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18歳以降の新たな学びの形

 2017-11-08
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私が個別指導の教室を開き、今の活動を始めてもうすぐ10年になろうとしています。

当時小学生だった子も、もう高校生になり、程なく卒業を迎えようとする子も何人かいます。

通所支援事業としての放課後等デーサービスは18歳までの児童が対象ですので、それ以降、私たちの事業所は卒業ということになります。


一方、土曜日と日曜日は、当時のスタイルそのままに、私の個人事業として教室を運営しています。

公的な支援は一切受けていないので、18歳以降のお子様でもずっと通っていただくことが出来ます。


私の所へ通ってくれている子の多くは、ゆっくり伸びるタイプの子が多いのです。

まさに大器晩成で、ゆっくりだからといって、決して可能性が低いというわけではありません。


中学生後半から、ぐっと伸びてきた子と、これまで私は何人も一緒に学習を続けてきました。

10年も一緒に同じ先生が継続して教えるということは、私以外では少ないと思いますが、そういうこともあってやっとうんと成長する条件が整った時に、適切な教材や学ぶ環境がないというのでは、悔やんでも悔やみきれません。


ゆっくり伸びる子の中には、18歳以降にそんなタイミングを迎える子だっているはずです。

こういう子どもたちだからこそ、私は18歳以降も、生涯に渡って学び続ける学習環境を提供して行きたいと考えています。


18歳過ぎても、ご希望でしたらずっとここに通ってください。

私がそうお伝えすると、何人ものお母さんに、とても喜んでいただくことができました。


学びを続ける事によってこそ、子どもは自分に対するプラスの気持ちを培っていく、

それは大人になってからも同じこと、


18歳以降の新たな学びの形、

私のチャレンジは、これからもずっと続いていくのです。











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心の根元に植え付けておきたいこと

 2017-09-28
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私の保育園には今、0歳~2歳までの子どもが22名通ってくれています。

どの子も光るものをたくさんもっていて、将来は間違いなく社会のリーダーとして育っていくだろうと思われる子もたくさんいます。


3歳になれば、本園に行く子もいれば、地域のこども園などに行く子もいます。

この先、小学校・中学校・高校…と、それぞれ子は、それぞれの道を歩んでいくことになります。

でも、ここにいる間は、みんなみんな白ゆりの大切な子どもです。


どのお友だちにもみんな大切な命があり、共に育ち、共に生きるという感覚を、3歳までのこの時期に、私は子どもたちの心にしっかりと植え付けておきたい、

その感覚と理念をしっかりと心に宿した子どもたちが、ゆくゆくは社会を変えていく大きな原動力となれと、心から願っているのです。


この時期から、そもそも分けている教育で、いったいどこで子どもたちにその大切な感覚が育っていくのか?

共に暮らさずして、共に学ばずして、一体どこで大切な命とふれあうことが出来るのか?


言語だけでは伝わらない大切なこと、

今は運動会の練習の真っ最中、

たとえうまく出来ずとも、必死の思いで子どもを応援し、支え育てる保育士の取り組み、

園長としての、その取るに足らない所作やまなざしの中から、子どもたちはきっとそのことをしっかりと感じ取っているに違いありません。


3歳までに培われていく人としての基礎感覚、

私たちの役割は、限りなく重いのです。









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イタリアの特別支援学校

 2017-05-31
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4月28日の京都新聞に掲載された、熊本学園大学堀正嗣教授のインクルーシブ教育にかかわる記事を、保護者会の会報よりご紹介いただきました。

その中の一文に、「イタリアは1977年の法律で特別支援学校・学級を廃止」という一文がありました。

私は京都の教室で数年前から、日本とイタリアの双方で学ぶ小学生のお子さんをサポートさせていただいておりますので、そのことがとても身近に感じられました。



私は10年ほど前に、大学院で初めてそのインクルーシブの理念に触れ、体が身震いするほどの衝撃を受けたことを今でも忘れることができません。

今、この時代に生き、直接子どもの育てにかかわる者としての、なすべき根幹はきっとここにある、

その時に感じたその思いは、以後多くの子どもやご家族の思いに触れていくなかで、衰えていくどころか、いつしか私の心の中で揺るぎない信念と昇華したのでありました。


4月に開設した新しい教室には、「インクルーシブ教室 白ゆり」 という屋号をつけさせていただきました。

長年の日本の分離教育の歴史にあって、インクルーシブという理念が、そうやすやすと日本に根づくとは思っていません。

だからこそ私は、あえて自分の教室に 「インクルーシブ」 という名を冠して、その方向性を明確にしたかったのです。


ただ単に、特別支援学校を廃止するだけで、それが子どもの成長や幸せに寄与するとは思っていません。

ただ同じ屋根の下にいるだけで、子どもが育つとも思っていません。


どの子も生まれながらにもっている内発的な学びの願いが叶ってこそ、そのあるべき学びの形をもってして、その一つの姿をインクルーシブという言葉で示すことになるのだと、私は考えています。


私は、自分の命の最後の一滴に至るまで、ここを目指して歩んでいきたい。

私の命は、そのために神様からいただいたもの、

私の夢も幸せも生きがいも、根元はすべてここにあるのです。











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絵空事ではないインクルージョン

 2016-07-07
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私は、分離教育の時代は程なく終焉し、遅かれ早かれインクルージョン時代が到来すると信じています。

と同時に、そのことの難しさは重々知っているつもりだし。お題目はともかく、真のインクルージョンに至るまでには、相当の労苦が待ち受けているはずだと感じています。


「ただ普通に学びたいだけなのに、どうしてそれがこんなに難しことなのでしょう」

私の教室にお越しくださる保護者の方々から、何度も何度もそんな言葉を耳にしました。

通常学級にいることが、子どものためにならないと思っている先生が、何人もいたのでは、インクルージョンどころではありません。

本当は、その子の特性に応じた教育の場をどう豊かに構成していくかが検討されるべきことなのに、集団から分離することが専門性であると勘違いしている先生の、何と多いことでしょう、

それが現実です。


例えば、諸外国で当たり前になっていることが、日本で当たり前になるには、私の感覚ではおよそ10~15年遅れといったところでしょうか?

ならば、私がせめてここまでといったところまで来るためには、あと15年もかかるかも知れません。


何もせず、黙ってそのことをやり過ぎるなんて、私には絶対不可能なことです。

この時代に生きたものとして、わずかであってもそのことに寄与できる自分でありたい、

そのことに打ち込める日々を過ごしていきたい、


15年先となると、私はもう73歳、

果たして、本当にそんな歳まで生きられるだろうか、

私がそういうと、「すべきことがあれば、命はつながれる」 と、家内が笑って答えてくれました。


まだ、インクルージョンも、共生社会も、絵空事であると思っている人がたくさんいます、

それでも地球は丸いし、りんごは下に落ちてきます。

どんなに時間がかかろうが、目指す方向にぶれなどみじんも、あろうはずがないのです。






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分離では育たない教育の中身

 2016-07-01
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今からもう数年以上前のことです。

京都から、ある母子が私の教室を訪ねてきてくださいました。


イタリア人のお父さんと、日本人のお母さん、

幸せなことに、その日から今日までずっと、その子のサポートをさせていただいています。

当時、アトリエの一室をお借りして、京都教室を開設することができたのも、この日の出会いがきっかけでした。


そのお母さんが、先日、私に以下のような内容のメールを送信してくださいました。



SHINOBU先生


先日、同い年のダウン児(普通級在籍)を持つお母さんが、学校側が示すインクルーシブ教育と我々が考えているインクルーシブ教育が噛み合わない歩み寄れないのはなぜかと、疑問に思って調べ、たどり着いたあるブログを紹介してくれました。

何か変だよ、日本のインクルーシブ教育 (1) 〜(3)
http://www.blog.crn.or.jp/chief2/01/18.html

ボンヤリと違和感があったことが、すっきり書かれていて、とてもわかりやすいです。

そして、そこにも記述されているイタリアのインクルーシブ教育の先進性に改めて気付かされ、
調べてみたら、これぞまさに私たちが考えるインクルではないか!と驚かされました。

先進諸国でもここまで徹底できている国はイタリアの他になかったということを、恥ずかしながら初めて知ることになったしだいです。

2年前に娘を連れて行って驚くことばかりでしたが、その時は日本が遅れているのだと思っていました。
しかし、これを読んで、偶然にも娘がその教育実践に繋がれたことに改めて感謝し、これはもっと伝えなきゃ、という気持ちになりました。
主人の姉たちが、制度のことを誇らしげに語っていたのを思い出しました。

日本の内閣府もやはり各国のインクルーシブ教育について調査し、報告書が出ています。その中にイタリアの状況も報告されていました。

以下に、報告書のほんの一部ですが引用しておきます。

· イタリアでは、1970年代よりインクルージョンに向けた法改正が徐々に行われた。地域の学校の普通学級における教育の保障は、義務教育段階の障害の軽度の子どもから重度の子どもへと拡大し、その後、幼稚園、高等学校へ、そして、1992年法律104号により、保育園、大学が加わり、0歳から成人までのインクルーシブ教育が法律で保障された。

· イタリアは 「統合可能とされる障害児を既存の学校教育制度に組み入れる…中略…のではなく、学校教育制度全体を改革する中で障害の有無や程度を問わず、全ての子どもの教育を保障するインクルーシブ教育制度を構築した」

· イタリアでは「障害児の教育権・学習権=地域の学校の普通学級において教育を受ける権利・学習する権利」と明確に法律で規定されており、学校などの教育機関には障害児者を受け入れる義務と責任があることが明文化されている。

法律に裏付けられているので、娘の学校でも教員たちはとても敏感です。

インクルーシブを進める目的もとても明快です。

· 「障害児を他の集団から取り出して個別に教育を行うよりも、その集団から隔離されることによる阻害化などのマイナス面の方が大きいことが明らかになり、障害児の発達のためには健常児集団の中で普通の関係を築けるようにするという基準が置かれた。」

【基準】
「身体的、精神的、感覚的な障害など、全てのハンディキャップの基底には、コミュニケーション病理、つまり、適切な方法により他者へ意思を伝え、他者からメッセージを受け取るという、あらゆる人的、社会的発展の前提たるコミュニケーション的統合に必要となる能力の欠損がある。程度に差こそあれ、およそ全ての障害児に見られるコミュニケーション能力不足は、同様の問題を抱える状態にある児童と一緒に隔離していたのでは発達しないのであって、彼らが元来持っている僅かな能力を刺激することのできる健常な同級生に囲まれる環境にあってこそ、有益な発達が可能となるのである。」

子どものために何をすればいいか、子どもたちのためにいいことが社会のためになる、という考えがすべての人で共有できている社会。もちろんクラスの少人数制や、複数教員の配置、支援員の制度、もともとイタリアの人々が持っている文化や宗教観、フレキシビリティーやヒューマニティーがあってこその教育制度改革だったろうと思いますが、インクルーシブ教育を取り組み始めてすでに30年以上という歴史は大変重みがあります。中学校や高等教育(大学も含む、知的障害者も含む)においても、イタリアの制度と姿勢、覚悟は一貫しています。

調査報告書の最後には、おわりにとして、このように書かかれています。

「実は、イタリアは1987年に国連で障害者差別撤廃条約を提案しているが当時は反対多数で却下されたという経緯を持つ。イタリアは国連やEUの規定内容を国内で着実に実体化した国であるといえる。
 だが、実態を見ると、近年の教育予算の削減や市場化を取り入れた教育改革の中で、支援員の配置時間数が減少されるなどの影響がみられる…中略…そのような中でも、イタリアは普通学級におけるインクルーシブ教育を分離教育へ転換することはないであろうと思われる。現状に対する批判・不満の背後に「イタリアのインクルーシブ教育制度に対する誇り」が強く存在していることを感じるからである。」

きっと内閣府の職員も調査を担当された研究者も、感動されたことでしょう。こんなことが実現できるのだと。

日本も今すぐにではなくても、真の意味で共生社会となり、世界に通じるインクルーシブ教育の実践国を目指してほしいと願っています。

私も、小さな取り組みですが、娘が学校に行ってる間は今まで通り、気になるところを学校に言い続けることをしていきたいと思っています。






島国、単一民族、鎖国の歴史、優性思想、

よそ者や、自分たちとは違った文化や風習を受け入れにくい風土、

長年営々と続いたきた分離教育の流れ、物の考え方、

日本の社会や教育の中に、真のインクルージョンが受け入れられることは、決してたやすいことではありません、


理解していただければ、ほんの当たり前のことが、

こと具体論にとなると、遅遅として事は前に進まず、右を向いても左を見ても、ぶち当たるのはどでかい壁ばかり。


だからこそ私たちは、子どもたちと心のつながった支援者の一人として、今の時代に生きる者としての使命を果たすべく、この歩みを一歩でも前に前にと進めていきたいのです。

それが、この子と出会った者として、生きていく証になるのだと考えています。


今は、京都の小学校に通うこの子も、夏を過ぎればまた、しばらくイタリアの小学校に通うことになります。

私の個別指導は、クラスの中にしっかりとした学びの基盤があればこそ、初めて生きるもの。


これからも私は、ご家族とともに、生涯この道で戦い続ける自分でありたい、

子どもにとっての大切な学びの時間は、決して2度と、戻ってくるものではないのですから。









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多様性と合理的配慮

 2016-05-19
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この日、就学を来年度に控えた幼稚園の子のレッスンがありました。

3と3と2で「8」となっているものを、「7」に変えるとき、3をさげて2を入れるというような課題に取り組みました。


最初は少し面食らっていましたが、いくつかモデルを示すと、それがストンと心に落ちたようで、以後の活動はまるで水を得た魚のように、次から次へと探求心をもって取り組むことができました。

こうした時の子どもの表情といったら、何にも勝る生き生きとしたパワーがあふれ出るもので、私はそんな子どもの表情を見るのが何よりの生きがいとなっています。


標準化されたカリキュラムや指導計画はとても重要だと思っています。

それぞれの学校・園で大切にされている決まりごとや、プログラムも大切なものであると考えています。


一方で、それぞれの子どもの特性や育ちに応じて、今学びたい内容を、タイムリーに提供すことも、それと同じくらい大切なことだと思います。

要はそのバランス感覚が問われるのであって、それが生きたものになるのも、死んだものになるのも、支援者の腕一本にかかっているのです。


これまで日本の教育は、画一性を優先し、そうでないものを排除する傾向が見られました。

しかし今では、それぞれの子が、かけがえのない社会の大切な一人という観点から、それぞれの特性に応じた、血の通った教育を、いかに実践の場で具体化できるか、そんな能力が問われる時代となってきました。


画一性のみを重視する時代は、もうとっくに終わっているのです。

そのことを一番先に感じ取ってくださるのが、学校の先生方であってほしい、

そう、心の底から願っています。






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「障がい児は分けて育てる」 という感覚

 2016-03-14
私が、大学院にいた頃に、諸外国のインクルージョンの概念を学ぶ機会がありました。

そのことを知ったとき、感動で胸が震えたことを今でもはっきりと覚えています。

逆に言えば、それだけこれまで暮らしてきた世界は、インクルージョンとはほど遠いものであったことを示しているのかも知れません。


個別支援の活動を始めてから、海外で暮らす何人もの方が、私の教室を訪ねてくださいました。

そのお話をお伺いするたびに、ありのままを受け入れず、画一性のみを重んじる日本の風土が浮き彫りになって見えてきました。


私は日本が大好きです。

この国に生まれ、暮らしてきたことを喜びに感じていますし、他の国に真似のできない誇るべきことが数多くあると信じています。

だからこそ今、多様性を尊ぶインクルージョンの文化を、実践を通して、教育の中にしっかり根付かせたいと願っているのです。


多くの人の心の根元に張り付いて離れない、「障がい児は分けて育てるもの」 という感覚を、一日も早く払しょくしたい、

今から10年前と今では、その感覚に大きな変化が見られているように、間違いなく次の10年で、分けて育てない育ての感覚が教育のスタンダードモデルになるのは、確実です。


いくら拒もうが、誰が抵抗しようが、世界の潮流の中で、日本の感覚だけが取り残されていくことなんて、あるはずがありません。

要は、1日も早く、そういう感覚で、子ども育ての体制を根本から整えなおすことが大切です。


白ゆり保育園は、この4月から認定こども園に移行し、発達支援センターが何人もの子が、この機に認こども園に入園することが決まっています。

地域の中、集団の中にしっかりとした居場所があって、さらにその上で、その子の育ちに応じた専門的で行き届いたサポートの場を整える、


私たちが全国に提案する子ども育ての新しいスタンダードが、今まさに始まろうとしているのです。







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日本から分離教育がなくならないもう一つの理由

 2016-02-22
私は教育者ですから、経営的なことは、通り一遍のことぐらいしかできません。

いつも正攻法一辺倒で、裏技も、寝技も使わず、ひたすら内容だけで勝負してきました。


所長でありながら臨床実践から1歩も軸足を外さず、日々子どものレッスンのことだけを中心に置き、ひたすらその充実と向上を求め続けてきたのです。

だからこそ、自分らしさが発揮できたのだと思うし、そのことををよしと考えるご家族の方が、これだけ白ゆりに集ってくださいました。


もしも私が、行政からの天下りを、事業所に迎えるようなことを画策したのなら、事業の枠組みは飛躍的に拡大していくのかも知れません。

しかし私には、そんなことができません。


画一性だけをよしとして、未だに、障がいのある子どもを分離するような教育の流れが、はびこるような地域があってはなりません、

でも現実には、何人もの保護者の方が、子どもがみんなの輪の中に入れてもらえない、

通常学級の門戸を開いてもらえないと、泣くようにして、私の所にご相談にこられるケースが後をたちません、

他地域ではあたりまえのように行わわれていることが、他地域では、何十年も前からの分離教育の流れから、呪いのように抜け出せないということが日常のように起こっているのです。


私はここに、その地域の教育の中にも、既得権益を守ろうとするベクトルがあることを、思い知らされてきました。

自由な競争とは名ばかりで、変化や多様性を認めず、これまで通りを踏襲する閉鎖的な仕組み、

子どもを分離して潤う事業、

インクルージョンが進まぬもう一つの理由がここにあるのです。


一般の方は、こんなことを知りようがありません、

そのことを知った私がすべきことは何か、

子どもの教育の現場から軸足を移さないことと、今私がなすべきこととは、決して矛盾することでなない。


今の時代に生を受け、子どもと保護者の願いを背に受けし者として、今、私が立ち向かわなければならないことが、きっとここにあるのです。






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共に生きるという感性を育む

 2015-12-30
大学院時代に読んだ論文のいくつかに、「幼少期の障がい児との接触や交流体験の有無が、その後のインクルーシヴな感覚形成に大きな影響を与える」 ことが実証されていました。

障害児教育から特別支援教育へと名が変わり、それぞれの子どもの発達にかかわる専門性が社会的に認知されていく流れの中で、その専門性の名のもとに、次から次へと子どもたちが通常の子ども集団の中から分離されていくのを見て、私は何という矛盾・逆行であることかと、ずっと胸を痛めてきました。


それぞれの子どもの特性に合わせた豊かな教育の場の必要性に異議を唱えているわけではありません、

教育と医療との連携を否定しているわけではありません、

ですが、「専門性の名のもとに、子どもをナチュラルな子ども集団から引き離し、セラピストにすべてを丸投げしてしまって、それで教育の役割が終わりみたいなことになっていませんか」 ということを世に問い続けなければならない事例に、次から次へと出会ってきました。


真に高い専門性をもつ者こそ、どの子も同じ子どもの一人であるという、ナチュラルなインクルーシヴな感覚を、その基底にしっかりともっていなければなりません。

どの子も、この世に生をうけた大切な命、

こうした崇高な人間観は、必ず、まっさらな子どもの心にしみわたっていくはずです。


その勝負は、0歳~12歳までの感覚期・少年期に、いかに豊かでナチュラルでインクルーシヴな教育が行われるかどうかにかかっていると、私は思っています。

基本的信頼感も、運動神経も、絶対音感も、大人から始めても決して育たないものがたくさんあるはずです。


私の個別レッスンは、保育園や幼稚園を休んで来てくれる子も多いのです。

ならば、手ぶらで帰すようなことは決して出来ません。

子どもを集団から分離しようとするのであれば、その時間をして、余りある豊かな専門的が担保されなくてはなりません。


すべての子どもは、きっとその子にしか出来ない役割をもって、この世に生を受けたはず、

心の芯からそういう豊かな感覚をもった子は、必ず他者の命を慈しみ、自分の命を大切にする子に育ちます。


共に生きるという感性、

幸せの根元は、きっとこの近くにあります。






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学習場面での合理的な配慮

 2015-11-13
どんな支援を工夫すれば、それまで教科学習のベースに乗りにくかった子にも、教科学習を学ぶ楽しさと誇りを体感させることができるか、

今やそれは、私のライフワークの中で、最も大切な柱の一つとなっています。


ある子のお父さんが、発達支援センターが併設されている白ゆり保育園にどうしても通わせたい、とおっしゃってくださいました。

「白ゆりに来てから、見違えるように子どもの表情が生き生きとしてきた」

と、高い評価をしてくださるもので、いったいどんな育てをしているのか見学させていただきたいということになり、教育委員会の方がわざわざ視察にお越しくださいました。

発達支援センターでの個別レッスンも、保育園の園長先生と一緒に参観していただきました。


ちょうと文字・数字のイメージ化ができつつあるレベルでしたので、自分で言うのもなんですが、絶妙のレベルの教材提示と支援で、その子の数や言語の感覚をブラッシュアップする場面を見ていただくことができました。

当初は、この指導主事さんが私がやっていることをどこまで理解できるか確かめてやろうと、少し意地悪な気持ちもありましたが、それはそれは大変驚いてお帰りになってくださいました。

私も以前、嘱託の指導主事をした経験がありますから、いい指導主事さんでよかったと、胸をなでおろすような気持になりました。


適切な支援さえあれば、教科学習のベースに乗れない子どもはいない、

教科のベースに子どもを乗せることができないのは、それは子どものせいではなくて、自分の力量が至らないからだ、

そう思って私は今日まで、一つ一つのレッスンに向き合ってきました。


もしも文字が視覚的に認知できなのであれば、聴覚的な言語と文字言語との接点を探ればいい、

もしも手指の巧緻性の課題が大きく、上手に文字が書けないのであれば、単語を選んで紙に貼っていく学習から始めればいい、


そういう学習を一定時間積み上げれば、必ず新しい道が拓けていく、

子どもの可能性が広がっていく、

そういう育ちに、私は何度も遭遇してきました。


学習場面での合理的な配慮とは、つまりはそういうことなんだと考えています。

誰だって得意なことと苦手なことはあるはずです。

どの子も自分の特性に応じた豊かな教育を受ける権利をもって生まれてきたはずです。


その当たり前のことが、当たり前に行うことができる世の中は、きっと今よりずっとすてきな世の中になっているに違いありません。

そのために、今自分がなすべきことは何か、

自分の実践の積み上げが、少しでもそんなことのお役に立てるのであれば、こんな幸せはことはない。


どんな子も、どんな人も、一人一人の命が輝く世の中に、

私は自分の仕事を通して、そんな人の真実を、しっかりと見つめていきたいと、心から願っているのです。








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障がいのある子だからこそ 教科学習にこだわりたい

 2014-12-04
私のレッスンが、子どもたちとそのご家族に、人気がある理由の一つ、

それは、きっと私が、何より教科の指導を大切にしているからと思っています。


たし算も出来ない子に、かけ算をさせて何の意味がある?

障がい児には、教科学習よりも、生活に関係ある内容をさせるべきだ、


今まで何度も耳にして来た言葉です。

でも、だからこそ、あえて私は、発展性のある教科学習から、絶対に軸足を動かさないようにしています。


その理由はいくつかあります。

まず第一に、文化的に価値の高い教材を、その子の育ちに合わせて教材化したときの、子どもの目の輝きが明らかに違っているということ


未知の文化にふれてみたい、

出来ないことが、出来るようになりたい、

初めて出会った教材に、胸をときめかせながら、一所懸命チャレンジする子どもの表情を見たとき、私は、何にも勝る昂揚感をおぼえます。



野球というのは、木の棒で、人が投げた小さい球を遠くに飛ばし、それを追いかけながら走り回るゲームです。

そのゲーム性自体が、将来、実生活に直接役に立つということではありません。

職業として、野球にたずさわる人は、ほんのわずかに過ぎないはずです。


しかし、真剣に甲子園を目指して取り組む高校生活の中から、人は、チームワークであったり、体力や巧緻性の向上であったり、同じ目標に向かって協力し合うことの尊さであったり、克己心であったり、後にまで続く友情であったり、生涯の糧となるようなかけがえのない成長の礎を築いていくのです。


野球部が、真剣に野球に取り組まずして、一体何の値打ちがあるのでしょう。

ならば子どもは、勉強に取り組まずして、一体そこに何が生まれるのでしょう。


先日、ある3歳の女の子が、突然天国に旅立ちました。

私の所に来てくれる子の時間は、1秒だって、おろそかにすることがあってはいけないと、常々私は職員に伝え続けています。

この子たちだからこそ、学びの何年間は、神様が与えてくださった特別な時間なのです。


基礎的な力、今その子が伸びていることを、おろそかにしてはなりません、

日々の白ご飯があり、口当たりはそれほどよくなくても、栄養価の高い食材があるわけです。


だからといって、発展的なことや、未知の文化の扉を、すべて閉ざしてしまうのは如何なものでしょうか?

たし算が出来にくい子が、同じ数ずつ増えるかけ算や、面積の勉強を通して、それまで出来にくかった数の量的な見方が育った例を、たくさん見てきました。

学校でやらしてもらえなかった九九を、私の教室で初めて学び、学校に逆輸入した例も珍しくありません。


私の教室は、学校教育に成り代わるようなものではありません。

学校教育が充実すればこそ、私の所の個別指導が初めて生きる。


要はバランスとセンス、

子どもの成長を芯から願う気持ち、

教材の構成と指導の見通し、

そして子どもの目を見て、いつでも柔軟に対応できる技術と経験。


教材は、人類が子どもたちに受け継ぐべき文化のエキス、

人によってその内容やレベルは違っていても、基本的に子どもは、DNAの中で、それを欲しがっているわけです。


毎日毎日、気持ちのこもらないワンパターンの食材の連続、

それがまずく感じてしまうのは、誰のせいでしょうか?


子どもの目が死んでしまうようでは、栄養価のあるのも決して生かされないと、私は思っているのです。



この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2014-12-05)








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学校教育との連携

 2014-09-01
先日、久々にレッスンのない日曜日を過ごしました。

私の通ってるスポーツクラブは、いつも日曜日は午後6:30に閉まってしまうので、私が日曜日にスポーツクラブに行くのは、この日が初めての体験となりました。


遠くで誰かが手を振っているので、誰かと思ったら、以前同僚だった支援学級の先生と、スポーツクラブでばったり会う、という出来事になりました。

今は、私の所に通ってくれている子の、担任の先生でもあるのです。


「担任の先生には、本当に良くしてくださっています」

お母さんは、口を開くたびに、私にそのように伝えてくださっています。


「先生の個別支援、いつも参考にさせていただいています。学校で半分あきらめていたような内容にも、果敢にチャレンジしている先生の取り組みに、本当に大切なことを学ばせていただいています。」

いやいや、私の個別支援は、学校教育が充実していればこそ、生きてくるもの、

先生の学校での教育が、いかに豊かで充実しているかは、この子の表情を見れは、私にだってすぐにわかります、

ご家族が、どれほど先生のことを信頼し、敬愛しているか、私は毎回お母さんからそのことを伝え聞いています。

私は、そのようにお返事を差し上げました。


そういえば、先日、新大阪の教室に、支援学級の先生が、お母さんと一緒に参観に来られました。

夏休みの休日に、お母さんと連絡を取り合って、わざわざパーソナルな教室のレッスンを見学に来る、

なかなか出来そうで出来ないことです。


これまで、何人もの方が、そのような機会に、私の教室に足を運んで来てくださいましたが、私の所へ自分から足を運んでくださるような先生の瞳の奥は、やさしいながらも、いつも自信に満ちあふれた輝きを見せてくれるものです。


私は、学校教育に出来ないことをさせていただきますが、学校教育の場には、学校教育にしかできない大切な内容がたくさんあるのです。

連携というのは、それぞれの機関が同じことをするのではなく、同じ目標に向かって、それぞれがそれぞれにしかできない大切な内容を機能化させていくことだと考えています。

相互に良いところを生かすと言うこ姿勢はとても大切ですが、それぞれが本来の機能を失っては何にもなりません、

学校教育の先生が、安物のセラピストになってはいけないと、私はいつも思っています。


このすばらしい担任の先生がいて、私がいて、そして誰にもかえることのできないステキなお母さんがいる、

来年中学校を迎えるこの子の表情が、いつも明るく輝いているのは、きっとこんなところにも源泉があるのかも知れません。


だからこそ、私にできることは何か、

主体者の力を、最大限に引き出すことこそ、支援者としての力量、


長かった夏休みも終わり、今日から9月

学舎にいっぱいの子どもの歓声が、私の耳にも聞こえてきそうです。





この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2014-09-02)



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通じ合うことで広がる 豊かな学び

 2014-08-22
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今日、たまたま、就学前の子のグループレッスンを見に行ったら、みんなで車座になってねんど遊びをしていました。

一目見ただけで、どれだけ楽しい学びの場が構成されているか、私にはすぐわかりました。


誰一人、泣き叫ぶ子はいません、

誰一人、自分勝手なことをしている子もいません、

先生も子どももみんな心が通じ合って、楽しい学びの時間を共有しているのです。


この活動を車座にして構成した主任の高いセンスを、改めて認めざるを得ません。

お母さん方が、幼稚園・保育園を休んでまで、白ゆりに連れて来たがるその理由、

1日10人定員の白ゆりの通所支援を、あっという間に20名まで伸ばし、来春には一日30人定員の新園舎が建つまでに事業が拡大して来たのも、その原点はきっとここにあります。


言語があってもなくても、通じ合うことで、子どもの自尊心は向上します、

自分が受け入れられていると芯から感じた子どもは、必ず望ましい方向に向かって歩み始めます。


初めてここにやって来た時、けもののように大きな声を上げて泣き叫んでいた子は、この日、一体どこにいるのかと探すのに苦労するほどでした。

しずかで、あたたかく、楽しい中にも、成長のエネルギーがあふれたこの空間には、人の表情を根元から変えてしまうような魔法の力があるのかも知れません。


何があっても、とにかくいつもコミュニケーション力の育成を真ん中に置きなさい、

通じ合うことで、自己肯定の気持ちは、必ず向上する

どの子にも、根元に必ず成長の欲求とエネルギーがある、

それを信じて、その扉さえ開けば、テクニカルなことは、ほっておいても伸びてくる。


私の指導を、いつもしっかりと形に変え、生かしてくれる職員、

通じ合うことで豊かになるのは、子どもも大人も、きっと同じことなのかも知れません。


「 ※白ゆりの発達支援(H26年度) 」 








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ダイバーシティ という世界基準

 2014-07-03
私は野球が大好きで、日本だけでなく、ニューヨークやシアトルの球場にも出かけました。

日本の球場は、千葉・東京・神奈川・愛知・大阪・兵庫・岡山・広島・高知・香川・愛媛・福岡と、様々な球場に何回も足を運びました。


優勝に手がかかった球団というのは、選手を中心に、ファンも、売店のおばちゃんも、グランドキーパーも、監督も、コーチも、フロントもみんなまとまり、一体になった感じがします。

真に強いチームというのは、決して選手だけの力のことを指すのではありません。

ヒーローとなった選手が、お立ち台で 「決して私だけの力ではない」 と口をそろえて言うのは、決してカッコつけた言葉なのではなく、心の芯からそう感じ、 全員が 「 FOR THE TEAM 」 のスピリットで戦うからこそ、勝利を手にすることができるのです。


このことは、決して野球チームのことだけに限らず、企業でも、国家でも、社会でも同じこと、

一部の人だけが贅沢に暮らすというのは、きっと何かが偏っているだけのことで、決して社会全体が豊かになっているということではないのです。


多様な力をもった様々な人が、それぞれの持ち味や個性を生かし、その人らしく社会に貢献しながら、豊かに暮らす地域のモデルを作りたい、

それが、私の夢であり、ライフワークです。


他者の存在を認められる子は、まちがいなく自己肯定の気持ちのしっかりとした子になります。

苦手なことも含めて、肯定的に自分の存在を受け入れた子は、心の芯から、お友だちへの優しさががあふれ出してくるのものです。


多民族の存在を受け入れることで、日本人は、日本文化の美しさを再認識しするのです。

ダイバーシティ (多様性) は、もはやすっかり世界基準、


あなには、あなたにしか出来ない大切な役割がある、

レッスンを通して、日々子どもたちに伝えている私のメッセージの根元は、きっとこんなところにもあるのです。










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実践を語る大切さ

 2013-12-31
月間10本の記事を書くと決めて、この12月31日に、やっと今年120本目の記事を書き終えることになります。

ブログの記事を書くことは、私にとって、自分の実践を振り返ったり、確かめたりするなくてはならないツールになっています。


このブログがあったからこそ、全国のいろいろな子ども達とも出会うことができたし、大切に思っていることを皆さんにお伝えすることができました。

今年は、行政への申請だけで、3件以上の手続きがあって、莫大な時間をそのことに費やしたため、時間に追われ、どうしても少しレッスンの空き時間がある月末に記事が集中してしまいました。

それでも、1本たりとも魂の抜けた記事を書いたつもりはなく、予定通り120本の記事を書き上げたことを、とてもうれしく感じているのです。


教育は、ライブであり、実践の世界です。

いくら綿密に指導案を書いたとしても、子どもの前に立った瞬間には、目標をしっかりと見据え、たくさんの引き出しを用意しながらも、子どもの表情や体温を感じながら、ライブでそれをさばく才覚なくして、生きた授業にはなりません。

台本を棒読みにしているようでは、決して子どもの目は輝きません、

周到な準備があった上で、あえてそれをまっさらにして、子どもを見るからこそ、ライブ感の高い生きた舞台になっていくわけです。


ミュージカルにしても、スポーツにしても、DVDと生では、まったく比較にもならないはずです。

キャストはオーディエンスがあってこそ、選手はサポーターがいてこそ、時として、信じられないようなパフォーマンスが発揮できるのです。


他の療育機関では、10分ももたないこの子が、どうしてSHINOBU先生の教室では、40分もあんなに生き生きとした表情で活動できるのか、何度も見ても信じられない気持ちで一杯です、

レッスンが終わっても、教室から帰ろうとせず、次のお友達が来るからと、抱きかかえるように教室を後にするその姿を、今年も幾たびとなく見つめてきました。


小さいお子さんであればあるほど、感性は鋭いですから、一度新鮮な素材を提供したら、冷凍物はなかなか受け入れてくれません、

ぼろぼろに使い込んだ紙芝居だからこそ、その子のためだけに、ライブでそれを提供する、

テレビでした見たことのない選手に、間近でリフティングを見せてもらったら、どんなに子どもは胸をときめかすか知れません、

それこそが、教育のダイナミズムであると、私は考えています。


百万の理屈より、一つの実践

私が、大切にしている言葉の一つです


もしも日々夢をもって、そうした実践に取り組んでいたとしたら、そのことを発信するのは、喜び以外の何物でもないはず、

もしも、ブログに実践を書くことが嫌になったその日が来たとしたら、それは、実践者としての私が、その看板を降ろす日なると考えています。


このブログも、まもなく6年で、やっと500,000アクセス、

この調子なら、目標としている1,000,000アクセスまでは、もう6年くらいはかかりそうです、

その頃は、私は60歳、

きっと、まだまだ現役バリバリのはずです、


この先、さすがにパワーはきっと衰えていくには違いありませんが、その向上心と技術だけは、今よりも格段に向上するはずと、私は信じています。

それが、私の選んだ道、


明日から続く新しい1年も、私はひたすら、この道を一歩ずつ、前に前にと進んでいくのです、

いったいどんな子と、どんな大切な時間を過ごすことができるのでしょうか、

その時間を、一つでもたくさん積み重ねていきたい、


来年も、もっと豊かな内容の記事を120本、書き続ける自分でありたいと、そう願っているのです。



この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2013-11-17)






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子どもが通常級で学ぶ意味

 2013-12-24
もしも、「学校は、何をするところ?」 と尋ねられたら、多くの人は 「それは勉強をするところよ」 と答えることでしょう。

そうです、まさにその通り、

学校は勉強をするところに決まっているのです。


その直接の担当となる担任の先生は、持ち上がるかどうかは別として、1年を単位として、社会の代表として、大切なお子様をおあずかりさせていただくわけです。

ただ漫然として1年を過ごせばいいというのではなく、「教育者として、私は1年で、この子にこれだけのことを育てた」という結果を示す必要があります。

この1年で、これだけの漢字が書けるようになったとか、二重跳びができるようになったとか、明確に結果を残すのがプロとしての責務です。


例えば、せめて九九はちゃんとできるようにさせたいと思うのは、2年生の担任なら当然のことです。

35人のこのクラスで、Aちゃんにも九九をちゃんと定着させることができるだろうか?と考えたら、支援が必要なお子様を、安易にお引き受けすべきではないと考えておられる先生方も多くいらっしゃいます。


そういう先生は、決して、障がいのある子を受け入れたくないと思っているのではありません、

2年担任として、責任のある仕事をさせていただきたいと思うのは、あるべき姿の一つではないでしょうか?


学校は、勉強するところです、

そこをおろそかにしては、人間形成も何も生まれてはきません、


野球チームは野球をするチームですから、野球をする姿勢がいい加減でいては、チームワークもへったくれもありません、

ならば、甲子園に出場できなかった高校野球のチームは、野球をやったことの意味が全くないのかと言えば、それも違います。

本当は、野球は題材であって、野球を通して培った精神力やチームワーク、向上心、連帯感、目標遂行能力、克己心、向上心、闘志、多くの人に対する感謝の気持ち、それらが育つことが目標なのです、


2年生ですから、九九をはじめ、様々な学習内容が定着するよう願わずにはいられません、

しかし、努力の結果、うちの子の九九の定着が、たとえほんのわずかであったとしても、私はそのことを何と尊いことと感じ、きっとこの子を抱きしめてやるに違いありません、

この子が、多くのお友達の輪の中で、一緒に九九を唱え、懸命に努力する過程の中で、社会性、協調性、自己肯定の気持ちなど、様々なかけがえのない宝ものをつかむことができます、


単に九九だけのことなら、それは公文でも、家庭でも、取り組むことはできます、

しかし学校は、子どもにとって、唯一無二のオフィシャルな集団、

所属感があり、社会から受け入れられていることの証である学校という集団の中で、社会からその大切な役割を公式に付託されている担任の先生と取り組むこととは、全く意味が違います、

たとえ外部の方がどんなに高名で、どんなに優秀な方であっても、ここの部分は、決して他の機関で替えることのできないものです、

それが、学校でしかできないことでり、私はその大切な役割を、学校の先生に託したいのです、


もしも、通常級にしっかりとした居場所があって、それでいて、その子の特性に応じた豊かな支援が、当たり前のようにプラスアルファで実行されるのであれば、何も迷うことはありません、

だから、私は通常級での学びを、とても大切にしているのです。



こうした内容が、もしも担任の先生に届いたならば、果たしてそれでも、その先生はもう一度、支援級を勧められるでしょうか?

「そういうことなら、微力ですが精一杯取り組ませていただきます」

多くの先生が、きっとそうお答えになるのではないかと考えているのは、本当に私だけなのでしょうか?



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母子のインクルージョンへの旅路

 2013-11-30
「集団の中に居場所があって、それでいて、その子の特性に応じた豊かな個別の学びの場の構成を」

私がこの活動を始めて以来、一貫して伝え続けてきた大切な内容です。


文字で表せば、たった1行で済むことですが、現実の学校生活の中での具体化となると、なかなかその理想の姿を示すことができない、

ならば、それを理論や概念だけでなく、子どもの姿が浮かぶ実践のエピソードで示していこう、

そう決めて書き始めた記事も、回を重ねて1000以上になってきました。



三蔵法師は、天竺を目指して、悟空たちと共に長い旅路を歩み続けました。

そして天竺についた時、それまで歩み続けた道そのものが天竺に続く道であったことに気づき、ここに至る、数々の苦難の戦いを通して、育ち培われた己の姿に改めて気がつくのでありました。


インクルージョンと一口で言ったとしても、その道のりは、決して一本道ではありません。

何も考えずに、ただオートマティックで、決められた道を歩んでいくだけなら、どんなに楽なことでしょう、

しかし、現実には、予期せぬ困難や、思いもかけぬ出来事が,次から次へと起こってくるのです。


時には、道に迷い、子どもを抱きしめて、じっと佇んでいたときもあったでしょう、

真っ暗闇で、言いようもない孤独感に苛まれて、どうしてよいかもわからずに、このまま死んでしまいたいと思った時もあるでしょう、


右へ進んでも、左に曲がったとしても、目指す頂はきっと同じ、

母が悩み、苦しんだその涙の数だけ、それが子どもの幸せにつながって来たことを、私は支援者としてじっと見つめて来ました。


子どもは、本当は、うまく行っているとき、順調な時に育つのではなく、もがき苦しんでいる時に育つものです。

真摯に子どもの幸せを願い、前に進もうとする営みに、誤りなどあろうはずがない、


スピードくじでもあるまいに、今日蒔いた種が、明日花を咲かすことなど、あろうはずがありません、

だからこそ、不安になる・・

一瞬たりともおろそかに出来ない、大切な子どもの成長のあゆみであるがゆえに、そこに迷いが生まれ、不安が生じる、


しかし、そのことを、決して恥じてはいけません、

自分のためなら決してできなかったことでも、子どものためだったら、鬼にでも何にでもなれたはずです、

自分の命を捨てたとき、そこにきっと、1本の光だけが差し込んで来たはずです、


子どもために心を砕いたそのことに、無意味な時間などあろうはずがありません、

信じるか信じないかは、すべてあなたの自由、

天竺への道は、いつだってあなたの心の中にあるのですから、







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教科学習の先にあるもの

 2013-11-22
皆さんは、因数分解が今でもできますか?

英語の、現在完了と過去完了とを正しく使い分けることができますか?

中学や高校で、何度も習ってきたはずです。

でも、残念ながら、私の答えはNoです。


甲子園を目指して、活動する高校野球チーム、

県下で、甲子園に行ける高校は、たったの1校、

だったら、毎年1回戦で敗退する高校は、甲子園を目指して練習しないのか?

その答えもNOです。


たとえ、1回戦で負けようが、優勝しようが、最初から負けるつもりでする練習なんか、意味がありません、

可能性は、決して0ではありません、

そこを目指して練習する日々の中から、生涯の宝となるようなチームワークや連帯感、そして自己肯定の気持ちが育ってくるのです。

野球というスポーツに、真剣に取り組む者だけが、そうした真実の価値にふれることができるのだと、私は考えています。


私が、子どもを育てる営みの、ど真ん中に学びを置くのも、同じ理由からです。

学びというものを真ん中に置かずして、自己肯定の気持ちも、社会に貢献していくための様々な力も育たないと思っています。


たとえ、1回戦で敗退する結果であろうとも、歯を食いしばって耐えた日々の練習、チームメートとの支え合いかなどら培われていくものこそが、人の真実に根ざす大切な内容であるわけです。

どんなチームであろうとも、最初から真剣に甲子園出場を目指さないでいて、どうしてそこに大切な何かが芽生えることがあるでしょう。


1回戦敗退を、笑わば笑え、

されど私たちが歩み続けた学びのあゆみには、生涯の宝となる魂が宿っているのです。


教育とは、学びを真ん中に置いた、人を育てる営み、

その尊さに、ランクなどは、本来あり得ないものであるはずです。




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「特別」ではないことの価値

 2013-11-06
今日、うちの 「ますかっと組」 の子ともたちが、「さくらんぼ組」 の子どもたちと一緒にミニ遠足に行くことになりました。

昨年度までは 「さくらんぼ組」 さんと一緒にミニ遠足に行くことができませんでしたが、本年度は、いろいろな意味で環境が整ってきたので、ついにミニ遠足にもデビューすることができました。


それぞれの子どもの特性や課題に寄り添いながら、それぞれの子どもの特別な教育ニーズを満たしていくこと、

それは、発達支援を行う上で、最も大切なスタンスの一つであると言えます。


しかし、ただ単に分ければ、それが「特別」の名に値するかと言えば、それはまた別問題、

本来は、分離するのが目的ではなく、共に豊かに伸びることが目的であるはずです。

みんなと共に伸びるという所に軸足を置かずして、ただ小さな部屋に分離して、それで特別支援というのはもういい加減にもうやめてほしいと思うのです。


もちろん、単に大きな集団に投げ入れて、空間を同じにするけでは、インクルージョンでも何でもありません。

そこには、明確な目標と、周到な準備があって、豊かな教育が成立していくのです。


「今年は、さくらんぼ組さんと一緒にミニ遠足に行きました」

そんな当たり前のことに、ますかっと組のご家族の皆様は、きっと大切な値うちを感じ取っていただけるに違いありません、

それが、私たちの夢とするインクルージョンの一つの形、その第1歩なのです。


今日は抜けるような青空、

マンツーマンレッスンの私は、お留守番ですが、子どもたちと先生方の笑顔は、いったいどのような輝き見せてくれるのでしょうか?




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障がいがあればこそ 質の高い教育の機会を

 2013-10-26
今、岡山大学の特別支援教育専攻の学生さんが、何人もアルバイトで支援に入ってくれています。

4年生の子が3人、小学校の教員採用試験を受験しましたが、その3人とも、めでたく2次試験まで合格しました。

大学院への進学を迷っている子もいますが、後は、新春の教職デビューを待つばかりとなりました。

この1年間、この子たちが、私の個別指導をサポートしてくれましたが、それぞれに子どもの心をしっかりとつかみ、大きな手応えを感じることができるようになりました。


私の個別指導を軸に運営してきた発達支援センターですが、今や、月間の利用者数が400人を越え、とてもではありませんが、私一人でまかないきれる規模ではなくなってきました。

これまでの個別指導は継続しながら、新年度からは、新発想で、定員4名までの少人数制の学習教室を作ってみたいと考えています。


私のいる教室に、学生さんのサポートが2人、合計3人で4人のお子様のサポートをさせていただく。

それぞれのお子さんの発達面の課題や学年などに合わせてクラス分けをし、夕方の5時~6時までの少人数の学習教室、

読み・書き・計算の基礎コースや、教科学習に準拠したコース、体育・音楽・造形の専任講師を招いての特別コースなど、それぞれのニーズに合わせた行き届いた内容を提供させていただきたい、

今、そんな風に、来年度の構想を具体化する準備に取りかかっています。


先日、体育系の大学を卒業した指導員に、「この子たちのために、あなたのもっている専門性を生かして、小グループのレッスンを構成してみないか?」 と、声をかけると、目を輝かせて 「ぜひやらせてください」という返事が返ってきました。

きっと、教育者としての魂に火がついたに違いありません。


障がいのあるお子さんだからこそ、本物の、質の高い教育の場を提供すべきであるというのが、今も昔も、私の変わらない信念です。

その教育は、必ず投資に見合う結果として、はね返ってくると信じています。


真にその道のプロであれば、きっとその専門性を生かして、子どもたちの成長のために力を尽くしたいと思ってくださるはずです。

私は、そういった志のある方の集う発達支援センターを作っていきたい、


ここに通ってくれる子どもたちの魅力や可能性には、すばらしいものがあるのです、

こうしたことを理解してくださる人の輪を、もっともっと豊かにしていくことも、私たちの大切な使命の一つであるのです。




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特別支援学校での研修会

 2013-06-29
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昨日、岡山西支援学校の職員研修会におじゃまさせていただきました。

車で行くと、わずか20分余り、

まさに地元地域の支援学校です。


教務の先生、研修係の先生には、これまでに何度もメールをいただき、今回の研修についての打ち合わせをさせていただきました。

学校に着くと、研修係の先生から一通の手紙を受け取りました。

昨年12月まで、ずっと私の教室に通ってくれていた女の子からの手紙でした。


「これまでずっと勉強を教えてくれてありがとう。楽しかったです。私は西支援学校で楽しくがんばっています。また、SHINOBU先生と一緒に勉強したいです」

そこには、そのような内容が書かれていました。


お母さんからもメールをいただきました。

「西支援学校でもまた、担任の先生にほんと~に恵まれ、会っていただけるとすぐに感じられると思いますが、ほんと素敵な先生です。とっても楽しんで学校に通っています。本当によかったです。」

講演が終わると、その担任の先生にお目にかかることができ、まさにイメージ通り、お母さんのメールそのままの先生でした。

研修係の先生は、眞田先生のところで学ばれた、いわば同門の門下生といったところでしょうか?

以前、小学校の学級担任をしていたとき、同じ学年を担任していた先生とも、それこそ10何年ぶりの再会となりました。

こうした優秀な先生が、きっとこれからの教育を力強く前進させていかれることでしょう。


地元の支援学校ですから、これからも、何人もの子どもたちがここに通うことになるでしょう。

「支援学校で、学びそのものの充実にさらに力を入れていきたい」

教務主任の先生は、私にそのようにお伝えくださいました。


子どもの心の中にある、内発的な学びの意欲を、もっともっと大切に育んでいきたい、

この日の小さな一歩が、そこにつながる道すじとなるように、これからもしっかりと前を向いて歩いて行きたい、

今回のご縁が、一人一人の先生方と、何か一つでも、大切なことを共有する機会となることを、願わずにはいられないのです。




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集団の育てと個別支援とのベストミックス

 2012-12-19





先週の金曜日に、保育園でクリスマス発表会がありました。

歌、合奏、オペレッタ、観察発表など、0歳から5歳の子どもまで、それぞれがそれぞれの成長のようす、発達のようすを発表することができていました。

今回は、そのようすを、0歳から順に映像で記録してみました。

後に年齢順に編集してみると、それぞれの年齢での発達のようすやが、課題がとても明確に見えてくる、

こうしたリアルな実践の内容は、学生さんたちに見せてやると、食い入るように見てくれるので、貴重な資料の一つになりました。

もちろん、それぞれのクラスの中に、私たちが直接サポートしている子どもも何人かいます。

その子たちが、集団の中でどのように成長し、集団の流れの中にどのように適応できているかも、私にとって注目すべきことがらの一つでした。


個別支援が重要か、集団での育てが大切かといく議論は、不毛のものであると私は思っています。

そのどちらかが大切なのではなく、そのどちらもが、子どもの成長にとって不可欠なものであるからです。


子どもによって、特性も違えば、向き合う課題もそれぞれです。

発達のストーリーもそれぞれだし、育っている感覚も、まさに昨日と今日では違うわけです。


ありのままのその子を見つめ、課題の一つ一つを読み解き、育ての道すじを明確にした上で、しっかりとしたビジョンと育ての方向感を模索していくこと、

集団の育てと個別支援とのベストミックスの形を、それぞれの子に示していくこと、

そのことこそが、プロとしての腕の見せ所だと思うのです。


今回、それぞれのクラスが、それぞれの持ち味を生かした、とても内容の濃い発表会だと感じましたが、20人以上いる0歳のクラスの子が、一人も泣いたり意識が切れたりせずに、最後まで演技を続けていたことに驚きました。

もうすぐ就学を迎える5歳の男の子、

みんなと一緒に懸命に演技をするその姿に、小さかった頃の姿が重なり合い、その成長ぶりに、思わず目頭が熱くなる場面もありました。


集団の中での育てのスタンスを決して崩さず、個別支援、入り込み支援、取り出し支援などの形にとらわれず、その子の成長のために何をすべきかを、常に問い続けた毎日でした。


子どもが育てば、私たちは、やがて静かにフェードアウトする時期が来ます。

やがて来るその日を目指していきながら、私たちは、自分たちがなすべき役割を、これからもしっかりと見つめて行きたいと思っているのです。






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学校で学ぶ中身

 2012-10-04
4年生の子が、山の学校に行きました。

私の所で、サポートをさせていただいている男の子です。


事前に、今回の山の学習で、通常級のみんなとは違う特別メニューで活動を構成するかどうかについて、学校と打ち合わせをしました、

たとえどんな時間がかかっても、可能な限りみんなと一緒に活動する機会を大切にしてほしい、

お母さんは、そんな願いを先生方に伝えました、


その子は、通常級の班のメンバーの一員になりました、

山道を歩く活動では、いくつもの班が、その子のいる班を追い越していきました、

でも、どの子の顔にも笑顔があり、相互に応援し、励まし合うあたたかい気持ちが通い合っていたそうです、


その班が、もしも一番最後にゴールしたとしても、メンバーの心に残る印象度は、どの班にも負けないくらい輝いていたのではないかと、私は思っています。

できれば、他の学習活動でも、こんなスタンスで学びを構成することがではしないか?

インクルージョンの一つの形が見え隠れしましたね、

私は、そうお母さんにお伝えをしました。


一方で、別のお母さんから、以下のようなお話を伺いました。


昨年までは通常級在籍だったが、現在は支援級在籍なので、教科書を開いて勉強する機会が少なくなってしまった、

そこで先生に、もう少し教科指導に力を注いでいただけませんかと、先生にお願いして教科指導を始めると、算数にしても、国語にしても、その先生が予想していた以上にうんと出来る、

それもそのはず、算数は日中一時支援の事業所で、国語は放課後等デイサービスの学習サポートで、それより何より家庭学習で毎日みっちり教科学習を積み重ねてきている・・・


支援級は、教科学習以外をするところ??

二つのエピソード、皆さんは、どのようにお感じになりますか?

極端な例かもしれませんが、何か大切なことを見つめ直すきっかけになればと願っています。





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テクニカルとファンダメンタル

 2012-09-30
「すべての子どもに集団での学びと、特性に応じた個別指導の場を」

「まずは、学級集団にしっかりとした居場所があって、それでいて、それぞれの子のニーズに寄り添う豊かな教育の機会を」

5年前に、この活動を始めて以来、ずっと実践を通して、訴え続けた内容です。


その5年前の出来事だったと思いますが、就学のことである学校におじゃまして、「そもそも初めに分けていたものを、一緒にしてあげるという考えではなくて、まずはみんな同じ仲間、つまりインクルージョンの理念が大切だと思います」とお願いしたところ、「ここは日本です、外国じゃありませんから」と、教頭先生から一蹴されたことがあります。

この7月に、文部科学省から「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進」という報告がされましたが、当時はまだ、インクルーシブという言葉も、今ほど一般的ではありませんでした。


私たちがこの先、進んでいくべき道は、はっきりとしているのです。

今回の文部科学省の報告は、見るべき人が見れば、かなり大きなインパクトとなることですが、それがそれぞれの現場にも、今すぐに同じ温度で伝わっているかというと、なかなかそういうわけにもいかない部分があります。

日本には、過去何十年という、分離教育の風土と文化があるのです。


この7月の報告によって、学校によっては、今年度就学の温度に少し変化が見られ始めたかなというのが、今の私の印象です。

これから向かう基礎的な方向性、いわゆるファンダメンタルな部分については、もはや揺るぎようがないと私は信じています。

ですが、この4月に就学するAちゃんの具体的な学びの場の構成となると、その一つ一つは非常にむずかしく、デリケートな内容です。

仮に理念が共通化していても、例えば運動会のリレーで、ハンデを付けるか付けないか、チームの構成をどう配慮するか、そういう具体の場面で、本当の価値観が見え隠れするものです。


ファンダメンタルな理念をしっかりと見据えた上で、リアルな現実の場面で、そのことを一つ一つ具現化し、積み重ねていく営み、そういうテクニカルな実行力を大切にしていきたいと思います。

百の理論より、一つの実践

私はご家族と一緒に、ずっとそのフィールドで、実践者として歩んでいきたいと願っているのです。





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個別学習サポートの可能性

 2012-09-27
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上の画像は、今週月曜日の個別学習サポートのようすです。


私は、多い週には60時間以上のマンツーマンレッスンを行っています。

今、何人もの方にレッスンの空きをお待ちいただいているし、このままでは、来年就学を迎える子のマンツーマンレッスンは、たちまちパンクしてしまいます。

このままでは、組織としての責任が果たせなくなってしまいます。


この秋より、試行的に、以下のような形での学習サポートを始めてみました。

私のいる教室に、2人の指導員がつき、それぞれの子の個別学習サポートを行っています。

教材や、レッスンの内容については、私の指示・責任で構成しています。


もちろん、すべての子に、こうした学習が合っているというわけではないかも知れませんが、このスタイルが機能すれば、今よりもずっと、学びたい時間に、学びたいだけここに来ることができる機会を、増やすことができます。

静かな落ち着いた環境で、週に1度、週に1時間であっても、個別のサポートを受けながら、自分に合った学習を進めていきたい。

そういう子どものニーズもあるのです。


私たちは、学校教育の代わりをすることはできませんが、私たちには、私たちの科せられた役割と責務というものがあります。


一人でも多くの子どもの、内発的な学びの願いをかなえてあげる場を構成していきたい。

私たちの目指す次のステージは、こんなところにもあるのです。





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自分と他者を受け入れる感覚

 2012-08-23
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この日から、新しいお友達が、グループレッスンに参加してくれました。

水遊びには抵抗感があるかも知れないと、事前にお母さんから連絡をいただいていたので、どんなようすかと思ってのぞいてみると、しっかりバナナの水鉄砲をもって、笑顔で遊んでいる・・

何だか、とっても楽しそうです。


今日初めて会うという友達がたくさんいるはずのなのに、何だか、ずっと前から仲良しだったようなムードです。

田舎に行って、いとこと遊んでいるような、そんな雰囲気がただよっています。

この後は、きっとかき氷パーティーもあるはずで、子どもたちの歓声が、いっそう弾んで聞こえてきそうです。


以前、マレーシアに行ったとき、ブルカというのでしょうか、イスラムの女性が顔をかくすための布を初めて見ました。

マレーシアは、多民族国家なので、イスラムの方だけでなく、あらゆる地方の、あらゆる民族の方が、当たり前のように共存しているわけです。

日本人である私も、特別な目で見られるわけでなく、そのメンバーの一員として、自然に受け入れられている、

何だか、とっても居心地がいいのです。


それは、ニューヨークに行った時にも感じていました。

私が乗ったタクシーの運転手さんは、韓国の方や、南米の方など、色々な地域からここに来た人ばかりでした。

そういえば、マレーシアで乗ったタクシーの運転手さんも、日本で働いたことがあると言っておられました。


「みんな違って、みんないい」 という言葉もありますが、他の存在を受け入れるという感覚は、自分の存在を肯定的にとらえることに通じます。

それ以上でもなく、それ以下でもなく、ありのままの友達を、ごく自然に受け入れる風土、

これこそが、インクルージョンの基底にあるのだと思っています。


同じであることが尊ばれ、そうでない者を排除する文化は、捨て去っていかなければなりません。

欠点を含めて自分を肯定的に理解できるようになった子どもは、必ず、他者の存在を尊重し、笑顔とやさしい表情を浮かべるようになっていきます。


グループレッスンの子どもたちの笑顔は、また一つ、大切なことを私に伝えてくれているのです。



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インクルージョンの同志 ここに集う

 2012-06-20
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今日は、芦屋市教育委員会・芦屋市特別支援教育研究協議会の講師としてお招きをいただき、「特性理解に基づいた教材・教具の開発」というテーマで、私の実践についてお知らせする機会をいただきました。

20~30名程度とお聞きしていましたが、会場となった視聴覚室一杯の先生方にお越しいただきました。


この日、岡山のレッスンをキャンセルしてまで、お伺いすることになったのは、それに至るいくつかの大切な出会いがありました。

かねてから注目をさせていただいていた芦屋市の特別支援教育の先生方が、どのようなまなざしで私の実践を受け止めてくださるか、その事を直接肌で感じ取ってみたいと思ったことも、大きな理由の一つです。


実際にお話をさせていただき、ここに集われた先生方は、まさに私と志を同じくするインクルージョンの同志だと感じることができました。

真剣にメモを取り、何度も大きくうなずいて話を聞いてくださる先生方の熱気に、私は知らず知らずのうちに、自分の気持ちが高揚していくのを感じていました。


会が始まると間もなく、実際に私の個別レッスンを受けてくださっている保護者の方が、芦屋市だけでなく、京都からも、三重からも応援に駆けつけてくださり、会場は補助いすが必要となるくらいの人数になっていました。

お母さん方も、芦屋の先生方の熱心な姿勢に、いたく感銘を受けられていました。


現場の第一線でご活躍の先生方に、個別指導のレッスンを、この5年間で10,000時間以上積み上げた実践者として、何かお伝えしなくてはならないことがあるはずだ、

ご家族と共に歩んできた支援者として、ご家族の願いの代弁者として、学校の先生方に必ずお伝えしなければならない大切なことが、きっとあるはずだ、

私はこの日の講演、こんな風にを受け止めていました。


会が終わった後、あるお母さんのお宅にお招きいただきました。

そこには、京都から、三重から、来てくださったお母さん方もいらっしゃいました。

その子が幼稚園の時の担任の先生まで、来てくださっていました。

「SHINOBU先生のマジックの、種明かしをしていただいたように思いました」

大きな拍手で、私を迎えてくださり、感激で胸が一杯になりました。

今回の講演会で、私は、自分の果たすべき役割、向かう先がより鮮明に見えて来たような気持ちになりました。


この日の朝、20年前に教えた教え子から、思いがけないメールが届き、そのことも会場の先生にお伝えしました。

子どもは集団の中で育つ、

みんなの中にしっかりとした居場所があるからこそ、個の特性に寄り添った豊かな個別的な支援が初めて生きる、

どちらが大事ということではなく、その両方が必要であり、そのバランスこそが、その子の教育的なニーズなのである、

私は、教材開発の具体的な中身を通して、本当はそんなことをお伝えしたかったのかも知れません。


お母さんたちとの茶話会がお開きになった後、私は神戸の大学に通う三女と三宮で食事をしました。

心理学の授業が面白いという三女の話を聞きながら、何とも心地よい気分になりました。


この日、午後の6つのレッスンをキャンセルしてここに来たのですから、手ぶらで岡山に帰るわけにはいきません。

ここで得た、ここで学んだインクルージョンの息吹を、何としても今後の実践に生かしていかなければ申し訳が立たないと感じていました。


会の終了後、ある京都のお母さんから、下記のような内容のメールをいただきました。


SHINOBU先生、大きな収穫を持って帰らせていただきました。
ありがとうございました。

研修のお話しを聞かせていただけて、実践場面とはまた別の角度から、SHINOBU先生の子どもを見守る暖かい眼差しや、教える情熱を見せていただけました。

教材開発のプロセスのお話は、子供を惹きつける魔法の種明かしのようで、プロの先生方も身をのりだすように、聞いておられ、唸っておられるようでした。
教師ならば、常にその吸引力に磨きをかけねばならないなと、私は反省した次第です。(←注 このお母さんも大学で教鞭をとっていらっしゃる方です)

おかげで、三重のお母さんたちとも知り合うことができ、地域を超えた情報交換いたしました。
それぞれのエピソードにヒントがあり、参考になります。オフ会の効用ですね。
こんな機会、先生との出会いがなければ、あり得ませんでした。
密度の濃い半日を過ごすことが出来ました。

子ども抜きで先生を囲んでお話しを伺えたのも、またとない機会でした。
お疲れのところ本当にありがとうございました。

今後とも宜しくお願いします。




明日からまた、子どもと共に、ご家族と共に歩める自分を、何よりもうれしく感じます。

このスケジュールの中で、今日のこの日を迎えることができたこのパワー、

子どもの笑顔と、ご家族の熱い気持ちが、それを支え続けてくれたことを、改めて感じることができたのでありました。



※ 当日の資料は、下記リンクからご覧いただくことができます。
 
  「特性理解に基づいた教材開発の実際について」




この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2012-06-22)


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自分が必要とされている感覚 それがインクルージョン

 2012-05-21
私の教室には、毎日たくさんの子どもたちが通ってくれています。

すべての人がそう思っているかはわかりませんが、マンツーマンレッスンの多くの場合は、私のレッスンを選んで来ていただいていると思っています。

中には、県外からお越しくださる方もいます。


SHINOBU先生のレッスンを、選んで受けに来てくれている、

そう思うことが、他では決して替えることのできない誇りと喜びを、私の心に宿してくれるのです。


その気持ちが、今の私のすべてを支えています。

それがあるから、どんなに疲れていても、休みが無くても、腰が痛くても、

弱音も吐かなければ、後ろ向きな気持ちにもなりません。


どんな高熱が出ようが、足が動く限りは、まず教室に行くことにしています。

大抵の場合は、ここで交感神経のスイッチが入るので、その日1日乗り切ってしまうものです。


それでもダメな時は、相当の重病です。

そういう場合は、当たり前の事ですが、長引いては何にもなりませんから、予約をいただいた方に連絡を差し上げ、お断りを述べ、振り替えの段取りを済ませて病院に行き、ふとんにもぐって翌日に備えます。

自分が必要とされていると思えば、こんなことは何でもないのです。


不思議なもので、何かのことで、自分が必要とされていると感じることで、自分の欠点や課題を、素直に受け入れることができます。

いわゆるメタ認知状態になり、自分の欠点を受け入れながら、それとなくそれをコントロールできるようになるのです。


私、ある部分では優れた所も少しだけありますが、それ以外の部分は欠陥のかたまりです。

自分のレッスンが、子どもたちやご家族から必要とされていると感じることで、その致命的な欠点を自分で受容することができるようになります。


「欠点があるから、欠陥があるからこそ、自分はここまで来ることができた」

「自分の長所は、短所があればこそ、その対極に位置するもの」

今では、本気でそう思っている私です。


私のいう 「肯定的な自己理解の力の育成」 には、こうした 「他者から必要とされている感覚」 が、どうしても必要となってくるのです。


あなたがいて本当によかったと、家族から受け入れられている感覚、

先生は、君と勉強している時が一番楽しいと、毎回のレッスンをいつくしむ気持ち、

そして、君がいるからこそ、1年2組なんだというクラスの中の存在感、


それが、この子が自分自身の重い課題を受け入れ、人とのかかわりの中で命を輝かせ、幸せを感じる唯一の道だと考えているのです。


インクルージョンの理念、

それはまだまだ決して、社会の中で当たり前になっているコンセプトではありません。


だからこそ、私たちはそこに向かって歩いていかなくてはなりません。

そこに多くの苦難があればこそ、私たちのなすべき役割もあるというものです。


子どもが、集団の中で、本当に自分が必要とされている感覚、

そのことを実現することは、決してたやすいことでないはずです。

薄っぺらな理念で、できることではないはずです。


大切な命をさずかった家族だからこそ、

みんなと学ぶ教室だからこそ、

なすべきことがそこにあるはずです。


それは容易なことではないけれど、決して不幸なことではないはずです。

きっと、選ばれし者だけが、この子と共に歩めるのですから。





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あなたがいてくれたからこそ 今の先生がある

 2012-03-14
今から10年以上も前の話です。


当時私は、小学校6年生の学年主任をしていました。

卒業式が終わったその日、私は校長室に呼ばれ、「新年度は、新設する支援級の担任をしなさい」 と言われました。


私は、支援級担任希望の欄にまる印をつけていましたから、その事がうれしくてたまりませんでした。

中学への引き継ぎなど、卒業にかかわる事務を済ませるとすぐに、受け入れ準備を開始しました。


まだ卒業式が済んだばかりの3月でしたが、その子の自宅、幼稚園、保育園、療育の施設などに足を運びました。

正式に担任の発表があったわけでも何でもありませんでしたから、今から思うと、完全なフライングでした。

交流をする1年生の担任は、同じ6年生の担任をしていた先生でしたし、支援級の免許ももっていましたので、心強い限りでした。


新設の学級なので、予算の獲得、施設改修、備品の整備など、することも手続きも山ほどありましたが、そこには夢があり、希望が一杯でした。

私は、2年間担任をして、その学校を転勤となってしまいました。

連絡帳も、通信も、まるでひとつの物語のように綴られていきました。

本当に、夢のように楽しい2年間でした。


私が、転勤となった後でも、ご家族とは交流が続きメールをいただいたり、お会いしたりする機会も何度もありました。

白ゆり教室を始めた頃、しばらくの期間、特別支援学校の高等部に通いながら、私の教室にも通ってくれていました。


その男の子が、昨日、高等部の卒業式を迎えました。

直接、この子の指導をさせていただいたのは、ほんの限られた時間だったのですが、私の心の原点には、いつもその子の存在がありました。


今、多くの子が、小学校への就学の時期を迎えようとされています。

期待と不安が入り交じって、胸が張り裂けそうになっているご家族・ご両親のお気持ちが、幾度となく私の所に伝わってきています。


私は、支援級の担任になることを何よりも誇りに思っていましたし、1年生でその子を迎えられることが、うれしくてたまりませんでした。

そんな気持ちが根元にあったから、就学前にもかかわらず、幼稚園・保育園・療育施設へと、自然に足が向いて行きました。

それは、当然のことであると信じて疑いませんでしたが、ご両親は、ことある度に、何度も何度も感謝の気持ちを私に伝えてくださいました。


高等部の卒業式を終え、この子も、人生の新しいステージに向かっていくことになります。

私が、直接この子の指導にかかわることができたのは、限られたほんの一部の期間でしかありませんでしたが、それが今の私の活動の源流となっているのです。


ご両親が、涙をこぼされんばかりに感謝してくださったあるべき姿を、多くの子どもたちやご家族のためにつなげて行きたい、生かしていきたい、

それが今、私を突き動かしているエネルギーとなり、パワーとなっているのです。

あなたとの出会いがあったからこそ、今の先生があり、あなたとのあゆみそのものが、多くの子どもとのレッスンに、今でも脈々と生かされているのです。


子どもとの出会いというのは、そういうものです。

あなたとの出会いの輝きを、いつまでも色あせないものにしていくためにも、私はこれからも真摯に自分のつとめを果たしていかなくてはなりません。


だから、だから、

これからも、自分らしく、懸命に生きるあなたでいてほしい、


ご卒業、本当におめでとう、

あなたの存在そのものが、先生にとってはいつも大切な宝物となっているのです。



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心いやされる育ちの場

 2012-02-29
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太郎君が、先週から 「ケアリングレッスン」 に参加してくれるようになりました。

「ケアリングレッスン」 というのは、夕方3時~6時までの間、専任の担当者を付け、1日限定3名、安定した生活リズムと環境の中で自己肯定感を培う、就学後のお子様のためのレッスンのことです。


この日から、同じ学年(4年生)の女の子も、新しく参加してくれるというので、私、ちょっと様子を見に行ってみました。

太郎君は、ちょうど同じ部屋にいた0歳の子と、一緒におやつを食べていた所でした。

0歳児担当の職員と、りえ先生、そして太郎君、

何だか、とてもいやされる空間になっているのでした。


おやつを食べ終わると、太郎君、すぐに脇にあった机に移動し、宿題を始めました。

以前には、あれほど強い抵抗感を示していた宿題に、自主的に取り組み始めたのです。

学校でも時折見せていたあの不適応行動の要因は、一体何だったのかと、不思議に思えるような光景です。


程なくして、4年生の女の子もやってきました。

この子も、これまで私のマンツーマンレッスンを受けてくれていた子です。

この2人がすぐに仲良くなり、心の中にあたかたい気持ちが芽生えて来るだろうことは、その明るくリラックスした表情からすぐに伺うことができました。


この 「ケアリングレッスン」 というコンセプトを生み出したのは、私です。

太郎君と、この女の子とのコラボレーションを構成したのも私ですし、ここで育まれる内容についての全責任を負うのも私です。


私はこれまで、個別指導という学びの文化を切り開くことに、ある意味命をかけて取り組んできましたし、現役バリバリの実践者であることに、何よりの誇りをもっています。

だからこそ、子どもたちの笑顔のために、真に私がなすべきことを明確にしていかなければならないと思うようにもなりました。


この女の子や太郎君の笑顔が、一体何から生み出されてきたのか?

そして、後に続く多くの子どもやご家族のために、私は一体何をなすべきであるのか?

その問いは、私自身に大きなインパクトを与える結果となりました。


すべては、子どもの最善の利益にのために

その方向さえしっかりとしていれば、真心の通い合う学びの場・育ちの場は、いくらでも工夫できるし、そのアイデアもいくらでも構成できる、

今回の太郎君の笑顔は、私にそんなことを気づかせてくれました。


こうした手応えは、担当者のモチベーションも、きっと格段に向上させるに違いありませんから、






この記事は、「特別支援教育人気記事ランキング1位」に選ばれました。 (2011-2-29)






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