母の命 ③

 2017-05-05
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5月4日に、母が40年近くお世話になっていた東京町田市のギルフォード研究所の千葉先生の所にご挨拶に伺いました。

母は、私を岡山に残して、50年間全くの音信不通でした。

今回は、その母がその50年をどう生きてきたかを知るための訪問でした。


まずは、母が何年か暮らしていた玉川学園の分室にご案内いただきました。

今は研究所の分室になっているということでしたが、玉川学園駅から徒歩10分程度の高台にあり、一度はこんな所に住んでみたいというくらい緑豊かなすばらしい環境がそこにありました。

1時間余り、奥様より、生前の母の仕事ぶりや暮らしぶりを詳しくお聞きすることができました。

この住まいも、千葉先生ご夫妻のご好意で、母が住まわせていただいていたのだと伺いました。


その後、町田にあるギルフォードメモリアルホールに伺いました。

そこで初めて千葉先生のお話をお聞きすることができました。


しばらくして近くの場所で夕食をごちそうになりました。

当初は1時間足らずの滞在で岡山にとんぼ返りするつもりでいましたが、話がはずみ、帰るに帰れなくなりました。


ゴールデンウィークど真ん中で、何件あたってもなかなか宿を取ることができませんでした。

私は、カプセルホテルでも、サウナでも大丈夫だと考えていましたが、小林先生が赤坂のホテルニューオータニに宿をおとりくださり、ご自身のお車でわざわざ私をホテルまで案内してくださいました。

その車の中で、ギルフォード教育の一端をご教示いただきましたが、教育者として私にとっては雲の上のようなすばらしい研究実績を残されてきた先生方が、初対面の私を、まるで家族のように、いや普通では考えられないようなVIP待遇で迎えていただいたことに、驚きを禁じ得ませんでした。


あなたのお母様は、比類なき優秀な能力をもった方でした、

千葉先生は、そのように言ってくださいました。


これは、先生のお母様に対する私の感謝の気持ちです。

ホテルニューオータニにご案内いただいた小林先生は、そのようにお伝えくださいました。


奥様は、その言葉の一つ一つのすべてに、本当に家族のように、私の母を心の芯から受け入れてくださっていました。


私の母は、ここでこのようなすばらしい先生方の輪の中で、まるで家族のように接していただきながら、母なりの形で子どもの成長と幸せに寄与する仕事に生涯たずさわっていた、

母の人生は、そんな人生だった…

皆さんのお気持ちに、私は何度も涙がこぼれ落ちそうになりました。


翌朝10時には、岡山行きの新幹線に乗りました。

母の生き様を探る旅は、事前の私の予想を全くくつがえすかけがえのないものとなりました。

ここに来て、本当によかった。


様々なエピソードから、間違いなく私は母の子であり、母のDNAは今この時も、しっかりと私の血の中を巡っているのだと確信しました。

もう私は何も迷わない。


私はこれからも、自分の命の最後のひとしずくまで、子どもたちの成長と幸せのために、力を捧げ尽くしていきたい。

50年間会えなかった母の命は、今私の心の中にしっかりと生きているのです。







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↑ギルフォード研究所玉川分室 何年か母がここで暮らしていたとお聞きしました。

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↑町田にあるギルフォードメモリアルホール

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↑中はこのようになっています

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↑千葉先生にお話を伺いました

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↑千葉先生ご夫妻 小林先生に夕食をごちそうになりました

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↑その日の新幹線で帰る予定が、話がはずんで帰るに帰れなくなってなり…

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↑連休でどこも宿がとれない中、小林先生のコネで、なんと都内のホテルニューオータニに泊めていただくことになりました

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↑まるで外国にいるような朝食の風景

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↑非日常の朝食

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↑私のチョイス

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↑40階から迎賓館が見えました







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母の命 ②

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12月28日に仕事を納め、29日と30日は母の眠る広島県三次市東川内町、そして母が晩年過ごした広島県府中市上下町に伺いました。


母が生まれた家庭は、代々続く上級武士の家庭であったそうです。

先祖代々の大きな墓と共に、歴史を刻む幾多の武家の墓がありました。


母の生まれた時の写真を一枚見せていただきました。

真ん中の祖父に抱かれた母の姿がそこにありました。

祖父も祖母も母も、美しい姿で写真に映し出されていました


裕福な旧家に生まれ、秀才であった反面、祖母が祖父と離婚したことをとても恨んでいたと聞きました。

今回案内をしてくれた叔父は、その母の再婚後の弟で、母が老後を迎え、ケアマネさんから連絡があるまで母との付き合いは一切なかったのだそうです。


その後、府中市上下町にある母の終の棲家を訪ねました。

部屋の中のほとんどは、書籍や絵画などで埋め尽くされていました。


パソコンが数台ありましたので、そのすべてを開いてみました。

データのほとんどがエクセルで、仕事以外にパソコンを使っていた形成はありませんでした。

内容のほとんどは経理や総務が中心でしたが、それはすべて幼児教育やその研究・イベントにかかわるものでした。


私が自分の車に荷物を取りにいくと、ちょうどお隣に住むご家族が出かける途中でした。

ずいぶん母と仲良くしてくださっていたと聞いていたので、ご挨拶をさせていただきました。

息子夫婦とそのおばあちゃんだと思われましたが、そのおばあちゃんは、「君子さんに、こんなりっぱな息子さんがいらっしゃとは思いもせなんだ」 と、目に涙を一杯うかべておられました。


母の家には半日以上滞在し、アルバムなどないかと探しましたが、それとおぼしきものは見つかりませんでした。

初めは何か遺品になるようなものをと探していましたが、途中からもうそういうことはやめようという気持ちになりました。

それよりも、50年にも長きにわたり、東京で一緒に仕事をさせていただいていた研究所の方にできるだけ早くご挨拶をして、もうこのことには早めに終止符を打つことにしました。


叔父さんは、現職の町議会議長ですから、この時期に丸一日私のためにお時間を作るのも、至難であったに違いいありません。

叔母様もずっと一緒にいてくださり、母が恵まれた最期であったことに安堵し、感謝の気持ちで一杯になりました。


一日の予定を終え、叔父が私が車を置いていた世羅町の道の駅送ってくださるその途中に、曇り空の向こうから天空の半分もあろうかという大きな虹が、私の視界の真ん前に広がっていました。

私はもう何も迷わない、

私のこの手も、この足も、この口も、すべてはこうしたつながりの中から生まれたもの、

母が母であったからこそ、私は私でいられる、

だからこそ私は、この目で前を向いて、これからもしっかりと自分の道を歩んでいくことができるのです。





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母の命 ①

 2016-12-21
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先月末、広島家庭裁判所福山支部から1通の封書が届きました。

何だろうと思いながら封を切ると、そこには50年前に生き別れとなった母の 「遺言書検認期日通知書」 が入っていました。


昨日、福山市にある家庭裁判所に伺いました。

時間通りに会場に案内されると、そこには裁判官、書記官、遺言にかかわる申立人の方がいらっしゃいました。


申立人は広島県内のとある自治体の現職の議長をされている方でした。

裁判官が、また開封されていない遺言状を前に、この遺言が書かれた経緯について申立人に質問をされました。


私は、今回の遺言は、てっきり母が地域で信頼のおける方に生前に託したものであると考えていましたが、申立人様が質問に答えていく中で、その方が母の弟であることを知り、大変驚きました。

わが娘は別として、私にはこれまで血のつながった親類縁者はいないものと思っていただけに、叔父様にあたる人物が目の前にいることに感激し、ましてやそのおじさんが議会の要人として活躍していることを誇らしく思いました。


限られた時間ではありますが、母の晩年最期のようすを、お伺いすることができました。

事実を直接確認したわけではありませんが、母は私を岡山に残したあと、東京の出版社で働き、以後齢80になるまで現役として働いていたと聞きました。

しかも、それが保育関係の書籍であったと知り、万感の思いがこみあげてきました。


自宅の部屋の中にはパソコンが3台あり、まるで図書館のような仕事部屋であると聞きました。

とても頭の良い人で、仕事の鬼だったようにも伺いました。

叔父様の口から出る幾つかの生前のエピソードを知る度に、今の私の仕事ぶりや価値観・物の考え方とそのことのほとんどが見事なまでに重なり、まぎれもなく私のDNAがここにあるのだと思いました。


私の家内も,叔父様の奥様も一緒に家庭裁判所に来ていましたが、会場への同席は許されませんでした。

私の家内が保育園の園長をしていると伝えると、目を丸くしてとても驚いておられました。


出来れば年内に墓参りをして、母の仕事場を見せていただいたいとお願いをしました。

こんなに近くに住んでいたのなら、ただの1年であってもよいから連絡してもらって、親孝行をしたかったという気持ちがないわけではありません。

わが子を捨てた母の思いが、一体何であったのかをもう直接知ることは出来ませんが、今の私には母を恨む気持ちなどかけらもなく、80歳まで現役でったという母に、少しでも近づいていけるように実践者としての道を突き進んでいきたいという思いが、あふれる水のごとく心の中に湧き上がっていくのでした。


きっとこれから、母のゆかりの場所を訪ねていく機会が続くことでしょう、

そしてそのことが、私の中で、とてつもなく大きなモチベーションとなっていくのは間違いのないことでしょう、


神様は、私の人生に何をお与えになったのか、

私は一人ではなかった、

この日をもってして、母の命が私の心にしっかりと宿ったのです。


これまであったやりきれない私の迷いはもはや霧散し、その行く先に、母の背中がはっきりと見えるように感じています。







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Author:SHINOBU
新大阪教室

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