fc2ブログ
 

オンラインに合っている子

 2021-12-13
IMG_8668.jpg










何年か前の事でした。

ある男の子のお父さんが、初めてお子さんのレッスンの様子を見に来てくださいました。

小学校低学年の男の子です。


最初はぼんやりとお子様のご様子を見ておられましたが、途中何かのきっかけで、身を乗り出すようにお子様の学習ぶりに注目され始めました。

「わが子が、こんなに一生懸命勉強する姿を初めて見た。 こんなにきれいな字で、いい姿勢で、集中して勉強できるなんて、家での姿からは、想像もできなかった。わが子の別な姿を、今日初めて見させてもらいました。」

すべてのお子様がそうだとは言いませんが、私の教室に来て、ご家庭とは全く違う集中力で、一生懸命勉強するお子様は、そんなに珍しいことでもありません。


先日、2年生の女の子のレッスンがありました。

以前は大阪の教室で勉強していた子ですが、コロナの影響もあって、先日からオンラインで学習しているお子様です。

40~50分の間、息もつかせぬような集中力で、弾むような学習をすることが出来ました。


レッスンが終わって、15分ほどそのお母さんのお話を伺いました。

どうやらこの子も、普段の学校や家庭と全く違う集中力で、オンライン学習に取り組んでくれているということがわかりました。


これからの時代において、オンラインの可能性は決して無視することは出来ません。

しかし、オンラインはオンラインで、それはあくまでリアルなレッスンを補完するものである、

それまでの私は、正直そのように考えていました。


視覚情報が、整理されて、タイミングよく提示される。

フレームが明確にあって、注意があちらこちらに転導しにくい。

画像の加工が容易で、内容によって効果的に、拡大したり焦点化したりすることが容易である。

教材に集中させ、不必要な資格情報をカットすることができる。


この日が3回目のオンラインレッスンとなりましたが、わき役に徹してくださったこのお母さんのサポートが、実にお見事であったことを見逃すことは出来ません。

このお母さんの環境構成があればこそ、私は逆にそのお子様の学習状況を、リアルレッスン以上に焦点化してとらえることが出来たのです。


「オンラインレッスンの可能性は無限です。ぜひその可能性の輪を広げていくプロセスを、この子と一緒に歩かせてください。」


レッスンが終わったあとで、思わず私は、お母さんにそのようにお伝えしました。


鉛筆を持つ、その持ち方でさえ、先生との勉強の時は全然違う、

何十分も集中できるのも、このオンラインの時だけです、


このことを10年・20年と定期的・継続的に積み上げていって、

さらにそれを3年・5年と積み上げることによって、それがこの子にマイナスになろうなんてことがあろうはずがありません。


まるで大阪の子が、私の隣にいるような感覚、

工夫も、技術の高まりもあった上で、その可能性に限りがあるというのは、全くありえないことであると心に強く感じた1日となったのでありました。

















生きた言語

 2021-11-30
IMG_8559.jpg








例えば漢字の学習をするときにも、私は漢字だけを切り取ったりして、反復練習をさせるようなことはあまりしません。

ほとんどの場合、学習させたい漢字を文脈の中でとらえさせるような教材を作ります。


文字を音声化させると、その子が文の意味をどれだけとらえているかがわかるのです。

それが逐次読みの場合は、文字を音声に変換するだけで、その時点で意味まではあまり把握できていないととらえ、次の支援を考えます。


写真の男の子は、このごろ文章がとても上手に読めるようになってきています。

文脈を意識しながら、すらすらと文字を読み進めるこちが出来るのです。

文章の意味を理解していない子は、このように決してすらすらと読むことは出来ません。


人によっては、伸びる内容も、時期も、タイミングもそれぞれです。

そのための学習レディネスを構成するために、本人の気持ちに添った意図的・計画的な学習の積み上げも必要です。


ここを信じて、日々の学習を積み上げていくことが出来るかどうか?

一つ一つの学習の意義をその子に感じ取らせながら、目的意識をもった楽しいレッスンを構成していけるかどうか?

可能性を信じて、ゆるぎなくそこに進んでいけるかどうか?


その子が伸びる時にこそ、その場に立って、最善の題材を提供してこそ、真の教育。

こうした自信はすべて、こうした子どもの成長こそが、私を支えてくれているのです。



子どもの力・家族の力

 2021-11-30
15158751503629.jpg

15158751468410.jpg









私がこのブログを書き始めて1~2年の頃、

まだ個人でレッスンをしていた時ですが、当時は、京都・大阪・兵庫・三重・広島・高知など全国各地からレッスンやご相談に毎月お越しくださる方がたくさんおられました。


一番最初にお越しくださったのは、京都のお母さんでした。

最初にお問合せをいただいた時には、とてもとても自分では力不足でお断りをしたように記憶しておりますが、その情熱に押し切られた形で、県外の方のレッスンをお引き受けすることにしました。

その後、大阪にも京都にも教室を開き、休日を利用して定期的お伺いしているので、最近では県外の方が岡山にお越しくださるケースはめったになくなりました。


そのご家族の方は、口をそろえて 「岡山に通っていた頃が愛おしい」 とおっしゃいますし、私自身も、ご家族が私のレッスンを機会にそうした豊かな時間をつくっていかれることは、とても意義深いことだと思うようになりました。

学びの主体者は子どもであり、育ての主体者はご家族に他なりません。

だからこそ私は、そのことに恥じない、内容のあるレッスンとご相談をお受けする責任があるのだと考えるようになりました。


10年そんな関係が続き、それぞれのお子様は、目を見張るようにそれぞれたくましくも立派に育っていかれました。

この日サポートさせていただいたお子様もその一人です。

育ちの過程の中で、メモリーとなるような出来事もたくさんあり、お母様はその都度、お子様の成長の様子をラインでお知らせくださるようになりました。


レッスンは一期一会、ご家族とは同行二人、

私はいつも送ってくださるラインに目を通しながら、そんなふうに感じておりました。


この日は、6年生になる弟さんも、大きな成長をされたというビックニュースをお伺いしました。

「この子の大切な命は、ご家族の絆をさらに深め、この私を含めてかかわる人を次々に幸せにしていく」


この子がなすべき役割をもってこの世に生を受けたこと、

私の心にまた一つ、大切なことが刻まれた瞬間なのでありました。






こんな日が来る

 2021-11-30
IMG_8528.jpg










私がこの活動を始めてから、もう10年以上になります。

当時まだ就学前だったお子さんも、もう高校生になる年齢です。


学習指導要領などに基づき、標準化・系統化された教材があるのはとても大切なことだと思っています。

十分に検討吟味された教材が、国として体系づけていなければ、生きた教育を実践することは出来ません。

公教育の意義の一つが、そこにあると考えています。

これがあるからこそ、私は、個々の子どもの特性や育ちに合わせたオリジナルのカリキュラムを作成することが出来ます。


私がサポートさせていただいているお子様は、高校で急激に学力が伸びるケースが非常に目立ちます。

子どもにとって学習は、単なる知識の習得ではありません。

学習を通して培うのは、達成感であったり、自己コントロール力であったり、コミュニケーション能力であったり、社会性であったり、課題解決力であったり、自己肯定感であったり、様々な能力や資質の向上の基盤であるのです。


就学前や小学校低学年の頃、行動のコントロールに苦しんで来られたご家族を私はたくさん知っています。

そしてその子が、いつかは必ずすてきな子に成長していく姿を、生きた実践を通して、何度も何度もこの目で見つめてきました。

その苦しい時期を乗り越えたからこそ、他では代えることの出来ない美しい花が咲くことに、何度も何度も遭遇してきました。


だからこそ、信じることが出来る。

だからこそ、それを信じて、学習を積み重ねていくことが出来る。


子どもの可能性は、無限です。

どこかの時期で単純に切り取って、それを何かと比較して、それで出きる出来ないを語って、一体そのことにどれだけの意味があるというでしょう。


今私のところには、小さいときに出来にくかったことが次々に出来るようになり、何十人といるのです。

何とも幸せで、誇らしいことでしょう。


ふと見上げると、そこには笑顔いっぱいの母の姿がそこにあります。

私はただ、この母の傍に立ち、与えられた役割を少しづつ果たしてきただけのことです。


すべては子どもとそのご家族が作り上げてこられたこと、

私のもう一つの役割は、今その課題に直面されている子どもとそのご家族に、このことを伝承していくこと。


私はこれからもずっと、この道を歩み続けて行きたいと願っているのです。



私が私でいられる理由

 2021-11-16
IMG_8336.jpg
IMG_8337.jpg






私は幼少期に父を亡くしています。

小学校5年生の遠足の前日、食事中に突然脳の血管が破裂して亡くなったと記憶しています。

私もいつかはそうなるのではという思いがいつも心の中にあります。


小学校の教員をしていた時、研究主任をしていた親友が、人間ドックに行ったまま、結局学校に帰れないままに亡くなってしまいました。

当時の校長先生は、背中が痛いので、ちょっと病院で検査をしてくるわ、と言ってその数か月後には帰らぬ人となりました。

駆け出しの教員時代、兄のように慕い尊敬していた先生は、2人とも若くしてこの世を去っていきました。

何で自分だけが、と思ったことは一度や二度ではありません。


先日、人間ドックを受診しました。

前回は、もう10年以上も前のことになりますが、がんの手術を経ての受診でしたので、

「あなたは普通ならもう亡くなっていて仕方のない状況でした。それがこのように命をつながれたのは、何か特別に為すべきことがあると神様が判断されたとした思えません」

そう先生から伝えられたことが強烈に心に残っています。


今回は、特別に脳ドックをお願いしました。

父が亡くなった年齢に近づいて来たため、ある意味覚悟を決めるためです。


ところが先生は、

62歳のあなたは、脳の萎縮がみられて当然の年齢ですが、その萎縮がほとんど見られない。

もしも評価をつけるなら上の中、

点数でいえば10点満点の9点ぐらいは付けれられる。

と、おっしゃってくださいました。


脳以外の部分は、生活習慣の改善などによって、かなりの程度回復することができる。

だからこそ、あなたの場合は、これまで以上に健康管理・自己管理をすべきです。


ここまで脳に萎縮がみられないのは、きっとこれまで、何かやりがい生きがいをもって取り組まれていることがあるに違いない、

そのことに感謝して、さらにそのことに精進してください。

そう続けてくださいました。


私の命をつないてくれたもの、

それはこれまで出会ってきた多くの子どもたちと、私を支えてくれた多くの人々の存在以外に考えることは出来ません。


ならば私はこれからも、それぞれの子どもの成長と幸せのために、自分が出来ることをこれからも精一杯取り組んでいきたい。

私が私でいられる理由、

それは、あなたがそこにいるからに違いないのです。




レッスンで落とす涙

 2021-11-08
IMG_8309.jpg








ある高校生の女の子とのレッスンがありました。

小学校入学前から、もう10年以上もサポートさせていただいている女の子です。


先日、その子と英語の学習をしました。

Mother's lullaby という原爆をモチーフとした教材です。


この子は、英文のスピーキング力に優れ、流ちょうにリンキングなどもちゃんと出来る女の子です。

他の教科と比べると、英語の力が突出しており、日本語を読ませた時より、英文を読ませた時の方が、ずっと目の色が輝いています。



“Mommy,” the boy was still crying.

“Be a good boy,” said the girl.

“You’ll be all right.”

She held the boy more tightly and began to sing again.

After a while the boy stopped crying and quietly died.

But the little mother did not stop singing.

It was a sad lullaby.

The girl’s voice became weaker and weaker.

Morning came and the sun rose, but the girl never moved again.





英文を、その子は日本語に訳して、用紙に書き留めていきました。

そういうスタイルの学習でしたが、彼女の口からあふれる透き通るような英語には、本当は日本語訳など全く必要のないものでした。

私はそのクオリティーの高さに、心を震わせ、感動であるれる涙をこらえるのに精いっぱいの状況でした。


英語の学習を通して、私と彼女は、ここまで深い絆で結ばれるようになったのです。

彼女も私も、月に1度のこの時間は、心と心がつながる大切な時間となっているのです。


支援者と子どもが心を通わすためには、成長を目指していくための題材や教材は重要です。

ですが、その題材や教材は、一律的なもでなくても、画一的なものでなくても、標準化されたものでなくても、それはそれで関係ないのです。

私は、毎回オリジナルの手作り教材にこだわるのは、そのためです。


標準化されたプログラムが充実してこそ、私の個別サポートは意味のあるものとなる。

その大切な花が、今日も一輪、しっかりと美しいその花弁が拓いたのです。




自己肯定感と感謝の気持ち

 2021-10-27
IMG_8077.jpg








私も人間ですから、迷ったり苦しんだりすることも多くあります。

自分をダメな人間だと思ったり、誰か人の成功を妬ましく思ったりすることもしばしばです。


でも、子どもとのレッスンをしているときの自分は大好きです。

レッスンの質を担保するために、あえて相応の金額をいただくようにしていますが、いただいたお金は私たちの大切な源資となっていくわけで、直接お金目的でやっているわけではありません。


私は、一生懸命勉強している子どもの顔を見るのが生きがいです。

私のもっている経験や専門性が生かされ、子どもが生き生きと学習に取り組んでいる姿を見るときほど、幸福感を感じるときはありあせん。

ただただそのために日々研鑽を重ねる自分が大好きです。


2歳や3歳の時から、10年以上も続けてレッスンを受けてくれいる子が、何人もいることも、私の誇りです。

その折には、私を必要としてくださるご家族の皆様に、深い感謝の気持ちで一杯になります。


私は来春63歳になりますが、あまり年齢相応にみられることはありません。

年齢より10歳以上若くみられるのがほとんどで、中には「前に合った時より若くなってる」 と驚かれたときもあります。


私が、私の本来持っている力以上のポジションにいられるのは、すべてこれまで出会った子どもたちの力です。

もしもこの子たちと出会っていなければ、私はきっと愚痴や不満、妬みや自己否定の嵐に苛まれていたことでしょう。


「あなたのお子様は、世の中をも変えていくような、特別な力をもっています」

私はいつも、ご家族の皆様にそのような内容をお伝えします。

それは、おべんちゃらとかで言っているわけでなく、本当にそうだと思っているから、お伝えしているのです。


この子たちがいなければ、発達支援センターができ、多額の補助金をいただけるようなことは、決して起こらなかった。

志を同じくするすばらしい先生方との出会いも、決して起こらなかった。


だからその命を大切にして、しっかりと学び育ってほしい。

自分を大切に重い気持ちは、やがては感謝の気持ちと変わり、多くの人たちのとの心のつながりと幸福感を運んできます。


子どもたちに語り掛ける言葉は、決して裏切ることはできない。

私はあたたがいるからこそ、初めて自分らしく生きられるのです。






君へと届く宝物

 2021-10-22
IMG_8086.jpg







私がオンラインレッスンをさせていただく時には、レッスン日の2~3日前までにはご自宅に届くように、教材を郵送させていただいています。

その教材はすべて、郵送前にPDF化して、レッスンの時にはパソコンやタブレットの画面で共有できるようにしています。


私の教材は、すべて書下ろしのオリジナル教材です。

もちろん教科書に準拠した一般的な教材を使うこともありますが、10人いれば10人とも、内容も量もその子に合わせて選択したり提示の仕方を変えたりします。


教材を決めたら、あらかじめ、今のその子の力でどの程度自力解決できるか、見通しをもちます。

そして、もしかしたらつまずくであろう箇所を見通したら、どんな手立てやヒントや補助教材を提示すれば、それを解決できるか考えます。

その子が困った顔をしたら、少し間を置き、待ってましたとばかりに補助教材などヒントを提示するのです。


それでも解決できないような課題を提示したとしたら、それは子どもが悪いのではなく、指導者の教材選択が誤っていたのだと思うのです。

これが、私の考える完全習得学習のスタンスです。


さらに学習に達成感をもつことができるようになれば、段階的に私の支援はフェードアウトしていきます。

いわゆるプロンプトフェーディング=支援除去法の考えに基づくものです。

つまりは、子どもを育てる本質の一つが、このプロセスの中に集約されていると考えているのです。


オンラインレッスンをさせていただくようになってから、ご家族の方からこんなお知らせが届くようになりました。

「教材がポストにあるのを見て、ニコニコになりました」

「子どもは、教材を見ただけでワクワクしていました」


そうだよ、それは先生から君に届ける宝物。

君の大切な未来が、その中にいっぱい詰まっているんだから。



誇らしきこと

 2021-10-11
IMG_8024[1]







私がこれまでサポートさせていただいた子の中で、もう何人かの子が社会に出て活躍をしています。

写真の彼もその一人です。


社会に出た彼は、学校にいた頃と比べて、見違えるように生き生きと、そしてたくましく働いていました。

「めっちゃ、明るくなった」

と、彼自身の口から、そんな言葉が飛び出すくらいでした。


ここのレストランでの食事をいただいた私の正直な感想は、「驚くほどおいしい」 というものでした。

もちろん、彼が働いているからというのが、訪れた最大の理由ではありました。

しかしながら、そういうことを抜きにしても、誰かを連れてまたここに食事に来たい、と思わせる食事とサービスがここにはありました。

なるほど、彼の目がここまで生き生きと輝いているのは、そういうことかと思いました。


中学生の頃から私は、彼の心の中にある向上心をずっと見つめてきました。

やや学習に自信を失いかけていた彼の心の奥底に、しっかりとした息吹きみたいのものをずっと感じてきました。


もちろん、彼がここに至るまでに、そのご家族にどれほどの心を砕く思いや、努力や、尊い営みがあったことでしょう。

そうしたことこそが、やがてこうした美しい花を咲かせるものかと、改めて深く感じ入るものがありました。


私には、彼をはじめ、こうした多くの子どもたちが拓いてくれた未来がある。

そしてそれを、リアルなものとして信じて、これから育つ多くの子どもたちとそのご家族の糧とすることができる。


彼が私にプレゼントしてくれたもの、

それは夢をもって学び育つことの大切さと、最後の最後まで、それぞれの子の可能性と良さを信じられる信念のようなものです。


彼は、この職場で、また新たな目標や夢をもったのだと、お聞きしました。

その歩く道筋が、平坦であろうはずはありません。

しかし、そのまなざしは、私の心を通して、やがて多くの子どもたちの道しるべとなっていくことでしょう。


この世に、意味なくして生まれた命などありはしない。

彼の生きていく一瞬一瞬が、私にずっとそのことを語り続けてくれるのです。



質の高い個別の学習が必要な理由

 2021-10-04
IMG_7928[1]







いつ頃の事だったでしょう。

私が、その子とレッスンを行っていると、少し離れた所からその様子をご覧いただいていたお母さんが、目を真っ赤に腫らし、その後はらはらと大粒の涙を落とし始めました。


今、自分の目の前で、何が起こっているのか、信じられないような気持でした。

わが子がこんなにも楽しそうに、そして一生懸命勉強している姿を見ていると、これまでの色々な思いが一気にこみ上げてきてしまいました。


そんな言葉を聞いて、私は生涯この活動を続けていこうと、強く心の中で誓いました。


最近、多様性という言葉を耳にしますが、子どもの育ちも10人いれば10人とも同じ子どもはいません。

一部の内容をもってすれば、処理の速度が速かったり、達成が速かったり遅かったりということはありますが、そもそも子ども自身がが多様であるとしたら、要はその子の今に合った内容と支援を提供することが肝要であって、それが出来た出来ないで子どもを決めつけてしまうのは、教育者としては程度の低い愚かな事と言わざるを得ません。


私は今でも、10年以上継続してサポートさせていただいている子が、何十人もいます。

この子は、もしかしたら一生なぞり書きしかできないのかもと、思い悩んでいた時期があった子もいますが、今ではそれはそれは美しい文字を一人書きできるようになりました。


本当に、あきらめなくて良かった。

花が咲き始めてその場にいる者が評価されるのではなく、まだ芽の出ぬ大地を耕す者こそが、真の教育者と言えるのです。


良質の個別学習を継続し、達成感のある内容を積み重ねていくと、その教材を通して、子どもの支援者とのコミュニケートや信頼感は当然深いものになっていきます。

子どもはそもそもが成長欲求のかたまりですから、そこを満たすことは、自己肯定感そのものを高めていくことにつながります。

自己肯定感の高い子どもは、自分の命の大切さを自覚し、謙虚ながら笑顔と活気に満ちた表情を浮かべるようになります。

そして、自分の命と同じように、お友達の命の大切なに気づくようになり、他者とのつながりがさらに深まり、やがて幸せに満ちた道を歩むようになってきます。


私はそんな子どもの後姿を、これまで何十人となく見つめてきました。


学びを通して培うもの、

それは決して単なる知識の習得や、小手先の出来映えということではなく、教材を通して培われた、その子の存在そのものであることを、私は信じて疑うことはできないのです。


オンラインレッスン 私たちの新たなスタート

 2021-10-01
パーソナルレッスン 白ゆり オンライン教室1





先週のことです。

京都・大阪の子どもたち13人と、ZOOMを使ってのマンツーマンレッスンを行いました。

私のレッスンをオンラインで行うことは到底不可能、と考えていたのですが、実際に行ってみるとびっくり。
まだまだ操作に不慣れな面がありましたが、成果としては上々のスタートとなったのでした。

新型コロナウイルスの影響で、1年以上もマンツーマンレッスンから遠のいてしまった子どもたち。

オンラインの画面は、子どもによっては、ライブ以上の集中力をもたらすことがわかりましたし、保護者参加型のレッスンの意義深さも感じることが出来ました。

もちろん、私がライブのレッスンを捨て去ることはありません。
ですが、一方でこうした選択肢の幅を広げていくことの重要さも実感しました。

これなら、東京だって沖縄だって海外の子だって、移動による費用や時間のロスを考えずにレッスンを行うことができる。
自宅から、教室に来ることがむずかしい子どもとのレッスンだってできる。

たった一人の子どものニーズに寄り添うことから、様々な可能性の輪は無限に広がっていく。

子どもたちとの大きなチャレンジが、またここから始まるのです。



私の帰るところ

 2019-03-30
IMG_2116.jpg









程なく、平成30年度の終了の日を迎えます。

私の友達の中にも、明日をもって40年近くの教員生活にピリオドを打つ人もいます。

もしも私が教員を続けていれば、この時期に退職を迎えていたわけです。

感慨も一入です。


私は今、保育園の園長ですから、まずもって、その重い責任をしっかりと背負っていかなければなりません。

また、自分の保育園のことだけでなく、法人全体の中でのその役割を認識し、務めを果たしていかなければなりません。

若い先生方の指導も大切ですし、大学で学ぶ学生さんたちにも、発達にかかわわる知識や技能、保育・教育の本質を伝えて」いかなければなりません。

それぞれの内容は、どれも尊くも重要で、一つとしていい加減な気持ちで取り組むことは出来ません。


これが出来てこそ私は、教育者として直接子どもに向き合うことが出来る、

いつしか私は、そのように考えるようになりました。


生涯一実践者、

それが私の唯一帰る場所なのです。


昨日、新園が設立される地域で、挨拶回りに伺いました。

公民館にお伺いすると、何と館長さんは、ずっと前から共に仕事を続けてきた大切な先輩の先生でした。

私が発達支援センターの所長をしていた時には、ちょうどその地域の小学校の校長をされており、訪問支援事業の道筋をしっかりとご指導いただきました。


歩いて2分もかからない場所に、こうしてまたご縁がつながり、何とも心強い限りです。

しかし、いつもそこで話題の根元にあるのは、一人一人の子どもの育てそのものです。


新しい一歩は、きっとこれからも、同じように続いていくのです。















強運

 2019-03-29
DSC03087.jpg









今年は、私にとって特別な意味をもつ節目の年になります。


小学校を退職して、個別指導の教室を開いたのが、今から12年前のことでした。

当時小学校1年生だった花子ちゃんも、その後中学校・高校へと進み、この春卒業、

私のサポートにも、大きな区切りを迎えたのでした。


大阪への出張レッスンも、いつの間にか10年にもなりました。

当時3歳くらいだった子も、この春に小学校を卒業、

当時からずっとサポートさせていただいている私としては、その成長ぶりには、目を見張るものがありました。


昨日は、私の60回目の誕生日、

私も昨日をもって、還暦を迎えたことになりました。


この日は、「認定こども園白ゆりの丘」 の落成式、

岡山市初、旧公立幼稚園の跡地を利用しての、民間の手による認定こども園の設立ということで、岡山市長様がわざわざ落成式に足を運んでくださいました。


私は、法人を代表して、謝辞を述べさせていただきました。

自分の還暦の誕生日に、こうして市長様だけでなく、局長様、課長様を前にしての舞台に自分がいられることを、何とも誇らしくもうれしく感じたのでありました。


私は、一人一人の子どもに寄り添うことにより、子どもたちの方が私をここまで押し上げてくれた。

何たる強運、

あなたたちと出会えたことそのものが、私の何よりの宝ものなのです。











「成長の基礎を培う豊かな保育」

 2019-03-28
IMG_2603.jpg

→ パンフレットのPDFはこちらから









4月に新しく開園する 「キッズガーデン白ゆり」 工事が終わり、先日行政の方の検査も無事完了しました。

パンフレットもこんな感じに仕上がり、オール新築のおしゃれな夢あふれる園舎となりました。

ここでまた一つ、新しく白ゆりの花が咲くのです。


「成長の基礎を培う豊かな保育」

少しお堅いのではと、お世話になっている方にご助言をいただきましたが、私はあえてこの言葉にこだわりました。


この名に恥じない保育の花をこの地で咲かせてみたい、

希望の春は、もう目の前まで来ました。












プロの技術

 2019-03-27
IMG_2644.jpg







私は、どのような子どもであっても、ひとたびお母さんと分離し、教室の扉を閉め、私と二人だけにしてくだされば、どんなふうにでも対応できる自信があります。

たとえどんなに泣き叫びながら入室したとしても、レッスンの終わりには笑顔で退室させる自信があります。

むしろそんな時ほど、自分の力量を見てもらえる絶好のチャンスであるとさえ思っているのです。


今では週末に行っている大阪でのレッスンも、もう10年になりました。

一定の時期に私のレッスンを卒業していった子も何人かいますが、当時ご縁があった子どもたちの半数以上が今でも継続してレッスンを受けてくれていることも、私の大切な誇りです。


レッスン自体は、決して最初から今のように行っていたわけではなく、挫折と失敗の連続でしたが、それでもその間一つたりとも気を抜いたり流したりするレッスンはありまでんでした。

その10年の積み重ねなくして、今の自分があろうはずはありません。

私の場合は基本、自分一人でやってきた個別指導スタイルですから、この技術のポイントをあえて後進に伝えようとは思っていませんでした。


昨日、保育園で生活発表会がありました。

保育園としてはここを大きな目標に据えており、1年間で大きく成長した子どもの姿がたくさん見られました。


その後の反省会で、こども園の園長が行った指導は、かなり厳しいものでした。

私は保育士の経験がありませんから、これまで保育内容そのものについては、事細かく保育士に指導することは意図的に控えてきました。

発達支援センターの所長時代と、同じようなスタンスの園長では決してありませんでした。


しかし、こども園の園長の指導に耳を傾けていると、その内容の一つ一つが、私がこの十年の実践の中から血のにじむ思いで積み上げてきた指導技術と、何ら異ならないことが分かりました。

彼女には、私が切り口としている応用行動分析や脳の機能局在といった切り口はありませんが、子どもを育てるという観点から本質は何も違わないということが、くっきりと浮き彫りになって見えるような気になりました。


私はこれを他者に伝承していくことに主眼を置いていませんが、彼女は園長として、そのことを保育士に伝承していくことこそが、自らの使命であると考えていることがわかりました。

ならば私は、自分しかできないことをもってして、このことをさらに豊かにしてくために、果たす役割があるのだと感じました。


私はこれまでがそうであったように、これからもずっと実践を通してその技術に研きをかけていきたい、

そしてその本質を、園長として、教育者の一人として、保育士さんに伝承していくことも、与えられた大切な使命の一つであると思いました。


向かう先と、その手立てが見えたなら、あとはそれを実行するだけのことです。

この4月に新園、2園開園、

明日は、市長さんを迎えての落成式。


子どもたち、そしてご家族のはずむ笑顔のために、私たちの使命は、決して軽くはないのです。












文字言語をイメージ化させる

 2019-03-25
IMG_2635.jpg





子どもが文字を見たとき、その字が何の時であるかをまず識別して認知します。

それまでに長期記憶に保存された情報とそれを照合して、一致すればそれが何という字なのかが認知されたことになります。


その文字のいくつかの組み合わせから、「りんご」なら「りんご」 「みかん」なら「みかん」 と意味のある内容と結びつけて理解することが出来ます。

それを文字に書いたり、音読したりすることが出来ます。


しかし、たとえ文字をすらすら書けたとしても、その意味がイメージ化出来ているかどうかは、また別問題です。

子どもによっては、文字を音声化するだけで、ショートターンメモリーを一杯に使ってしまい、内容のイメージ化が出来ていない場合もあります。


「太郎君は、昨日デパートに行って、洋服とかさとぼうしを買いました。」

こんな文章を読んだ子に、「太朗君は昨日どこに行ったの?」 とか 「何を買ったの?」 と尋ねても、きょとんとして答えられない場合だっていっぱいあるのです。

いやいや今読んだばっかりやろ、と突っ込むのは、それはその人がイメージ化がしっかり出来るまで学習経験を積んだ大人であるからで、その人だって小さいときには、きっと同じようなことだってあったはずです。


今私は、読解指導の場面で、iPadProの音声検索を時々使用しています。

例えば、子どもがシロツメクサって何?って尋ねてきた時には、iPadに 「シロツメクサ」 と音声入力すれば即座にシロツメクサの映像が何十枚と表示されます。

子どもは自分が知りたい内容が、瞬時に映像化されるので、とても喜びます。

こうした学習を通して、子どもたちはいつの間にか「シロツメクサ」と聞いただけで、そのイメージが豊かに広がっていくように成長していくのです。


学習って、何て豊かで楽しいものでしょう。

他者と比較するだけではない、子どもの学びの欲求に即した、内発的で豊かな学び、

たとえわずかの時間であっても、子どもたちはそういう時間を必要としているのだと私は思っているのです。


子どもたちのそういう願いを叶えたい、

いつだって私はそう思っているのです。







声にならない言葉

 2019-02-28
IMG_2455.jpg








先日、ある中学生の子が、レッスンが終わった後に、いきなり私に抱きついてきました。

単語レベルの言語表出が、無かったわけではありません。


ですが、私には彼の思いが手に取るように分かり初め、その願いを教材の構成という形で彼に返してみました。

すると不思議なことに、それにつれて言語表出の機会がだんだんと増えてきました。

当然のことながら、その言葉の量以上に、コミュニケートな内容が格段に豊かになってきたのです。


レッスンが終わったあと、達成感で彼の顔が紅潮しているのが見て取れました。

言語は単なる音声の表出ではなくて、通じ合うもの、共有し合う何かがあってこそ初めて意味をなすもの、

共有し合う内容が豊かになれば、言語であれ、非言語であれ、コミュニケート自体が生き生きと動き始めるのです。


言葉であれ、何であれ、支援者と子どもが同じ目標や、同じ方向に向くことこそが、その絆が深まり、通い合うことの中から何か美しいものが生み出されていく。


いつの頃だったか、この子の行動面の課題で心を痛めたことも、もう遠い昔、

抱きしめられた手のぬくもりこそ、百万の言葉をしのぐ、私へのメッセージに他なりません。


ずっと信じて前に進んできて良かった、

また一つ大切なメモリーが、心にしっかりと刻まれた一日となったのです。









指導にリズム感が大切な理由

 2019-02-26
IMG_2449.jpg











子どもが生き生きと学習に取り組む姿、

誰もが願ってやまない美しい光景です。


質、量、内容など、示された学習内容が、子どもの実態や願いに寄り添ったものであることが、大切な要件となります。

そして、子どもがさらに集中できるためには、子どもの注意の持続時間に添ったものであることが重要となってきます。


その子どものの集中のタイミングには、一定のサイクルやリズムがあります。

そのバイオリズムみたいなものに合わせて、その内容や量をうまく構成しタイミングよく提示してやると、やがてその子どもの表情は生き生きと輝いていくのです。


私はその日の教材を構成したら、レッスンの起承転結、必ず指導のイメージトレーニングを行います。

たまにではありますが、そのイメージやタイミングが、寸分狂わずぴったりとはまることがあります。

こういうときに、子どもが楽しくないわけがありません。


子どもの今をきちんとキャッチしていくこと、

その視点の一つは、こんなところにもあるのです。











桜咲く

 2019-02-25
20190225.jpg








ここに来て、これまで数年にわたり応援させていただいた子どもたちの、高校あるいは中学の、合格のお知らせを次々といただくようになりました。

どの子も決して余裕の楽勝といった感じではなく、高い志をもってチャレンジし、自分の夢を叶えた形となりました。

よくぞ最後までくじけずに、家族一体となってその目標に向かって歩み続けることができたものと、私の方が感心させていただきました。


私はただ、そのそばにいて一緒に歩んできたに過ぎませんが、その子の気持ちの強さと、それに伴う努力とがんばりこそが、その子の大きな道を次々と切り開いていくのです。

10年以上前、個人で小さな教室を初めて以来、こうした志が叶わなかった例は1度もなく、毎年のように起こる快挙に、驚いているのは紛れもなく私の方です。


私がすごいのでも何でもなくて、私の所へご相談に来てくださるご家族の信念こそが、山を動かし、道なき道を切り開いて行かれたの思います。

その源に真摯な思いがあればこそ、きっと何か、その子の未来につながる何かが見えてくる。

こうした営みの一つ一つが、私の思いをさらに揺るぎないものに、磨き上げてくれているのです。



2つの新園 春の息吹

 2019-02-22
201902221.jpg
「認定こども園白ゆりの丘」

201902222.jpg
「認定こども園白ゆりの丘」


201902223.jpg
「キッズガーデン白ゆり」

201902224.jpg
「キッズガーデン白ゆり」



平成31年4月1日の開園をめざして、2つの新園 「認定こども園白ゆりの丘」 「キッズガーデン白ゆり」の工事が着々と進んでいます。

入園予定の子どもたちとの面接や打合せも順次進んでおり、新しい春に向けて、はずむような保護者の皆様の期待を一身に受け止めています。


子どもの笑顔の輝く育ての場を、

今、私たちは、その果たすべき責任を、ずっしりと重く受け止めているのです。







ダウン症療育研究会 紀要

 2019-02-21
IMG_2417.jpg




1年前に 「ダウン症療育研究会 岡山大会」 で教育講演をさせていただきました。

その要項が出来、この度送っていただきました。

関心のある方は、ぜひご覧ください。

http://okayama-shirayuri.com/nc_images/pdf/kiyou2019.pdf



音楽発表会

 2019-01-31
201901315.jpg

201901316.jpg

20190131.jpg

201901314.jpg

2019013123.jpg







この日、イオンモール岡山・岡山未来ホールにおいて、認定こども園白ゆりの音楽発表会がありました。

年々たくさんの子どもたちが、白ゆりに通ってくれるようになり、以前のように一同に集って発表会ができなくなったため、本年度より岡山駅前の当ホールを借り切っての開催となりました。


前日は、会場のイベントスタッフの方が色々とお手伝いをしてくださいました。

0歳児の演技から愛らしくも和やかな感じで会はスタートしましたが、園児たちの発表が進むにつれて、多くの方々の顔つきが変わり、身を乗り出して、中には目を潤ませてご覧いただく方が増え、やがて会場は大きな感動に包まれました。


音楽は、言葉や理屈を超えて、子どもたちの心にダイレクトに響いていきます。

お友達と一体となり、こうした内容の豊かなパフォーマンスを体験した子どもには、自己肯定の気持ち、他者受容の心が芽生えていくに違いありません。


発表会終了後、階上のビュッフェで、子どもたちとご家族、そして先生方との懇親会が催されました。

子どもの成長を真ん中にして、ご家族はきっと豊かで美しい時間を過ごされたことでしょう。


この日に向けて、それぞれのクラスの保育士に大きな方向感が生まれていきました。

こんなすてきな会になって本当に良かった。


自分もその一員でいられたことを、誇りに感じた一日となったのでありました。








豊かな学びをワーキングメモリの視点からとらえる

 2019-01-29
20190129.jpg






子どもが生き生きと豊かに学び育つ姿、

それはご家族も私たちも共に願う共通の思いです。

その学びの中枢をになうワーキングメモリーについて、私は直近の実践を通して、次のような思いで整理して考えるようになりました。



① インプットの認知処理特性
 ワーキングメモリーで処理していくためには、まずその情報が認知されなければなりません。言語一つにしても、文字言語・理解言語・聴覚性の言語・話し言葉など、様々な異なるタイプのものがあります。
 その子の得手な情報入力のソースをつかみ、その幅を広げていくことが、豊かな学びを構成していくためのポイントであると考えます。

② 処理速度の速さ
 パソコンで言えば、CPUの速さがこれにあたります。処理速度が早ければ、学習のパフォーマンスもそれにつれて向上していきます。例えば、計算が早くできるようになれば、そのことによって生じたワーキングメモリーの余力が別の内容に生かされていきます。こうした力を育んでいくことも、重要です。


③ 一度に処理できるワーキングメモリーの容量
 聖徳太子は一度に七人の問いに答えたという逸話がありますが、それぞれの子には、一度に処理できる情報量には限界があります。その子が処理できる情報量を意図的・教育的に配慮していくことも、子どもを育てていくときの大切な視点の一つであると考えます。

④ 情報を集中して処理できる持続時間
 次から次へと山のように情報を処理していく子どもがいたとしても、そういう子に限って、案外一つのことをずっと頭の中に思い浮かべ、考えることが苦手である場合もあります。ゆっくりと頭の中で考え続けるというのは、処理速度が遅いのとは似て非なるものです。ゆっくりと集中して考え続けることは、それ自体が知的レベルの高さと高い相関があると考えます。


私は、子どもと接するそれぞれの学習活動の中で、今日は①~④のどの部分を刺激し、伸ばしてきたか、振り返るようにしてきました。

数であったり、言語であったり、それぞれの内容の成果とともに、こうした4つの力と自分に対するプラスの気持ちを育てていくこと、

子どもとその方向感を共有することこそが、楽しいレッスンの中身であると、私は考えているのです。




ささやかで当たり前の幸せ

 2019-01-28
IMG_2248.jpg









就学を4月に控えた今、ご家族の方が私の所にご相談にみえられます。

そのほとんどが、家族としての思いがなかなか相手側に伝わらず、悔しい思いをして帰ってきたというものです。


何かこちらが非常識な要求をしているように言われる・・

ごく普通に学校に行って、ごく普通に学ばせてやりたい・・

過度な要求は何一つしていない、一人の子どもとして、ささやかな配慮をお願いしたいだけなのです・・


世の中だいぶ変わってはきましたが、まだまだ画一化をよしとする日本の風土は根強い、

こういった臨床の最前線では、なかなかまだ当たり前のように多様性を受け入れる文化は育っていないのです。


多様性を受け入れるということは、それぞれの命の大切さに目をやること、

他者の存在や特性を受け入れるということは、自分の存在と命の大切さにふれること、


私は、ご家族に寄り添い、戦い続けることにより、その大切さを当たり前のように世の中に浸透させていきたい。

それが私のなすべき責任、

これからも私は、ずっとこの道を歩んで行きたいと願っているのです。









私の歩んでいく道

 2019-01-24
201901241.jpg

201901242.jpg








先日、所用があり事前私が所長をしていた事業所へ顔を出しました。

久しぶりに保育室へ足を踏み入れると、子どもたちはちょうどお散歩に出かけているところでした。


お誕生日の掲示物に目をやると、何とも美しも豊かな愛情をそこに感じることができました。

数年前に心血を注いで、この事業所設立に向けて汗を流した日々が、なつかしくそして鮮やかによみがえってくるような気持ちになりました。


管理者を後進に託し、新しい事業を始めたのですが、その後進にかけた負担は並大抵のものではありませんでした。

しかし今、それぞれの管理者は以前にも増して輝きを取り戻し、私とはまた一つ違った持ち味で、多くの子どもたちの成長と幸せのために活躍できる基盤をつくりあげてくれたのでした。


私はこの3月に還暦を迎えます。

まだまだ現役最前線で、戦い続けていく覚悟です。


しかしいつの日か、私が現役から退いた後でも、きっと私の志しは、それぞれの後進に受け継がれいきながら、また新しい花を次々と咲かせてくれることでしょう。


それが、これから私の歩んでいく道、

作り上げていく一つの形、

生み出し受け継がれていくためにこそ、去りゆく姿がある、


そこに向けて生涯駆け抜ける自分でありたいと、心から願っているのです。






行動の安定とコミュニケーションとの深い相関

 2019-01-23
IMG_1242.jpg








今からもう10年以上の前の話になります。

私が初めて発達支援の個別指導教室を開いた時、申し込みが殺到して、一日に数名の子どもの新規レッスンを行ったことがありました。


元来、初めての環境が苦手な子が多いのに加えて、私の指導技術も経験もそれに足るものではなかったため、それはそれは厳しい1日となりました。

おそらくは、生涯忘れることの出来ない1日となったのでした。


そのうちの一人が今年高等部の卒業を迎えました。

当時、行動面の課題が大きかったこの子も、知的にも行動面でもその後大きな成長を見せ、実習などでも優れた実績を残し、4月から事業所の一員として働くことが内定しました。


彼と初めて心がつながったのは、小学校の時のバイキンマンのおもちゃでした。

このこときっかけに、彼とは深い絆ができ、その後衝動的な行動は一切見られなくなりました。

以来10年にわたって、サポートは続いているのです。


就労後も、先生の所には定期的に会いに行かせていただきたい、

ご両親は私にそう、おっしゃてくださいました。


私とこの子との関係は、決して言葉のやりとりによって深まったものではありません。

「君には、君の果たすべき役割があってこの世の中に生を受けたのです。」

「あなたには、誰かのために、何かのことで役に立ち感謝される存在になるという使命があるのです。」

そんな言葉を一度として口にしたことはありませんが、私のまなざしも、手のぬくもりも、すべてそこからわき出たものであったのです。


口数の少ない子ほど、そんな感性は豊かなものです。

行動の安定しない子ほど、心の中に繊細な気持ちを宿しているものです。


当初不安定だった子のほとんどは、やがて私に寄り添い、手をにぎってくるようになりました。

衝動性のはげしかった子ほど、寄せる思いはやがて深くなっていきました。


すべての子どもは、信ずるに値する子ども、

それが子どもの心に伝えることができてこそ、真の教育者、

私の信念は、今でも脈々と心の中で息づいているのです。




新しい学びの形

 2018-12-31
IMG_2200.jpg







今年の御用納めの日に、高校生の子がご両親と一緒に来てくれました。

今年は大きな手術を受け、体調がしっかりしないということで、ぎりぎりのこの日に日程を調整しました。

今は筆記用具を使うことが出来にくくなっているので、ご覧のようにパソコンを使って文学教材の学習を続けています。


私がこの教室に着いたのは、午後6時半過ぎでした。

そもそも保育園はこの日は、午前中閉園で、私の仕事は本来それで終了なのですが、この子とのレッスンは私の新規材開発のモニターみたいになっていて、ずっと楽しみにしていました。


この子も私も義務感0ですからね、そりゃやっててこんなに楽しい時間はありません。

真剣でいて、笑い声の絶えない活気のあるレッスン、


「私たち、この調子なら2時間でも3時間でもずっと勉強続けられるよな?」

冗談半分で私が言うと、その子は笑顔で、こっくりと大きくうなずきました。

「もうちょっとで高校卒業だけど、その後もずっと一緒に勉強できたらいいのに?」

私がそう言うと、その子は少し驚いた表情で、目を大きく開け、またしても 「うん」 と大きくうなずきました。


その日のレッスンが終わると、その足で私は岡山駅に向かいました。

明日には仙台から、東京から、帰省で大阪に帰る子どもが大阪の教室に来てくれるのです。


本当にやりたいことがそこにある、

誰かに必要とされている、

その子らしく人とつながって生きる、


私は自分の姿を通して、子どもたちをそんな人に育て上げたい

学びは、私と子どもをつなぐ架け橋

保育園の子もきっとそれは同じ


新しい学びの形は、きっとそこにあると信じているのです。





学習能力を育てる

 2018-12-27
wokingm.png






私はこれまで様々な子どもの学びに向き合ってきました。

10年前に個別学習指導教室を開いた頃は、認知処理に目を向けた指導に力を注いで取り組みました。


視覚的なとらえの得手な子ども、言語・聴覚的なとらえの得手な子ども、

特に小さい頃は情報のインプット得手不得手があり、その認知処理の特性に合わせた教材を提示し、段階的にその双方を使い分けることが出来るよう取り組んできました。

また、年齢や学習経験の積み重ねによって、劇的にその事が改善される時期があることが経験的わかってきました。

多い年は、1年に2000とか3000とかのレッスンを10年近く積み重ね、小1だった子を高3までサポートさせていただいたことにより、私自身がたくさんのことを学ぶことができました。


大学での授業を担当するようになってから、学習が進むとか、進まないとがは、どういうメカニズムであるのかを論知的に整理する機会を与えてもらいました。

論理的な思考は、図のようにワーキングメモリーの中で処理されるのですが、その容量や速度にもいくつかの発達段階があります。


例えば字を読む(読字)ということに集中している小さい子どもは、そのことを同時にイメージ化していない時期があります。

大人はすでに様々な学習を通して、自然に読みながら、その意味を考えたりイメージ化したりすることが当たり前になってきますが、実は生まれた時からずっとそうではなかったわけです。

「何回言ったらわかるの?」 みたいなことは、そもそもおかあさんとお子さんの器そのものが違っているから、かみ合わないわけです。


しかし読むなら読む学習を続けていると、小さい子ですから、その能力は一定時学習経験を積めば、その分だけ大きく育つ時期があります。

うちの保育園にも外国籍のお子さんが何人かいますが、第二言語であるはずの日本語の習得には、目を見張るものがあり。とても大人は太刀打ちできません。


読字でお腹いっぱいになった子は、やがてイメージの世界に突入する時期があります。

イメージ化ならイメージ化ばっかりの時期もありますが、やがて今度は読字とイメージが同時に出来るような力が育っていきます。


それぞれの個々の能力を、それぞれの題材で育てて行きながら、場や状況により、その学習経験を一般化することが出来ること、

これが学習が豊かになるということであり、学びの力が育つということなのです。


一つ一つの学習には意味があり、育つ内容があります。

そしてその日その時、その子が一番欲している学習にかかわる内容や題材を提示する能力、

いわゆる発達の最近接療育を構成出来る指導者の能力。

そのことが求められていくのです。


学習の充実ぶりは、子どもの態度をみればダイレクトに感じ取ることが出来ます。

学習が終わっても、席にしがみついて離れようとしない小さな子ども、

抱きかかえるように教室が出ると、私の足をからめて、離れようとしない子ども、

家でも学校でも書いたことのないようなていねいな文字を毎回書いて、ご家族をびっくりさせるl子ども、

モニター画面を見ながら、我が子が何十分も集中して生き生きと学習する姿を見て、涙を流しているお母さん、


どれだけ豊かな学習が子どもの自尊心を育み、計り知れないエネルギーを生み出していくことか?

この年末、転勤で東京や仙台に転校した小学生の子が、帰省を機に、1時間だけですが私のレッスンを受けに来てくれます。


学習は単なる内容の記憶ではなく、命を育む活動そのもの、

そう私は信じているのです。






知的能力を育むごっこ遊び

 2018-12-26
gokko.jpg







私はほとんど毎日、子どもとお買い物や料理、トミカのおもちゃを使ったパノラマなどのごっこ遊びを楽しんでいます。

ごっこ遊びというのは、目の前のものだけでないイメージの世界を楽しむ活動です。

楽しく主体的なその活動を通して、みるみる子どもは表象的な思考力を培っていくのです。


頭の中で描かれたこうしたイメージは、さらに動作や言葉に発展して、コミュニケーションのツールとして活用され、言語性や社会性を含む知的発達の基幹となっていくのです。

また後々大切になってくる数や言語の感覚も、この時期に育っていきます。


2歳には2歳の、3歳には3歳の発達にとっては欠くことの出来ない課題があるのです。

プログラムに基づき、計画的・系統的に育てて行く教育の軸は不可欠です。

だからこそその一方で、内発性の高い子どもの遊びの中にこそ、もう一つの子どもの大切な育ての軸があると、私は思っているのです。



判断・記憶のメカニズム

 2018-12-25
kioku1.png

kioku2.png







先日大学で、学生さんたちに判断や記憶のメカニズムについて伝えました。

私は現職の保育園園長であり、発達にかかわる実践者ですから、論理だけでなくて、出来るだけ実践現場での子どもの姿やエピソードを添えて話すように心がけています。


就学前の子どもの学習は、短期記憶(ワーキングメモリー)の範囲内で行われることがほとんどです。

そのワーキングメモリーで処理される内容も、言語化・符号化されたものと、感覚的なものとが混在されています。


直接目に見えたり、耳に聞こえたりする刺激が、活動が発展充実していくにつれてイメージや想像がふくらみ、だんだんとその内容に言語が添えられてくるようになります。

子どもの内発的な遊びを通して、知的発達がダイレクトに促進していくわけです。

小さい子どもの好奇心や向上心は、大人のそれとは比べものにならないくらい旺盛です。


小さい子どもは、当初泣いたり抵抗感を示すことも多いです。

ですが、そんな子ほどレッスンを重ねるにつれて、走り込むようにレッスンにやってきたり、レッスンが終わってもなかなか帰ろうとしなかったりするのです。

知的に遅れのみられる子は、学習そのものが嫌いなわけでなく、内容がかみ合わないそのもどかしさが嫌いなだけなのです。


その子の特性や脳のメカニズム、

発達段階や認知処理にあわせた内容を構成すること、

これから伸びようとする子どもの願いにそった学習、

その形はきっと、その子の心の根元でしっかりと息づいているのです。





≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫ 次ページへ ≫