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就学相談がめざす一つの形

 2009-06-30
先日、ある小学校に就学相談に伺いました。

その小学校への第2回目の訪問です。

ご両親と私、学校側は校長・教務・支援学級の担任の先生が対応してくださいました。前回は、校長・教頭・コーディネーターの先生の対応でした。

前回の相談を受け、校長先生とコーディネーターの先生が、事前に所属している幼稚園へお子さんの様子を実際に見てくださっていました。

ご両親は、今回の訪問にあたり、学校に提出する資料を作成されました。前回はお子さんのプロフィールが中心でしたが、今回は、 「通常学級への在籍を希望します」 としっかりと記入されていました。事前にメールで私宛に送付してくださっていましたので、前日に私が気がついたことをお母さんにお伝えしておきました。

学校にお伺いする当日、事前にいただいた資料は、内容がさらに精査されたものになっており、改めて驚かされました。

校長室に入ると、お父さんは、おだやかな口調で、通常学級への在籍を希望することを先生方に伝えました。先にお母さんが作成された文書を手渡されたものの、語る言葉は、生きたお父さんの思いそのもので、心にしみわたっていくような内容でした。

お父さんの言葉を受け、校長先生は、校長としての考えや学校の現状、今後の方向などについて説明をされました。


校長先生が、この地域で行われる就学相談を受ける気はあるかと、ご両親に尋ねられました。

間髪入れずそのお母さんは、通常学級在籍希望の立場で、就学相談に併せて行われる 「就学判定」 にどんな意味があるのでしょうか、と切り替えされました。

この一言で、これまでどれだけこのお母さんが、地域の就学に対して勉強をされてきたが伺い知れます。


校長先生は、幼稚園でのお子さんをご覧になってのエピソードを紹介してくださいました。

校長自らがすぐに幼稚園に出かけ、実際の子どもの様子をご覧いただいたことだけですばらしいことなのですが、わずか半日の訪問で、子どものようすをシャープな視点で捉え、幼稚園でのようすをあざやかに示す力量に、我々の信頼度が大きく高まっていくのを感じました。

また、いたずらに迎合したり調子がよいと言うのではなく、学校経営の最高責任者としての立場、そして一人の教育者としての子どもの向き合い方や見識、その教育への理念や情熱に至るまで、まさに尊敬に値する方だと思いました。

この校長先生のご指導なら、通常学級に在籍することに対する課題点に、より一層明確に向き合えるのではないかと感じました。


学校を後にする道すがら、ご両親にそのことをお伝えすると、ご両親もやはり同じような気持ちをもっておられました。

「このチームなら、私の果たすべき役割も一層明確になる。すべては子どもの最善の利益のために」
私は、そう感じました。

前日、私はそのご家庭に2時間もおじゃまして、そのご両親がチョイスされた発達にかかわる本を、片っ端から拝見させていただきました。その子の特性にかかわる内容を揃えているという観点からも、とても参考になりました。

いくつかの本は、早速アマゾンで注文をさせていただきました。

2時間ご家庭におじゃまさせていただくと、お子さんの日常の言語やコミュニケーション、行動の様子を一層立体的にとらえることができました。そして、何よりも私の気持ちや構えも、水がしみわたるようにお子さんに伝わっていくように感じました。


私には、小学校ではずむその子の声が聞こえてくるようでした。

理論と言うことではなく、大切なことが、たくさん見えてきた1日となりました。


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子どもの今を見つめる

 2009-06-29
私は、指導中に子どもを叱る事は、可能な限り少なくしたいと考えています。

1年以上指導しているのに、1回も叱っていない子もいます。


でも、絶対に叱らないかというと、そうではありません。 時には叱ってやらないとダメだと判断する場面があります。

当然叱るべき場面で叱らないと、その子がますますかわいそうになってしまうことがあります。

きちんと叱ってやることで、先生はちゃんと自分方を向いてくれたと、ほっとするような顔をする子もいます。

その行為が、明らかに注目の獲得である場合、すぱっと叱ってやるほうが、バーストを起こさないですむ場合も多いようです。


コミュニケートの方法が未成熟な子で、何かと物をよく投げる子がいます。

前回の指導で、かれんちゃんがままごとの茶碗を投げたとき、私は初めてかれんちゃんをきつく叱りました。

その時、かれんちゃんは涙を浮かべましたが、離籍して、決して自分勝手な行動をしようとはしませんでした。

その表情から、かれんちゃん、ここで勉強したいんだな、かしこくなりたんだなあ、私は強くそう感じました。

そのときのかれちゃんの顔、きっと忘れることができないと思います。



かれんちゃん、私に叱られるなんて思ってもみなかったようです。 かれんちゃんが物を投げるという行為は、私たちがイメージしているそれとは、全く異質のものであるわけです。

私がちゃんとそのことを受け止め、別の方法 (バイパス行動) を、きちんと教えておくべきだと、改めて感じました。

そして、どうやったら、そのことがちゃんとかれんちゃんに伝わるか、しっかりと考えていかなくてはならないと思いました。


かれんちゃんより、ちょっと下の男の子

この子も一度、机の上に登ったので、私に強く叱られ泣き始めました。

お母さんと離れなれなくて、玄関で数分泣いていたことがあります。

でも、今では、まだ小さいのに、45分間集中して学習して取り組み、あっという間に指導の時間が過ぎてしまいます。


昨日いただいたお母さんのメールによると、休日に 「どこに行きたい?」 と尋ねると、「SHINOBU先生のところ」 と答えたのだそうです。

水族館で遊んでいて、なかなか帰ろうとしないときでも、「SHINOBU先生の所へ行くよ」 というと、逆に目の色を変えて、お母さんの手を引いて車の所へ行ったのだそうです。


確かに最初の頃は、電車やチョロQで遊んでいました。 でもこの頃は遊びは一切なしで、書字、数字やひらがなやカード、認知パズルやロールプレイなど、フルコースで指導を行っています。

以前、薬カードやアンパンマンのカードで45分過ごしていた1年生の女の子も、今ではしっかり着席、1度も離席することなく、グズグズ言うこともなく、まさにむさぼうようにひらがな学習・文字学習・認知学習に集中しています。


みんな、学びたいのです。

できるようになりたいのです。

それが一番楽しいし、やりたいことなのです。


1年生ならここまで、2年生ならここまでと、叱咤激励したり、他人と競争させたりして、引っ張り上げることが無意味だと、思っているわけではありません。

でも、そればっかりだと、痛む心もあるわけです。


生涯学習という言葉もあります。

「ひらがな読めるようになりたい」

こんなに美しい気持ちが、どこにあるでしょうか?


子どもの心の中にある宝物を感じ取って、大切に育てたい。

水や肥料をやりすぎても根腐れします。 時には、空干しして根を張らせることもあるでしょう。

伸びていくのは、子ども達自身です。

私たちは、その時、その時の状態を感じ取り、その子がすくすくと育つように、環境を整えてやることです。


子どもの今が見えなければ、何もできない。

伸びている自分を感じている時こそが、子どもが最も輝き、楽しい瞬間です。


いつ咲こうが、どこで咲こうが、きっとすべてが美しい。

私もそう感じている一人です。



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言語理解の基礎を培う (かれんちゃんの語彙獲得のプロセス)

 2009-06-25
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先日のかれんちゃんの指導で驚いたことがあります。


かれんちゃんのわがまま行動? がひどい場合は、私は原則かれんちゃんにからむのを中断しています。

望ましくない行動からは、得られるものは少ないということを、行動を通して伝えるのがその目的です。


知らん顔して、事務用のいすで待機していると、かれんちゃんがのこのこやって来て、「せんせい」 と私に言いに来ました。


私は、「せんせい」 と言う言葉を教えて真似をさせ、それができたらたっぷりほめて強化する活動を何度もしてきましたが、ここに来てとうとうそれが般化しました。

かれんちゃんが「せんせい」 と発語すると、私がめいっぱい喜んで、何度も何度も抱っこしたのは、半年のことでした。

きっと様々な体験から、どの先生に対しても、すでに出来るようになっていたのだと思いますが、実際にこうした生きた場面で正しく使えたので、半年前のことを思うと、私は感動でウルウルになってしました。



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かれんちゃんが、乗り物が好きなことが、最近になってわかってきました。

動物絵本より、乗り物絵本の方が食いつきが良いのです。

「ふね」 とか 「ばす」 とか、次々に言葉 (名詞) の獲得数を増やしていきました。


かれんちゃんは、自分が気に入らないものがあると、すぐそれを投げてしまうことがあります。

私が指導をしている子の中にも、同じような傾向をもった子が何人かいます。

私はそれを、未成熟なコミュニケートとしてとらえていますので、「そういうことをしなくても、ちゃんと要求したらいいんだよ」 ということを、毎回毎回、行動や環境や場の設定を通して伝えていきます。


「バスで おでかけ」 は、かれんちゃんの大好きな絵本の一つです。

以前は、カエルの本が好きでしたが、今では完全にこの本にはまっています。


実は私、別の子の指導で、自作の 「ひらがな指導カード」 が、いい線に行きだしたので、今日はかれんちゃんでも、ちょっと試してやろうとたくらんでいました。

しかし、それは思い通りにはいきませんでした。

投げ飛ばしはしませんでしたが、きっちりスルーされてしまいました。

やはり、そう甘くはありませんでした。


私の与えたものはスルーされましtが、かれんちゃん、この自分の顔の10個分はあろうかという大型絵本を、自分でかかえて指導用の机にもってきました。

この子、与えられた物は投げることがありますが、自分で選んでもってきたものへの集中力にはすばらしいものがあります。

4歳の子で、指導時間を毎週90分もいただいているのは、かれんちゃんだけなので、こうした活動にはたっぷり時間をかけることができます。



「○○は、どれ?」 のポインティングは、名詞獲得の基礎中の基礎です。

私、かれんちゃんとこの活動を広げていきたくて、どれだけの教材を準備してきたことでしょう?

それがなんと、この日は、既製品の、しかも普段から何度も何度も使ってきた絵本で、みるみる広がっていくではありませんか?

よく見ると、おさるも、パンダも、ぞうさんも、しっかりとこの本には描かれているではありませんか?


「わー、雪が降っているね。 バスはどこかな?」

「このでっかいのりものはなあに?」 

「かれんちゃん、パンダさんがどこかにいるよ。どこかな~」


30分以上の時間、一度も集中力を切らすことなく、次から次へとイメージがふくらみ、言語理解の素地が形成されていきます。

こういうことろは、他の子にはないかれんちゃんの最大の魅力であり、大きな可能性につながる大切な糸口なのだと考えいます。


テクニカルなステップを意識するなら、「赤い車」 「黄色い車」「大きい車」「トラック」「ひこうき」「のりもの」・・・・ と、属性や上位概念形成へとステップアップしていくのがセオリーだと思います。

しかし、ここでかれんちゃんの意識からとぎれた「赤い車」や「黄色い車」の絵カードを安易に提示すると、きっとまたスルーされたり、投げられたりするのではないかと思います。

この 「バスでおでかけ」 も、どこまでが旬なのかはわかりませんが、少なくとも、今は旬の教材。次週には、私の指導イメージを、一層しっかりとふくらませておこうと思います。


子どもの実態 → 指導のねらい → 教材選択・教材作成

これが教育の大原則です。

でも、それは現実にはなかなかできないことです。

カリキュラムがあって、それに子どもを当てはめるのではないはずです。

「教科書を教える」 のではなく、 「教科書で教える」 はずです。

それだけ、教材を子どもにとって血の通うものにするには、高度な教育的な力量が必要なわけです。


今は、かれんちゃんにとっては、この 「バスでおでかけ」 が、語彙獲得のための教科書のようなものになってきています。

先日お伝えした、聴覚メモリーや視覚メモリーの育成にも、「バスでおでかけ」 を使うことが出来ます。

語彙数の増加や反対語、比較や位置関係など、いくらでも発展的に使用できます。

いつも感じていることですが、俗に言う 「がんこ」 あるいは 「こだわり」 は、はまれば逆にすごい集中力へとつながります。

それが指導のむずかしさでもあり、腕の見せ所でもあります。



子どもの今がきちんと見えること、目指す方向や形がしっかりとイメージできていること、子どもの目を見てそれが構成できること、子どもの学びの願いを受け止めること、子どもの可能性と未来を信じて疑わないこと・・


そういう人こそ 「せんせい」 と呼ばれるに値する人物なのだと思います。

どの子に対しても、そういう存在であることができたなら、私は本当に幸せだと思っています。



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※ この実践記録は、適切な教育によるダウン症児の成長の可能性を、より多くの方に理解していただきたいというご家族の願いと要請を受け、かれんちゃんの表情なども含め、リアルな指導の様子を公開させていただいております。また、平成21年度、福武教育文化振興財団による研究助成をいただいています。


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言語発達の奥の深さ

 2009-06-23
書字は苦手だけれど、音読で感動的に物語を読むことの出来る子がいます。

同じ言語でも、脳のルートが違うことを示す一つの例です。


また、難聴にも、伝音声難聴と感音性難聴とがあるように、同じ書けないという現象にも、入力系が苦手なこと、出力系が苦手な場合と2通りあります。

出力系が苦手な子には運動機能的なものにシフトした支援に、入力系が苦手な子にはそれを識別する認知系の支援に軸足を置いた支援を行います。

それは程度の問題であって、混合性のものが原因となるものもあるようです。 現実には、物事が理論通りに進まないむずかしさがここにあります。

わかってしまえば、たったそれだけのことが、リアルな子どもの活動の中から読み取っていくのは、結構ハードなことです。

特に、表出言語の少ない子の場合は、その指導者の感性というか、理解のクオリティーが命となります。

これは、すべて私の指導経験に基づいたカンのようなものに過ぎませんが・・




本を読むという行為をみたとき、字を読むということではなく、文字情報をてがかりに、フレーズを引っ張り出すように読んでいる子がいます。

花子ちゃんやしゅう太君は、このタイプですが、太郎君はそれが苦手なタイプの子どもです。

文字情報から、フレーズのかたまりを引っ張り出すことが苦手なわけです。

なので私は太郎君に対しては、聴覚性の支援を入れて、何ヶ月もかけてそのフレーズそのものを少しずつインプットしてきました。

脳の中に、少しずつではありますが、フレーズ貯金ができてきました。 記号から、かたまりをひっぱりだすことに、わずかですが慣れてきたようです。

昨日、音読の宿題で、「スイミー」 が出ていましたが、音読の宿題に対する抵抗感がかなり少なくなってきました。

音読カードに、「◎」 を付けてあげると、にっこり笑顔になりました。

幸せなことに、担任の先生が、そのカードにていねいにコメントを添えてくださいます。

太郎君、本年度も担任の先生に恵まれました。



頭で考えたことを文章化するのが苦手な子もいます。

しゃべることはできるけど、思いを頭でキープしたまま、文章化するのが苦手なタイプの子です。

言語性のメモリーキープが苦手だということでしょうか?

ならば、一旦私がそのメモリーの内容を受け止めて、文字に変換して子どもに返してやります。

太郎君の場合は、あっそうそう、てな顔をして、それを日記帳に写していきます。 太郎君の場合、視写は得意です。 ここを生かして、メモリーの容量を増やす営みを少しずつランクアップしていきます。




先日、かれんママが、視覚性のメモリーを増やすカード教材をプレゼントしてくれました。

それによると、メモリーの容量は学習によって増やすことができ、そのことで様々な課題の改善につながっていくということでした。

こうした教材は、きっとすごい値段がついているのだと思います。

しかし、何を目的に、どう使用するのかを明確にして、さらにはその子の指導にどうかみ砕いて提示するかが見えないと、なかなか持続して使用することはむずかしいと思います。


私の教材庫には、使用されずに眠っている教材・教具が山ほどあります。

実際に、現役で使用しているのは、せいぜい2割程度。

残りはまさにお蔵入りです。

自分の物にならなかった教材は、どんなに高価のものでも、ダメはダメです。

しかし、その本質がしっかりと手にあった教材は、ぼろぼろになっても、修繕しながら何回も使用します。

そういうものです。



言語が、すべて学習の基本、ということは、友里ママとの指導後の話し合いで、何度も何度も見つめてきました。

言語は学習の基本、そしてそれは国語の学習と、内容的に重なるところは多くても、すべてイコールでというはないわけです。


言語とコミュニケートの関係も、同じようなことが言えます。

言語は多くても、コミュニケーションの苦手な子もいれば、言語は少ないけど行動に勢いのある子は、コミュニケートは結構できたりします。

小数のわり算の筆算で100点とれるけど、買い物のおつりを計算するのが苦手な子もいます。

このように、そのイコールでない部分で、そこ子自身の課題が見え隠れしています。


今、私の教室に通ってくれている子どもの課題は、それぞれの子によって様々ですが、この言語の部分の大切さを、最近改めて感じるようになってきました。

これだけ毎日、子どもの育ちに真っ正面からかかわることができるのは、とても幸せなことです。

今の私には、一つの仮説から内容を実証的に精査していくことはできにくくなっていますが、多くの事例から帰納的に本質を読み解いていくことはできます。



もう一つ恵まれていることがあります。

それは、お子さんの最大の理解者であるご家族の皆さんと、毎回情報交換できるということです。


うちの教室は、リアルな実践の宝箱です。

私は、今後も、言語発達を中心課題の一つとして、自分自身の問いに、精一杯取り組んでみようかと考えています。

ご家族の理解と協力なしには、それは決して深まらない。

目的はただ一つ

お子さんの成長、そして幸せ


立場は違いますが、みなさんと私は、これからもずっと、そこの部分で同じフィールドに立って共に考えていきたいと願っているのです。

これからもどうぞよろしくお願いします。


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子どもたちとのストーリー

 2009-06-22
週末になると、私の所にたくさんの子どもが来てくれます。

毎週毎週、毎回毎回、それぞれにそれぞれのエピソードが生まれます。 

そのエピソードは出来る限りA4用紙に記入して、保存するように心がけています。


今は、図書館に行き、本や論文にふれる時間がとれなくなってしまいました。

けれど、こうした生きた質的データは、何よりの宝物だと思っています。 時期を見てそれを整理して、何かの形で子どもたちのために生かせるようにしていかなければと、考えています。


ここに来る子どもの中には、この教室に来始めた頃に、着席できない子どももたくさんいました。

玄関にうずくまる、物を投げる、落とす、トイレの芳香剤などを便器に落とす、事務用のパソコンやシュレッターやプリンターをがちゃがちゃさわる、中には扉を開けて外へ脱走する子も何人かいました。

でも、今ではそういう心配はほとんどなくなりました。

最初嫌がっていた子、脱走していた子、そんな子ほど、今では指導が終わってもなかなか帰ろうとしないような子が多いです。 苦労した子ほど、心がつながるというのは、本当の話です。 


私の教室には、ひらがなのタッチボードが2種類あります。

昨日も、学習コーナーにそのタッチボードを用意していたのですが、私のミスで、彼のお気に入りではない方をそこに置いてしまいました。

すると彼は、本棚から、自分のお気に入りのタッチボードを学習コーナーに運んできました。

4月から、私の教室に来てくれるようになった子です。

最初の頃は、着席もせず部屋の中をウロウロして、1回の指導でわずかな時間だけしか、それもおもちゃしかさわってくれなかった彼が、自分からそれを選んでもってくるなんて、本当に驚きました。

聴覚指示だけでポインティングをすることは出来ませんが、視覚性のメモリーのキープ力と、手先の巧緻性は高いので、そこがこの子の切り口になるに違いありません。 まさに長所活用指導の糸口がそこに見え隠れしているのです。

私は彼を、抱きしめてやりたいほど愛おしく感じました。

今や、私の宝物です。



来年就学を控えた男の子。

この子の言語性の能力の高さは、出色です。

小学生向けの読解問題を就学前の子にやらせ、習ってもないカタカナの書字をさせるなんて、何て節操のない指導者でしょう。

この子の課題は、手先の巧緻性と、立体図形等の認知力アップです。

この子とは数回、電車やカーレースのおもちゃで遊ばせてもらいました。

検査などのプロフィールはいただいていませんが、若干、言語性と動作性のギャップを感じます。

ならばということで、この子の言語性を生かした指導プログラムを昨日から実施してみました。


「好きなもの・・・?」  

「アンパンマン!!!」

ありがとうアンパンマン、まさにアンパンマン様々です。 

得意でないはずのパズル系も、アンパンマンで攻略します。

予想通り、形の識別は苦手なようです。 ならば、君の得意な言語で応援させていただきましょう。

「まず、はしっこのバイキンマンからやっていこう。バイキンマンの足はどれ?」

「次は手だよね。それと目の部分はどこにあるかなかあ~」

「すごいね~、そこをやる前に、まず かまめしどん を先にはめておくと簡単だよ」

こういう具合に応援すると、本人の達成感を高めることができます。 言語だけでわかりにくいときは、少し手を添えて応援しますが、すぐにフェードアウトします。


私は、基本的にはあまり子どもを引っ張りません。

見えないレールを敷いて、子どもに走らせ、そのレールも知らない間に除去して、自分でそれができるようにさせたいと願っているのです。

時間はかかりますが、ここにお越しのご家族の多くは、形だけのものが音を立てて崩れていく体験をなさっている方が多いので、結局はそれが近道であると、私は信じています。

滑走路を造るのは私であっても、飛び立つのは子ども自身であると考えています。

そうでないと、結局は伸びない、飛び立って行かないと思っています。


30Pのアンパンマンパズルが完成したとき、私は、「やった」 と思いました。

彼の心に芽生えた達成感、イケテル感を、これからていねいに育てていくつもりです。


彼の苦手な工作は、彼の大好きな乗り物で構成しました。

教材から選びきれない彼に代わって、彼の理解者である私が、ちょっとだけ先取りをして、教材を選んであげました。

私は未来の彼の分身ですから、当然彼は、面白いように食いついてきました。

牛乳パックを使って、アイスクリーム販売車を作りました。 限られた時間でしたが、つくる楽しさを思いっきり共有できました。

きっと彼は、SHINOBU先生とだと作るのも楽しい、と感じたはずです。 この時間を共有しているのと、そうでないのとは、それ以降の指導の組み立ては全く変わっていきます。

ここも時間をかけ、少しずつフェードアウトしていきます。 

モチベーションを高めて、活動に取り組むことさえできれば、必ず子どもは伸びる。

私は、こういう方法で子どもを育てているのです。


以上が、昨日の午前中のエピソードです。

この日の午後にも、それぞれにいろいろなエピソードが生まれました。

それぞれの時間に、一つ一つ大切なこどもたちとのストーリーが展開されているのです。

それをご家族の方にお伝えするのは大切なことだと思っています。

今日も、もっとたくさんのことをお伝えしたいと思っていましたが、やはりこれが精一杯で、申し訳なく思っています。


子どもと言えども、生きていく中では、たくさんの育ちの軸という物があります。

その一つが、私とのかかわりであろうかと思うのですが、私はその子のすべての軸を理解しているわけではありません。

お子さんを育てていくチームの一人として、ご家族の皆さんと支え合って、いっそう良き理解者となれるよう努力していきたいと願っています。

今後とも、どうぞよろしくお願いします。



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大河の一滴

 2009-06-19
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先日、逆上がりの上手な女の子のエピソードを紹介しました。 

就学前のダウン症の女の子です。

その子は、私の胸にとても就学前の女の子と思えない程のスピードでボールを投げ込んできます。

きっとこの子はこうした体育的な面で、これまで私が体験したことのないような感動を次々に与えてくれるのに違いない。

こういうことの一つ一つのエピソードから、私の夢は次々とふくらんでいきます。


それは子どもによってはイラストであったり、工芸であったり、しいたけ栽培であったり、英語であったり、ダンスであったり、その存在そのものであったりします。

何か一つその子の輝くものを見つけ出し、そこから無限に発展していく可能性を信じて、希望をもって前向きに進んでいく営み・・

私はそれが 「教育」 であると、定義づけています。


出来ないこと、苦手なことを何とかしようということだけでなく、この子の良さは何だ、魅力は何だと考え、まずはそこからスタートしよう。

最初はほんの小さな一歩でも、1年、2年、5年と続けることができたなら、どれだけ大きな可能性の芽がふくらんでいくか知れません。

その可能性を信じる営みと、そうでない営み

子どもが伸びるのは、どちらだと思いますか?



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かれんちゃんが、私に自身に与えたインパクトには、はかりしれないものがあります。

もし、この子と出会えていなかったら、これほどまでに私が熱いエネルギーをもつことはできなかったかも知れません。

かれんちゃんの存在と向き合ってきた時間の積み重ねによって、私自身がどれだけの勇気とそして内容的なヒントをつかんできたかはかり知れません。

それは、他の子の指導場面にもきっちりと生かされているのです。


昨日、私の教えている子どものご両親から、身に余る感謝のお言葉をいただきました。

そのことと昨日の出来事とが、決して無縁あるとは、私には思えないのです。

かれんちゃんという存在の大切さがそこにあります。

これはこの世に生を受けたすべての子どもに共通することだと、私は考えているのです。




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この日、かれんちゃんは、絵本のイラストを見て、タッチボードの同じイラストをポイントする学習に取り組みました。

「これは?」  「ふね」 

「じゃあ、これは?」  「ひこーき」

言語によるコミュニケートが、だんだんと豊かになっていくのを感じ取ることができます。


発達面に課題のある子どもほど、教育にかかわる費用対効果は高いと、私は考えています。

誰かの世話になって生きる子と思うのではなく、誰かのために何かが出来る子に育ててやらなければなりません。

人間は、自分が誰かの役に立っているというときにこそ、本来の力を発揮することができるのです。

それが、園芸であったり、運動であったり、存在そのものであったりしてよいのですが、ポイントは、子どもが自己肯定感をもてるかどうか、その1点にかかっているわけです。


君はなくてはならない存在なんだよ

今やっている勉強は、将来どこまで発展するかわからない、大きな可能性を秘めた第一歩なんだ


そんな気持ちをもって、子どもの学びに向き合っていきたいと考えています。

自分が誰かのために何かができる存在であると、子どもが感じ取ったそのときにこそ、そこに大きなエネルギーが生まれます。

肯定的な自己理解が深まることによって、他者を受け入れるやさしい心が芽生えます。

そして、人と人との営みの中で、幸せを感じて生きていけるのだと思うのです。


何気なく始めた漢字学習から、概念やイメージそして文化や社会を見る学習へと発展しているケースがあります。

これまで、一歩一歩のあゆみを共有してきたので、こうなるとそれはそれは充実した楽しい学習になります。

最初のとっかかりは漢字であっても、今ではその学習が、発展的な学習のコアの部分となっているのです。

これが長所活用型学習の醍醐味です。

その芯を見いだし、固めて行く作業は用意ではありませんが、先に苦手な読解問題からスタートするのと、どちらが近道なのでしょうか?


しっかりと畑を耕して色々な芽が出てくるようにしてやること

そして、その中からここぞと思う部分を見いだし、まずはそこを固めながら、そこから色々な方向に枝葉を伸ばしてやること

育てるというのは、そういうことなんだと考えています。


行き届いた教育は、かならず何倍にもなって返ってきます。

それは単にお金の面で考えるべきことではなくて、教育に取り組む姿勢そのものなんだと思います。

「個別指導をやりたくても人材がいない」 「財源がない」

もう聞き飽きたせりふです。


集団の中にしっかりとした居場所があること

その子の特性にあった、可能性の芽を育てる専門的なかかわり

そしてそれを、共に目指していこうという姿勢そのものが、何よりも大切なのだと思うのです。


楽しそうにタッチボードにふれるかれんちゃん

「大河の一滴」 という言葉がありますが、日々の教育の営みは、その子の未来をかたちづくるための、大切な大切な一滴なのだと私は感じているのです。


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※ この実践記録は、適切な教育によるダウン症児の成長の可能性を、より多くの方に理解していただきたいというご家族の願いと要請を受け、かれんちゃんの表情なども含め、リアルな指導の様子を公開させていただいております。また、平成21年度、福武教育文化振興財団による研究助成をいただいています。


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見えにくいからこそ ていねいに繕う必要のある 子どもの大切な課題

 2009-06-16
子どもの育ちの課題はさまざまです。 何かの物さしをもってくれば、それを 「重度」 とか 「軽度」 とかに区別することはできますが、だからといって、その子の育ちにとっての課題の内容が変化するわけではありません。


人から見てわかりにくい課題というものがあります。 

人から見てかりにくいという程度なら、大したことはない、というのは大きな誤りです。

わかりにくい、というのは、周囲から理解されにくいということですから、実際の育ちの中では、とても深刻な課題に発展することになります。


これまでに、自分の発言の内容が、相手の感情にどのような影響を与えるのかを理解できにくい何人かの子ども出会ってきました。

みんな、いい子です。

でも、「そんな言い方は、ダメだよ」 と、思う場面が何度もありました。

悪気は全然ないのです。 他意がないものだから、何度も繰り返すわけです。

それで、住む世界がじわりじわりと窮屈になっていくのです。

目に見えない小さなほころびだからこそ、水がもれだしたら、どこをどうしたらよいかわかりにくいわけです。

ぽっかりと大きな穴があいていた方が、よほど手の打ちようが明確になるのです。


では、どうしたらよいか?

内容を整理した書物もたくさんありますが、言葉では理解できても、具体的場面での適応には苦労します。


私は、とにかく、こうした子どもたちの自己イメージを下げないためのかかわりを大切にしています。

使える言葉は豊富な子が多いのですが、言語は単なる手段なわけです。

私がいつも伝える内容は、「君のことを大切に思う先生がここにいるよ」 「どんなことがあっても先生は君の味方だ」 「君の良いところは、こんなところだ」 「一歩でも前に進むって、楽しいことだね」 「苦手なことも受け入れて、それでいて自分が好きになれることが大切なんだよ」 そんなメッセージです。

一つ一つの言葉から、態度から、眼差しから、行動から、私はそのことを子どもたちに伝え続けます。

流れていく時間の中で、動いていくその瞬間の中で、45分、あるいは90分、そのことを伝え続けるのは、結構骨の折れる作業です。

しかし、それが私にたくされたご家族の願いであると、私は自覚しているのです。


どんなに時が移っても、どんなに環境が変化しても、心の中で君にずっと寄り添っている存在であり続けたい。

限られた空間の中ではあるけれど、生涯、君を理解し、応援し続ける存在であり続けたい。


45分には45分の、90分には90分のドラマがあり、ストーリーがあるのです。

そのシーンの一コマ一コマで、これからも君といっしょに、大切でリアルな生活の物語をつくりあげて行きたいと思うのです。

大切な課題は、いつもお題目の中にはなくて、日常のささやかな場面でこそ向き合っていくものです。


真実に手をふれていないと、それは決してさばけない。

何をさしおいても、君を受け入れ、そして育てるという気持ち。

きっとそれは、君の心にしっかりと届いているのだと、私は信じたい。

君のまっすぐな心が、自然に多くの人に伝わって、君の持ち味がしっかりと生かされるような環境を、これからもご家族と一緒に工夫していきたいと思っています。


また今度、先生の所に元気に来てくれることを願っています。

先生は、いつまでもいつまでも、きっとここにいますから。


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ノンバーバルな子ども理解の感度を上げる

 2009-06-15
私の教室には、あまり言語コミュニケートが得意でない子が何人かいます。

学習の主体者は、指導者ではなく子どもです。

目標として、言語コミュニケーションの力を育てていくことはとても大切なことですが、指導の内容は、実態に合わない言語コミュニケートだけで構成するのではなく、子どもに寄り添った形で構成することが大切だと考えています。

とかく私は言語にたよりがちな傾向がありますから、そうした子どもと向き合うときには、ノンバーバルな理解の感度・受容感度を実態に合わせて上げることが、指導者として最低限必要なことだと考えています。


昨日の事です。養護学校小学部に通うある男の子が、やってきました。

言語によるコミュニケーションは苦手ですが、だんだんと心が通じあってきており、このごろは着席してひらがなの学習に喜んで取り組むようになってきました。

以前のように、教室をウロウロしたり、指導用のパソコンやシュレッターにさわることもなくなってきました。絵本も読むようになってきました。

しかし、昨日はいつもとちょっと感じが違います。

シュレッターにはさわりませんが、離席して教室を何度もウロウロとし始めました。

今日は、体調が悪いのかなあ、正直私はそう思っていました。


しかし、事実は予想と違っていました。

彼は、先週の最後に取り組んだ、「ひらがなボード」 の学習がやりたかったです。


私の教室にご両親が相談にみえられたときに、「以前は学習に楽しく取り組んでいたのに、最近はそのやる気がみられなくなってきた・・」 と、伝えてくださったことがあります。

私、この子、学習で心が痛んでいると、勝手に決めつけていたところがあります。

でも、やっぱり、わかるように、できるようになりたいんですね。


「ひらがなボード」 については、前回の指導記録の最後の方に、ちょこんとメモをしていただけです。

先週、彼はは絶好調だったので、いろいろな学習に取り組みました。

なので 「ひながなボード」 は、私にとってはその一つに過ぎませんでした。

しかし、彼にとっては、とっても楽しかった学習であったに違いありません。

きっと先週から、今日のこの日が来るまで、ここに来たら 「ひらがなボードをやろう」 と、心に決めて、楽しみにしていたに違いありません。

「ひらがなボード」 を提示すると、それはそれは生き生きとした学習時間を共に過ごすことができたのでした。 もちろん、それ以降、離籍は一度もありませんでした。

もしこの日私がぼんやりとして 「ひらがなボード」 を提示することが出来なかったら、彼は最後まで不適応な時間を過ごすことになっていたことでしょう。

この不適応の原因は、彼であるはずはありません。 当然ながら、その感度の低い指導者の私にあるわけです。



以前、薬のパッケージで学習をしていた小1の女の子。

最初にこの教室に来たときに、机のうえに寝そべって大騒ぎをしたあの子です。


昨日の指導では、1度の離籍もないばかりか、45分間集中して、ひらがなやパズルや書字の勉強を次々とこなしていきます。

今では、背筋を伸ばして、木製のいすに正座して学習しています (笑)

当初は大変だと思っていた子が、今ではとても教えやすい子。

私にしてみれば、可愛くて可愛くてたまりません。

これも、お母さんとの助言や連携があればこそです。

でなけりゃ、今でも薬カード学習のままで停滞していた可能性があります。


先日、巡回相談に行った保育園の先生からいただいたメールに、次のような一節がありました。

> 自分のレールに乗せるのではなく、子どもの実態に合った活動を取り入れるっていうことを今年度特に深めていきたいと思いました。

> 勉強不足、経験不足で子ども達には申し訳ないことをしているといつも思ってしまいますが・・・先生に何度も励まされ、迷い崩れかけてた心と保育への信念を取り戻すことができました。

> どうか本当にこれからもずっと応援してください。


ある支援学級の先生からは、そのお母さんを通して、「子どものことで指導の参考になることがあったら、ぜひ教えて欲しい。先生の専門的なアドバイスをぜひいただきたい。」 そう、お申し出いただきました。

すばらしい教育実践をおもちのベテランの先生です。


子どもに向き合うというのは、こういう事なんだなと、改めて教えていただいたような気がします。

何かにあぐらをかいていたのでは、子どもと心は通じない。

自分の心がまっさらでなくして、どうして子どもの願いが見えてくるでしょうか?


苦しんで通じ合った子ほど、その心のつながりは深く、そして強い。

子どもの心の中には、きっとダイヤモンドがあるはずです。


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歌って踊るかれんちゃん (視覚協応ー随意運動の発達促進)

 2009-06-11
かれんちゃん (ダウン症・4歳) の指導に、先日初めて手遊びを取り入れてみました。

単なる手遊びのつもりが、ご覧の通り、かれんちゃん立ち上がってノリノリです♪ (↓下の画像)

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パズルの指導をしていて、色を手がかりにしている子、形を手がかりにしている子、図柄を手がかりにしている子など、それぞれの今の認知が入るルートというものがあることを感じてきました。

同じ子でも、最初は色をたよりにしていた子が、しばらくするとそれが、形や図柄や、そして待望の文字へと発展していく過程にふれてきました。

まさに、個別指導の醍醐味です。


随意運動にしてもそうです。

今、粗大系の運動の入りがよい子もいれば、微細系の入りがよい子もいます。

今の得意なルートがあって、だんだんとその器を大きくしていくうちに、次第に高次なレベルの運動や認知ができるようになっていく。

課題の大きい子どもであればあるほど、得意なルート、つまり長所活用型指導の組み立てが重要になるのではないか?

とにかく、子どもが夢中になって取り組める活動を仕組みながら、それを自然に高次なものへ

それが、私の役割だと思っています。



人間の感覚神経には、嗅神経、視神経など12種類のものがあります。

大人になると、いくつかの感覚神経の同時入力が可能となってきますが、発達の過程にある子どもは、それと同じではありません。

4歳以下の子どもは、例えば、テレビを見ながら食事というようなことは苦手で、テレビに集中したときは、ぱっくりお口が開いたりしています。

6歳以下の子どもは、2点の同時識別が困難とされています。

そう言う意味でも、私たちと子どもは同じではなく、だからこそ同じ目線になりにくく、どうしてできないのもがわかりにくくなるわけです。

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これは、私の経験から感じていることですが、特に嗅覚は原始的な感覚で、人間の本能の近い部分に作用しているような気がします。(嗅神経の入り口だけ、他の感覚神経とは違う位置にあります)

焼肉の良いにおい・・  アロマのリラックス感覚・・  本能的にダイレクトに刺激を与えている気がしませんか?


小さい子どもが音や音楽に敏感なことも、これまでの教育体験の中から色々と感じてきました。

演劇会で、心躍るリズムが響き始めると、それまで会場をウロウロしていた子どもも、一気に引き込まれていきます。 キャンプファイヤーや授業でも同じようなことをたくさん感じてきました。

逆に、聴覚過敏な子が、運動会の巨大音量や劇場のスピーカーの下で気絶しそうになることもあります。

私の敬愛するドクターは、「日本ほど音に無神経な国はない。 ドイツならあれは、犯罪だ」 と、こっそり私に教えてくれたことがあります。

ドイツでは、駅のアナウンスは一切無いそうです。 列車がスーッとやって来て、スッーと出発するのだそうです。

新幹線のサイレントカーに乗ったことがりますか?

私には、とてもありがたいサービスです。


しかし、子どもにとっての音や音楽は、原始感覚に近い物として、教育の大きな武器になるようです。

音痴な私は、ここの部分をもっともっと勉強しなくてはなりません。



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かれんちゃん、よっぽど楽しかったのでしょう。

「もういっかい、もういっかい・・」

と言って、なかなかやめません。 こういう要求にかかわる音声コミュニケーションも、以前にはあまり見られなかったことです。

それと、表出言語の量が、通常時と比べて圧倒的多い。

やや不明瞭な言語とはいえ、それなりに歌詞を歌っているのです。


表出言語の少ない子に対する指導の一つとして、笛や巻き取り( 昔懐かしいへびのようにピーひゃらとするやつ)、シャボン玉や風車、息吹きボールやくすぐり?? など、様々な手法を使いますが、モチベーションそのもが違います。

かれんちゃんの圧倒的なエネルギーは、シャボン玉にはあまり向いていません。

歌って踊るかれんちゃん、これぞ私とかれんちゃんだけのオリジナルな、感覚発達促進→統合のメニューなのでしょうか?

手遊びのDVDを使っての指導ですが、立ち上がって踊ったのは、かれんちゃんをおいて他にはいません。

他の子ができなことを、この子はしてくれます。


日々こういう体験をまのあたりにしています。

ただ遊んでるように見えるかもしれませんが、私は、どうしても長所活用型指導を捨てることはできません。

私の教室では、みんなそうやって伸びてきました。


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この日、大きい図柄と小さい図柄のマッチング、それからコマ回しにも挑戦してくれました。

小さな小さな一歩かも知れませんが、感覚統合や随意運動の発達につながっていくものと願っています。

好きでない活動、得意じゃない活動のモチベーションを高めるのは、なかなかむずかしいです。

ここを上手に工夫するのが、プロの味付けです。


今日私は、カラーリングをしてもらいました。

プロの方にしていただくのは、初めてのことです。

これまでは、薬局に行って自分で染めていましたが、やっぱりプロは違うなあと思いました。


皆さんは、カツオのたたきは好きですか?

私はあまり好きな方ではありませんでしたが、高知の友達に藁であぶった本格的なカツオのたたきをごちそうになったとき、こんなにうまい物が世の中にあるのかと、とっても驚きました。

全く生臭さが無く、シャキシャキ感とあいまって、まるで口の中でとろけるようなカツオの食感でした。

また、高知で食べてみたいと思いました。


私の教室に来てくださるご家族の方には、毎回、多大な時間的・経済的なご負担をいただいています。

すべての子どもに、ここでしか食べられない本格的なカツオのたたきを提供したい。

決してスーパーのものと同じであってはならないと、強く自分を律するのでありました。


※ この実践記録は、適切な教育によるダウン症児の成長の可能性を、より多くの方に理解していただきたいというご家族の願いと要請を受け、かれんちゃんの表情なども含め、リアルな指導の様子を公開させていただいております。また、平成21年度、福武教育文化振興財団による研究助成をいただいています。


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「見える」と「分かる」 子どもの認知の確かな育ち 

 2009-06-09
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いつの時だったか、太郎君が1年生の時、担任の先生と教室で情報交換をしていたら、「太郎君は、教科書の文字を写すのは苦手だけれど、黒板の文字を写すのは得意です」 と、伝えてくださいました。

入学したてのころは、ひらがなの学習に苦労しましたし、今も文章を読むのは好きな方ではありませんが、この日も、漢字練習の宿題には、バリバリの意欲をもって取り組みました。

書字は得意で、何度も連絡帳に、「字がきれい」 とほめていただきました。


反対に、しゅう太君や花子ちゃんは、それはそれは、本読みが上手です。 とても上手になってきましたが、それでもやっぱり字を書くのは得意な方ではありません。


昨日のごほうびタイムで、太郎君は、机の上にあったくもんのステップアップパズルに挑戦していました。 

うちの教室、このパズル、2ピースから48ピースまでのシリーズ全部そろっています♪

まさにステップアップで、時間が来るまで太郎君は快調に、次々とパズルをクリアしていきました。

パズルの得意な子には、書字の得意な子が多いです。

ですから、就学前の子どもを指導していても、この子は将来、ここは得意で、ここは苦手だろうなあ~、ということが、イメージとして思い浮かべることができるようになりました。


パズルでも、読字でも、計算でも、子どもはまず必ず得意なルートを使ってチャレンジしてきます。

ごくごく当たり前のことです。 色認知優位な子では色を手がかりに、図柄認知優位な子は図柄を、形認知優位な子は形を手がかりに、その課題に取り組みます。

でもね、やがては、色も形も図柄も統合され、多面的な理解に深まっていきます。

大人はすでに多面的に、総合的に見ますから、子どものつまずきが理解できにくくなっています。


以前、ペアペアパズルの半分が上下反対になっていたあきなちゃん。 この段階では、色・形認知でした。

でも、今ではりんごもバナナも上下逆さまになることは、一切ありません。

図柄の認知が入った証拠です。

私、指導の途中にこの子に図柄が入った瞬間をしっかり見届けました。

ですから今、ひらがなの学習に強烈な意欲を見せています。

だからこそ、あのカラーボールとペアペアパズルの学習に、時間をかけておいて本当に良かったと思っています。

今では、それが大きな武器になっています。


やがて子どもの認知の世界は、広がっていきます。

だからこそ、その時に、その子の得意なルートで、たっぷりと体験を積んでやることが、その後の大きな財産になっていくということが、私は体験的にわかってきました。


しゅう太君のお母さんから、またまたメールをいただきました。

「先生、目先のプリントではなく、マンツーマンでゲームや算数的活動、ロールプレイでのコミュニケーションの時間をたくさんとってください」 と、言われたお母さんです。

ここまで理解してくださるなら、ということで、私はじっくり構えてみることにしました。 やはり、そのことは、かなりよい方向に発展していきました。


「SHINOBU先生のところいったら、がんばりたくなるんよな~」

帰りの車の中で、しゅう太君、そんな可愛いこと言ってくれたようです。

帰りには、深々と礼儀正しく挨拶をし、後片付けもそれはそれは、はりきってきびきびしてくれます。

しゅう太君は、先日の運動会をはじめ、学校での適応状態がとてもよくなってきたようです。


「以前では考えられないことです、これもすべて先生方のおかげです、恵まれました」

と、お母さんはおっしゃいますが、これは、このお母さん自らが構築された環境だと、私は思っています。

しゅう太君の担任の先生が、このブログのしゅう太君の記事をご覧になり、「とてもよく観察されて、綿密に分析されており、SHINOBU先生に敬意を表するともに、自分の力不足を感じ、しゅう太君にとても申し訳なく思う」 と、連絡帳に書いてくださったそうです。

私、どうしてしゅう太君が、学校での適応が改善されたか、すべてがわかるような気がしました。

こんなにも謙虚に、こんなにも前向きに、こんなにも愛情をもって接してくださる担任の先生で、しゅう太君が良くならないわけがありません。

日本の教育のすばらしさを、改めて感じることができたのでした。


とにかく、学ぶ意欲・モチベーションを下げるようなことがあってはならない。

様々な活動を構成して、認知の世界を広げて行けば、必ずそれは多面的に構成されて、やがては深い理解へと結びつく。

たまたま今、別ルートを使っているのなら、それで当座をしのいで、多面的構成を図る。 これぞ、長所活用型指導であると、私は考えています。

漢字から、パズルから、国語の好きな太郎君を育てる。

しゅう太君や花子ちゃんは、読解力と継次性を武器に、数量の感覚に迫る。

それが私のやり方です。


「がんばりたくなるんよな~」


しゅう太君は、また一つ、私に大切なことを教えてくれました。



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家庭・学校・専門機関との連携の中身

 2009-06-08
私は、小学校に勤務していたときに、生徒指導主事を何回か経験しました。

特別支援教育コーディネーターのない時代ですから、子どもの学びを支える「育て」の部分について、学校の窓口となって取り組んでいました。

当時の校長は、私の授業時数をわずか週数時間に設定して、「とにかく動け」と、私を自由に動かせてくれました。

それ以前に生徒指導主事をしていたときは、大規模校でありましたが、学級担任との兼任でしたので、週数時間の授業時数というのは、破格の待遇でした。 だって、みんな週20時間以上の授業をもつ中、私だけ日に1~2時間しか授業がなくて、後は自由なのです・・

こういう環境でしたから、朝、出勤前の家庭訪問は当たり前で、児童相談所、通級指導教室や医療機関、検査機関に保護者の方と一緒に行かせていただいていました。保護者に寄り添うことの基礎の基礎は、この時の体験がベースになっています。


当時はまず、専門機関につなぐということが、大切なステップになっていました。

しかし、当然ながらそれはスタートであってゴールではありません。つないだ部分が、子どもの育ちにつながらなければ、何にもならないのです。

つないだことで、それが足し算にならないケースもあります。

あってはならないことですが、医療につながることで、学校の指導の本気度が低下したり、妙に慎重になって、本来あるべき教育の姿勢に微妙な変化がみられたりすることもあります。


私は、肩代わりという言葉は嫌いです。

親の肩代わりも、学校の肩代わりも、医療の肩代わりも、それは別のものでは決してできないと考えているからです。

親は、親にしかできないことがあって、それをまず第一に見つめ直すことが大切だと考えています。

時には、発達の視点を勉強されたり、すぐれた指導法を勉強されたりすることも大切です。しかし、一番に磨いていただきたいのは、親としてのあるべき姿なのではないでしょうか?


私はこの頃は、毎週公立保育園に巡回相談相談に行かせていただいていますが、保育士の先生には、次のようにお伝えすることが多いのです。

「先生の保育士としての専門性は、他の機関ではまねのできないものなんだよ。先生が自信をもって、集団で育てる保育の王道を進むことが、この子の発達に果たす先生の最大の役割であり、任務なんだよ。今日、私がお伝えしたことをしっかりとかみ砕いて、自分のものにしたなら、子どもの目をしっかりと見ながら、生かせるところを生かせてごらん。」

こうお伝えすると、何人もの先生が、私の前で大粒の涙をはらはらと落とされました。

療育には、療育の果たすべき大切ですばらしい役割があるのですが、集団の保育の場に、それを咀嚼しないで当てはめては、うまく行かないことがあります。

保育に療育的なことを生かすことは、とても大切なことですが、時として、保育そのものが否定的に扱われるように感じ、保育士の先生が自信を失っているケースに、これまで私は何度も遭遇してきました。

これでは、私は、本当の子どもの利益につながらないと思っています。


「あの子は、○○症だったのかあ~ やっぱりなあ~ やれやれ 医療につながって、良かった、良かった~」

こんな学校の先生はいないと思いますが、これで、子どもでは子どもの利益にはつながりませんよね。


その子の特性をシャープに分析にして、リスクを明確にして、理論的に裏付けられた系統的・段階的なプログラムをもとに、小さなステップで確実に積み上げていく、そういう仕事をしてくださる関係機関の先生

ありのままのその子を受け入れ、あふれんばかりの愛情と教育的情熱をもって、一つの大切な命、ななくてはならないクラスの大切な存在として、みんなと育つ喜びを、めいっぱい体感させてくださる保育士の先生

そして、忘れん坊でおっちょこちょい、涙もろくて、すぐに怒る。でも、ぼくのために、いつもがんばってくれている、世界で一番、大好きなお母さん

どれが良いってことではなくて、どれも大切なのだと、私は思うようになりました。


誰かに任せるのではなく、それぞれの持ち味を、子どものために、足し算やかけ算にしていくことが大切なのだと考えています。

取り入れるものは取り入れながらも、保護者の方との役割、関係機関との役割、学校・園との役割を具体的な部分で明らかにしていきながら、それぞれが、それぞれのの王道を突き進む。

それこそが連携の中身なのだと、私は考えます。

総論は簡単ですけどね、細かい部分、具体的な部分のすり合わせはむずかしいですよ。 価値観のずれは、必ず具体に出ますからね。


ですが、責任も、役割もフィフティ・フィフティー。 

対等な関係で、子どものために、相互に連携し、その子に合った、オーダーメイドの形を作り出すことが大切です。


私の敬愛する何人もの保護者の方が、すでに毎日、そのことに取り組んでおられます。

私もまた、自分の持ち味で、毎日、保護者の方と向き合いながら、何かのことで自分の役割を果たしていきたいと考えているのです。

私だけの力で、何かができるとは思っていません。

でも、もしかしたら、私にしかできない何かがあるのではないかと思っています。
私は、それをしっかりと見つめ、精査し、ご家族の願いを受け止めながら、指導に生かしていきたいと願っています。

「指導を通した子どもの肯定的な自己理解の醸成」

それが、私の持ち味であり、果たすべき役割なのではないかと、考えているのです。



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子どもの心の世界が見えてこそ

 2009-06-05
私が、初めて支援級の担任をしたときのエピソードです。


小学校1・2年と、その子は、ほとんどの時間を交流級で過ごし、個別指導をするときには、となりの私の教室(支援級)にやって来ていました。 (本当に恵まれていました)

その日の給食メニューに、パンとジャムがありました。

おいしく給食をいただき始めたその時、その子は、「ジャム取って~、ジャム取って~」 と急に泣き叫び始めました。

私は何が起こったのか、全く理解できませんでした。 なので、何をどうしたらよいのかが分かりませんでした。 (たぶん、ジャムのついていないパンと交換し、クールダウンさせてのだと思いますが、そこはよく覚えていません)

結局、この子はべちゃべちゃの食べ物(=ジャムのような物)が嫌い、でも給食だから、がんばって食べたい、でもやっぱり食べれられない、でも何とか食べなきゃ、やっぱり無理、もうどうしてよいかわからない・・

という形になってしまったのだと、後になって理解することができました。


泣き叫ぶくらいなら、ジャム付けなきゃいいのに・・ (無理解な私であれば、その時、きっとそう思ったに違いありません)

そこに給食をがんばって食べたいという強い願いがあるからこそ、嫌いなジャムをパンに付けた。

この子への理解が深まるにつれて、私は、その気持ちが、愛おしくて愛おしくてたまらなくなりました。

と同時に、そんなことも分からないようでは、担任としては失格だと、深く反省しました。

「そうか、がんばってジャムを食べようとして、チャレンジしたのか? えらいぞ!」

彼の目を見て、やさしくそう言ってやれば、彼にとって大切な1日となったであろうに・・


その彼が、今高校生になり、私の教室で週1度、英検と漢検の学習をしています。

その彼の昨日のエピソード


漢検の問題をしたあと、不正解だった漢字を、赤ペンで修正する学習をしています。

私のちょっとしたミスで、訂正すべき漢字を1行まちがえてしまました。

こういう時は、修正ペンでその赤字を消すお約束です。

なかなか乾かないので、「ちょっと休憩する」 といって、彼は教室にあるじゃんぼシャボン玉をいじっていました。

ところが、不意にそのふたが開き、シャボン液が、かれのズボンにかかってしまいました。

彼は、心の中できっと、「とんでもないことをしでかした」 と思ったに違いありません。

突然、ズボンを脱いで、流しでそれを洗い始めましたが、予想以上にズボンがびちゃびちゃになってしましました。

今度は、「乾かしして~」 と叫び始めました。


その時に、私は9年前のあのジャムのエピソードをすぐに思い出しました。

> ここには、ドライヤーも乾燥機もない、でも、保育園の中には乾燥機があるはずだから、保育士の先生に聞いてあげるよ。ズボン、脱ぐ?

私は、落ち着いて、笑顔で彼にそう伝えました。


保育士に尋ねると、うちの保育園には、乾燥機というものはないけれど、浴室が乾燥室として機能するということでした。

浴室に行き、ズボンを吊し、スイッチを入れると、何か確かにモーター音が聞こえてきます。

本当に乾くのかなあ、と思いながらも、私は再び自分の教室に帰りました。


パンツ1丁での個別学習が始まりました (笑)

何だ、こういうのは平気なんだと、笑いをかみ殺していました。

私の教室は、警備の職員の着替え室も併設しているので、定刻に警備の職員が教室に戻ってきました。

彼は、「恥ずかしいから、隠して」 と、私に訴えました (笑)

恥ずかしいって・・・

私に対しては、恥ずかしくないのか、と思うと、またまた愛おしい気持ちがこみあげてきました。

と同時に、私と彼との間に、何かあたたかい物が流れ込んでくるのを感じました。


予定の学習を終え、お楽しみのDVDタイムになった所で、そのズボンを取りに行くことになりました。

乾燥室に行くと、まあ何と、ズボンはきっちりと乾いているではありませんか?

さすがは、我が保育園の乾燥室です。

さっそく、彼にズボンを届けると、彼もびっくりして、何とも言えないステキな笑顔を見せました。

9年かかって、ジャムの失敗を取り返した。

当たっていないかも知れませんが、私はそう感じました。


指導後、今回もご両親がお見えになりました。

今日のズボンのエピソードをお伝えしました。

彼は、中学の後半、「勉強をしたい、でもそれが思うようにできないこと」 そういう思いで、学校への適応に大きな課題を背負いました。

しかし、今では毎日元気に学校に通うようになり、社会への接点が日に日に拡大しているそうです。

会話がナチュラルになり、笑顔や鼻歌が見られるようになり、挨拶や日常生活のギスギス感が、見違えるようになくなってきた、と伝えてくださいます。


確かに、ご両親が思いあまって相談に来られた、今年の2月の頃の彼の目は、今とは全く別人のものに感じました。

> ここまで来たら、ダメで元々。 私にだまされたと思って、ここに連れて来ていただけませんか?

これがその時、私がお父さんにお伝えした言葉です。

私が自分の方から、教室にこんな形でお誘いしたのは、後にも先にも、この時だけだと思います。


昨日お父さんは、「佐々木正美先生は、自分がその世界に入り、その子の目に映る世界を共有することが大切と言われていました。 先生こそ、うちの息子の世界を共有してくださる先生です」 と言ってくださいました。


何だか、弟は変わった、自然になった、普通になった・・

最近の、彼のお姉ちゃんの言葉だそうです。


彼は今、特別支援学校高等部に通い、次週には現場学習というのが始まるようです。

私は、大学院にいた時、この支援学校のアシスタントティーチャーとして、1年間通わせていただきました。

私は中学部の担当でしたが、文化祭の時、高等部の生徒が、本当に生き生きと輝いた目で演技をしているのを見て、これぞ真の教育と、胸のすく思いでその演技を見つめていました。

現場学習、きっと彼は大切なことを学び、その足で私の教室に来てくれることでしょう。

「勉強、むずかしくなったら、ここ止める」 と、彼はもう言わなくなりました。

私の都合で指導ができなかった週に、彼は自分から、曜日の振り替えを希望したそうです。


「学校を休んでも、私の教室に来る彼」 は、今や 「学校も休まずに行く彼」 に成長を遂げました。


私は妄想癖がありますので、これから彼が、次々と新しいステージへと発展していくような期待をもっています。 教育者ですから、夢をもち、いろいろとたくらみをもっています。

「ごく当たり前に、日々を過ごし、居場所があり、そこでわずかでもよいから成長の手応えと充実感をもってくれればそれでいい。そういう何気ない日常生活の大切さ、そして安らぎの大切さを、身にしみて感じています」

ご両親は、幾度も幾度も、そう伝えてくださいます。

どこか、何か、大切なことが見え隠れしているように思います。


大変な場面を共に乗り切った子どもほど、つながりが深くなるのは事実です。

うまく行かない時こそ、何かの強い願いが奥に潜んでいることも、多いように思います。

99の失敗と1の手応え

楽しく、充実した手応えを感じるまでになるのは、そうたやすいことではありません。

苦しいことも、思い通りにできないことも、いっぱいいっぱいあります。


でも、こういうこともあるから、希望をもってふんばることができます。

私は、今日も、子どもたちと一緒に、精一杯前を見つめて歩んでいこうと思っています。


この子が在籍していた小学校では、卒業式に1年生も出席します。

彼は、当時、予行演習で、泣き叫んでいました。

それから色々な事がありました。 卒業式を別室で、という思いも一瞬ではありますが、頭をよぎりました。

しかし、彼は卒業式に立派に参加しようと願っているのです。

泣くのは、その気持ちの裏返しです。

最後の最後に、体育館の横で私は、彼の目を見て、

「ごめん、もう大丈夫、何があってもいつものままでいいから」

私がそういう意味のことを伝えると、彼の表情がみるみるうちに落ち着いていきました。


信じればこそ、子どもは変わる。

「万が一誰かに迷惑をかけたなら、私自身がその人一人一人に謝りに行こう、だってオレ担任だもん」

そう思うと、私の気持ちはすっきりとして、何の迷いもなくなりました。

不安がないと言えばウソになります。 しかし、子どもの心の中の願いが信じられないなら、担任としての資格はないのだと気がついたのです。

そして、この子の担任でいられることを心の底から感謝し、誇りに思いました。

やっと、本当の意味で、私がこの子の担任になれたのは、この時からでした。

これまで、どれだけの感動をこの子と共有してきたことか。

不適応を、子どものせいにすり替えてはいけないと、心の底から感じた瞬間なのでありました。


その卒業式は、生涯心に残る物になりました。 きっと彼も同じだと思います。

この卒業式があればこそ、彼は今、私の横で漢検の学習を続けているのです。


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言語にかかわる脳の機能局在と 私の指導実践

 2009-06-04
言葉の獲得は、私たちにとって大切なテーマです。

たとえ現時点で表出言語が少なくても、コミュニケート自体は可能ですし、例えば数概念を形成できないということではありません。

しかし、言葉があることによって、コミュニケーションが豊かになったり、思考力が高まったり、世界が広がっていったりして、可能性のスケールが次々に大きくなっていきます。

何とかして、子どもに豊かな言語の世界を

それは親として、当然の願いとなるわけです。


脳の機能局在の面から見た場合には、ブローカー(表出・運動性)言語野と、ウエルニッケ(受容・感覚性)言語野とに分かれます。

左半球、側頭葉の中心よりっちょっと左が表出言語、ちょっと右側が理解言語をつかさどる領域です。


ある日食べた、黄色くて長くて、おいしい食べ物。

それには、バナナという名前が付けられていて、実際にそこにバナナや絵カードがなくても、言語を使えば、相手にそのことをきちんと伝えることができる。食べたいと要求することができる。大きなストレスを伴うことなく、すぐに自分の意志を相手に伝達できる。

話し言葉なら、書き留めたり、カードを選んだりしなくても、すぐに、多くの人に、その場ですぐにその意志を伝えることができる。


言語の獲得に向けては、様々要素が複合的に存在しており、発達特性や環境など育ちのストーリーが千差万別なこともあり、なかなか課題部分を特定するのはむずかしいし、一朝一夕に行かないことも多いようです。

STや言語の先生をはじめとする専門的な指導も必要でしょうし、学校・園での集団生活やコミュニケートする場の構成も重要です。 本人の言語にかかわるモチベーションも大切です。

A=B みたいに単純に整理できないのが、言語指導のむずかしさでもあります。


一文字一文字は読めるのに、それが 「ばなな」 というカードになると、とたんに苦手になる子もいます。

まとまりでは、すらすら文章を読めるのに、一文字一文字の形の識別が苦手な子もいます。

Aちゃんに使えた指導法が、Bちゃんにはまったく合わなかったこともあります。 また逆に、それがCちゃんにはパワーアップして、どんぴしゃりとはまったこともあります。

いかに言語に関わるメカニズムが奥が深く、複雑なものであるをがうかがいうことができます。


今、3Dのレプリカと、2Dの絵カードと、文字情報のひらがなと、この3つを、ていねいにより合わせる学習をしている子がいます。

色の認知、識別、形の識別、カテゴリーの理解など、きっとこの子の言語習得の過程はこうではないのだろうかという自分なりの仮説をもとに、毎回・毎回、中心課題に向けて、簡単な型はめパズルからスタートして、慎重に慎重にその子の思考の流れに添って、指導を組み立てていきます。

そして中心課題をスモールステップでクリアさせ、たっぷりと強化します。

ここまで来るのに、何ヶ月もかかりました。


手探り状態から抜け出し、何かしっぽをつかんだ感覚が、私にはあります。

細いパイプが、やっとつながった感じです。


細くともパイプがつながったことで、指導自体に余裕と見通しがもてるようになってきました。

指導中の雰囲気が、お互いにあたたかい感じになってきて、何だかとっても良い感じです。

ちょっと前の、ギスギスした緊張感が、なくなってきました。

このイケテル感が、コミュニケーション自体にも、情緒の安定にも、大きな影響を与えているのは確かです。

指導後のお母さんとの会話も、少しだけれど希望の光が見えてきたせいか、私自身がとても楽しみな時間に変わってきました。

「今日は、ここまで来ましたよ」 

そう伝えられる内容があることが、私には何よりの喜びなのです。


指導の中での気づきもたくさんあります。

例えば、バナナひとつにしても、私の教室では、 「絵カード」  「文字付き絵カード」 「文字カード」 「ペアペアパズル (一方にバナナの絵、片方にバナナの絵がかかれたもの)」 3D立体バナナパズル(4分割したバナナを磁力で再構成できるもの) 「リアルなイミテーションフードとしてのバナナ」 「ひらがなボードのバナナ」  「ひらがなつみきのバナナ」  と数種類以上のものがあります。

これらのそれぞれに、バナナとしてのシンボル機能があるわけです。

その接続は、私たちは概念として明確で揺るぎないのですが、未分化な子どもの場合、時としてはそこが甘かったんだなって、いうことが指導中はっきりとわかることがあります。

どうして分からないのかが分からないから苦しいのであって、何で分からないのかが見えた瞬間、その指導法は100通りだって工夫できます。

それまで暗闇の中で闇雲に矢を放っていたのが、的は東の方向であるとか、あの明かりの方向に射よ、となると、俄然その確率も、モチベーションも向上します。

まるで、脳の中のシナップスやニューロンの動きが、音を立て、目に見えるかの如く感じる瞬間です。


以前にもふれましたが、子どもの目には、ビアジョッキがコップの仲間って思えなかったり、お月様とバナナが同じに見えたりするステップが存在するということです。


ブローカー領野とウエルニッケ領野の間には、聴知覚に深いつながりのあるヘッシェル回があり、話し言葉の受容・理解の出発点とされています。

また、ブローカー領野からウエルニッケ領野まで、言語関連部位は、弓状束といって繊維状に結合されているのです。


いろいろな所に種まきをすることを忘れてはいけません。

水をやらなければ、枯れてしまいます。

そして、出てきた芽を育て、バラバラだったものをうまくつなげていくことも重要です。


本丸の芯は時間をかけてしっかりと

核ができれば、それを雪だるまのようにぐるぐる回転させていく、そんな指導イメージでしょうか?

だからこそ、マルチに、しかもていねいに取り組んでいかなくてはならないと、私は考えています。


特定の指導法を検証していく演繹的な手法も存在します。

私は自身は、実践を編み上げていく、帰納法的なスタイルがお好みです。

何を差し置いても、実践ほど尊いものはないと、思っているからです。

これもすべて、ご家族の皆さんの願いに支えられていることをいつも感謝しています。

なかなか結果は出せていませんが、今日も真心を込めて、1回1回の指導に取り組みたいと願っているのです。

今後とも、どうぞよろしくお願いします。




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子どもの育ちを共有するということ 

 2009-06-02
先日、機会があって、私が指導をしているお子さんのご両親と一緒に昼食をいただきました。

就学前に、ご両親といっしょに、小学校の校長先生にごあいさつに行かせていただくことになったのですが、「少し時間があるので、我が家で昼食を召し上がってください」 ということになったわけです。

お父さんはお医者様をなさっているということを、昼食をいただきながらお伺いしました。

多忙な勤務の合間を縫って、我が子のために、病院を早退されたということでした。 (お父さんは、小学校への訪問が終わると、またすぐに病院に戻っていかれました。)


お母さんは、私の最近のスケジュールをよくご存知なようです。

日程の隙間の、ここしかないというピンポイントな時間を見つけて、学校の校長先生とご主人の仕事と私との日程を調整されました。 (これも運命というか、奇跡的なことです。そこに強い意志と、冷静な判断がなければ、とても実現不可能な営みです)


3人で昼食をいただきながら、とても不思議な気持ちになりました。

1年前は、お互いにお互いのことを何も知りませんでした。

ブログの記事をきっかけに、作年夏にメールをいただき、遠隔地のため一旦はお断りをしたものの、ご縁がつながり、今では定期的に指導をさせていただくようになりました。

それまで、お父さんとは、お母さんほど話す機会はありませんでしたが、指導の時には、必ずご両親でお見えになっていました。

まさか、お父さんがドクターとは知らず、私が平気な顔で、医療的な面の話をさせていただいたときも、いつもうんうんとうなずきながら、聞いていてくださいました。

一期一会という言葉がありますが、私はいつかここにおじゃまさせていただくのを運命づけられていたような気持ちになりました。


ご両親は、ごくごく自然に私を迎えてくださいました。

決して何か魂胆が見え隠れする、過剰な接待ではありません。

その自然なあたたかい気持ちが、わたしたちの心を急速に接近させたように思っています。


実際にご家庭に足を運び、昼食をいただくことで、その子とそのご家庭が、ぐっと身近なものになったのは確かです。

他県の小学校の校長室におじゃまする機会も少ないし、こういう形での学校への訪問も極めてレアなケースなので、お伺いする前は、それなりに緊張しましたが、実際に就学予定先の学校におじゃまし、校長先生・教頭先生・コーディネーター(支援級担任)の先生にお会いすると、不思議なもので、少し先が見えてきたような気持ちになりました。


その後、その子の通っている幼稚園へおじゃましました。

前回の指導の時に、園長先生と担任の先生が突撃訪問をしてくださいましたので、今回は、私が園へと突撃訪問をさせていただきました。

私たちが園内に入ると、園長先生は、率先して花壇の手入れをされている最中でした。

想像していた通りでした。

気さくで前向きな園長先生のお人柄、教育にかける真摯な情熱、先生方お一人お一人に活気の満ちた、それはそれはすばらしい幼稚園でした。


「ダウン症の子をひきうけてくれる園は、ここしかなかった」

いつかお母さんは、そう私に伝えてくださっていました。


その子は、私の姿を見つけると、真っ先に鉄棒の所に行き、何度も何度も逆上がりをして見せてくれました。 そして、園庭で始まったリレーに参加して、何度も何度もトラックの周りを走って見せてくれました。

この子、ダウン症児です。

ダウン症という言葉だけを聞いて、この子の弾むような姿を想像できる方がいらっしゃるでしょうか?

この姿を見ずして、書類や発達検査で、何を判断できるというのでしょうか?

この子は、逆上がりやリレーを、私に見てもらおうと、はりきって動き回っているのです。

私は、あたたかく、そして胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じていました。


私は校長先生に、「機会を見つけて、とにかくこの子を見てください」 「本校が掲げる一人一人を大切にする教育の実現に、この子は必ず宝物となるはずです」 そうお伝えをさせていただきました。



実際に足を運ぶというのは、そんなに簡単なことではありません。

そこに強い意思と願いがなければ、なかなか実現できることではないのです。

身近な場所であっても、心理的には大変遠い場所も存在します。

逆に物理的な距離は長くても、心理的にはしっかりと結びついている場合もあります。

要は、そういうことなのです。


園をあとにする時、その子は、私の手をしっかりとつないでくれました。

私は、その指先から、大切な何かが通い合っていくのを感じました。

一時は、新型インフルエンザの問題で、この時期に伺ってよいものかと迷った時もありました。

この幼稚園に足を運んで、本当によかったと思いました。


早春から、初夏へ。

この子の指導を始めたその日、桜の花が満開でした。

「まるで、この子の先生の教室への入学式のように思えました」 と、お母さんはメールで伝えてくださいました。

指導の合間にキャッチボールをすると、とても幼稚園の女の子とは思えないほどのスピードで、私の胸に直球を投げ込んできます。

聞くと、小学生のお兄ちゃんのバッティングピッチャーを現役でつとめているそうです。


そこにあるのは、何か?

それは、子どもの成長と幸せ、そしてその可能性を信じてやまない、ご両親と私の気持ち、それだけです。



「早く咲いても 遅く咲いても 同じ花には変わりなく きっとすべてが美しい」

そんな詩の一節を、私に教えてくださったのも、このお母さんなのです。


私は、ずっとずっと、この道を、このご家族とともに歩んでいきたいと思いました。

木立を抜けた風が、私たちの歩く道の間を、さわやかにすり抜けていきました。

それは、この光景を、この子と共に共有できる幸せを、心から感じた瞬間なのでありました。



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