子どもの自己決定を支えるもの
2010-03-30
昨日、京都に行ってきました。二条城のすぐ近くの、あるアート工房を訪問させていただきました。
今、この工房の一角をお借りして、京都での教室を開かせていただこうと考えています。
京都にお住まいの皆様のお力をいただいています。
ぜひ、そのご期待に添えるような形ができればと、強く願っているところです。
京都から、その足で大阪堺市に向かいました。
京都は、その夜みぞれ混じりの雪が降ったと聞いていますが、今朝の大阪は快晴です。
桜もちらほらと花を開いているようでした。
堺市の桜を見るのは、これで二回目です。
思えば昨年、この堺市の満開の桜の下で、9名の子どもたちの定期指導をさせていただくようになって1年が過ぎたわけです。
9名の子どもたちの多くは、就学前のダウン症の子どもたちです。
思えば指導を始めた頃は、部屋の中を走り回っている子もいましたが、今では離籍をする子は一人もいなくなりました。
もちろん、私一人の力なんて本当に微々たるものです。
ですが、こうしてご家族の皆様といっしょに、お子さんの育ちの喜びを共有できることに、私は、大きな誇りと満足感をもっているのです。
今では、月に2回、堺市を訪問させていただいています。
岡山から、堺市に向かうことは、私の生活の中では日常となってしまいました。
大きな荷物をもって移動することも、何の苦にも思いませんし、マイナスな気持ちで伺うことが全くないのです。
私の指導では、可能な限り、子どもに選ばせたり決めさせたりするようにしています。
2つのうちどっちがいい? と選ばせるだけで、学びは結構主体的になります。飛行機の機内で、fish とmeat 選べるだけで、うれしいものしょ。 fish only ばかりでは、味気ないですよね。 このレベルの決定は、英語ではchoiceと言ったりします。
来週からの国語を、漢字中心にするか、読解中心にするか、子どもと一緒に考えたりすることもあります。こうした経過で決めるとなると、これはもうこのレベルで decision となっています。 それだけでかなりモチベーションが高くなります。
さらに、自分のこれまでの歩みを振り返り、状況を冷静に分析し、目指す方向や価値を見つめ、自分の果たす役割と責任を自覚し、よしがんばってみようと決意したり決定したりすることを、英語ではdetermination と言います。
私は、子どもの指導と同じくらい保護者支援を大切に考えています。
保護者支援のキモは、保護者に成り代わって何かを代行することではなく、この determination にかかわる支援を行うだと私は考えています。
この determination の力は、決して侮ることができません。
たとえどんなにハードであっても、今、私が自分の活動に情熱を燃やし続けることが出来るのは、誰から指図されたのでもなく、すべて自分自身で determinate したからに他なりません。
この日の指導の最後は、ある2年生の男の子。 パソコンで1年生から6年生までの書き順、すべてクリアしてしましました。
「先生、たのむから、もう10分延長してください」
そう言って、今度は3年生の算数に挑戦していました。 お母さんも私も顔を見合わせ苦笑いです。
もちろん、私がやれと強制したわけではありません。 タイマーを10分セットして、やっとこの日の指導を終了することができました。
かく言う私も、地下鉄御堂筋線で、このブログの記事を夢中で書いていて、新大阪を3つも過ぎた駅で、やっと自分が乗り過ごしたことに気がついたのです。(笑)
人は、心で動いているのです。
その心を大切にした指導を見つめることは、計り知れない大きなエネルギーを生み出すことにつながると私は信じています。
この記事は、新幹線の中、相生を過ぎたところでやっと書き終わりました。
夢中で記事を書き続けられること、私はそのことをとても幸せに感じています。
今日も、すばらしい1日を過ごすことが出来ました。
私の1日の仕事は、これで終了です。
子どもたちとご家族の皆様には感謝しています。
やらされていて、決してこんな仕事はできません。
私は、幸せです。

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指導者が子どもを育て 子どもが指導者を育てる
2010-03-29
先週の土曜日に、保育園の卒園式がありました。担当の保育士は、初めて年長組をもった若手の保育士でした。
卒園児の一人一人がマイクをもち、保育園での思い出を、みんなの前で発表しているとき、その保育士はそれぞれの子どもの横で、目に涙をいっぱいうかべながら、それぞれの子の台詞にあわせ、口を動かし、何度もうんうんとうなずいていました。
保護者の代表の方から、あたたかいお言葉と記念の品を頂戴しました。
保護者の方も、涙声で、会場は大きな感動に包まれました。
何を語らずとも、この1年、この保育士が、どんな思いで、どんな気持ちで子どもたちに向き合ってきたかは伝わってきます。
前回の生活発表会で、周囲をはばからず子どもに気合いを入れ、それに打って響く子どもの表情を見た時、私は保育士として本物に育ったこの子の姿をとてもうれしく感じました。
まさに、保育士が子どもを育て、そしてその子どもたちのおかげで、この保育士は押しも押されぬ中堅保育士へと成長を遂げました。
保育士としての目の輝きが、1年前と比べて、格段と深い色に変わっていきました。
この保育士は、実は私が、小学校の5・6年生の時に教えた教え子なのです。
とても優秀な子でしたので、うちの保育園に来てくれたことを、とてもうれしく思っていました。
卒園式のその日、岡山は快晴に恵まれました。
あたたかな春の日差しをあびて、園庭の遊具で、多くの子どもと保護者に囲まれながら、何枚も何枚も記念写真におさまっていましたが、スリッパを履いたまま、芝生広場に飛び出していたのも、この保育士らしく、最後の最後まで笑顔と活気に包まれたすばらしい1年となりました。
この春、小学校の入学へと、希望に満ちあふれて、多くの子どもたちは胸をふくらませていることでしょう。
晴れの門出です。
よくぞここまで、大切に育ててくださいました。
本当におめでとうございます。
私たち、子どもの教育、子どもの保育にかかわる者は、ご家族の皆様と手を携え、その大切な命を精一杯輝かせながら、それぞれの子どもたちが、それぞれの子どもたちらしく、すくすくと成長していくために、真心を込めた指導に心がけていかねばなりません。
そして、そのお子様の成長と幸せこそが、我々の何よりの手応えであり、幸せであると思っております。
卒園にあたり、こうした喜びをご家族の皆様と共有できること、これに勝るものはありません。
目の前の切実な課題に向き合ったその時、その思いが真剣であればあるほど、一抹の不安や危惧が頭をよぎること、それは当然の思いであることを、私は理解しているつもりです。
だからこそ、支援者の私は、気持ちを揺るがせてはならないと思っています。
私が一緒になってうろたえて、それで子どもの利益に繋がるなら、いくらでもそのようにさせていただきます。
そうではなく、こ家族とは、少しだけ違ったポイントから、この道を進んでみませんかと、冷静に、笑顔を浮かべながら、きちんと向かう先を指さすことこそ、私に与えられた責務であると心得ています。
状況が厳しければ厳しいほど、揺れては揺れてはならない役どころが必要な場合もあるのです。
季節は春、
新しい旅立ちのその日、
気持ちをしっかりともって、笑顔で、我が子の後ろすかたを見送っていただきたいと思っています。

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行動改善という視点から見た太郎君の成長
2010-03-27
下の画像は、太郎君 (小2) が学校で書いた図工の作品です。表情がステキでしょう?
今の太郎君の表情も、とても柔らかで、この作品にも、そんな太郎君の心がにじみ出ているようです。




以下で紹介する記事 ( 2008-07-01 )は、太郎君が1年生の時の、衝動性改善に向けての取り組みを紹介したものです。
太郎君(仮名=小学1年生)は、笑顔の可愛い、すばらしいお子さんです。
4歳の時までは、あまり表出言語が見られず、ご家族の方は大変心配されていましたが、年長から1年生と、言葉の面・コミュニケーションの面は大きく改善されてきました。
学童保育での時にも、友達といっしょにごっこ遊びをするなど、社会性もだんだんと育ってきています。
こうして行動や活動の範囲が広がって行くにつれて、太郎君に新たな課題が生じるようになりました。
それは、自分で理解できない状況に遭遇したり、予測や期待を違ったことが起こった場合に、突発的に、人をたたいたり、物を投げたりしてしまう、ということです。
このところ、そんなことが何回かあり、学童保育の指導員もお母さんも、さすがにちょっと参ってしまいました。
そこで、今回、この太郎君の衝動性の改善をターゲットに、応用行動分析の手法を中心にして、ライブでみなさんにお知らせしていこうと考えました。
もし、おなじような課題をお持ちのお子さんがいらっしゃたら、ぜひ参考にしていただければ、と思います。
今日はその取り組みの設計図編です。
まずは、直接指導に当たっている指導員(3人います)に、次のようなことを書いてもらい、それを整理してみようと思っています。
① 太郎君が、どんなときに問題となる行動が見られたか(見られるか)、その個人的な要因(体調・本人の状態)を書き出して整理する。
② どんな活動、どんな友達といる時、どんなことをきっかけに問題行動が起こるか、環境的な要因を書き出し、整理する。
③ 問題行動が起こった時、周囲はどうのような対応をし、結果として、太郎君にどのようなことをもたらしたか、書き出し整理する。
①~③を整理して、見えてくる物があれば、その要因に対するアプローチが可能になってきます。できるだけ、そういう環境を作らないようにすれば、それだけで、かなり改善できることになるかも知れません。
次に、「あやうくなった時には、たたいたり、物を投げたりするのではなく、こうしましよう」ということをきちんと教え、できたらちゃんと形としてほめるシステムを作ります。このブログでも話題になっている、キャラクターごほうび制度のようなものです。
3つめは、被害を最小限にとどめるための、スクランブル体制です。太郎君があやうくなったときの、先生・周りの子・そして太郎君自身の身の処し方について話し合って基本形をつくります。
最後は、ご家庭との協力です。
学童保育としての設計図ができた時点で、お母さんと作戦会議をして、ご家庭での協力もお願いしようと思います。
こうした衝動性は、10歳を過ぎると、かなり改善される例も多いようです。2次災害を引き起こしたり、自分に対するマイナスイメージを増幅させたり、友達関係を悪くしてしまわないよう、小学校低学年での関わりが大切になってくると考えています。
うまくいくと期待していますが、これから随時、このブログで報告をさせていただこうと思っています。ぜひ、いいアイデアや感想などありましたら、お知らせいただければと思います。
先日、その太郎君が通知票をいただきました。
図工のAが、一つ増えたそうです。 それに、「生活のようす」 の 「関心・意欲・態度」 にもAがついたそうです。
昨日、うちの学童保育の指導員にもようすを尋ねたら、「この子は、ホントに変わった」 と笑顔で答えてくれました。
私も、この頃、何てやさしい表情になったんだろうと、驚いているのです。
この子の指導を始めた頃、私はどうしてよいかわからなくなってしまい、「私ではダメかも知れません」 と、お母さんにお伝えしたことがあります。
その時、お母さんは、「先生、何行っているんですか? この子が、どれだけ先生の事を慕っているかご存知ですか?弱音を吐かないでください」 と、叱られたことがあります。
あの時のことを、決して忘れることはできません。
この子、担任の先生には、とても恵まれました。
1年生の時の先生も、すばらしい先生でした。
「いつまでも、この先生が担任でいられるわけではない」 とか 「2年生になったら、どうなるかわからない」 と言われたことがあります。
リスクを事前に指摘くださって、本当にありがとうございました。
ですが、2年生の時の先生は、タイプこそ違いますが、すばらしい教育実践と、あたたかい教育愛に満ちた、それはそれはすばらしい先生でした。
ご家族を始め、多くの方の豊かな愛情とご努力によってこの子の心は育っていったのだと思いますが、この担任の先生の教育的愛情をなくして、この子の心の育ちは決して語ることができないと私は思っています。
私は、この先生にお願いして、太郎君への特別プリントを学校で出していただき、それを私の教室で使って個別指導をしてきました。
当初、「勉強せん」 と言って、私の教室で涙を落としたこの子ですが、学校の宿題となると、頑張って取り組むことができました。
そうしているうちに、あれだけ固く閉ざされていた数認知の扉に、やっと私の指先がかかるところまでこぎ着けました。
時間はかかります。
でも、私は引っかかったこの指先を、絶対に離すことはないと心に誓っています。
2年生の学習到達目標という上から目線で見ると、まだまだ到達できていないところが多くあります。
しかし、この子が1年でどれだけ育つことができたかという 「下から目線?」 で見ると、そのクオリティの高さは、相当なものであったのではないかと思います。
それは、2年生なんだから、ここまでやってみよう、みんなと一緒にがんばっていこうという、学校での取り組みがあったからこそ、なしえたことではないでしょうか?
この子、ラジコンの車、一発で縦列駐車ができます。 1㎝の余裕があれば、ぴたりとその中に入れることができます。 私なんか、10回やっても1回も成功することができません。
苦手な事もあります。
しかし、得意なことだってあるのです。
この才能を、何とかこの子の肯定的な自己理解の支えとしたい。
学校の教育課程の指導目標は、特別の意味をもつ価値の高いものではありますが、それだけが唯一無二の絶対的な尺度ではないはず。
学校の成績だけで、未来が保障されるというものでもないはず。
それは、子どもの幸せを育むための、最も大切な営みの一つして、これからもずっと子どもの成長を支え続けて欲しいと思います。
一方で、ご家族や子どもの成長を支える立場にある者は、決して一般化してとらえることのできない、その子自身の良さや可能性をしっかりと見据えていくことが重要だと思います。
こうした肯定的な自己理解なくして、行動改善も、学びの意欲も、他者への愛情も、育むことはむずかしいのではないかと私は感じています。
自分の苦手なことも受け入れた上で、自分が好きになれる子
太郎君は、私の夢を叶える、なくてはならない子に、今でもずっと成長し続けているのです。

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軽度であるがゆえに 理解されにくい深く重い苦しみ
2010-03-25
遊んでもいいと思って仲の良い友達と遊んでいたら、突然、知らない先生に厳しく注意された。 さぼっているつもりでも、何でもなかった。
後になって、そこではその時間には遊んではいけないルールだと聞かされた。 でも、その子はちっともそのことを理解していなかった。
「そんなの人間失格じゃん」
本当は、そんなのじゃだめじゃない? と、伝えたかった。 だけど、突然、相手が烈火のごとく怒り始めて、初めてそれが人を侮辱する時に使う言葉だとわかった。
一生懸命やってるやってるつもりが、いつもちゃらちゃらふざけているように思われる。
語いは豊富で、すごく口達者だと思われているが、比喩や暗喩になると、何のことかさっぱりわからない。
そんなタイプのお子さんは、いらっしゃいませんか?
私が教えているある子どものエピソードです。
この子、国語が苦手だという意識の強い子です。
漢字はとてもていねいに書き、正確です。
しかし、慣用的な読み方・特別な読み方・音と訓の読み替えなどには、強い抵抗感を示します。
「半分」 の 「半」 、なぜ 「半ば」 となると、「はんば」 と読まずに 「なかば」 と読むのでしょう?
つまり、こういう曖昧というか、適当というか、ファジーなことが苦手なわけです。
この子のエピソードというは、ここからの話です。
ある日、この子のうちで新型のブルーレイのプレーヤーを購入したそうです。
ところが、お父さんがやっても、誰がやっても、どうしても接続がうまくいかない。
入れ替わり立ち替わり、何人もの大人が格闘しましたが、結局はうまく接続ができなかったということでした。
そこに、この子が登場します。
国語の苦手なはずのこの子は、その分厚い設定マニュアルを一読すると、あっという間にその接続に成功したそうです。
ちなみにこのご家族は、お医者様一家で、もちろん高学歴です。
その方にできないことが、支援学校に通っているこの子ができるわけです。
この子、本当に国語が苦手と言えるのでしょうか?
国語嫌いにさせたのは、大きな損失に思えてなりません。
何とか長所活用型アプローチで、このことを打開できないものか?
教育者としては、この能力を何とか生かせないかと、熱い心に火が付くのは当然なことです。
この子の場合は、入力は視覚優位、処理も同時処理優位だと見ています。
長文を読んだとき、同時処理優位の子は、やや逐次的になりますが、一字一句正確に読んでいこうとします。
逆に継次処理タイプの子は、わりと流暢に読んでいきますが、よくよく聞いていると。部分的にかなり適当に読んでいる箇所があります。 こうしたタイプの子は、漢字を正確に書くのが苦手な子が多いのです。
継次処理タイプの子にも、入力が視覚系優位の子と、聴覚系優位の子がいますが、こういう子は1回ざーっと読むと、何となく内容を理解できているのです。
しかし、それは、表現は変ですが、もにょもにょとした理解で、なかなかそれを切り取って引っ張り出すことが出来にくいのです。
ですから、こういうタイプの子は、選択肢のある問題の方が、穴埋め問題より得意になるわけです。
いくつかの選択肢があることによって、脳の中のもにょもにょ理解のひもを、1本引き出すことができるのです。
同時処理タイプの子は、問題文をするときに、何度も文章を読み返して、必死でその語句を問題文の中から引っ張り出そうとしますが、継次処理タイプの子は、1回ざーっと読むと、なかなかもう一度問題文を読もうとしません。
脳内メモリーの中に溜め込んだもにょもにょから、それをよりだそうとしているのです。
「初雪のふった日に、お母さんは、コウ君に何をあげましたか。」
今回の問題文は、情報量が多すぎて、なかなか整理するのが大変です。
継次処理タイプのAちゃんは、しばらく考えていましたが、なかなか答えが見つかりません。 (この考えている時間も、きわめて大切です。)
どうしても整理することができにくいようでしたので、私は、「手袋? それとも・・」 と、言いかけた瞬間に、Aちゃんは、大きな声で 「マフラー」 と即答しました。 手袋という等価の選択肢を一部示しただけで、それがプライミング効果をもたらしたのだと思います。
もにょもにょの中から、手袋という言葉で、マフラーを釣り出したわけです。
ちょっとコツをつかむと、このテの言語支援が、面白いようにはまり、次々にプリントが進んでいきます。
だんだんと、読解プリントに対するモチベーションが高くなっていくのがわかります。
こうした支援は、やがてはフェードアウトして、自分で歩む子どもに育てていきたいと思っているのです。
その支援の方法として、こういうタイプの子には、「もう一度文章を読んでごらん」 が、逆に情報量が多くなり過ぎ、混乱の上、ドツボにはめてしまうリスクが高くなりがちな事を、知っておいても良いのではないかと思っています。
できるから、面白い、またやりたいは、願ってもない展開です。
国語嫌いから、脱却するための大切なステップです。
では、同時タイプの子にはどうするか?
それは、子どものレベルに合わせて、「この中から見つけてごらん」 と、問題文を精査する部分を区切ってやる方法が有効だと思います。
もちろん、子どもの目を見て、温度を感じながら、塩加減・味加減を調整しなければなりませんし、子どもの発達レベルも刻々変化していますから、何とかの一つ覚えでは、限界があると心得ておく必要があります。
文脈・行間・感情理解・・・
とてもハードな課題で、もしかしたら特効薬はないのかも知れません。
しかし、ボキャブラリーが増え、慣用的な表現に親しみ、多くの文学的な表現に触れる機会が増えたなら、奇跡は起こらないとも限りません。
今と同じ条件ならむずかしいと思われる内容も、得意な部分の力が2倍になったとしたら、3倍になったとしたら、何か攻略法の一つでも見つかるやも知れません。
ひと山登ると、景色は全然違って見えるというものです。
仮説を立て、方針を決めたら、最低でも半年は踏ん張ってみないと、なかなか手応えは感じなれないものです。
いきなり比喩や暗喩が理解できる子にならなくても、コウ君がお母さんに何をあげたかが、読み取れる子にはなれるのです。
苦手感は残りながらも、何とか自分の使えるもので、対応することができるようになってくるかも知れないのです。
表現があまり適切ではない子
私の教室にも、何人か通ってきてくれています。
時々、何てこと言うんだこの子は、と絶句することがあります。
また、そういうことが表に出ずに、自分否定につながりやすいタイプの子もいます。
でもね、そういう子、案外ハートで感じる力をもっています。
ぶつくさ文句ばっかり言うくせに、教室の階段、いつも駆け上がって来てくれます。
ちょっと見、むずかしそうだけど、これぞと思う人には心を寄せてきます。
結構骨は折れます、疲れます。
ですが、ちっとも嫌いにはなれません。
苦労した分だけ、不思議なもので、例外なく大好きになってしまいます。
ここは、魅力だし、長所だとも思います。
理解できていますし、心が通じていますから。
自分が場の状況を読み取る力を付けることも大切ですが、ちゃんと相手に伝え、理解してもらうことも大切です。
家族には家族にしか出来ない役割があり、学校には学校に与えられた大切な使命があります。
と言うことであれば、こうしたタイプの子には、やはり存在をまずは全面的に肯定的に受け止めてくれ、事象をていねいに読み解きながら、ていねいにそのモデルを示してくれる個別の支援者の存在の果たす役割が重要です。
ここ何年かで、発達に関わる社会的な認知度は、格段に高まりました。
しかし、見えにくいからこそ、軽度であるからこそ、それが見逃され、社会的なケアが十分に行き届かず、負担感が長期間にわたって積もり重なり、何とも言えない深く重い苦しみを抱えてしまうこともあるのです。
こうした子のもっている力を、ぜひ社会のため、そしてその子の自己実現のために生かしていきたい。
そのための理解と支援は不可欠です。
こうした子の力を社会の戦力として生かしていくことで、社会にも、その子自身の利益にもつながります。
社会から庇護されるのではなく、社会に貢献できることで、人は幸せを感じるはずです。
元はとれます。 欧米の研究からも、費用対効果が高いことが実証されています。
私は、子どもが大好きです。
私は、直接子どもの指導にかかわる者の一人として、ぜひこの事を、具体的な実践事例を通して伝えていく責務があると思っているのです。

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時には怒れる母、泣ける母であってほしい
2010-03-23
最近、どうしてもがまんできない事が、いくつかありました。学校側の対応に対するものです。
ある子が、泣きながら家に帰ってきました。
「○○ちゃんとは、遊べない」
と、言われたのだそうです。
どうも支援学級在籍のことが関係しているらしい。
子ども同士のできごとですから、背景などもちゃんと把握しておく必要があります。
お母さんは、さっそく担任の先生にちゃんと調べてほしい、とお願いをされました。
母として、当然の、賢明な対応です。
ちょうどそれが卒業式前の出来事でしたので、担任の先生は 「少し待ってください」 という内容の返事であったそうです。
ここまでは理解できます。
しかし、その先生は、結局ちゃんと調べることをしてはくれなかった・・
お母さんがもう一度、先生にお尋ねをすると、「学校ではたくさんの子がいるから、いちいちそんな個別なことの対応はできない」 という内容の発言をしたそうです。
これ、言い訳でしょうか??
私は、怒りで頭がぶち切れそうになりました。
許せません。
私は、こういう方は、教師の資格がないと思います。
別の学校のことです。
ある学校にお願いをしに行ったら、完全に門前払いをされました。
ところが後日、私がある教育行政の偉い方と知りあいであることが分かると、とたんに手のひらを返すような猫なで声の電話がかかってきました。
見苦しすぎます。
これも、少し前の出来事です。
ある研修会にいくと、ある学校の特別支援教育の担当者の方・学校運営の中心となっていらした方が、さかんに 「保護者の無理解」 という言葉を連発されていました。
私は、黙って聞いているつもりですが、ついにがまんできなくなって、「先生、保護者の無理解とおっしゃいますが、では、先生は、我が子の成長を必死な思いで見つめている保護者の方を、どこまで理解されているのですか?」
その会は、一瞬凍り付きましたが、結局は、適当にごまかされました。
その学校は、その後大きなトラブルが続き、次の春の異動で、双方の先生とも転勤されました。
あんな考えで、学校がうまくいくはずがないと、私は思っていました。
私は、自分の娘のことで、ある学校に出向きました。
「法令に定められています」
そうおっしゃった先生がいましたので、私は、「では、その法令の内容をここで説明してください」 と、切り返しました。
法令というと、私が黙ると思ったのでしょうか? きっと私が何も知らないと思っていたのでしょう。
その先生から、その後、きちんとした解答は、何もありませんでした。
きっと私、完全にモンスターペアレンツであったことでしょう。
詳しい内容をここで示すわけにはいきません。
しかし、あそこで怒らなければ、私は親で無くなっていたと思います。
私は、娘のことが、一層、愛おしくてたまらなく思えてきました。
もちろん大多数の、すばらしい学校、すばらしい先生方で、日本の教育は成り立っているのです。
現代社会にあって、一人の人間が一人前に育つあたっては、色々なことがあって当然です。
その課題に向き合う時期が、小学校の時にある子もいれば、青年期におとずれる子だっているはずです。
学校も、様々な社会的な役割があり、複雑で多様な問題に正面から向き合っていかなくてはなりませんから、明確な方針と強い気持ちが必要です。
この両者が、現実の最も大切な局面で向き合うわけですから、その真剣度が高いほど、ある意味対立的になるのは致し方のないことだと思います。
学校は、組織です。 組織には、組織のむずかしさと苦悩があります。 それは理解しているつもりです。
しかし、家族にとって、子どもの問題は、その子の生涯にかかわるもっとも切実なものでありますが、立場的には素人であるし、個人であるし、初めての経験ではあるし、そうした意味で非常に不利なものであると思います。
「法令で決められています」
と、立場ある人に言われると、一般の方では、反論はむずかしいのではないでしょうか?
私は、そこに支援者が必要だと考えています。
それが、主任児童委員さんや、人権擁護委員さんであってほしいと願っていますが、そう言う方々には、ぜひ体制側ではなく、真にご家族側に寄り添っていただきたいと願っています。
そして、複雑で難しい問題には、公正で公平な、第三者機関のお力もいただきたいと思います。
今の状況では、家族側はあまりにも不利です。
だから、モンスターにならざるを得ないのです。
このブログの中でも、「モンスターPで結構です」 という内容のコメントもいくつかありました。
そんなのへっちゃらなの、よくわかります。
だって、自分の命より大切な我が子の、極めて重要な場面に向き合っているのです。
そこに強い気持ちが無くて、どうして親として子どもの前に立つことができるでしょう。
こんな時こそ、怒れる母、泣ける母であってほしいと願っています。
誰に何と言われようとも、子どもが幸せに成長してくれれば、それでいいわけです。
それ以上の何がほしいのでもなく、誰を困らせようというのでもありません。
ただひたすら、子どもの成長と幸せを願う母は、モンスターにも、天使にもなりますよ、というお話です。
私も、保護者支援の看板を上げている以上、ずべての人に良く思われなくても、仕方ありません。
しかし、むやみに学校と対立しようと考えているわけでもありません。
できることなら、子どものために、協力し、よい関係を築いていきたいと心の底から思っています。
覚悟や決心のないものに、保護者支援を名乗る資格は与えられません。
複雑で厳しい現実問題にあっては、不合理や不条理を見逃すことなく、シャープに対応したいと考えています。
そう言う意味で、私は事なかれ主義穏の穏和な支援者ではなくて、いつまでも、怒れる支援者・泣ける支援者であり続けたいと願っているのです。

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積み重ねによって伸びる子ども
2010-03-22
週に1度とか、月に1度とかの指導をしていると、「この子の伸びたなあ」 とつくづく感じることがあります。半年前は、「あ・い・う・え・お」の 「あ」 の字も読めなっかた子が、今では半分以上のひらがなが読めるようになりました。
2週間前は、数唱さえおぼつかない子だったはずなのに、今では、1対1対応がそれとなくさまになってきました。
1年前、逐次読みだった子は、今ではかなりすらすら文章を読むことができるようになり、ひねっていない問題なら、ほぼ自力解決できるようになってきました。
こういう時のご家族の皆さんの表情には、いつもある共通点があります。
それは、粛々とそのことを受け止めているということです。
大して意味のないような出来事の方が、「えっー、本当ですか?」と、かえって大げさに喜んでくれたりします。
懸賞で3000円当たったら、飛び跳ねて大喜びします。
ですが、例えば自分の将来を左右するような大きなプロジェクトの責任者になったとしたら、「やったー、やったー」 なんて感じでは、喜ばないはずです。
成長の本丸に食い込み、軸をぶらすことなく、足場をしっかり固め、日々の教育を営々と1年間続けて、子どもが伸びないわけがありません。
子どもが伸びるというのは、こういう時なのだと思います。
何かテクニカルに有効な方法が見つかり、それがきっかけで、道筋がしっかりと見えることがあります。
ここまで来るのも、なかなかどうして大変なことですが、本当に大切なのは、そこからです。
そこからさらに、1年2年と、永続的に指導を脈々と続けてこそ、真価は発揮されていくわけです。
私は今、何人かの子の読解指導に、重点的に取り組んでいます。
後に時期を見て、詳しく紹介させていただこうと考えていますが、仮説を立て、1回5枚程度のプリントを題材にして週1回指導を行い、20回~30回、時間にして半年から1年取り組むと、かなりの手応えを感じることができます。
スモールステップをこしらえますが、やはり最低でも100枚やり続けなければ、私の思っている最低基準には到達できません。
ですが、ここまで辛抱してがんばることができれば、一定の所まで育てることができると思っています。
毎回の指導で、ちゃんとそこを積み上げることが出来るかどうかは、重要です。
私は、自分で納得できないときは、指導料金をいただかないことにしています。
ですが、毎回指導が必ずうまくいくわけではありません。
そういう時にも、甘んじて料金を受け取らなくてはいけません。
お金を返すということで、責任逃れをしてはならないのです。
うまくいかなっかったときに、いただくお金は、とても重く感じます。
ならば、次回には、そのぶんを盛り返すくらい内容のある指導を行うことが、プロとしての努めであり、ご家族が私に期待されていることだと考えています。
2年前には、わずか3人だった私の教室の生徒は、今では50人をはるか超える人数になりました。
私は、毎回、毎回のこうした気持ちの積み重ねによって、私の教室に来てくださる方が増えてきたと思っています。
決して、目先のことだけにとらわれていけない。
タイムリーな支援と、姑息な手段とは違うのです。
たとえ100人の子の指導にかかわろうとも、私は個別指導ですから、1回に2人以上の子は同時に指導をしません。
今というときは、2度とやって来ません。
将来というのも、結局は大切な今の積み重ねによって通ずる道筋なのだととらえています。
こうしてご縁がって、いただいた時間には、ただただその子の成長を願い、精一杯全力で向き合う。
こうした指導を、ただひたすら毎回積み上げていくことによってのみ、道は開けるのだと信じているのです。
一期一会の個別指導
それも私の指導の大切なコンセプトの一つです。
個別指導ですから、教室には、私と子どもの2人しかいないときが多いのです。
絶大な信頼感がなければ、どうして大切なお子さんを、私にあずけることができるでしょう。
私が何よりも望んでいるのは、毎回の指導で、「ここで勉強してよかった」という子どもの手応え、 「先生にお任せして本当によかった」 というご家族の思いだけです。
何よりも欲しいのは、こうした絶大な信頼感。
それさえあれば、後のことはほっておいても付いてきます。
毎日500円ずつ倹約して、5年ためるといくらになると思いますか?
答えは91万3000円です。
軽自動車の新車が買えます。
継続は力なりといいますが、向かう先が見えていないと、積み重ねにはなりません。
ご家族の皆様と、そこを精査するのも、とても重要なことだと思っています。

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ご家族の期待感と信頼感が どこまで子どもを育てるか?
2010-03-19
先日、あるお子さんの初回指導をさせていただきました。先月、ご両親から初めてご相談をお伺いしました。
4月から2年生になるお子さんですが、これまでのお子さんの発達の経過を、ていねいにファイルに整理されているばかりか、映像によるデータも添えて私の所に送付してくださいました。
私、何ども何度も資料に目を通し、DVDを拝見しました。
発達の特性から、次第に視覚認知に影響が出るようになっているとのことでした。
先月のご相談の折には、指導は行いませんでしたが、ご両親と一緒に教室に来て、お父さんと一緒に遊んだりしていました。
資料やDVDで見るより、ずっとしっかりとしているな、という印象をその時にはもっていました。
今回は、直接子どもの指導にかかわってほしい、というご家族のご希望でした。
どういう内容にするか、かなり迷いましたが、アセスメントも兼ねて特性を理解しながら、小さなステップを刻んでみようと決めました。
玄関で靴をぬぐと、その子は予め用意していた学習コーナーに、お母さんより先にやってきて着席しました。
何より、やる気まんまんでやって来たことに、私の方が驚いてしまいました。
DVDなどの様子から、ここまで用意しておけば大丈夫だろう、と少し多めの教材を準備しておきました。
ところがあに図らんや、その子はすごいスピードで、次々と私の提示する教材を撃破していきます。
「えっ、この子、こんなに前向きな子だったっけ?」
資料としていただいていたDVDに映っている子と、まるで別人のような変身した子が、今、私の目の前にいるわけです。
私、最近こういうことばかりが起こるので、何が今の状況を生み出しているのか、すぐに感じ取ることができました。
「お母さん、ビデオ撮ってるの?」
その子は、そうお母さんに問いかけましたが、そのことをさほど気にするようでもなく、次々と活動を進めていきます。
そうです。 このお母さんが作られたステージで、主役のこの子が躍動を始めたわけです。
私は、この子が歩んでいく道筋を、ちょこちょこっと整理しているだけに過ぎないのです。
母の目には、私の魔法と映っているかも知れませんが、それは美しき誤解です。
私は出来上がったステージで、台本読んでいるに過ぎません。
このところ何度もこういうことが起こるので、私にはその理由が見えるのです。
事前に考えて教材は、すぐにやり遂げてしましました。
まさかために用意していた教材はありましたが、あえてその教材には取り組まないことにしました。
このいい感じを残して指導を終えた方が、きっとこの子とこのご家族の明日に繋がっていくことが、私にははっきりと見てとれたからです。
遠くからお越しいただいた方ですが、あえて時間にゆとりをもって指導を終えさせていただきました。
翌日、さっそくお母さんから、以下のような内容のメールをいただきました。
SHINOBU先生
昨日はお世話になりました。
無事帰宅して、今日も元気に学校に行ってきました。
昨日先生の指導を受けているときの息子は、本当に輝いていて←親ばかですが…
いたずらっ気も出ちゃいましたが、集中してできたこと、抱きしめてあげたいです。
録画画像をみた家族も驚いていました。
信頼できる環境で、解ってくださる先生の指導の中では、あんなに輝ける!!
また、自信がつきました。
ありがとうございました。
そして、これからもよろしくおねがいします。
DVDを見たとき、この子ならもっとイケルと正直思っていましたが、実際に指導をしてみると、それは私の予想さえも大きく超えたものでした。
これは、私の予測の甘さもあったのですが、どうやらそれ以上に、今回のご家族の営みの中で、この子に何かのスイッチが入ったに違いありません。
この先生ならと、大きな期待感と願いをもって、遠くから、安くない費用を費やして、わざわざお越しいただいたわけです。
先月、お母さんがどのような口調で、どのようなまなざしで私に向き合っていたか、この子横目でしっかりとらえていたはずです。
そういうことが、伝わらないわけがありません。
そういう極めてスペシャルな場を、この子はしっかりと感じ取っていたわけです。
視覚認知は苦手でも、言語・継次性は優秀、ならばそこを生かした長所活用型のアプローチで、希望の道は拓けないでしょうか?
ここであきらめて立ち止まりますか?
それとも、たとえどんな結果になろうとも、もう一度顔を上げ、希望をもってチャレンジしてみますか?
微力ですけど、今日から私もご家族と一緒に歩ませてください。
それが、初回相談の時に、私がこのご家族にお伝えしたかった内容です。
もしかしたら、こんなことが起こるかも知れません、こういう事態が起こるかも知れませんと、危険性(リスク)を予見して、適切な理解と手だてをうつことは極めて重要です。
しかし、それだけで奇跡は起こるか? ご家族は幸せになれるでしょうか?
教育とは、子どもの可能性を信じて歩む営みと、私は定義しています。
可能性を信じない者に、奇跡は決して起こりません。
「私、この子の可能性、信じていますから」
こうお伝えした瞬間に、このお母さんの目は真っ赤になりました。
すでに奇跡は起こってるじゃありませんか?
「じゃあバイバイ」
指導を終えて出て行ったこの子の表情は、本当に輝いていました。
最初から甲子園をあきらめていて、何の高校野球でしょうか?
1%でも可能性があるのなら、ゲームセットのコールがかかるその瞬間まで、全力プレーでいきたいものです。
たとえ結果が1回戦敗退であったとしても、全力で最後まで戦うことが出来たなら、そのチームにはきっと何かすばらしい値打ちが生まれてくるはず。
奇跡を信じて戦ったことで、きっと何かが大きくそだつはず。
このご家族こそが、私にその気持ちを呼び起こし、結果としてそのことがお子さんに伝わったのに違いありません。
繰り返しますが、私は、受け止めたご家族の気持ちを、ただお子さんに伝えたのに過ぎませんから。

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かれんちゃんとお買い物ゲーム
2010-03-18

最近、ちょっとしたことがきっかけで、就学前のお子さん向けに、お買い物ゲームのやり方を改良しました。
改良後、なかなかいい感じなので、今回はかれんちゃんに登場いただき、新お買い物ゲームの方法を公開させていただきます。
まず、トレイのなかに、以下のような感じで何種類かの品物をあらかじめ入れておきます。
子どもによって、中身は多少変えるのですが、今回はこの画像のように数種類の品物を、合計20個入れておきました。
桃は1個、おにぎりは2個、きゅうりは3個、なすは4個というように、構成をねらいに合わせて工夫しておきます。
「かれんちゃん、きゅうりをください」 と、私が言うと、かれんちゃんはトレイのなかのきゅうりを3本、私のお買い物かごに入れます。 その際に 「1・2・3」 と言葉を添えてやるといいと思います。
「かれんちゃん、ありがとう。 じゃあ、お金をはらうね。 手を出してごらん。 1・2・3、はい30円」
と言って、私は10円玉を3個かれんちゃんに渡します。
それを受け取ったかれんちゃんは、その10円玉をトレイに並べてにっこりです。 (下の画像1~3)

1

2

3

20個全部売り終わったら、お片付け。
かれんちゃんは、受け取った10円玉合計20個を、1個ずつ手でつまんで、それを私の財布の中にしまっていきます。
この時に、子どもによっては、まとめてばさっと財布に入れようとしますが、それはなるべく避けるようにしたいものです。
数唱、一対一対応、指先の巧緻性、さまざな大切な内容が、こうした活動を通してブラッシュアップしていくことができるのです。
ばさっと入れてしまうのは、もったいないもったいない。
肝心なのは1回やって指導者が満足してしまうことではなく、子どもが楽しめて、何回も何十回もお買い物ゲームを続けてしたいと思えるようになることです。
そうなれば、シメシメだし、そうでないと本当の力はなかなか身についていかないのではないかと思っています。

子どもは、数の勉強は決してきらいではないのです。
数が数えられるようになりたいと、みんな願っているわけです。
何歳なら、ここまでできるようになってほしいと目標を設定し、それに向けて努力する教育の営みほど貴重なものはありません。
しかし、何歳で何かが苦手なことがあったからといって、それでご家族が落ち込んでしまったり、暗い気持ちになってしまったのでは、何のための教育的な目標であるのかわからなくなってしまいます。
いくつになっても、知りたい・学びたい・できるようになりたいという気持ちは、人間のもっている基本的な欲求の一つです。
そこからスターする学びが、もう一つの基本的な学びの姿ではないかと、私は思っています。
新・お買い物ゲームは、数だけでなく、ものの名前や応答コミュニケーションなどを養うのにも役立つのではないかと期待しています。
子どもはみんな出来るようになりたいし、学びたいのです。
そういえばかれんちゃん、この日のパソコンの学習で、にんじんやふうせんやめがの絵を見て、はっきりと 「にんじん」 などと答えてくれて、私を驚かせました。
1年前は決してこうではなかった・・
私の脳では、日に日に多くの脳細胞が死滅していますが、かれんちゃんの脳内ネットワーク (特に言語野) は、みるみる豊かになっているようです。
まだまだ未分化のところもありますが、この先どこまで、この子の言語が発達するか楽しみでたまりません。
エネルギーのある子は、対応がむずかしいですが、その分魅力たっぷりです。
後ろ向きな気持ちになったり、後手に回ると、物事はうまくいきません。
行動に配慮が必要な子ほど、感受性は豊かでそういうことを敏感に感じ取ってしまいます。
とにかく、可能性を信じて、前向きに明るく、楽しい学習を!
かれんちゃんの笑顔こそ、私の決心の大きなバロメーターの一つになっているのです。

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移りゆく時の流れの中で 人が育つということ
2010-03-16
先ほど、6月から通ってくれるようになった3歳の男の子の、最後のレッスンが終了しました。この春の異動で、ご家族が広島に引っ越されることになったのです。
「やっと、保育園が決まりました」
そう、お母さんは伝えてくれました。
この子が広島に行くにあたり、私は保育園の先生や関係機関の先生宛に、簡単な報告書を作成しました。
わずかA4用紙2枚程度の簡単なものですが、なるべく断片的な活動の数値のようなものではなく、この子の育ちのあゆみが感じ取れる心の通った文書になるよう配慮したつもりです。
報告書を書き終えたあとに指導を行うと、反応がいつもよりしっかりと返ってくることに、すぐに気がつきました。
私の頭の中で色々なことが整理され、指導のねらいも方法も、以前より精度が上がったのに違いありません。
少し前までは手こずっていたパズルやカードも、「えっ、君ってこんなに出来たっけ?」 と、驚くような場面が何度もあったし、表情も生き生きとして、いつもよりも多くの言語表出が見られました。
「やっと、ここまで来られたのに、ちょっともったいないですね」
この子が生まれ、この岡山の地で、このご家族はどのように歩んで来られたことでしょう。
これで最後というレッスンを終えたあと、私は涙をこらえるのに必死でした。
通い始めたころは、まだまだ幼い感じの子でしたのに、すいぶんとお兄ちゃんらしく、しっかりとしてきました。
それに、このまぶしいような、あふれるような笑顔。
その笑顔から、また、私の胸に熱いものがこみあげてくるのでありました。
このようなご家庭ですから、きっと新しい土地でも、この子の学びの場、育ちの場をしっかりと構成されていくことでしょう。
「単発でもいいので、また岡山に来られる時があったら、レッスンを受けにきてくださいね」
私は、そうお母さんにお伝えをしました。
ご家族に手を引かれ、初めて私の教室に入ったときに、とても不安な表情を浮かべる子がいます。
私は、そんな子の目を見る度に、「それは小さい頃の自分の目の色と同じだ」 と、感じることがあります。
私は、この活動を行うために、この世に生を受けたのだと本気で思っています。
あの不安で押しつぶされそうだった少年のころの私は、多くの人々、多くのできごとを通して、やっと自分の生きる意味を自分自身で受け止めることができるようになったのです。
先週の月曜日、私は体調を崩し、2日間、指導をお休みさせていただきました。
心に弱いところがあったと、とても恥ずかしく、悔いを残しています。
もっともっと強い気持ちをもって、1回1回のレッスンにきちんと向き合っていかなければなりません。
本当に、深く反省をしています。
できることであれば、5年・10年とずっとこの活動を続けていたい。
「今でも、こんなにたくさんの子どもを教えているんだよ」 と、この教室を卒業した子どもたちが再び尋ねてきてくれた時に、胸を張って笑顔で迎え入れてやりたい。
「先生、オレ今、ここでがんばっているよ」 と、きちんと報告に来られる場所に、ずっとずっと立ち続けたい。
どんな人生だって、決して一本調子であるわけがない。
人は色々な体験や出来事をくぐり抜けることによって、初めて自分の生きる意味を見つけていくのだと思っています。
私は、そうやって、多くの人に支えられて、やっとこの道を見つけた。
多くの人に支えられての私の今があるように、私は君の見えない手となって、ずっとずっと君を支え続けたい。
どんなに時が流れていこうとも、共に過ごした時間は決して消えない。
君は、きっと本当の自分を見つけたときに、それまでのご両親の深い愛情や、すばらしい先生方のことに感謝するに違いない。
そして、今度は自分自身が、誰かの幸せのために働き出すに違いない。
君にそんな日がやって来るまで、先生はずっとこの教室で子どもたちに向き合っていきたい。
45分という私たちに与えられた時間は、そういうことの積み重ねで生まれた必然なのです。
君とは今日まで全部で15回、そういう時間を一緒に過ごしたことになります。
たとえささやかであっても、わずかであっても、私たちにいただいたその時間を、これからも大切にしていきたい、そう願っているのです。
新しい土地で、弾むように躍動する、君の笑顔が目に浮かんできます。
人生は、ステキです。
今度会える日を、ずっとずっと楽しみにしています。

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ご家族とともに歩む
2010-03-15
先日、花子ちゃんの学校に、お母さんと2人で行かせていただきました。通常学級の担任の先生、支援学級の担任の先生、コーディネーターの先生、そしてお母さんと私の5人で新年度の学びの枠組みについての願いや思いをお伝えしてきました。
実は、通常学級の担任の先生とは、以前からお付き合いがあり、プライベートな勉強会で何度もお会いしたことのある方です。
お互いに教育的な強い信念をもっていますから、かつて何度か激論を戦わせました。
ましてや今は、お互いの立場があります。
双方譲れな所は、一歩も後へは引けないのです。
花子ちゃんは、通常学級で入学し、2年生・3年生と支援学級在籍となりました。
発達の経過、環境の変化などに伴い、今、ご家族は、通常学級へと重心を移していくことを強く望まれています。
私が大阪で指導をさせていただいている男の子。
2年生の子ですが、昨年1年で見事に大きな成長を遂げました。
この子も通常級入学、支援級へ移籍の子ですが、その運用が実にフレキシブルです。
多くの時間を通常級で過ごし、この子のニーズに寄り添いながら、支援級の先生が週に何時間か定期的にかかわってくださっているようです。
「よく、そんなことができますね。 岡山では考えにくい形です」
「この支援級の先生は、たいへん有能で、地域でも名の通ったひっぱりだこの先生なんです・・」
別のお母さんから、そんな話も伺いました。
同じ大阪であっても、すべての学校が同じようであるとは思っていませんが、私はこの大阪の 「先に制度があるのではなく、まず子どものニーズを見つめることから」 という姿勢から、学ぶべき点が多くあるのではないかと思っています。
私は今、2週間に一度、この子の個別指導をさせていただいています。
個別指導を初めて1年になりますが、お母さんの表情は、1年前とは比べものにならないくらい明るく、希望に満ちたものに変わっていきました。
私は、子どもの指導と同じくらい、ご家族とのつながりを大切にしています。
今回の花子ちゃんのケース会でも、私は、このご家族の支援者という立場を明確にして臨みました。
花子ちゃんは、私の生徒第一号ですし、このお母さんと出会っていなかったら、今の私の活動はなかったかも知れません。
今は入会してくださる方が増え、そんな時間的なゆとりがなくなってしまいましたが、以前には、90分の指導の後、1時間くらいは毎回お母さんのお話をお伺いしていました。
わずかであっても、共に歩む支援者がいることで、強い気持ちが芽生えてくる・・
花子ちゃんのお母さんをはじめ、多くのご家族の皆様から、私はそんな言葉をいただいてきました。
皆さん、決して私に寄りかかっているわけではありません。
私の教室の扉をたたかれた方は、皆さん主体者としての強い決心をもたれている方ばかりです。
多くの苦難を乗り越えて、ここまでたどりついて来られた方ばかりです。
だからこそ、その事を理解し、きちんと受け止める支援者としての役割が重要になってくるのだと、私は思います。
家族が育つことが、子どもに影響を与えないはずがありません。
花子ちゃんは、つい先日、発達検査を受けに行きました。
IQ値が、前回のものと比べ 「15」 向上していたと聞きました。
私が関わった子の中で、1年で20位数値が伸びた子もいました。
「15」 伸びたことは、うれしいことですが、まだまだこんな数字じゃないはず、というのが私の印象です。
顔を見ると、お母さんも私と同じ表情をされていました。
今回のケース会では、先生方のこれまでのご努力をふまえ、4月以降、学校で軸足を置いて指導していただきたい部分を明確にお伝えするよう心がけました。
学校の立場や、体制、学校でしかできないことを理解したうえで、すべてを丸投げするのではなく、こういう立場で指導をお願いできれば、その結果は、本人と家族と支援者である私が受け入れます、とお伝えしたつもりです。
今回は、あまり対立的にはなりませんでしたが、伝えるべきことは伝えきれたのではないかと思っています。
学校は、4月からある意味、別組織になってしまうので、そこも注意深く見つめていかなくてはなりません。
「学校は1年1年の指導に責任をもってお取り組みをいただいています。 私たちは、何年経とうが、ずっとずっとこの子に寄り添って生きていきます。 その結果も、私たちが背負います」
私は、ケース会で、先生方にそうお伝えしました。
この2年間、お母さんはたくさんの本を読み、勉強会・学習会にも何度も足を運ばれ、親としてできることに一点の悔いがなきよう、真心を込めて対応をしていかれました。
「この子に未来がないなら、希望がもてないのなら、この場で死んだ方がましです。」
こうした覚悟と決心が、きっと彼女をここまで育ててきたんだと思います。
たとえそこにどんな困難が待ち受けていようとも、どんなに時間がかかろうとも、それがどんなにちっぽけな幸せであろうとも、大切な道はきっと拓けていくと、私たちは信じています。
希望は、決心の強さの裏返し。
”I need your help.”
主体者としての、凛とした、とても美しい言葉の響きです。
ゆるい気持ちなんかで、決して前へ進んでいくことなんて出来ませんから。

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子どもの可能性の芽を育む (2年生太郎君の実践から)
2010-03-12


太郎君が、図書室から本を借りてきました。
国内で生産された車が何千台も載っている、車のカタログのような本です。
車の大好きな太郎君らしい選択です。
2人で何気なくそのカタログ図鑑を眺めていました。
すると太郎君、「これ、先生の車!」 と、言って何千台もの車の中から、私の車をピックアップするではありませんか?
私の車、3月に買ったばかりで、そのことを詳しく太郎君に教えたわけではありません。
私はメーカーも、車種も知っていますが、このカタログ図鑑から見つけ出すのは容易ではありません。
この子、どうしてこんなことが出来るのでしょう。
信じられないような気持ちです。
その太郎君にひらがなパズルをさせてみました。
ご覧のように、決して五十音順に攻略しているのではありません。
この子、パズルの形を見て、次々にはめていくのです。
たぶん、文字がなくても出来るのではないでしょうか?
以前に、言語に課題はあるけれども、裏返してでもパズルが出来る子に出会ってきましたから・・
その太郎君、また2年生ですが、パソコンのキーボード入力で、アルファベットを識別しながら、Googleで検索したりすることもできます。
辞書を勝手にカナ変換して、50いくつのキーを選択することもできます。
まさに恐るべき能力です。
今日、私が学校にお迎えに行った時、あるひょうきんな男の子が、妙なテンションでからんできました。
太郎君は、半分迷惑そうな、半分うれしそうな顔で、やりすごしていました。
「仲がいいなあ」
と、私が言うと、「仲がいいけど、時々ケンカする」 と、その子は返しました。
「そんなんだ~」
私は、そんなふうに自然に接してくれるこの子の存在を、心の芯からうれしく思いました。
「通常学級は無理」 「2年生ではどうなるかわかりませんよ」
その時、そんなふうに言われてきた言葉が、私の頭の中をよぎっていきました。
この日の指導中、太郎君はしゃべり続けました。 おいコラ、少しは黙っていなさいっていうくらいしゃべり続けました。
何がそんなに楽しいんでしょう。 ニコニコ笑顔で、とても楽しい時間でした。
保育園の時は、ほとんど表出言語が見られなかった子が、今は、「なんでやねん」 と、私のボケにツッコミを入れるまでになりました。
計算は苦手です。 これだけ文字の形を見分けることができるのに、数を量としてとらえることが苦手なのです。
視覚入力ですが、数処理は継次的です。
ですが、継次的に攻めれば、たし算の計算の答えが出せるところまでたどり着きました。
私、機会と環境さえ与えていただければ、ひき算でも、筆算でも、必ずこの子が答えを出せるようにする自信があります。
道筋は、しっかり見えています。
後は、その道を歩むだけです。
極論ですが、数唱と一対一対応さえ出来る子なら、どんなに大きな数になっても、たし算とひき算ができるようにさせることができると思っています。
ただし、時間は必要です。
何か苦手なことがある子は、それを補うかのように、必ず何か別な部分が発達する。
それは、私が心の拠り所としている仮説の一つです。
私が出来ないことを、太郎君は、当然のような顔で平気でやってのけます。
先日、私が体調が悪くて指導をお休みしたとき、すごく私のことを心配してくれたのも、この子です。
この真心と才能に、ぜひとも花を咲かせたい。
君が命を輝かす場所が、どこかにきっとあるに違いない。
誰と比べることもない。
あなたが、あなたらしく、今のままですくすくと大きくなっていってほしい。
私は、この子と一緒に勉強できることを、何よりの幸せに感じているのです。
リスクを精査して洗い出すことも、一方で大切な事だと思いますが、可能性を信じて取り組むことこそ、教育の王道であると心得ています。
指導者が出来ると思わないでいて、どうして甲子園に出場することができるでしょうか?
結果として、例え甲子園に出られなくとも、それを信じて日々取り組む練習こそ、人を育てていくのではないでしょうか?
どんなにそれが遠い道程であったとしても、私はご家族と共にその道を歩んでいきたい。
私、この子が計算できるようになると、心の芯から信じていますから。
【追伸】
この記事を書いた翌日、朝教室に行くと、扉の所に小さな袋がかけてありました。
中を開けてみると、きれいな包装紙にくるんだ手作りチョコレートと、色紙の裏に書かれた太郎君のメッセージが添えられていました。
男の子だけど、私の小さな恋人からの、とてもうれしいホワイトデーのプレゼントをいただきました。
この気持ちに応えたい。
自らが育ち、学ぶ手応えのないところに、決してこういう気持ちは芽生えてこないはずですから・・


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子ども理解の2つの軸 (サポートブックや個別指導計画は何のために?)
2010-03-11
昨日の指導場面でのエピソードです。4月から入学予定のダウン症の女の子に、数量の指導をしていました。
この子は、パズルが得意な子で、先日、宿題として渡しておいた46ピースのひらがなパズルを、あっという間に私の目の前で完成させてしまいました。
ものごとをぱっと見て、映像としてとらえることの得意な子です。
単語も、どちからというと、一字一字をかっちりとらえていくタイプなので、やや逐次読みになりやすい傾向も伺えました。
数字のうらに、ケーキを5個印刷したカードも、それを見て瞬時に 「5」 と、言えるように練習をしてきた子です。
「□□□□□ □□」 を見て、ぱっと 「7」 とわかるのは、算数でとても大切な力です。 同時的に数量をとらえる力です。
と同時に、ごちゃごちゃに並べられたりんごを、「1・2・3・4・・・・・14」と、一つずつていねいに数えていく能力も大切な力です。 継次的に数量をとらえることのできる力です。
私たち大人は、経験豊富ですから、あるときは同時的に、あるときは継次的に数量をとらえます。
ところが、子どもは今まさにその過程にいるわけですから、ある時は継次的な見方ばっかりで攻略してきます。
活動の途中で、そのことを切り替える経験が少ないからです。
この女の子、もともとは同時的なことが得意でしたが、昨日のレッスンでは 「16」 とかのケーキを数える力が、2週間前、1ヶ月前と比べるとかなり向上しており、驚きました。
ちょっと前までは、確か7・8あたりで、かなり怪しくなっていましたから・・
私は、子ども理解の軸は2つあると考えています。
一つは、検査データ、経過、論文や研究経過をもとに演繹的に子どもをとらえる方法です。
例えば、K-ABCアセスメントバッテリーなどから、この子は同時処理優位だから、こういう指導法が有効ではないか?と、仮説を立てながら、指導法略を構築していくやりかたです。
ある意味オーソドックスで、信頼度の高い、正攻法のやり方だと思います。
しかし、具体的な実践場面・臨床場面になると、様々な要因や経過が複雑に交錯していますので、微細な部分については、決して論理通りには進まないことの方が多いのです。
検査結果は、信頼のおける客観的なものとして尊重されるべきものと心得ていますし、これまで多くの面で大変参考にさせていただきましたが、これは統制された環境の中の、プロフィールや断面であって、決して森羅万象すべての真実を集約した物ではないわけです。
上記の女の子のエピソードも、その一例です。
検査は、最も信頼できる参考資料の一つですが、世の中、検査ですべてのことがわかるわけではないのです。
子ども理解のアプローチのもう一つの軸は、帰納的なアプローチです。
「あの子、昨日本読みがとても上手にできていたね。 もしかしたら、みんなで一緒に読むと、聴覚的に文をとらえやすくなるのかな? だったら、短いフレーズで、ちょっとずつカードのようにして、聴覚と視覚とを対応させて練習させてみるか?」
「あの子、やっぱり書き順は、縦・横・横と言葉を添えると快調だけど、やっぱりBちゃんは余計なことをごちゃごちゃ言うと混乱するなあ」
というように、具体的な実践の経過をもとに子どもをとらえる方法です。
この双方の軸で子どもをとらえると、より立体的に子どもの姿が浮かび上がるのではないかと思います。
その軸足の置き方ですが、教育の場合、帰納的が7、演繹的が3くらいでよいのではないかと思っています。
サポートブックにしても、個別指導計画についても、こういうものは性質上、どうしても演繹的になりがちで、血の通わない形式的なものになりやすい落とし穴が待ち受けています。
ご立派で、学術的な用語をいくつ並べた支援計画であったとしても、それが実践場面に生きて働くとは限りません。
出張で、分厚い出張報告を書いてきた保育士がいました。
私は、その保育士に尋ねました。
「で、結局君は、どんなふうにこの事を、明日からの保育に生かしていこうと思うの?」
「めざすことを段階的に示してやって、上手に支えながら、発表会では、みんなの前で認めてあげたいです」
「うん、楽しみにしているよ」
その瞳の輝きから、何かがストンと心に落ちているのを感じました。
物事の本質が見えている人ほど、むずかしい言葉を使わずに、簡単なエピソードを紹介しながら、鮮やかに子どもの今を切り取ります。
個別計画も、サポートブックも、こんなふうであってほしいと思うのです。

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子どもの巧緻性を培う実践テクニック
2010-03-05

先日の記事で、かれんちゃんのご家族が、ご家庭でどのようなご苦労をされていたのかをお伝えしました。
「あの笑顔のかわいいかれんちゃんのご家族に、あのようなご苦労があろうとは、思ってもみなかった。」
「適切な支援があれば、うちの子も、かれんちゃんのように、行動が改善されていくかも知れない。 もう一度、希望をもって、がんばろうとういう気持ちになった。」
何人ものご家族から、そのようなことをお聞きしました。
わたしたちは、いつも、ありのままのかれんちゃんに向き合っているわけですが、記事をお伝えし、多くの方のご感想にふれることによって、自分たちのありかたについて、そして何より、かれんちゃんの育ちそのものの価値を見つめ直すよい機会になりました。
そういう気持ちをもってレッスンに取り組むと、ダイレクトに影響します。
ほら、ご覧の通り、笑顔満開のレッスンとなりました。
かれんちゃんは、この頃言語系の理解力がかなり向上してきました。 指示も認知も、言って分かるし、正しいレスポンスが返ってくるようになりました。
粗大系の空間認知や、相手の気持ちを感じる力もシャープです。 ですが、どちらかというと微細系の運動や認知が苦手です。
その課題の一つであった指先の巧緻性が、認知力の向上と共に、よい方向に変化が見られ始めました。
脳の運動野の手指の言語中枢に近い部分にあることからも、こうした成長の背景を読み解くことができるのではないかと考えたりもしています。
この日は、クルクルローラー、パズル、積み木、どきどきアンパンマンなど、以前は苦手で拒否反応を示していた活動にも、かなり積極的に取り組むことができました。 (↓下の画像)







これまでの実践の中で、無理矢理パズルをさせようとして、何度もピースをポイされました。(笑)
やればやるほど、ドツボにはまっていきます。
先日、ある子に、パズルをやらせようとすると、ピースをいすの下に隠してしまうのです。
もういちど、それを机の上に戻すと、また同じように繰り返します。
表出言語が、また未発達な子どもですから、そうやって私にメッセージを発信しているのです。


私とかれんちゃんの言語の教科書は、このような大型絵本が中心でした。
アンパンマンひらがなカードなども、一時期はまりましたが、やっぱりこの大型絵本が大好きです。
「絵本でお勉強しようか? 持っておいで」
「うん」
そう言って、すぐに自分の体がすっぽりかくれてしまさおうな大きさの大型絵本をかかえて持ってきてくれます。
心がつながっているからこそ、こうした言語による指示にも、スムーズに反応してくれています。
展開が下手くそだと、同じことを言っても、コミュニケートは成立しません。
つまりコミュニケート (気持ちの通い合い) が先にあって、その一つの手段として言語を使用すると、信じられないくらいスムーズに入っていくのです。
先に絵カードを持ってきて、「さあ、これを読みなさい」 とでは、天と地ほどの差が生じてしまうのです。
また、ねらいを明確にして、いくつかのプログラムを用意して、子どもに選ばせる (自己決定させる) のも、かれんちゃんの指導には、とても効果的です。
「君が選ぶまで、ずっと温めておく」 というくらいの才覚と見通しが指導者にあったなら、不思議なもので、案外すぐその日に子どもは選んでくれます。
出てるんですよ、非言語のオーラが私から・・
かれんちゃんは、感性が鋭いので、私の顔色をいつも感知しています。
きっと目を三角にした教材は、いつも楽しくないし、強要される。
逆に、にっこり笑って、「そう、じゃあやってみるか~」 と、反応したら、実はそれは周到に準備された自信たっぷりの教材で、きっと楽しい、ということを瞬時に感じているのだと思います。
言語が未発達な子ほど、その感性が鋭いということも、脳の代償性という観点からも、十分に説明ができることです。
私が多くの子の実践を通して感じていることは、認知・言語・巧緻性などの発達を、バラバラにして考えることはできないということです。
先日、支援の王道として、スモールステップとプロンプトフェーディングのことをお伝えしましたが、もう一つ発達の最近接領域ということがあげられます。
小学校の算数では、既習学習の活用ということも言われます。
つまりこれは、今までに学習したことをちょっと生かせば、解決できそうな、子どもの学習意欲をそそるような課題を子どもに提示していくということです。
かれんちゃんは、動物パズルが大好きです。
私は、かれんちゃんが積み木やパズルに取り組むようになったのは、大型絵本で培った認知や言語の発達によることが大きかったのではないかととらえています。
「そうさん、バイバイ」 「キリンさん、バイバイ~」
大型絵本で遊んだときのように、私はそういって、私はかれんちゃんと一緒に動物パズルをバラバラにしていきます。
「ぞうさん、おかえり」 「きりんさん、おかえり」
そう言って、型の中に動物をはめこんでいきます。
「きりんさんのおうちは、ぞうさんのおとなりだったよね」
そう言った言語支援が、かれんちゃんには効き始めました。
大型絵本で培ったステージが、わたしたち2人の中では共有化されていますから。
ここが育ったからこそ、パズルを攻略できるかれんちゃんになってきたのです
同じバナナでも、その属性はさまざまです。
「黄色い」 「長い」 「皮がすべる」 「おいしい」 「おさるが大好き」 「原産地はフィリピン」 ・・・
私たち大人は、その属性を多面的にとらえてバナナという概念を構成しています。
たとえジュースになっても、これはバナナだとはっきり認識しているわけです。
しかし、子どもはそのことを、今一つずつ学んでいる過程にあるわけです。
はじめて飲んだバナナジュースを、果たしてバナナと認識できるでしょうか?
そのとらえ方が、私たち大人と同じであろうはずがありません。
パズル一つでも、色・形・図柄・文字・順序性などのいくつかの属性があります。
それをパズルとして、はめていく活動にも、視覚認知・処理・判断・動作などいくつかの高次なプロセスを必要としているわけです。
ならば、パズルのできる子に育てたいとしたならば、ただただ同じパズルを単調に何度も何度も繰り返すだけではなくて、一方で、理解言語を育てたり、色の認知力を高めたり、そうした活動がとても重要になってくるわけです。
それがいくら大切なことであっても、何の工夫もない全く同じパターンで、苦手なパズルばかりをこれでもかこれでもかと毎回毎回やらされたら、モチベーション下がると思いませんか?
個別指導は、こういうパターンに陥りやすい傾向があります。
個別支援は、集団のベクトルが働かないので、指導は余計にむずかしいのです。
個別にすれば、何でもうまくいくというのは大間違いで、その逆のパターンだってあるわけです。
学級ではいい子なのに、個別になるとめちゃくちゃになる子もいます。
あえてプロというならば、ぐるっと回ってそこへ立ち返らせるだけの、周到で楽しいプログラムを構成したいと思うのです。
既習事項を使って、新しい課題を解決できることは、子どもにとって楽しいことです。
子どもに困難な課題に挑戦させようとするならば、指導者側もその子のために、工夫したオリジナル教材くらい開発してもらいたいと思うのです。

私、パズルが苦手な子のために、ひらがなパズルを用意しました。(↑上の画像)
この子、ひらがなはちゃんと読めるのに、形の認知は得意ではありません。
私、ボードの部分に、サインペンでひらがなを書いておきました。
この子、字が読めますから、40以上のピースであっても、何の苦もなくスイスイとはめていきます。
ひらがなという既習事項を使って苦手なパズルを攻略しているのです。
今まで取り組もうとしなかった分野にも、この子自分の得意な分野を使って堂々と乗り込んできました。
この子、きっと一ヶ月もしない間に、サインペンでひらがなを書いていないもの (私の支援をフェードアウトしたもの)をやるたがると見ています。
それを見越して、今はひらがな支援つきのパズルをさせているのです。
まさに、長所活用型のパズル攻略法です。
子どもですから、脳の可塑性は、大人の比ではありません。
パズルに向き合っていくうちに、その苦手な部分は、個人内では苦手のままであっても、周辺領域であったはずの形の認知力も、必ずやがては向上していくはずです。
恐ろしいのは、パズルが嫌いなことになったり、トラウマになったりして、心理的なダメージやモチベーションや自己肯定感を下げ、それをしようとしなくなることです。
それを乗りこえさえる見通しと、指導性があれば、例え困難であっても、子どもにチャレンジさせ達成感をもたせればよいと思います。
しかし、見通しも工夫もないままに、苦手なことを単調に何度も何度も反復させるのは、果たしていかがなものでしょうか?
がんばれ、やれば必ずできる! その裏にどれだけの指導者の工夫や見通しがあるのか? 要は、それにかかっているのだと思います。
パズルが嫌なら、まず絵本で勉強してみようか?
先生のその目には、しっかりパズルができる子どもの姿が映し出されている。
先生のふところの中、大きな野原で自由自在に遊び回りながら、子ども自身が見つけた1本の道筋。
その先は、きっと新しいステージにつながるはるかな道程。
そっと先生が用意していたその道程を、子どもは自分自身の足取りでしっかりと歩んでいく。
私が目指しているストーリーは、きっとそんなものであるような気がしています。
子どもには、学びの欲求があり、自ら伸びようとする意思がある。
そのことを信じるからこそ、私はあえて回り道を進んでいくのです。

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「すべての子どもに 集団での学びと 特性に応じた適切な個別指導の場を」
誰かのために何かのできる子
2010-03-04
それぞれの学校には、学校教育目標というものがあります。「強く」「正しく」「あたたかく」などの、子どものめあてもあるでしょう。
私の教室は、個別指導教室ですが、教室の指導目標を明確に定めています。
子どもに何を培うかという、私の教育目標です。
「子どもの肯定的な自己理解を深めること」
「自分を大好きな子に育てること」
それが、私の教育目標なのです。
自分の苦手な事も含めて、自分自身が好きになる子に育てたい。
オレ、国語はちょっと苦手だけど、理科は大好き。でも国語もがんばるからね~
私は、そんな子が大好きです。
肯定的な自己理解力が育った子は、例外なく、他の子に優しくなります。
オレも足遅かったから、なわとびの苦手な何々ちゃんの気持ちがよくわかるよ
だから、今度一緒に練習しようってさそってあげようかな~
なんてステキな子どもでしょう。
学級委員にならなくても、代表選手にられなくても、こういう子はクラスの中になくてはならない子になっていきます。
その子が休むと、みんながとても心配します。
クラスのみんなから慕われ、なくてはならない存在となっているのです。
こうして他者から必要とされるようになってこそ、本当の意味の自己肯定感は育つのです。
いくらテストで100点とっても、50メートル走でいいタイムを出しても、クラスのみんなから受け入れられていない子に、自己肯定感は育ちません。
子どもは、みんなお手伝いが大好きじゃありませんか?
誰かのために何かができてこそ、人は自分のことが好きになっていくのです。
昨日、就学前のある女の子のお母さんから、下記のような内容のメールをいただきました。
ダウン症お子さんですが、1年生を通常学級でスタートすることになりました。
昨日は幼稚園での最後の行事、お別れ遠足がありました。
園長先生によりますと、帰りの時に「荷物が重い」とか「歩けない」とぐずっていたそうですが、「年長さんは年少さんの手をつないでバスまで一緒に行ってあげてください」と声がかかると、さっと立ちあがって自分よりも背丈の大きい年少さんの手をつないでバスまで案内していたそうです。
あまりに態度がコロっと変わったので、園長先生もずっこけたとか・・・。
小学校に行っても係などの仕事を張り切る姿が目に浮かびます。
私、こういう子、大好きです。
この学校の校長先生にお会いしたとき、私は、「きっとこの子は、この学校の宝ものになります」 とお伝えしたことを、はっきりと覚えています。
みんな役に立つ子になりたいんですよ。
1年生の手を引いて、入学式に入場してくる6年生のお兄さん、お姉さん。
うれしいのは、1年生より6年生の方です。
6年生として、新しい1年生を迎える、そのことによって最高学年としての誇りや自覚が培われていくのです。
まさにこの場で、自己肯定感が培われていくのです。
たとえどんな重い障がいがあろうが、誰かのために役に立つ子に育てたい。
私の大切な願いの一つです。
どんなに手厚いケアを受けようが、、それだけで決して幸せとはいえません。
自分を必要としている誰かがいてこそ初めて、人はそのことに幸せを感じることができるのです。
どんなに重い障がいであっても、その子の果たす役割はきっとあるはず。
そういう子どもに育てていくことが、教育の役割であり、そのことによって子どもは幸せを感じるのだと思っているのです。
今度1年生になる女の子は、構音が少しだけ不明瞭なのです。
ですが私は、この子が高学年になったら、委員会やボランティア活動で、中心的な役割を果たすような子になってほしいと夢見ているのです。
委員長でなくてもいいんです。
何々ちゃんがいないと、何だか活気が出ないよな~ きっと、そういう存在感のある子になってくれると思っています。
楽しみです。 夢が広がります。
全国には、そんな子がきっとたくさんいるはずです。
決して人と比べなくてもいいのです。
あなたは、あなたの命を輝かせて、誰かのために何かのできる子に育ってほしい。
私は、それができると思っているからこそ、前へ進んでいけるのです。
私が、私らしく生きていけるのも、あなたがここにいてくれるから。
そんなねうちがわかるから、きっと私は進んでいける。 私は、そう信じているのです。

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家庭でもできる個別支援の基本テクニック
2010-03-02

上の画像のような、色別のカラーボールをペグに差していく課題。
私、何度も何度も、あのカラーボールを、子どもに放り投げられてしまいました。(笑)
あなたなら、どうやって子どもがこの課題を達成できるよう支援していきますか?
私の個別支援のテクニックは、簡単に説明すると、スモールステップとプロンプトフェーディング、この2つの柱で集約されます。
スモールステップというのは、いっぺんにこの課題を済ませてしまうのではなく、細かな課題に小分けして、小さな階段を一歩ずつ登らせていくやり方です。
子どもの今のレベルと、活動の目的とが見えていれば、自然に課題は小分けすることができます。
まず、巧緻性が育ってない子どもには、穴の開いた部分を上に向けて一個ずつ手渡してやります。穴を上にして握ることができれば、たいていの子がスポッとペグに差し込むことができます。
15というボールの数が、集中力の限界を超えている子、心理的な負担感が強い子には、5個ずつ3回に分けて課題に取り組ます方法もあります。
また、色の識別や認知が不十分な子には、まず青色だけを事前に選んでトレイに入れ、青色のペグにだけ提示して、あとのペグには差し込まないようにさせます。
青 → 緑 → 黄 → 橙 → 赤 というように、順々にトレイを子どもに渡すのです。
最初は、支援100%の大人のやらせでいいのです。
専門用語では、これをフルプロントと言ったりします。
こうやって最初は厚い支援を施しながら、子どもに小さなステップを一歩ずつ登らせて、達成感をもたせ、モチベーションを高めるのです。
子どもによっては、何度かこれをやると、支援を必要としなくなります。 不必要な支援を、嫌がるようになります。
子どもは、基本的に一人でできるようになりたいと願っているのです。
このことを信じているからこそ、最初はフルプロンプトで構わないと思っています。
子どもが自分でやりたくなったら、余計な支援を少しずつ除去していきます。
この手法を、プロンプトフェーディング法といいます。
支援をしてうまくいくのと、下手くそだけど自分でやるのとでは、圧倒的に下手でも自分でやるこの子の方がレベルが高いのです。
ノープロンプト (支援なし) で、子どもが取り組むようになったら、そりゃあしめたものです。 それなら、できたも同然です。
一度間違えても、再試行できるようになったら、子どもははっきりとその課題をクリアできるレベルまで育ったということになります。
こうなることを見通して、簡単なことからスタートさせる。
これが私の個別支援の基本テクニックなのです。
どんなに困難で遠い目標であっても、子どもの特性を理解し、課題分析が正しくできていたなら、時間はかかっても、いつかは必ず達成可能です。
夢のある手法だと、思いませんか?
時には、ハードな課題にチャレンジしていくことは、とても大切な事だと考えています。
ボールを放り投げたら、ちゃんと 「それはいけないことだ」 と教えてやることも大事です。
しかし、個別の指導場面では、なぜボールを放り投げずにいられなかったか? その行動の読み解きは、とても重要な要素となるのです。
個別指導場面において、たとえ小さな一歩であっても、それは未来へ、希望へとつながる大切な一歩、そう信じて取り組む指導者と、ろくな手立てもしないで丸投げしてしまう指導者。
10年後、子どもが実際に育っているのは、一体どちらなのでしょう?
昨日4年生の男の子の指導を行いました。
私の関わっている子の中では、字をていねいに書くことができる子は、同時処理優位タイプの子が多いのです。
この子は、漢字をとてもきれいに書くことができます。
しかし、一歩順序性のステップを踏み外すと、理解はそこで中断します。
算数や社会など、図式で解説すると、余計に混乱します。
言語で、ていねいに、順序立てて教えてやる方が、理解度は格段に高くなります。
完全な継次処理優位の認知処理様式です。
わかってない訳じゃなくて、知識を結びつけるのが苦手なだけです。
こういう子には、「何々の△△」 というように呼び水となるキーワードと、関連づけさせるプライミングの手法が効果的です。
漢字がきれいにかけるという事実が、逆に私に勝手な思いこみをさせ、細かい部分での理解が不十分であったと、深く反省しています。
とてもではありませんが、「何々症には絵カードが有効」 というようなレベルでは、こうした具体的な個別指導場面に太刀打ちできません。
特性理解と言いながら、むしろ、一般的な特性に対する勝手な思いこみが、その子への正しい理解を妨げる場合だってあるのです。
深い子どもの特性理解と、スモールステップ。
言ってしまえばしれだけのことですが、なかなかどうして奥は深い。
奥が深いからこそ、探求心が煽られるし、子ども自信が自らの力で、私の支援から巣立ったときの感動はひとしおです。
「お母さん、このおかしの袋、あけてちょうだい~」
「そう、じゃあ、お母さんが袋の開け方、教えてあげるね~」
お母さんは、ポテトチップの袋をちょっとだけ開けて、そのお子さんに差し出しました。
子どもは、しっかりとお母さんのやり方を見ていて、自分で上手に袋を開けることができました。
「すごいね。一人でできたのね。」
次からはもう、お母さんの支援は必要でなくなりました。
原理は単純です。
専門知識も、むずかしい言葉もいりません。
必要なのは、深い子どもへの愛情と理解、そしてちょっとした工夫だけです。
家庭には、家庭にしかできない味があります。
私には、ご家庭の味は出せません。
お子様の大好きなすてきなカレーを、是非おうちでも作っていただきたいと願っています。

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「すべての子どもに 集団での学びと 特性に応じた適切な個別指導の場を」
教育の本質と原点 それこそが特別支援教育
2010-03-01
「まずありのままの子どもの姿があって、そこに教育者としての願いや目標が生まれる。そしてその願いや目標の実現に向けて、教材を開発し、工夫する。それが教育の本質であり、原点である。」私は、ずっとそう信じてきました。 特別支援教育が、教育の原点であるという所以です。
オフィシャルな教育機関が、学習指導要領をもとに教育計画を作成し、広く国民の学力向上に期することは、公教育として社会から付託された、とても大切な役割だと認識しています。
それを百も承知の上で、あえてここで、教育の原点を、そしてその本質を見つめ直してみることは、とても意義深いことではないかと思っています。
この双方向の軸から、浮かび上がってくるものこそ、生きた教育の姿なのではないでしょうか?
人は、他者から自分が必要とされていると感じてこそ、自分の存在を肯定的にとらえることができるのです。
この世に、意味なくして生を受けた者などいない、というのがもう一つの私の信念です。
あなたは、自分の命を輝かせて、誰かのために、何かの出来る子にならなくてはいけません。
だから、しっかり勉強しなさい、というのが、私が常日頃、子どもたちに向けて発信しているメッセージです。
今の私は、多くの子どもと、そのご家族の皆さんに支えられています。
毎日毎日、よくがんばれているなと、時々自分でも驚いています。
今日も、私を待っている子がいる、と思えば、少々の疲れは吹っ飛んでしまいます。
人間とは、そんなものです。
中には、重い課題のある子もいます。
でも、その子がいるからこそ、私は命を吹き込まれているというのは、紛れもない真実です。
意味なくして生まれた命など、あろうはずがありません。
物事には、量的な軸と質的な軸があるはずです。
100万円のダイアモンドというのは、量的な見方です。
大好きな彼氏からもらったダイアモンドというのは、質的な見方です。
質屋ですぐに30万円の現金に変えられてしまうようなダイアモンドと、大好きな彼氏がバイトで汗水たらしてやっと買った3万円の指輪と、あなたにとってどっちが値打ちがあるのでしょうか?
私は、「黄色いバケツ」という教材で、花子ちゃんの読解力のすばらしさを知ったときの、あの感動は、生涯忘れません。
3年生の花子ちゃんが、初めて4年生の漢字の読みプリントに挑戦して、そのことがうれしくてうれしくて、指導中に涙が滲んでしまった日のことを、昨日のように覚えています。
花子ちゃんは、私の生徒第1号なので、ブログで取り上げさせていただくことも多いのですが、決して花子ちゃんだけを特別扱いしているわけではありません。
教育の営みも、一期一会だと、私は考えています。
昨日、あるお母さんから、以下のような内容のメールをいただきました。
SHINOBU先生、いつもお世話になっております。
うちの子の事を、ブログに書いて頂きありがとうございました。
先生もそんな思いをしていたんだなあと思いました。
本当に頭がさがる思いです。先生が「あー楽しかった。」と言った日がありました。
よく覚えています。嬉しかったです。
うちの子の事はでてこないので、きっと面白くない子なんだと思っていました。。
すみません。
娘はSHINOBU先生が一番好きです。
先生は「この子の理解力は、秀逸です」と言ってくださいました。
娘の事を初めて認めて頂いた世界でたった一人の先生です。
この関係が続くよう親として祈るばかりです。
どうぞこれからもよろしくお願いします。
SHINOBU先生はこの子の良さを見つけてくれた、世界でたった一人の先生です。
これからもよろしくお願いします。
世界でたった一人の先生・・・
私、まだまだ未熟者ですので、子どもと心がつながるまで、たくさんの時間が必要なのです。
ブログだけ読んでると、きっとすごい先生のように見えるでしょうけど、それは錯覚です。
平素はチャレンジしたことは失敗ばかりで、むしろ愚直に、地道に一歩ずつ歩むことで、少しずつ前へ進んで行っているような営みです。
苦労した子ほど、感動も大きく、やがては宝ものになる、というのは、これまでの私の実践から得た貴重な教訓です。
重い課題に向き合いながらも、それを乗りこえ、新しい価値を創造されていこうとするご家族の、人としてのクオリティーの高さに、私は何度も大きな感銘をおぼえてきました。
そのことが、私に新しい命を吹き込んでくれたのだと思っています。
あなたにしか、できないことがあるんだよ。
あなたは、先生にとって大切な子、すばらしい子。
だから、あなたは、あなたにしかない何かの形で、社会の中で、誰かのために役に立つ子に育って行かなくてはならないんだよ。
きっとある。
必ずある。
苦しいのは、誰も同じ。
やりもしないで、あきらめちゃダメだ。
あなたが命を輝かせて、がんばってくれることを待ち望んでいる人が、いっぱいいるんだ。
子どもを、心の芯から、肯定的にとらえる見方。
子どもの可能性を、最後まで信じて、希望をもって取り組む営み。
それにたる値打ちのあるものこそ、教育という名に値するものなのです。
奇跡は、教育によって起こる。
私は、先輩の先生方の起こしたすばらしい教育の奇跡を、幾度となく目にしてきました。
私は、私に命を吹き込んでくれたこのフィールドで、わずかであっても先輩方に、その恩返しをしたい。
私が、君たちと出会うことによって命を吹き込まれたように、君たちもまた、これから多くの人との出会いのなかで、きっと自らの命を輝かせるようになるに違いない。
だから、前を向こう、進んでいこう、学んでいこう。
未来を信じればこそ、大切なことが見えてくるはず。
あなたには、あなたにしか出来ない役割が、きっとある。
それを、待っている人が、たくさんいるのだから。

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