーマンになったことがありました。

その先生は、レッスンが始まると、パタンとテキストを閉じ、あなたは今、どんなことをしているのかと尋ねてきました。

私は、当然、私が教えている子どもたちのことを伝えました。

その先生は、おなかの中に7ヶ月の子がいると教えてくれました。

そして、私は、下手くそな英語で、私がどんな気持ちで子どもたちに向き合っているかを、必死で伝えました。

「私は、子どもたちに、自分の苦手なことを受け入れながらも、心の中に心の底から自分のことを好きになる心を育てたい」

どうやら、私の思いは、先生に伝わったようでした。

英語がしゃべれたことより、外国の人にも、私の大切なことを伝えられたことを、とてもうれしく思いました。


その次のレッスンの時、「SHINOBUさん、おめでとうございます。先生から、レベルアップの推薦状が届いていますよ」と、担当の方から教えていただきました。

正規のチェックもしていないのに、粋な先生もいるものだな、と思いました。

なつかしくも、心に残る思い出となりました。


指導者なら、当然テクニカルなことを忘れるわけにはいきません。

しかし、通じ合う中身がなくて、通い合う心がなくて、何のコミュニケーション指導でしょうか?

子どもの行動から、その奥にある大切な

願いを読み解くことの出来ない者に、何ができるというのでしょうか?

私は、そこからスタートするコミュニケーションの力を、子どもと一緒に、ご家族の皆様と一緒に、育てていこうと願っています。


子どもの心を感じとる力と同時に、育ってもらいたい確かな姿を、子どもの心に伝えきる力も重要です。

まだまだ未熟者の私ですが、めざす山の頂が、少しずつ見えてきたような気持ちです。


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フェードアウトできてこそ真の支援者 (主体者を支える本来の支援の在り方を問う)

 2010-04-02
その子にとって少しハードなレベルのパズルをさせるとき、私は、子どもの意識に合わせて、ピースを選んで手渡す支援を行っています。

そして、残りがわずかになって、その子一人で出来そうになったと判断したら、もう余計なことはせず、子どもに任せて、出来たことをほめてやります。

そして、段階的に支援の度合いを減らせて、最終的には、子ども一人の力でできるようにさせます。

いわゆる、ベイシックなプロンプトフェーディング (支援除去) の手順です。

支援を除去してもできるようにさせることが目的で、できることなら支援がない方がよいわけです。


少し前にお知らせしたことのあるエピソードですが、前年の運動会でなかなか集団の輪に入れなかった子が、新しく来られた支援員の先生の、付かず離れずの見事な支援で、その年は立派に演技をやり遂げた。

本来うれしいことであるはずのことが、何故かそのお母さんの笑顔が冴えない。

このお母さんの求めていたものは、演技の完成度ではなく、子どもの育ちそのものであったのです。

失敗をしながらも、友達と一緒に、精一杯自分の力で取り組む姿。

行き届いた支援に感謝しながらも、どこかに割り切れない気持ちの残った運動会であった、という話です。


私の保護者支援は、保護者に代わって何かをすることではなくて、主体者であるご家族に力を付けていただくための支援です。

情報を整理したり、一緒に考えさせていただきますが、決定は保護者に委ねます。

そもそも、そういう支援のスタイルを標榜して始めた活動です。

「先生、何とかしてください」

というご依頼には、心を鬼にしてお断りしてきました。

主体者にとって代わることは、決して子どもの利益につながらない、というのが、私の信念の一つであるからです。


主体者があってこその支援であり、サポートであるはずです。

特別支援教育の 「支援」 を見るときに、どちらが主体者か、何のための支援か、わかりにくくなる場面も多くあります。

担任の先生が、がんばって子どもに最後までやらせようと意図していた活動に、支援の先生が手を添えることが、果たして有効な支援であると言えるでしょうか?

時には、「あえて手を添えないこと」 「何も手出しをしないこと」 「ずっと見守ること」 「さごまでやりなさい、と厳しく突き放すこと」 「負けちゃだめ、と背中を押してやること」 が出来てこそ、真の支援者と成り得るのです。


「余計な支援」 「過剰な支援」 「支援をする者の満足感だけが残る支援」 などは、決して子どもの利益にはつながるとは言えません。

私は、決して、支援が不必要であると思っているわけではありません。

支援は、人数や時間数という 「量」 的な視点だけではなくて、子どもが育つために何が大切かという 「質」 を基準に考えてみたいと思っているのです。


深い教育愛に支えられた担任の先生の厳しさほど、尊くて美しいものはないと思います。

それを信じて、我が子の背中を突き放す母の姿も美しいと思います。

そこに賢明で高度な教育的な判断は不可欠です。

時には、涙を流して、抱きしめることも必要です。


すべての支援は、子どもが成長し、不必要となってこそ、意味をなしたと言えるのです。

2学期には、安心して子どもに任せられるように、笑顔で見守ることができるようになってこそ、その支援にねうちがあるわけです。


学校教育の主役はあくまで子どもであり、担任の先生です。

支援とは、それに取って代わるものではないことを、十分心に念じていたいと願っているのです。


高い見識や力量をもつ支援者ほど、知らないうちに風のように去っていく・・

「私は、何にもしていません。 ただ、見ていただけです。 子どもたち、すごいですね。 あっという間にみんな自分で出来るようになったのですから」

そこに、ハイレベルの見通しと、周到な準備や計画性が必要なことは明らかです。 強い意志や信念、そして腹をくくる覚悟や決心も重要です。

支援者が、注ぐべき力は、こういうところにもあるのではないでしょうか?


育てていく子どもの姿と、そこに向かう道筋が見えてこそ、支援の具体的な内容も見えてくるというものです。

すばらしい連携と支援の形

私もしっかりと勉強していきたいと思っています。



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「すべての子どもに 集団での学びと 特性に応じた適切な個別指導の場を」

子どもの奇跡を起こす連携と環境

 2010-04-01
昨日、たいへんうれしいメールをいただきました。





先生、ご指導頂きありがとうございました。

先生のご指導を受けるようになってから、一年がたちました。学級担任に恵まれ、支援級担任も素晴らしい方が来て下さり、Shinobu先生との奇跡的な出会いがあり、一年前の不安定な姿が想像できないくらい、大きく成長しました。夢のような一年で、私の方が平和ボケしてしまうのではないかと思うぐらいです(笑)

終業式の日に、担任の先生にご挨拶に伺いました。「係活動のリーダーも立派にやってくれましたよ。学習も落ち着いて取り組めるようになってきましたね。ここまでよく頑張ったと思いますよ。」と、嬉しい言葉をかけて頂きました。

担任の先生は、ベテランで厳しいところもおありですが、息子への関わり方は絶妙でした。「無理強いはしないけど、諦めない」「必要な支援はするけれど、特別扱いはしない」こういったことが、日常的にサラリと行われている学級で、粘り強さや逞しさを身に付けた気がします。

支援級の先生は、対応がとにかくフレキシブルです。学級担任の先生との連携も素晴らしく、息子が通常学級で頑張れる力を、常に注いで下さいました。保護者に対しても、保護者の願いを第一に、決して学校側の都合を押し付けない姿勢で接してくださるので、全面的に信頼を寄せています。

そして、Shinobu先生の教室で、息子は、学校以外で自分を受け入れてもらえる学びの場を得ました。学校では発揮しきれなかったパワーが、ここならいくらでも出せるぞーとあの子の背中が喜んでいるのがわかります…私、いつも後ろから見てますから(笑)

三者の歯車ががっちりかみ合っているので、家庭担当の私は、ますます怠け者になってしまうかも知れません(笑)

冗談はさておき、この一年は言葉に尽くせないくらいお世話になりました。ありがとうございました。明日から4月、またShinobu先生と新たな第一歩を踏み出せる事を、この上なく幸せに思っています。これからも、よろしくお願いします。





初めてご相談を伺ったのは、昨年の3月20日でした。

それから毎月1回、今では月2回の指導をさせていただくようになりましたが、お子さんの表情も学習意欲も、みるみるうちに変わっていきました。

学校生活が充実してきたことは、私にもダイレクトに伝わっていました。


> 担任の先生は、ベテランで厳しいところもおありですが、息子への関わり方は絶妙でした。「無理強いはしないけど、諦めない」「必要な支援はするけれど、特別扱いはしない」こういったことが、日常的にサラリと行われている学級で、粘り強さや逞しさを身に付けた気がします。

> 支援級の先生は、対応がとにかくフレキシブルです。学級担任の先生との連携も素晴らしく、息子が通常学級で頑張れる力を、常に注いで下さいました。保護者に対しても、保護者の願いを第一に、決して学校側の都合を押し付けない姿勢で接してくださるので、全面的に信頼を寄せています。


この発言の中に、私は特別支援教育のあるべき形のモデルが示されていると思っています。

通常級の先生の集団の中で子どもを育てていくスタンス、子どもの特性と保護者のニーズを最優先にした支援級の先生の柔軟な対応。


支援級の先生は、この地域でも評判の先生ということを聞いていました。

それにしても、通常学級の先生との連携も見事というしかありません。

これまで多くの学校におじゃまさせていただきましたが、この2つは最も大切なことであったように思っています。


1年前と比べると、この子は本当に別人に生まれ変わりました。

メールの中の 「一年前の不安定な姿が想像できないくらい、大きく成長しました。」 「夢のような一年」 というお母さんの表現も、決して大げさではないと思います。

この奇跡を、当たり前のように起こす先生と学校。 

こんな学校があるのですね。

すばらしい!


奇跡を起こすのは、やはり教育の力によるものです。

心より敬意を表したいと思います。


子どもも大きく成長しましたが、お母さんの表情も格段に明るくなりました。

こちらの変化も、お子さんに負けないくらいです。


子どもを育てるのは、教育の仕事です。

学校教育が、その中核を担っているのです。


このお母さん、私のところに相談に来られる以前にも、ずいぶん色々な関係機関に出向かれ、ありとあらゆるご努力をされてきました。

私に見せてくださった資料にも、とても専門的で豊富なデータが満載されていました。

これまでの経過も、それぞれの資料も、とても貴重で大切なものであったと考えます。


しかし、それを日常の中で総括する役どころ、つまり子どもを育てる中核の機能が必要です。

言い換えれば、学校教育があってこそ、私の個別指導が生きてくるのだと思うのです。

子どもを育てるメインステージは、学校です。

子どもは学校で育ち、奇跡も学校で起こるのです。


その学校教育に生きて働いてこそ、医療や各関係機関の連携が有効であったと言えると思います。

子どもの成長に生きないのなら、診断名もIQ値も不要です。

だって、家族に暗い気持ちを落とし、苦しめるだけじゃありませんか?



子どもを育てるプロは、学校の先生です。

医療や関係機関には、学校教育にはない、独自の高度な専門性があります。

それは可能な限り連携し、生かしていくべきものであるけれど、学校教育にとって代わる者ではないと、私は思っています。


このお二人の先生、むずかしい専門用語や精査された検査データを使わずとも、きっと人を育てる真実をつかんでおられることでしょう。


就学を機に、そのステージが、療育から学校へと移行することも多いことでしょう。

学校は、子どもにとってオフィシャルな社会の接点なのです。

ここで子どもが自分らしさを生かして、すくすくと成長できるよう、関係機関はそれぞれの専門性を生かして、連携していかなければなりません。

何のために?

それは、すべて学校で子どもが成長していくためです。


診断も、プロフィールも、実際に教育に生かされなくては何にもなりません。

連携というのは、プラスに生かしていくためのもので、教育の機能を肩代わりするものではありません。

もし、関係機関につないだことで、肩の荷が降りたように感じる先生がいらっしゃたとしたら、思い違いを早く修正していただきたいと思います。


子どもを育てるメインステージは、学校です。

連携という名のもとに、そこに揺らぎがあってはならないと、私は思っています。


それぞれの高度な専門性を、そこに集約できるような流れを作っていきたい。

学校の先生と、相互に連携し、信頼し、お互いが育っていけるような関係を作りたい。

日本の学校教育は、これまでにすばらしい教育実践を多く積み上げてきましたし、これからもきっとそうだと思っています。


現実生活は複雑ですから、関係機関の専門性を生かすことの中身と、学校教育の役割と責務について、しっかりと見つめていくことも、ご家庭での大切なポイントであるような気がしています。


奇跡は、起こります。

教育の奇跡は、さりげなく訪れながら、毎日着実に積み上がっていくもの中に潜んでいます。


それは、今、あなたの手の中にあるのかも知れません。

このお母さんは、昨年の春、手の中にある小さな奇跡を、大切に育ててくださいました。

お母さんの強い気持ちなくして、こうした環境が構成されることはありません。

まずは信じることから、奇跡はスタートするのです。


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